【9月刊試し読み】獣皇子と初恋花嫁

角川ルビー文庫

第一話



 心地よいさざめきが聞こえる。

 そう思ってふと目を開けたとき、立夏は賑やかな通りに立っていた。

 ずらりと建ち並ぶ店々の鮮やかな暖簾が優しい風に翻る大路を、大勢が行き交っている。

 花飾りをつけて雅やかに進む牛車に、たくさんの従者を付き添わせて馬に跨がる狩衣姿の優美な公達。壺装束の女たちはしずしずと歩みながら楽しげに店先をのぞき込み、水干を纏う子供らは元気のいい声を上げて雑踏を駆け抜けてゆく。

 そうした者たちのほとんどは立夏と同じ人間だ。

 けれども、そうではない者もわずかながらいる。人の姿をしていても、動物の耳と尾を生やす者。そして、服をきちんと着込んで二足歩行をし、さらに人の言葉を話す犬や猫や狸たち。

 愛らしい顔の白兎がきらびやかな衣の裾をはためかせ黒毛の馬に乗っている、メルヘンというよりはシュールなそのさまを眺めながら、立夏は気づく。

 これは子供の頃によく見ていた夢だ。

 人と、人のような動物が暮らす、どことなく平安京を思わせる国の――。

 細めた双眸の視線を、立夏はゆっくりと周囲に巡らせる。

 白い漆喰の壁に黒の瓦屋根を載せた建物が延々と続く通りの遥か向こうには、堂々とした威風を誇る朱色の殿楼が見える。

「ねえ、かあ様。あの大きくて真っ赤な御殿が日の御門がおいでの皇城なの?」

「そうよ、坊や」

「次の帝になられる東宮様は、獣人の血を引いておられるって本当?」

「そうよ、坊や。雪豹の耳と尾をお持ちで、お母上だった秋麗皇后様が亡くなられた今、この東雲国で一番美しいお方なんだそうよ」

 旅装いのサバトラ猫の母子がそんな話をしながら、立夏の横を通り過ぎてゆく。

 動物が服を着て喋っているのだから、歴史的には併存したはずのない仲見世のような洗練された商店と牛車が同じ街中にあっても、特に違和感はない。

 むしろ、何だか強い懐かしさを抱いて、おとぎ話や動物が好きだった幼い自分の妄想が作り上げたのだろう街並みを眺めていると、どこから立夏を呼ぶ声が聞こえた。

『立夏様……、市花立夏様……! そちらに……いらっしゃったのですね……!』

 ぼんやりとしているのに、奇妙にはっきりと耳に響く声だ。

 声の主を探して辺りを見回していたさなか、こちらへ駆け寄ってくる人影に気づいた。

 薄汚れた浄衣姿の若い男だ。額に花を象ったような美しい模様の赤いタトゥーがある。

 あれは誰だろう。どうして、自分の名前を知っているのだろう。

 不思議に思い、傾げた首の後ろに、ふいに凍てつく冷たさを感じた。



「――うわっ」

 冷たさに肩を震わせて顔を上げると、そこは居酒屋の座敷だった。

 夢から覚めたのだと理解した瞬間、現実の空間に漂う喧噪と揮発したアルコール臭が全身を包みこむ。しこたま酔っ払って変に明るく笑ったり、大げさに嘆いたり、憤慨したりしているのは、立夏と同じ高校に勤務する非常勤講師たちだ。

 一学期が終わった慰労会と称して、不安定な身分への愚痴を言い合うために気心の知れた十人ほどで集まったのだ。学校帰りでスーツを着ている者もいれば、ジーンズとTシャツの立夏のように今日は授業がなく、家から私服で参加した者もいる。参加者の年齢も二十代から四十代までとばらばらだ。きっと、傍目には不思議な集団に映っていることだろう。

「市花先生~。目ぇ、覚めたぁ?」

 隣に座っていた国語講師の久森が立夏のうなじで氷をすべらせ、酒で赤くなった顔を締まりなく綻ばせる。立夏が眠って夢を見ていたあいだにかなり飲んだのか、もこもこした癖毛の頭にネクタイを巻きつけていた。

 立夏は「ええ」と苦笑を返し、濡れた首筋をおしぼりで拭く。

「市花先生が途中で寝ちゃうなんて珍しいねえ。期末の件が結構キてる?」

 立夏の勤務先の私立雀部高校では、非常勤講師は完全に「使い捨ての駒」として扱われている。正規の職員と比べると段違いに待遇は悪いけれど、都内でも有数の生徒数を誇るゆえに運営資金が潤沢で、非常勤講師の時給は他校よりも高い。空きが出たとわかればすぐさま優秀な応募者が殺到するため、非常勤講師たちは生殺与奪の権を握る校長の顔色を常にうかがい、どんな理不尽な命令にも従わざるを得ないのだ。

 雀部高校の地理歴史科の教員は六名で、日本史を担当するのは非常勤講師の立夏と専任の女性教諭だ。その女性教諭が、期末テストの準備期間に入ろうしていた矢先にしばらく休暇を取ることになった。彼女の息子が留学先で事故に遭い、その看病に行かねばならなくなったのだ。

 しかし、夏休み中には帰国するため、臨時の講師を雇うほどでもないと判断した校長に、立夏はその専任教諭の代わりを命じられた。

『彼女の分もテストを作って、採点するのが大変なのはわかるよ、うん。だけど、今回だけのことだし、市花先生はまだ若いんだから、何とか頑張れるでしょ?』

 つい先月、ちょうど似たような境遇に陥った非常勤講師が家族を取るか仕事を取るかの選択を迫られ、退職したばかりだったので、思うところは大いにあった。けれども、校長にやれと言われれば、やらないわけにはいかなかった。

「あまり自覚はしていませんでしたが、そうかもしれません」

 テストの返却日までに採点を終わらせるために、徹夜続きだった。

 だが、そんな毎日もようやく終わり、昨夜はゆっくり寝られたので疲れは取れたつもりだったけれど、やはり無理が堪えていたようだ。

 酒には強いはずなのに、こんなに騒がしい場所で微睡んで夢まで見るなんて――。

 溜まった疲弊を自覚すると身体が少し重くなったような気がしたが、気分はそれほど悪くない。久しぶりに見た、懐かしい夢のおかげだろうか。

 貴公子のように着飾って大きな馬に乗っていた兎の澄まし顔や、宮中の噂話をしていたサバトラ猫の母子を思い出すと、頬がゆるんでしまう。

 どうせなら、とても美しいらしい雪豹の東宮も見てみたかったし、自分の夢の中にしか存在しないあのシュールな平安京ランドにちゃんと名前がついていたことが意外で、愉快だった。

 そんなことを思いつつ、立夏はおしぼりをテーブルの上に置く。

「やっぱりかぁ。や、気持ちよさそうに船漕いでたから、起こすのは気が引けたけど、大石先生に襲われたら危険だと思って」

 目尻に皺を刻んだ久森の視線の先では、三十を目前にして結婚に焦っていることを公言している大石が何やら荒れて、くだを巻いていた。

「そうよぉ、市花先生。今日は彼女、もう完全にできあがっちゃってるから危険よ」

 反対隣で数学講師の磯辺がジョッキの中のビールを豪快に飲み干して笑うと、いきなり立夏に身体を寄せてきた。

 揺れた長い髪の毛から香った匂いが鼻孔をきつく突き、立夏は頬をかすかに強張らせる。

「年下でもいいから家持ちの市花先生、結婚してぇ~、とか押し倒されちゃうかも」

 磯辺には夫と子供がおり、一回り近く歳が離れた立夏に性的な興味を持っているはずがない。単なる冗談のものまねだとわかっていても、肌が嫌なふうに粟立った。

 男子校育ちのせいで、立夏には異性に対する免疫力がない。仕事に関係しない会話にはわけもなく緊張するし、化粧品や香水の匂いがどうにも苦手で近寄る気が起きない。そうした気持ちが顔にも出ているらしく、異性から言い寄られたこともない。そして、幸か不幸か性的に淡泊なせいで、そのことに不満も焦りも感じない。

 だから、二十六になるこの歳まで立夏は誰ともつき合った経験がなかった。

「え。市花センセって、家持ちなの?」

 磯辺の隣から高尾が顔を出す。学生時代はラガーマンだったという高尾は地理歴史科の世界史担当講師で、年齢は立夏と同じ二十六。

 しかし、高尾と立夏が同い年だと知ると、大抵の者は目を丸くする。がっしりとした長身の高尾に貫禄がありすぎる一方で、立夏の外見も年相応ではないからだ。

 もっとも、立夏は決して幼く見られているわけではない。大抵の者に「雰囲気が不思議で年齢不詳」と評されてしまうのだ。

 二年前に父親が病死して閉めてしまったけれど実家は剣道場で、立夏も幼い頃から竹刀を握っていた。今でも道場での素振りが朝の日課で、高尾と同様、身体はしっかり鍛えており、身長も成人男子の平均を上回る一七五センチあるが、着痩せする質のためそうは思われない。加えて、小学生のときに他界した母親に似た繊細な造りの顔と白い肌などが相俟って、見る者に年齢不詳な印象を与えているらしい。

「市花先生、実家暮らしだよね。えぇと、じゃあ……?」

 高尾の太い眉が気遣うふうに少し下がる。

「うん。親から相続した家。税金払ってすっからかんだから、築五十年越えの家を持ってたところで、女性にはまるで相手にされないけどね」

 淡く苦笑して、立夏はジョッキに残っていたぬるいビールを飲んだ。

「いや、いや。市花先生の場合は、相手にされないっていうのとはちょっと違うわよぉ」

 磯部が手を振って笑う。

「さっき、あたしがしたみたいな冗談でちょっかいをかけるだけならともかく、市花先生には本気のアプローチはしにくいもの。女っぽいってわけじゃないんだけど、綺麗すぎるから」

 そうそう、と高尾も同調して頷く。

「あ。そう言えばさ、ずっと気になってたんだけど、市花先生って外国の血、ちょっと入ってたりする?」

「全然、一滴も。……でも、何で?」

 年齢不詳だとはよく言われても、さすがに性別や国籍を間違われたことは一度もない。

 初めて受けた質問に、立夏は軽くまたたく。

「俺、市花先生を初めて見たとき、ウェインライトの『憂いのミカエル』に似てるなあって思ったんだよね。何て言うか、雰囲気が常人離れして、透き通ってて」

 学生だったときも、教師となった今も立夏は日本史一筋だが、ウェインライトが天使や妖精を題材にした絵を多く描いたラファエル前派の画家だということは知っている。幻想的な優雅さが傑出しており、彼の代表作となっている『憂いのミカエル』も何となく頭に浮かびはする。

 しかし、性別がない上に人ですらない天使に似ているなどと言われても、どう反応すればいいのかわからなかった。要するに「日本男児らしくない」という意味だろうけれど、悪意などかけらもない言葉に腹など立たないないし、かと言って喜ぶのもおかしい。

 とりあえず無難に愛想笑いを返し、立夏はビールを注文した。

 慰労会はそれから一時間ほどでお開きになった。

 立夏は同僚たちと別れて、バスに乗った。最寄りのバス停で下車し、街灯の少ない川べりの道を家に向かって歩く。

 少し飲みすぎたのかもしれない。静かな夜道をひとりで歩いていると、寂しさがやけに身に染みた。肌に重く纏わりつく夜気は蒸し暑いのに、胸だけがひどく寒い。

 職場では換えなどいくらでもいる駒のひとつ。プライベートを共に過ごす恋人もいなければ、家で自分の帰りを待つ家族もいない。正社員として忙しく働く学生時代の友人たちとも年々疎遠になっている。

 何だか、自分が社会的に不必要な人間のように思え、強い孤独感に襲われる。きっと、自分が今この世から消えてしまっても、本気で心配して探してくれる者など誰もいないだろう。

 胸を重くした鬱々とした気分を吐き出すように大きなため息をついたとき、通りがかったマンションの窓から若い男女が怒鳴り合う声が聞こえてきた。

「俺の稼ぎに文句があるんなら、お前が働け、デブ!」

「四つ子抱えて、どうやって働くのよ、ハゲ!」

 どうやら四つ子の親の夫婦喧嘩らしい。本人たちにとっては深刻な問題があるのかもしれないが、遠慮のない喧嘩ができる家族がいることを立夏は心から羨ましいと感じた。そして、無い物ねだりの羨望を抱えて、澱んだ夜空で白々と輝く月をぼんやりと眺めやり、その視線を何気なく落とした直後、驚いて足をとめた。

 少し先に架かる橋の欄干に誰かが立ち、暗い川面をのぞき込んでいた。ジーンズとシャツを着た痩せた小柄な男だ。月明かりに照らされた横顔はまだ若く、二十歳前後に見えた。

 暑苦しい夜とは言え、こんな時間に、それも服を着たまま泳ぐ者などいるはずがない。そもそも、この川は深く、船の行き来も激しいため遊泳禁止だ。

 欄干を踏む足の先がそろりと前へ出た瞬間、立夏の身体も反射的に動いた。

「早まっちゃ駄目だ!」

 立夏は今にも飛び降りそうな男に背後から抱きつく。

 道のほうへ引き戻すつもりが、焦りが先立って脚が縺れ、身体が前に倒れた。そのまま立夏に背を押される形でバランスを崩した男と共に、立夏は川へ落ちた。

 川の中はやけに明るかった。どうなっているのか、川底から湧く不思議な光に照らされて、男の顔が浮かび上がる。

 それは、夢の中で立夏を呼んだ男のものだった。

 間違いない。服装は立夏と似たようなものに変わっているけれど、額にはあの花のタトゥーがある。男も驚いた顔で、立夏に何かを言おうとしている。

 訳がわからなかったが、今はとにかく川から上がるほうが先決だ。

 どんな理由があるのか、光る川底へ頑なに向かおうともがく男と離れてしまわないよう、その痩せた身体を力尽くで抱きこんで立夏は必死で泳いだ。

 水面の向こうでゆらゆらと揺れる白い月を目指して、上へ上へと。

「――はっ。だい、じょうぶ、で……」

 水を跳ね上げて川面に顔を出し、男の無事を確かめようとした。だが、男の姿はなかった。あんなにしっかり抱いていたのに、男は立夏の腕の中から消えていた。

 そんな感触はなかったが、立夏の腕を擦り抜けて流されたのだろうか。

 慌てて周囲を見回し、立夏は呆然と目を見開く。視界に映ったのは、見慣れた町の景色ではなかった。一面の黒い木々。暗い夜の森だ。

「え……」

 川の両側には民家やマンションが密集しているはずが、その輪郭がどこにもない。もう一度顔を浸けてみた川の中は先ほどまであんなに明るかったのに、今は自分の身体すら判然としないほど黒い。

「……どう、なってるんだ?」

 水中にいたのは一分にも満たない時間だ。そんな短時間で見知らぬ場所へ流れ着くとは考えにくい。何より、あの川の下流にはこれほどまでに緑豊かな場所などない。

 ――一体、ここはどこだろう。

 呼吸をするたびに深まる驚きと困惑を抱えて見上げた夜空からは、月が消えていた。代わりに宝石のような鮮やかな煌めきを宿す星が一面に散っている。満点の星空は清く澄んでいて、認めがたいけれど明らかに東京のそれではない。

「――誰か! 誰か、いませんか?」

 放った声に答えは返ってこない。男の行方が気がかりだったが、このまま川の中にいるわけにもいかず、立夏は岸辺へ泳ぐ。

 辿り着いた岸辺は護岸工事がされていなかった。やはり、この川は立夏が子供の頃から知る川ではない。

 立夏は財布とスマートフォンを入れていたジーンズの尻ポケットを探った。スマートフォンは防水機能つきなので淡い期待をしたが、ポケットは空だった。川の中で落としたようだ。

 途方に暮れ、立夏は草地に座りこむ。家の近所では決してないここがどこなのかを確かめる術も、救助を呼ぶ術もない。こんなに暗くては、あの男も捜せない。

 身の安全を考えれば、明るくなるまで動かないほうがよさそうだ。

「夢なら覚めてくれ……」

 心の底から願い、両頬を強く叩いてみたが、ただ痛いだけで、状況が変わる気配はない。

 これは夢ではなく、紛れもない現実のようだ。

 混乱と恐怖と心細さがない交ぜになってわなないた唇から、続けざまにくしゃみが散った。夜気自体は蒸し暑いが、川に浸かった身体は冷えている。

 濡れた布地に体温を奪われないようTシャツを脱いだときだった。

 何かが聞こえた。澄ました耳に複数の男たちの声が届く。

 人だ。人がいる。どっと湧き出た安堵感から、立夏は上半身裸のまま森へ飛びこんだ。人がいるということはどこかに道があるのかもしれないが、暗くて何も見えない。聞こえてくる声を頼りに、立夏は手探りで足を踏み出す。時折、木の枝が当たって剥き出しの肌を傷つけたが、気にしている場合ではない。

 彼らが追いつけない場所へ移動してしまう前に、助けを求めなければ。

 拾った長い棒で足場の確認をしながら、立夏は懸命に前へ進んだ。人の気配が近くなるにつれ、彼らの発している言葉もはっきりしてきた。

「――丸! どこにいる篝丸! 聞こえたら返事をせぬか!」

 男たちは「篝丸」を探しているらしい。人の名前にしては少し奇妙だ。きっと、逃げ出したペットか何かだろう。

「おお、鐡様! あそこに篝丸めが!」

「まったく、手間をかけさせおって」

 どうやら、探していたペットが見つかったようだ。言葉遣いは多少荒っぽくて妙な気もするが、彼らは一安心しているだろうし、いきなり湧いて出た半裸の男が救助要請をしてもちゃんと相手をしてくれるだろう。

 そんな楽観的希望を抱いたとき、ふいに前方に明かりが見えた。赤々と揺れる光に向かって、立夏は叫ぼうとした。だが、放とうとした声は喉の奥へ滑り落ちた。

 赤い光は松明の火だった。その松明を持つ男たちは褐衣と括袴を纏い、腰に太刀を帯びている。平安時代の資料で見る武官の装いによく似ている。

 一瞬、時代劇の撮影かと思ったが、スタッフや機材などがまったく見当たらない。

 撮影でもないのに、あの衣装。そして、変に時代がかった口調。もしかすると、なりきりコスプレイヤーの集団だろうか。おかしな格好をした男たちに声を掛けるべきか迷い、咄嗟に木の陰に身を潜ませたときだった。

「鐡様、私はここに!」

 甲高い声が響き、男たちの向こうの闇の中から何か小さくてひらひらしたものがちょこちょこと小走りに寄ってくる。

 目を凝らした直後、立夏は視界が捕らえた光景に呆然と息を呑む。

 ひらひらと揺れていたのは、水干の長い袂だった。あのコスプレイヤーたちの仲間なのだから、服装にはもう意外性を感じない。立夏が驚いたのは、その中身だ。

 袴が古いドラマで見た提灯ブルマのように短く丸い形状になっているが、おそらく童水干だろう服に身を包んでいるのは、ブルーグレイの毛並みの小さな仔猫だった。――しかも、二本足で立って走り、喋っている。

「こんな時間までどこをうろついておった、篝丸! 無花果はどうした、無花果は!」

「申し訳ありません、鐡様」

 篝丸が、鐡という名のリーダー格らしい男の足もとで平伏する。

 痛みや寒さをちゃんと感じるのだから、夢を見ているわけではない。なのにどうして、幼い頃の自分の妄想の産物でしかない――夢の中の平安京ランドにしか存在していないはずの喋る動物が目の前にいるのだろう。

「まだ時期が少し早うございますゆえ、美味しく召し上がっていただけそうな実がなかなか見つからず……。今しばし、ご猶予を」

 その答えに、男たちが次々と喚き出す。

「朝から一日かけて、ひとつも採っておらぬのか!」

「この役立たずの鈍間猫が! 貴様のせいで、わしらが瀬良様からお叱りを受けたのだぞ!」

「瀬良様の堪忍袋は切れる寸前だ! その前にと、わざわざ受け取りに来てやったのにまったくの無駄骨ではないか!」

 伏したまま「申し訳ありません」と繰り返した篝丸を、男のひとりが「さっさと無花果を探してこい!」と忌々しげに蹴りつける。

 わずかな声を漏らして小さな身体を転がした篝丸を見た瞬間、猛烈な怒りが滾った。

 交わされる会話から想像するに、瀬良という者の命令で仔猫の篝丸は無花果を探していたが見つからず、暗くなっても帰ってこない篝丸を鐡率いる男たちが探しに来たようだ。

 こんな小さな仔猫ひとりに、まだ実っているかどうかも定かでない無花果を探させるなど虐め以外の何ものでもない。

 理解しがたい光景の意味を考えるのはあとだ。

 今はただ、理不尽に虐げられている小さな仔猫を助けたかった。

 立夏は木の陰から躍り出て、手にしていた棒を暴力男目がけて投げつけた。棒の切っ先を胸に受けて膝を折った男をさらに蹴り飛ばし、素早く篝丸を抱き上げる。

「こんな小さい無抵抗の仔猫相手に大の大人が寄ってたかって、何をやってるんだ!」

「何だ、貴様は!」

 男たちが次々に太刀を抜く。

 立夏の父親が病に倒れたとき、治療費を工面するためにすべて売り払ってしまったが、代々道場を営んできた市花家には祖先から受け継いだ真剣が数口あった。

 幼い頃から刀は身近なものだったので、立夏にはわかる。こちらに向けられるぎらつく刃は本物だ。男たちの発する殺気も強く、揺るぎない。おそらく、この男たちは人を切った経験があるのだろう。立夏が動けば、躊躇いなく斬りかかってきそうな雰囲気だ。

 あのまま見過ごすことなど決してできなかったが、もう少し結果を想像してから行動すべきだったかもしれない。

 背を冷や汗が伝う。腕に多少の覚えがあったところで、丸腰では意味がない。男たちの力量によっては誰かの刀を奪うことは可能かもしれないが、助けを乞いたい身で彼らと戦うことが自分のためになる行為なのか、咄嗟には判断がつかなかった。

 迷いと、そうしているあいだにも殺されるかもしれないという本能的な恐怖で身体を強張らせた立夏の腕の中から篝丸が「お待ちください!」と叫ぶ。

 篝丸は身を捩って地面に飛び降り、鐡の前で再び平伏する。

「見たところ、この御仁は都を目指しての山越えの途中で追いはぎにでも遭われでもしたのでしょう。疲れと空腹とで正気を失ってしまわれた気の毒なお方やもしれまぬ。ご無体なことはなさいませぬよう、どうかお慈悲を!」

 地に額を擦りつけるようにして乞い、篝丸は「それに!」と高く声を発した。

「無益な殺生をなされば、竜楼様はきっとお咎めになるはずでございます」

「黙れ、篝丸! 卑しい獣ふぜいの指図など受けぬわ! 貴様はさっさと無花果を探してこい!」

 鐡に怒鳴られ、篝丸は立ち上がる。会釈するようにちらりと立夏を見た青く透き通った目は、鐡たちに逆らうなと忠告しているふうだった。

 口汚く罵られ、乱暴に突き飛ばされしながら、篝丸は森の闇の中へ戻ってゆく。愛護すべき小さな仔猫にあんな非道を犯す男たちに、腹が立って仕方なかった。

 けれども、立夏は今度は何もしなかった。一言の抗議すらも。

 心は認めることを頑なに拒んでいたけれど、理性は諦観して受け入れている。

 ここは東京ではない。古の日本を思わせ、言葉がちゃんと通じてはいても、ここは日本ですらない。自分は今、リアルで鮮明な夢を見ているのではなく、あの平安京ランドに実際に来てしまっているらしい、と。

 人と喋る動物とが共存するこの世界には、厳しい身分制度があるようだ。その秩序を乱して篝丸を庇ったりすれば、却って篝丸の立場を悪くしてしまうかもしれない。それに、助けの手を差し伸べてくれそうな者が誰もいない中では、下手に逆らわないことが自分のためだとも立夏は思った。


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※この続きは是非、9/1発売ルビー文庫『獣皇子と初恋花嫁』(著/鳥谷しず)にてご覧ください!

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