第七話 混乱
サイトを公開してからしばらくの間は、何の動きもなかった。
公開当日、サイトを見た文部科学省の佐藤から、
「実名が分かる記述は控えたほうがいいよ。それから振込先口座も個人名じゃなく、団体名のほうがいい。それは私のほうで何とかして準備するから、とりあえずは近日公開にしておいて。メールアドレスも、個人のものではなく、捨てても惜しくないアカウントを新規作成するように」
等々、個人情報を極力表に出ないようにするための指示が、雄太のところに電話であったらしい。その対応が終わってしまうと、それこそ何の反応も見られなくなった。
閲覧者をカウントする数字は、一日に二十も増えない。それには自分達が開いた回数も含まれているから、閲覧者が全くいないと言ってよかった。
たまに反応があっても「ガキのくせに世の中を舐めた真似するんじゃない」という悪口が、メールボックスに届くぐらいである。一ヶ月近くその状態が続いた。
それが普通だと頭では分かっていたけれど、それでも翔平は落胆した。
*
「ただいま」
翔平が自宅である二DKのアパートの一室に帰ると、キッチンのほうから、
「おかえりなさい。あら、今日は早かったのね。雄ちゃんと一緒じゃなかったの?」
という、明るい声が出迎えてくれた。
「うん。今日は委員会の活動があるから雄太は遅くなりそうなんだ。だから先に一人で帰ってきた」
翔平は居間の片隅にある自分の文机に鞄を置く。
「マサコさんは今日も同伴じゃないの?」
「ないわよ。最近はずっとご無沙汰。夕飯を一緒に食べてから出勤するから、出来上がるまでもう少し待っててね」
「はあい」
翔平はよろよろとキッチンまで歩み寄ると、ダイニングテーブルの椅子に座った。テーブルの上に頬杖をつく。
「どうしたの。なんだか疲れているようだけど」
マサコは丁寧に下拵えした豚肉をフライパンで炒めながら言った。
「実はさあ――」
翔平は、プロジェクトCに対する世間の無関心について話した。マサコには、事の発端から東京での授賞式の話まで、すべて伝えてある。
「――という訳で落ち込んでいるところ」
「ふうん。それで雄ちゃんは何て言ってるの?」
「気にする必要はないって」
「そうなんだ。じゃあ気にしないほうがいいんじゃない」
「マサコさんは雄太のファンだからなあ。あいつの言うことなら全部OKだよね」
「そうね。うふふ」
マサコは嬉しそうに笑った。そんなマサコの様子を見ていると、翔平の心は不思議と軽くなる。
「親父は帰ってきた?」
「いえ、ここしばらくは姿を見ていないわよ」
「また何か危ない仕事に手を出していなければいいんだけど」
「大丈夫だよ。
「それ、全然褒めてないよね」
「そういえばそうね、うふふ」
翔平はそう言って笑うマサコをじっと見つめた。
「マサコさん――」
「なあに?」
「――髭が伸びてるよ」
「えっ、あらやだ。朝剃ったのに?」
「うん、なんだか青い」
「まっ、どうしましょ」
そう言いながらうろたえる小太りの中年男性を見つめて、翔平は笑った。
マサコの本名は、
「肉体関係はないわよ」
とマサコは言っているが、実際どうなのかは翔平には分からない。
仙台市内でオカマバーを経営しており、夕方から明け方にかけて働いている。出勤前に夕食と朝食を準備してくれるのだが、それが美味しいので翔平は助かっていた。
明るい性格も父親が不在がちな翔平には有り難い。実の母親は泣いてばかりいた。
「そういえば今まで聞いたことがなかったけど、マサコさんはどうして親父と友達なの?」
一緒に夕食を食べながら、翔平は以前から不思議に思っていたことを訊ねる。
「そうねえ。翔ちゃんと雄ちゃんはどうして仲良しなんだっけ?」
「俺達は近所に住んでいたからだと思う。いつから一緒に遊んだのかは全然覚えていない。ただ――」
「ただ?」
「――幼稚園までの友達で、小学生になってからも全然距離感が変わらなかったのは、雄太だけだった。他の子はみんな、親から言われて避けるようになったから。『あの子はヤクザの子供だから』って」
「ああ、そういうことってあるよね」
そう言って、マサコは翔平の話をさらりと受けた。場合によっては無責任な言い方に聞こえるが、決してそうではない。
翔平はマサコの歩んできた道の困難さが分かっていたので、彼の「そういうことってあるよね」がどれほど重いかが理解できる。それをあえて軽く表現できるマサコの強さが、翔平には羨ましい。
「でも、雄太はそんなことは気にしなかった。今でもあいつの家に行くと母親はいい顔しないから、裏で何か言われていることは分かっている。でも、雄太はそれでも変わらなかった」
「雄ちゃん、男気あるもんね」
マサコはそう言って、顔を赤らめた。
マサコが翔平の家に来るようになった直後に、雄太が遊びに来たことがある。
翔平自身もまだ状況を受け入れることが出来ていなかったのに、雄太は、
「あ、こんにちわ。翔平君と同じクラスの清宮雄太です。今日はお邪魔します」
と、マサコに向かって平然と挨拶した。それからも、マサコが昔から家にいたかのように存在を受け入れている。彼が誰なのか聞こうともしない。
むしろマサコのほうが不思議に思って、小学校三年生の雄太に聞いたことがある。
「雄ちゃんは私のことが気にならないの?」
それに対して雄太は無邪気にこう訊ねかえした。
「マサコさん、どこか変わっているところあるの? 実は羽が生えているとか?」
「生えてないけど、何か変だなって思うことはないの?」
「ないよ。だってマサコさん、いつも通りじゃない」
要するに彼は、明らかに人類という基準から逸脱しているか、いつもと明らかに様子が違う時でないと、気にならないのだ。
それ以来、マサコは雄太に惚れ込んでいる。
「譲吉君もね、雄ちゃんと似たようなところがあるのよ」
「えー、全然似てないよ」
「それはそうなんだけどね。私が人とは違うことを、クラスの中で譲吉君だけが気にしなかったのよ。今だってLGBTが認知されているとは言い難いけど、昔に比べたらましだよね。他の人と違うだけでいじめられたり、仲間はずれにされたりすることが普通にあったから。けれど、譲吉君はそんなことはなかった。別に助けてくれた訳じゃないし、譲吉君もいじめの片棒を担いでいたんだけどね。いじめられていると分かるんだよね。『あ、この子は嫌々やっているな』って。譲吉君はいつもそうだったんだ」
「……助けてくれた、とかじゃないんだ」
「そんなの無理に決まっているじゃない。譲吉君はヘタレなんだから」
そう言ってマサコは朗らかに笑った。
他の人が父親のことを笑うと、翔平はとても嫌な気持ちになる。しかし、マサコがどんなに父親のことを笑っても、翔平は気にならなかった。
マサコの笑いの根底には、譲吉君に対する信頼と愛情がある。
「そういえば、他にも雄ちゃんと譲吉君に共通しているところがあるわね。二人とも寂しがり屋だよね」
翔平は、康一郎が新幹線の中で言ったことと同じ感想をマサコが口にしたので、とても驚いた。
「親父は確かにそうかもしれないけど、雄太が寂しがり屋って――」
「あら、伊達に水商売を長年やっているわけじゃないのよ。雄ちゃんは生まれながらの女たらし、人たらしだから、周りに自然と人が集まってくる。でも、本当に彼のことを分かってくれる人は意外と少ないんだよね。女たらしの男の周りには、自分を褒めて欲しい女は集まるけど、彼を褒めてくれる女はなかなか寄り付かないから。だから、雄ちゃんの周りにいる人は楽しいかもしれないけれど、雄ちゃん自身は、誰かにかまって欲しいと思っているかもしれない」
「あ……」
そこで翔平は、戦やウェンディに評価された時の雄太の嬉しそうな顔を思い出した。
「マサコさん、有り難う。俺、ちょっと思い違いしてた。今、俺がへこんでいる場合じゃないや」
「そうだよ――」
マサコは満面の笑みを浮かべて言った。
「――いつも助けられているんだから、雄ちゃんが大変な時こそちゃんと翔ちゃんが助けるんだよ。本当の友達ならね」
*
マサコと会話した日の翌朝、学校に向かう翔平の足は軽かった。
プロジェクトCに対する反響が小さいことを気にしているのは、翔平だけではない。康一郎も綾香もそうだろうし、何よりも雄太が一番責任を感じているはずだ。
それなのに翔平がうろたえていては、百害あって一利なしだ。もともと雄太は「何か外的要因が起きなければ、この計画は失敗に終わるよ」と断言しており、後は何かが起きるのを待つしかないのだ。
翔平はいつもの道を一人で進む。小学校までは雄太と一緒に登校していたのだが、さすがに中学生になると毎朝一緒という訳にはいかない。途中で出会った時以外は、教室で顔を合わせることになる。
その時には昨日までの不安気な顔ではなく、いつもの明るい顔でありたいと翔平は考える。
――なにしろ、俺が雄太を助けなければいけないからな。
翔平は学校へ向かう歩みを速めた。
*
「おはようみんな、今日はいい天気だねぇ」
大きな声で挨拶をしながら教室に入った翔平の表情が、三人の顔を見て固まった。
綾香が、康一郎が、そして雄太が、不安そうな顔をしている。
「――何かあったのか?」
翔平は緊急事態を確信し、即座に彼らのところに駆け寄った。
「これを見てくれないか」
雄太がタブレット端末で、プロジェクトCのサイトを表示していた。彼の端末は保護者による表示制限がかかっていないので、一般サイトを自由に閲覧できる。
眉を潜めて画面を覗き込んだ翔平は、そこに表示されている事実に愕然とした。
閲覧者の数を示すカウンターが、朝の段階で完全に振り切れていた。
カウンターの上限数は「九万九千九百九十九」だったから、八時間の間に十万件以上のアクセスがあったことになる。
「何だよこれ、サイト攻撃でもあったのか」
「それが違うんだ。次にこれを見てくれ」
雄太は連絡用メールアドレスの受信ボックスを呼び出す。
受信ボックスには、英語らしき外国語のメールが殺到していた。
綾香が呆然とした声で言った。
「昨日の放課後の時点で、未読メールはゼロ件だったよね。それなのに今は三百件近い未読メールがある。最初のほうは、英語の他にフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語のメールがある。受信した時間から考えると、日本時間の真夜中に突然、ヨーロッパ各国から大量のメールが発信されたことになるの。メールアドレスの最後のところが国を示しているから、多分そういうことで間違いないと思う。そして、それがまるで時差のようにアメリカに移動したために、最新のものは英語のメールが大半を占めている。部分的に南米からのスペイン語、ポルトガル語のメールもあるけどね。そこで真夜中になったので、激しい増加は収まっているけれど、この傾向が同じように続くのであれば、これから日本語、中国語、韓国語のメールが集中するはず」
「それじゃあ、サイト攻撃は考えられないな。で、内容はどうなっているんだ? いつものような非難が殆どなのか?」
「それが――」
綾香の目が怯えている。
「――逆なのよ。殆どが好意的なもので『メッセージを彗星に乗せたいから送る。送金も完了しているから確認してくれ』という内容なの。なんだか非難が殺到している時よりも気持ちが悪い」
「そして、その結果がこうなっている」
雄太は振込先として指定されている銀行口座の、残高照会画面を表示した。
残高は五万七千三百五十二円になっている。
自分達の四千円に知人関係からの寄付が上乗せされて、昨日の夕方時点で残高は六千五百十五円。
そこから五万円近く増えたことになるが、それでもそんなものである。翔平の肩から力が抜けた。
「なんだよこれ。あれだけ大騒ぎしてこの程度――」
「違うの! 問題はこれからなのよ!」
綾香が急に目に涙を浮かべて叫んだ。教室中の視線がいっせいに彼女に集まる。
「今の残高には、海外に住んでいる日本人が日本円で送金した分しか含まれていない。外貨で送金されたものは、銀行が始まってからじゃないと日本円に置き換わらないのよ! だから、これから何が起きるのか全然分からないの!」
「落ち着いて、綾香」
雄太が穏やかな声で話しかける。
「大きく素早く息を吸って、それからゆっくり少しずつ吐いてごらん。そうすれば大丈夫」
綾香は雄太の指示通り深呼吸する。そして、
「――ごめんなさい。もう大丈夫だよ」
と言いながら、弱々しく微笑んだ。
「しかし、これは綾香が取り乱すのも無理がないよ。俺だって気味が悪い。こういうサイトの人気というのは、もっとじわじわと静かに上がるもんだと思っていた」
康一郎が、彼にしては珍しく少しだけ緊張した顔で言った。しかし、それに続けて、
「宝くじに当たるとこんな感じになるのかな」
と笑ってみせる。それにつられて綾香は先ほどよりも自然な笑みを見せた。
そこで雄太の電話が鳴る。
「はい、もし――」
(清宮君か? 佐藤だ。緊急事態の最中なので手短に話す。落ち着いて聞いて欲しい)
「……はい、了解しました」
(昨晩より文部科学省への問い合わせが急増している。夜間はメールで、朝からは電話で、各国報道機関からの情報提供依頼を筆頭に、さまざまな連絡が届いている。すべて、プロジェクトCに関連したものだ)
「こちらもホームページで状況を確認しています」
(そうか。今のところ個人名は特定されていないな?)
「恐らく大丈夫だと思います。僕への直接連絡はないので」
(ならば、とりあえずは安心だ。それで、すまないが資金が集まったら協力するという私の約束を、変更しなければならない)
「えっ、あの、それはどういうことで――」
(落ち着くんだ。今の君の想像とは逆だからね。現時点で私は君達のサポートに入る。事態は既に個人のレベルを超えてしまっているから、とりあえずサイトとメールはこちらで運用しても構わないかな?)
「はい、あの、すいません。宜しくお願いします」
結局、四人は落ち着かないまま午前中の授業に突入することになった。
彼らが「プロジェクトC」という計画を推進していることは、学校はもちろん同級生の中でも知られていない。
教師の一部は「文部科学省のコンテストで授賞式に呼ばれた」程度の知識を持っていたが、その後の展開は誰も知らないはずだった。
それは、
「あまりにも身近なところで寄付依頼をすると、メールの悪口以上に具体的かつ物理的な悪意を向けられる可能性があるからね」
と、佐藤から注意喚起されていたからである。従って、彼らが「プロジェクトC」の構成メンバーであることを知っているのは、本当に近しい人に限られている。
また、四人の広報活動はもっぱらネット上での匿名での書き込みに限定されていた。こちらも佐藤の忠告に従い、あくまでも匿名性を保ったままで活動していたのだ。
一方、プロジェクトの信憑性を担保するためには、「文部科学省のコンテストに応募して、最終選考の前で落選した」事実を明記しなければならなかった。
そのために佐藤のところに問い合わせが殺到したのだろう。同じく、実名は出していなくてもJAXAとNASAの技術者が協力していると書いてあるから、そちらにも照会が行っているに違いない。
なんだかとても申し訳ない思いをしつつも、四人はその時、何も出来ずにいた。
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