白館綺譚
南枯添一
第1話
あれはシアンが貧乏をして、都会の北の外れにある、元は小学校の校舎だったのではないかと思える、奇妙な建物に一部屋を借りていた頃のことだった。その頃のシアンの貧乏はひどいものだったが、それより当時のシアンの問題はアルコォルで、むしろ、貧乏のおかげでシアンは死なずに済んだ。当時、好きなだけ酒が飲める金があったなら、おそらくシアンは今ここに、こうしてはいないだろう。
けれど、その話は別なところで何度も書いた記憶がシアンにはある。だから、ここでは別な話をしようと思う。それは、白い家の話である。
都会の北の外れは一体に緑が多い土地柄だったが、シアンが住んでいた辺りもそうで、樹齢500年と言うような大樹の合間に、元より豪華と言うわけでもないシアンの住処より、数段下等と思える下宿屋や、闇で堕胎を手がけていると噂の産科医院が点在していた。
二階にあったシアンの部屋から、前方を眺めると、木々の間をくねって流れる、狭い通りが見える。この通りをそのまま行くと、イクドラジルめいたブナの大樹の陰でいじけた、傾きかけのボロ寺に突き当たる。この前で、折れて、進むと、道は不意にくねること止めて、定規で引いたような直線に変わる。合せて、道の両側も真四角なビルが整列する、芝居の書き割りめいた町並みに変わるのだが、この書割街が斜めに走る大通りに遮られて終わる、その角に問題の白い家はあった。
シアンはその頃、この通りを週に1度か、2度は辿って、白い家の前を過ぎっていた。それはその先にMの家があったからだ。どうにも、空腹が耐えがたくなると、シアンはMの家に食事を恵んでもらいにいっていたのである。
Mはシアンの大学での同窓だった。そこへは天文学を修めるつもりで入学したシアンだったが、気が変わって、その頃は動詞の格変化に悩まされながらヴェルギリウスなどを読んでいた。Mはと言えばエドガー・ポォの信奉者で、その彼が何故か、シアンを買い被り、正門を出て直ぐの古書律で、自分からシアンに声を掛けたのである。
シアンが顔を出すと、Mは常に歓迎して、「僕はしがない教師だが、君一人分の食い扶持が増えたところでなんと言うことない」と毎日でも食事に来ることを進めたが、それはシアンの方で固辞した。
それは、かっての後輩に飯をたかる自らを恥じたからでもなかった。
髭など蓄えてはいても、林檎の頬の美少年の面差しが未だに去りきらないMと、かってMの教え子だったと言う、年若い細君はともに子供子供していて、ようやく2歳になったばかりの娘は本当の子供だ。この3人が営む、ままごとじみた一家団欒の席に、揃って座っていると、シアンは、まるで自分が貝の味噌汁に入った砂利になったかのような、そんな気分に襲われたからである。
それでも空腹には勝てない。
そして、ある夕刻、シアンは白い家の前を通りかかった。
その前を横切ろうとしたシアンはふと視線を感じた。見上げると、デタラメに開いているように思える窓の一つから、独りの女性が身を乗り出して、シアンを見ていた。彼女はまだ二十歳には間があるかと思えた。少女といった方が正しいかも知れない。アゴが尖り気味だが、幼く見える顔立ちで、唇だけが変に赤く染まって見えた。
しかし、シアンを困惑させたのは、彼女の形相であった。
彼女の敵意の対象は自分に違いないが、どこでどうして、そのような憎しみを買ったのか。
Mの家で食事中、ふとその話を出すと、子供のようなMの細君が、その家なら知っている、肺を病んだ、どこだかのお金持ちのお嬢さんが、そこで療養をしているとの噂だが、誰も見たものはいないのだと、シアンに聞かせた。
このときはそれだけのことだった。
その翌日。シアンはまたMの家に向かった。実は前日にMから新しく出る雑誌に何か書けと言われて断り切れず、枕代わりの文箱につめてある反古を漁って、これならば、なんとか人に見せても構うまいと思えるものを見つけ出せたので、持っていくことにしたのである。
白い家の前に来るまでには、シアンは前日のことなど、すっかり忘れていて、そのまま通り過ぎようとしたのだが、突然頭上で窓の開く音がした。
思わず見上げると、やはり前日の少女である。この日、時間が浅かったので、日の光が謂わば無残に少女の顔を照らした。少女は頬が痩け、顔色も悪く、唇の赤さにも病的なものを宿らせていた。シアンはMの細君に聞いた肺病の話を想い出さざるを得なかった。
目があってしまったことでもあり、シアンは帽子を取って会釈をした。それを見た少女は顔をキッと引き攣らせ、会釈を返すどころか、荒々しい仕草で、叩きつけるように窓を閉めた。哀れな建具が外れて、落ちてきやしないかとシアンは心配するほどだった。
これも、このときはそれだけのことだった。
そして、この後しばらく、シアンは白い家の前を通らなかった。少女の形相が恐ろしかったからではなく、白い家の出来事には何の関係もないので、ここに書いても仕方のない別の事情があったのである。
そうして、およそ一月の後、シアンはまたこの道を辿った。少女のことを思い出したのは、白い家の前を過ぎてからである。背後で窓が開く音を感じたように思ったからである。けれど、わざわざ振り向いて見るほど、この時のシアンは酔狂ではなかった。
この日、帰りはもはや夜になっていた。白い家の手前まで来たとき、ふと見上げた少女の部屋には灯りが灯り、窓辺には人影も映じているようである。「待ち伏せ」と言う単語がシアンの脳裏に過ぎったが、まさか鎖がまなど手にした黒装束の一団に取り囲まれるようなこともあるまいと、そのままに進んだ。
果たせるかな、シアンがその下まで達したとき、頭上で窓が開く音がした。仰ぎ見ると、窓より身を乗り出した少女と目があった。その瞬間、少女は一声叫びを上げると、手にした何かを投げ下ろした。思わず、シアンは飛び退ったが、元より、当てる気はなかったらしく、何かは少し手前の路上で砕けた。
しばし唖然としたシアンが我に返って、見上げたとき、既に窓は閉まっていて、更にカーテンも閉じて、灯りも消えた。小首を傾げたシアンが路上に視線を戻すと、少女が投げたものが目に入った。それは合切袋らしく、紫の地に金糸の刺繍が入っている。砕けたと感じたのは、中に入っているもののようだ。
シアンは合切袋を拾い上げてみた。確かに砕けやすそうなものが入っている音がする。
さて、とシアンは考えた。これからどうするか。
少女と対決をすると言うのが、本来であろう。けれども、まず白い家の扉を叩いて案内を請いと考えた時点で、シアンは却下した。どうにも自分にできることではなさそうだ、とそう思えたからである。
結局、シアンは歩き出してしまい、そのまま帰路についてしまった。
その道中考えていたのは、少女が何を叫んだかである。確か「いずさん」と聞こえた。あるいは「ひづさん」か。
伊豆にせよ、日津にせよ、シアンには心当たりのない名前だ。むしろ、自分がその何者かと思われていたのなら、単なる人違いで却ってすっきりするのだが、とシアンは考えていた。
そうして、校舎じみた建物まで戻り、廊下を進んでいると、家主の婦人と出会した。思い付いて、白い家について何か知らぬかとシアンが問うと、お金持ちのお嬢さんが療養中とMの細君と同じようなことを言う。ただ、違っていたのは病気が脳病だったことである。
どうやら、正体不明で病気療養中の令嬢があの家で暮している、と言う噂にはそれなりの根拠があるらしいとシアンは推測した。けれども、その病名については当てずっぽうの域を出ないようだ。とは言え、その夜のような振る舞いの後では脳病説に軍配を上げたくなる。
部屋に戻ってから、シアンは合切袋を開けてみたのだが、中身は動物の骨らしきものが入っていた。これもどうにも不気味だった。
翌日、昼前に部屋を出たシアンはやはり大学時代の友人で、今は生物学を講じているYを尋ねた。
暇そうに茶を啜るなどしていたYは興味深げにシアンの話に耳を傾け、「日津?伊豆?2年下に小津というのがいなかったか」などと勝手な推理を始めた。
「そう言えばいた。だが、俺と今更何の関係があると言うのだ」
「それもそうか」とYはうなずいて、「骨だって?」
「そう思う。何の骨か、分からんか?」
「ふむ」
合切袋の中をのぞき込んだYは、しばらくそのままの姿勢でいた。つとに立ち上がると、窓際に向かい、日の光で見てから、合切袋の口を固く閉めた。
「人だ。3ヶ月程度の胎児だろう」
シアンの脳裏には当然、例の産科医院が浮かんだ。「堕胎か?」
「いや、3ヶ月ともなると。流産の可能性の方が高い」
「なるほど」少女の病名は妊娠であったか。「しかし、なぜ、そんなものを俺にぶつける?」
Yはおかしくも無さそうに唇だけ曲げて笑うと、「心当たりはないのか?3,4ヶ月前のことだぞ」
「ない」とシアンは即答した。ここ一年以上、その方面とは完全に縁が切れている。
「ふーん。なら相手の男が偶然君に似ていたかな。それとも、君は文士然としているから、そのコは可哀想に文学青年にでも引っかかったのかも知れないな」
人の骨とあれば、さすがに粗末には扱えない。一旦部屋に戻ったシアンはイクドラジルの根元に向かい、ボロ寺の住職に訳を話して、取りあえず、骨は預かってもらった。
こうとなっては仕方がないので、シアンは既に腹を括っていた。それから向かった先は白い家である。何を見ることになるのかと、シアンは道々、陰惨な思いに駆られていたのだが、けれど、そこは既に空き家であった。
扉が開け放たれていたので、がらんとした一階は丸見えだった。どころか、勝手口まで開いていたので、突き抜けて奥の通りまでが見えた。
しばらくの間、シアンは立ち尽した。これから、どうするかなど何も思い付かなかった。そのまま、Mの家に向かったのは、単に、このまま部屋に戻りたくなかったからにすぎない。
Mの家では、当然、白い家の話になった。子供のような細君は目を輝かし、盛んに当てずっぽうを言った。
シアンはその相手をしていたが、ふとMが奇妙に暗い顔で考え込んでいることに気付いた。
そのとき、シアンに天啓が芽生えた。今まで自分のことばかり考えていたが、もしや少女はシアンの行き先が、Mの元だと知っていたのではないだろうか。
次の瞬間、思わず叫びだしそうになって、シアンは辛うじて堪えた。「ひづさん」の意味が突如、感得できたからである。Mは女学校で英語教師をしていたのだ。
白館綺譚 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749
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