オーロラ

@hachino

オーロラ

 あと一時間で世界が終わると言う。

 真っ白い光に包まれて何もかもが消え去るのだ。

 そんな原稿を大真面目にニュースキャスターは読み上げた。

 僕は黙って携帯電話の電源を切って、家を出ることにした。

 その瞬間を見に行こうと思う。街が見渡せるビルの屋上で。

 そうして先客に出会った。暖かそうなフェイクファーコートを着た、小柄な女の子に。



「信じる?」

 女の子は、挨拶も自己紹介もないままに僕に質問した。地上を見下ろし、口元を固く引き結んで僕の回答を待っている。手持ちぶさたな両手はコートのポケットに突っ込んでいて、もしフェンスがあったらきっと指先を格子の隙間にかけていたに違いない。

 何を、とは僕は言わなかった。判りきっているからだ。その主語も、疑問符への答えも。

 だからこう答えた。

「何で?」

「だって、突飛過ぎるじゃない。こんなの」

 だがすでに事実だ。どうあっても回避できない現実がある。僕がそう告げると、女の子は「わかってる」と呟いた。

 最初は誰も信じていなかった。冗談だろうと笑い飛ばせる余裕があった。なんたって終末が始めに示されたのは今日の朝だ。いったい誰が真面目に取り合うというのか。

 それでも着実に世界は終わりを見せていった。

 まず極点が観測不能になった。南も北も、同じように地図から消えた。オーロラ観測衛星がリアルタイムに映像を吐き出したところ、両極点から円環状に発光が広がり、その後少し遅れて、向こう側の星空を観測した。

 いま、地球は球状をしていない。

 りんごの上下を水平に切断したような、膨らみを持った円筒形だ。

 それも、白光が地表を舐めた先から体積は減少していく。光が赤道に達したとき、地球は文字通り消えてなくなるのだろう。

 そして、その時は目の前に迫っていた。僕達がそれを見ることが出来ないとしても。

「天文学や物理学は全然わかんないんだけど」

 女の子はそう前置きをして、

「あり得るの?」

 僕に解かる訳がない。

 特殊相対性理論の有名な式を思い浮かべることは出来ても、それが何を意味しているのかはさっぱりだ。ただ一つ言えるのは、地球が消滅する。それ以外の天変地異は起きていないということだった。

「不思議ね」

 女の子の感想はただただ簡潔で、そこからは黙って星空を眺めていた。

 風が吹いて、ビニールのこすれる音がする。女の子の足元に置かれていた荷物だ。吹き飛ばされそうもない重量感は僕にも見覚えのあるもので、中身を聞けば予想通りビール缶だった。

「未成年」

 見たまんまの事実を僕が言うと、女の子は小さく鼻を鳴らした。

「一度くらい飲んでみたっていいじゃない。みんなあんなに楽しそうなんだから」

 アルコールや、不健全な薬で現実逃避するのは無理がなく、実際にそうして過ごす人も多い。ビルに着くまでの短い距離で泥酔した老若男女は何人も見かけたし、暴徒まがいもニュースで見た。だが数は少ない。いまだテレビ局が動いているように、人類の多くはこの結末を淡々と迎えていた。これは誰にとっても予想外だったに違いない。国家間の諍いさえいまは聞こえない。

 奇跡と言えた。

「でも、どうせだったら瞬間を眼に焼き付けておこうと思って、やめた」

 けどちょっとうるさいね、と女の子は言って、缶を抜き出しビニール袋を風に放した。

いまさらポイ捨ての論理を問う気は僕にもない。飲む? なんて言葉に首を振って、僕は煙草を取り出した。女の子が眼を丸くして、

「似合わない」

 そう言った。

 同感だと僕も思う。

 生まれて初めて咥える煙草は、火もつけていないのに父親の匂いがした。

 百円ライターを握って逡巡している僕を見て、女の子はもう一度「似合わないよ」と言い、そっぽを向いた。

 まあそうなのだろう。そこに転がったビール缶と同じような理由で持ってきただけで、喫煙癖は僕にはない。最期に人から嫌われるのも、いまひとつすっきりとしない幕切れだろう。

「未成年だしね」

「だと思った」

 ポケットに煙草をねじ込んだ僕を見て、女の子は薄く笑った。

 その時、街中の電気が落ちた。一瞬だった。完全な闇。息を呑んで立ち尽くし、僕は現実を見る。女の子の肩が震えていた。初めてこの子に触れたいと、唐突に思う。

 北の地平線を遮る山がわずかに白んでいる。日の光なわけがなく、その向こうには。

「発電所かな?」

 その通りだろう。つまり、いよいよその瞬間がくるわけだ。

 ぼくはポケットの中で拳を握りこんだ。知らず、汗をかいている。なのに歯の根は極寒地帯にいるように小刻みなリズムをとる。気を抜けば崩れ落ちそうな恐怖を感じ、僕は小さな深呼吸を重ねた。

 もう少し落ち着いていたつもりだった。わざわざ屋上に昇ったのもちょっとクールな自分を演出するためだったし、小道具に用意した煙草だってハードボイルドな気分に浸るためだ。そうして人生最後の瞬間を、見栄を張りとおしながら迎える予定だった。

 なのに、無性に家族や友人に連絡をとりたくなった。もしかしたらその中の誰かは、いまこの瞬間僕に会いたいと思っているかもしれない。僕は家に置いてきた携帯電話を思った。わざわざ電源をオフにした。そうすることで人生への未練のなさを主張した気分になって、格好をつけたのだ。誰かの気持ちを無碍にするかもなんて考えずに。

 その全てを後悔し、眼を閉じて涙がこぼれ出すのを我慢した。人前で泣きたくない。そんなちっぽけな意地が最後の一線を支えていた。

 そうして、

「もういいや」

 そんな言葉が耳に入った。

 眼を開くと、女の子が僕のすぐ前で背中を見せていた。

「……何が」

 震える声でたずねた。

 女の子はわずかに振り返り、そのまま足を踏み出し――。

 落下した。



 人はとある瞬間、平時では考えられないほどの判断力や筋力を発揮するらしい。よく言われる理屈では、普段は脳も筋肉もパワーを抑えている。潜在能力をそのまま活用すると、身体が損傷するほどの負荷がかかるからだという。だが危機を感知した瞬間、その抑制機構が外れ、本来の能力が発現する。

 曰く、火事場のなんとやら。正直眉唾ものだ。

 だから、いまさっき僕の両手が掴んだものを、僕自身にわかには信じられそうもない。

 それは女の子も同じなのだろう。僕からは形のいいつむじしか見えないが、きっとキョトンとしているに違いない。その証拠に、身動きもしない。

 女の子が落ちた瞬間、僕はフェイクファーコートのフードを掴み取っていた。重力が女の子を捉える前に、反動が僕を地上に引きずり込む前に、腰を落として屋上の縁を渾身の力で蹴り込んだ。タイミングが合わなければ何もかも無駄だったになっただろう。女の子は全身を落としきる前に、屋上に尻餅をついていた。僕に背中を抱きとめられる形で。

「――あ」

 と声を出すのは同時だった。それぞれ声音は違っても、こもった思いはまったく同じ。

驚かされたのはどっちだ。

「なにするの!」

 女の子は力強く起き上がり、僕に正面から覆いかぶさった。その真剣な顔色に僕は苦笑する。

「いやいや」

「ずっと……、ずっと朝から決めてたのに! 台無しにも程が」

 僕は右手で女の子の口を塞いだ。もう力は入らないが、黙らせるくらいなら出来る。

「決めてたって、飛び降り?」

 女の子はそのまま縦に首を振る。呪い殺されそうな視線をうけて、僕は一瞬本当に悪いことをした気になった。

 しかし。

「名前を聞いてない」

 は? という口の動きを僕は手の平で感じた。

「最後に話した相手の名前も知らないなんて、ちょっと間抜けすぎる。それに年だって成人していないくらいしかわからない。趣味が何かとか、どの辺に住んでる、とか。電話番号も聞きたいな。出来ればメルアドも一緒に」

 ば。今度はそんな動き。どうにも手の平がむず痒くなってきて、顎に極めたアイアンクローを外した。

「……ばか」

 女の子は力が抜けたように倒れこんだ。もちろん僕の胸に。今更ながらドキドキしたが、これが陶然とした高鳴りなのか運動の結果なのかはわからなかった。大の字になって寝転ぶ僕は、いつもより三割増で美しい星空を観測する。

 しばらくそうしていた。

「見て」

 女の子が僕の胸から顔を上げて言った。僕も上半身だけ起こして、視線を追う。白い光が、僕らの町を呑み込みつつあった。山はすでに見えない。光の向こう側と同じで、星になってしまったのだろう。

 間もなく僕らも同じ運命を辿る。さっきの、僕の周りにいた人たちを想った後悔とは、違った心残りがあった。

「――よ」

「え?」

 小さすぎて聞き取れない。女の子は僕の向かいで、僕と同じように腰を下ろしてうつむいていた。

「よく聞こえない」

「だから――」

 私の名前。さらに小さな声で呟いた。耳を寄せる。それは野原に咲くようなどこにでもある、でも愛らしい花の名前だった。

 ひとしきり頷いて、僕は感想を述べる。持って帰りたくなるような名前で、君にぴったりだと。照れた様子もみせず、女の子は僕に当たり前の問いを投げかけた。

「あなたは?」

 僕は唸った。笑われるのを覚悟しなければいけない。なにせ僕自身は完全に名前負けしている。出来れば愛称で呼んでほしいと前置きして、僕は苗字から告げた。

「煙草よりは似合ってる」

 そんな言葉を囁いて、女の子は立ち上がった。

 もう光は間近にある。あと幾秒もしないうち、僕らは星に還るだろう。

 逆光を背負って、女の子は微笑んだ。

「ね。また会えるかな」

 僕はその白い指先をとって言う。

 可能な限り、力強く。

「きっと」

「よかった」

 極光が僕らを包んだ。

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