第二章 大人の領域

第六話 拡散

 その後一週間のセシールは多忙を極めた。

 なにしろ学会での発表資料をまとめると同時に、ツェガエの夢を叶えるための準備も並行して進めていたからである。

 そのため、友人関係からのメールも後回しにしているような有様で、その中に含まれていた重要な情報を知らずにいた。

 また、直前までエチオピアに出入りしていた彼女は世間の一般的な動向にかなり疎くなっており、彼女の周辺がなにやら騒がしくなっていることに、全く気がつかなかった。

 もし、それに気がついていれば彼女が既に「Project C」の力を借りなくても、ツェガエの夢を叶えるだけの影響力を持っていることを認識したはずである。

 ところが、学会当日も時間ぎりぎりになって慌しく会場に飛び込んだため、そのことを知る機会はまったくなかった。

 そのため、「Project C」を利用してツェガエの夢を叶えるつもりだったセシールは、実はツェガエの夢を叶える一方で「Project C」の夢を後押しすることになってしまったのである。


 *


 その年の国際人類学会の総会は、スイスのジュネーヴで開催された。

 発表者が立つ演台を照らす国際会議場のライトは殊のほか眩しく、会場の奥のほうは闇に沈んでいて詳細が分からない。

 そんな中で自らの研究成果を発表していたセシールは、準備した資料の投影が概ね完了したところで、背筋を伸ばして会場全体を眺めながらこう言った。

「ここまでが私の研究に関する発表となります。さて、少し持ち時間が残っておりますので、ついでと言ってはなんですが別な話をしたいと思います」

 最前列に並んだ研究者達が、何やらひそひそ話をしているのを横目で見ながら、セシールは手元のパソコンを操作する。


 演台後方にある巨大なスクリーンに「自動小銃を背負ったセシールの姿」が映し出される。


 その瞬間に会場全体から、

「ほう」

 という溜息が漏れた。どちらかといえば笑い声を期待していたセシールは、想定外の反応に多少の戸惑いを覚えつつも、

「これが現地で調査活動に従事する際の私のスタイルです。どうしてこのような剣呑な姿でなければならないかは、次第にご了解頂けることになると思いますが、その前に一人の少年の話をします」

 セシールは演台の前に進み出てた。

「少年の名前はツェガエと言います。もうすぐ十歳になる彼はエチオピアの少数部族の村で暮らしており、毎日十キロ以上の道のりを走って、学校に通っています」

 そこで彼女は、聴衆に「十キロ」という距離感が浸透するのを待つように、若干間をあける。

「何故、彼は走って学校までやってくるのか。それは、勉強する時間を少しでも確保したいと考えているからです。学校の友達と遊ぶことをせず、彼は行き帰りを走り続けています。それでは何故、そこまでして彼は勉強しなければならないのでしょうか」

 ここでも、聴衆に考える時間を与えるために、少しだけ間をあける。会場は静まり返っていた。

「それは、彼の妹を助けたいからです。彼の村は今、深刻な水不足に悩んでいます。生活に必要な水を確保するためには、村から六キロ離れた川まで水を汲みに行かなければなりません。行きは空の容器を持っているだけですが、帰りはそれに水を一杯に入れていますから、二十キロ近い重量があります。それを持って歩くわけです。それを一日に三回繰り返して、やっと生活に必要な最小限の水が確保できます。そして、彼の妹は今年で八歳です。それでも彼女は水を汲みに行かなければなりません。なぜなら、水汲みは女の仕事だからです」

 ここでまた間をあける。今度は会場のあちらこちらから大きく息を吐く音が聞こえてきた。良い反応である。

「そして、その六キロ先の川すら、いまや水汲みには適さなくなっています。しばらくするとさらに遠くの川まで行かなければ、水は確保できなくなります。ところで――」

 セシールは会場を見回す。

「――エチオピアでは略奪婚という風習が残っている地域があります。ご存知の方はいらっしゃいますか?」

 会場の手前のほうで、あちらこちらから手を挙がる。さすがは文化人類学者の会合である。反応が良い。セシールは三列目にいた男性に目をつけた。

「そちらの金髪の男性の方、説明して頂けますか」

 指名された男性は立ち上がると、係員が渡したマイクを左手に持って言った。

「女の子を誘拐して、強制的に結婚するという風習です」

 途端に会場から女性の悲鳴が上がった。

 なかなか素晴らしい演出だと、セシールは内心ほくそ笑むが、もちろん顔には出さない。

「その通りです。有り難うございます。ですから、女の子とは言い難い私でも、こんな恰好で調査を行わなければならない訳ですが――」

 漣のような笑い声が止むまで言葉を切る。緩急をつけることで、聴衆はさらに話に引き込まれることになる。

「――それほど事態は深刻であるということがお分かりいただけたでしょうか。そこで、ツェガエの話に戻ります。彼は妹が略奪婚の餌食となるリスクをどうしても避けたいと考えています。そのためには自分が勉強して、村の女性達が水汲みに行かなくてもよくなる方法を見つけたいと考えています。それが彼の夢であり、そして、その夢を実現するために彼は毎日走って学校に行っているのです。さて、ここまでの話はご理解頂けたと思いますので、続いてこちらの画面をご覧下さい」

 セシールはパソコンを操作し、プレゼンテーションソフトをブラウザに切り替える。

 すると今度は、画面全体に「プロジェクトC」のトップページが表示された。

「これは私が先日見つけたサイトです。英文表示されていますが、これを作成したのは日本人の中学生です。会場に日本人の方はいらっしゃいますか?」

 今度はかなりまばらに手が挙がる。

「有り難うございます。その中でこのサイトをご存知の方は?」

 全員が手を下ろした。これも有り難い。おかげで好き勝手に物が言える。

「では説明しましょう。このサイトは子供達が夢を実現するために立ち上げたサイトです。彼らは今の自分達が抱えている夢を、未来の自分に向けて発信しようと考えています。会場の中で子供の頃に、未来の自分にあてた手紙を書き、それを容器に入れて何十年か後に開封することを約束して、地中に埋めた経験のある方はいらっしゃいますか?」

 今度はさらにまばらになったが、いることはいた。社会科学系の学者はロマンチストが多いのだろうかと、セシールは一瞬だけ余計なことを考える。

「有り難うございます。これはタイムカプセルというものですが、日本の中学生達はそれを別な方法で実現できないかと考えた。自分達の夢を託して、何十年か後にそれを受け取る。しかし、ただ暗い地下に埋めたのでは面白くないし、なんだか腐ってしまいそうだ。どうせならば、自分の夢を託すものにも壮大な夢を見させてあげよう。そう考えたのかもしれません。彼らは驚くべき方法を考えた。それが『C』――」

 セシールは再び会場を見回す。全員が息を潜めて話に聞き入っているようだ。そこで彼女は画面を切り替えた。

 ハレー彗星の画像。

「――『Comet』です」

 会場の中から失笑が湧き上がる。実はそれはセシールの想定内のことである。

「今、何人かの方は笑ったのではないでしょうか。なんて馬鹿なことを考えているんだ。そんなこと、出来るわけがないじゃないかと思われたのではないでしょうか。そして、それは当然の反応だと思います。メッセージを彗星の形にして、何十年かの後に地球に戻ってくるように打ち出す。そんなことが技術的に可能なのかと思った方もいるでしょう。ところが、ツェガエはそう考えなかった。それは何故か。皆さんの中で、彗星が何でできているかご存知の方はいらっしゃいますか?」

 これにはかなりの人数の者が手を上げる。セシールはやはり三列目にいた女性に目をつけた。

「そちらの青い服を着た女性の方、答えていただけますか」

 アジア系らしき女性はマイクを持つと、少したどたどしい英語で言った。

「氷です」

「その通りです。有り難うございました。氷――水ですね。ツェガエは恐らくこんなふうに考えたのでしょう。水が自分の夢を携えて長い旅に出て、そして自分のところに帰ってくると。それは今の彼の夢と非常に密接な関係を持つイメージだったのでしょう。しかし、ここでひとつの問題が生じました」

 セシールはここで演台の上にあったコップに手を伸ばす。それを差し出しながら話を続けた。

「メッセージが入った容器を氷の塊で覆い、それを彗星と同じように太陽の周囲を回るように軌道と速度を計算して打ち出す――理論的にはそれだけのことです。特殊な素材や機器が必要になるわけではありませんから、それ自体は実現可能であることを、ある科学者が断言しています。ただし、それは大人達の協力が得られればという前提条件があります。中学生には出来ません。そして、大人達が関与することでさらに必要になるものがあります。それは――資金です」

 セシールはコップを演台に戻す。

「先ほどの笑い声にはその点も含まれていたのではないかと思います。そこで、日本人中学生は実際にいくらかかるのかを調べました。もちろん、彼らの力でできることではありませんから、NASAの技術者が協力して試算を行っています。その結果はドルに換算して約一億ドルでした」

 再び失笑が湧き上がる。それも想定内のことである。

「そんなお金を持っている人はごく僅かです。私も持っていませんし、皆さんもそうでしょう。持っていたらそれこそこの場にはいないでしょうから」

 今度は明らかな笑い声が起こった。セシールはそこで笑顔を急に引き締める。

「しかし、それでも日本人中学生は諦めなかった。自分達が持っていないのならば、自分達と一緒に夢を見てくれる人に協力をお願いしたのです。彗星にメッセージを入れる代わりに寄付を要請したのです。そして、それを知ったツェガエは、自分もメッセージを送りたいと思いました。しかし、彼には出せるお金がありません。そこで彼は私に、これを渡してくれたのです」

 セシールは最初から演台の上に置いておいた、石を取り上げた。

「ご覧の通りのただの石です。宝石が含まれている訳でも、希少金属が含まれているわけでもありません。しかし、これは彼にとっては貴重な石なのです。彼が学校を行き来する際に必ず手に握り締めていた、彼の思いを凝縮した石なのです。にもかかわらず、彼はそれを私に託しました。『自分にはこんなものしかないけれど、これで何とか水と一緒に夢を送れないか』と言って」

 セシールは石を人差し指と親指でつまんで、目の前にかざした。

「私は最初、これを私のポケットマネーで買い取ろうと思っていました。無償ということも考えましたが、それは彼にとってためにならないと思いましたし、それだけの思いをこめた夢であるからこそ、宇宙を飛ぶには相応しいと考えたからです。しかし、もう少しだけ欲が出てしましました」

 彼女は石を顔の横にかざして、にっこりと笑う。

「彼の夢が彗星に乗ったとしても、彼の村の現状はなんら変わりません。相変わらず水は汲みにいかなければいけませんし、妹は略奪者の影におびえたままでしょう。ですから、出来れば彼の村に井戸を掘る資金と彼の夢を彗星に乗せる資金で、誰かにこの石を買って欲しいのです。そんな奇特な人がいればという話ですが。誰もいなければ、私が彗星に乗せる資金だけは提供しようと思っています。彗星が実現できなかったとしても、私が何十年かの後に、彼に手紙を渡しにいこうと思います。それくらいの夢を子供達に見せてあげるのが、大人の責任だと思うのです。そして、願わくば日本人中学生の夢が叶い、世界には奇跡というものがあるのだということを、証明してあげたいとも思います。それに、世界中の大人が協力すれば、一億ドルは奇跡ではありません。どうか、子供達の夢のためにご協力を」

 そして、セシールは深々と頭を下げた。


 *


 この時点で彼女は、いくつかの間違いを犯していた。


 彼女は国際人類学会の研究発表の場での発言なんか、たいして聞いている人はいないだろうと考えていた。

 ただ、文化人類学者は未開の地をフィールドにしている者が多く、それゆえ外国の援助団体と繋がりを持つ者がいるかもしれないと考えて、実行に移しただけだった。

 ところが、実は会場の奥のほうにはデジタルビデオカメラが置かれていた。それは彼女の発言の一部始終を録画するために設置されていたのである。


 次に、彼女は自分の容姿を計算に入れていなかった。

 赤毛に灰色の瞳。日に焼けた褐色の肌。その日は引き締まった肢体を赤いワンピースに包んでいたから、そうでなくても以前から話題になっていた美貌に拍車がかかっていた。

 画面に映し出された「自動小銃を持つワイルドな彼女の姿」との落差が、さらにそれを際立たせていたことも見逃せない。


 さらにその時、世界中である映画が流行しており、エチオピアの奥地に滞在していた彼女はそのことを知らなかった。

 女性の大学教授が世界の不思議を解明するために、銃を持って冒険の旅に出る映画――『シンディ・ジョンソンの不思議な冒険』が、幅広い世代の人々を魅了していたのである。

 そして、彼女がスクリーンに映し出した姿は、聴衆全員の頭の中でシンディ・ジョンソンと二重写しになっていた。


 なによりも誤算だったのは「一億ドルに比べたら、井戸掘りの資金なんて可愛いものだ」と思わせるために引用した「Project C」が、予想以上に人々のイメージを喚起してしまった点である。

 セシール自身は実現不可能な夢でしかないと思っていたそれは、シンディ・ジョンソンの信じられない活躍もあり、多くの人に「出来るかもしれない」実現可能な夢と写ってしまった。

 NASAの名前を出したことも、それを強化する一因である。


 ともかく、彼女の発言の一部始終、しかも学者向けの発表である前半部分は除かれた後半部分のみが、『エチオピアのシンディ・ジョンソン』というタイトルつきで動画サイトにアップされる。

 そしてそれは、驚くべき勢いで世界中に拡散していった。


 *


 学会発表の後、セシールは疲れが出てすぐさまホテルに戻った。

 発表中、スマートフォンは消音モードに切り替えてあった。それを鞄に放り込んだままになっていることを忘れ、彼女は服を脱ぎ捨てるやいなやベッドに倒れこんだ。

 そのまま眠りに落ち、気がついた時には翌日の昼になっていた。それでも、頭の片隅に微かな痛みを感じる。

 セシールはバスルームに飛び込んで身体と髪を念入りに洗い、お湯につかって天井を見上げた。

 昨日の発表は自分でも上出来だった、と考える。

 これで援助者が現れなかったならば、さすがに打つ手はない。その時は、マスカラムと一緒にツェガエに会って話をしなければならない。

 バスローブを身につけ、髪をタオルで拭きながら部屋に戻った彼女は、その時やっと自分の鞄からスマートフォンを取り出そうと考えた。

 消音モードに設定してあっても、振動するようになっている。しかし、その音は全く聞こえてこない。別に大反響を期待している訳ではなかったセシールは、それでも溜息をついた。

 ――これは駄目かもしれないな。

 日を追うごとに昨日のことは忘れ去られてしまうだろう。直後に連絡が来る可能性が一番高かったのだが、それもないようだ。

 セシールは鞄の中からスマートフォンを取り出して、画面を確認してみる。

 しかし、画面は暗いままで、何も表示されない。

 ――こんな大切な時に故障?

 セシールは一瞬焦ったが、単なる電池切れであることに気づく。昨日の朝にフル充電したばかりなのに、もうなくなっていた。

 脱力しながら充電コードを差し込む。少し待ってから、彼女は電源を入れてみた。


「……何これ?」


 膨大な電話着信履歴と膨大なメール着信数。

 しかも、目の前でスマートフォンは振動し続けている。

 想定外の事態。ここまで激しい反応は思ってもみなかった。

 ――さては逆に非難を受ける立場になってしまったか?

 画面に、電話帳に登録されている親しい友人の名前が表示されているのを見ながら、セシールは震える指で通話ボタンを押した。

(ああもう、やっとつながったよ。昨日の夜から今まで、一体何してたのよ!)

 友人の金切り声が耳に痛い。

「ごめん、アメリア。学会の後、疲れが出て寝込んでいた」

 そう申し訳なさそうに告げると、電話の向こうでアメリアは一瞬黙り込んだ。

(……セシール、もしかしてあの後、電話には出ていないし、メールは見ていないってこと?)

「うん、そう」

 電話からアメリアの盛大な溜息が聞こえてきた。

(ああもう、なんてことなのよ。いい、セシール。落ち着いて聞いて頂戴)

「――うん、大丈夫。心の準備は出来ているから」

 セシールは気力を振り絞って最悪の事態に備える。電話からはアメリアの興奮した声が流れてきた。

(貴方、いまや世界で一番の有名人になっているのよ。これからが大変よ!)

 セシールの顔は青ざめた。やはり何か不味いことを言ってしまったのだ。

「そ、そうなの。それじゃあ私、急いで謝罪しなくちゃ――」

(謝罪? 何で?) 

「えっ、だって、昨日のことで怒っている人が大勢いるんじゃないの?」

 電話が再び黙り込む。そして、激しい笑い声が聞こえてきた。

(逆よ、逆! いまや貴方は世界中の人気者になっているの。世界中が貴方のことを『エチオピアのシンディ・ジョンソン』と呼んでいるの!)

「……」

(だから、貴方のことを知っている人達も、昨日の晩から大変な騒ぎになっているの。なにしろ、貴方と連絡が取りたいという人が大勢いるんだから。ちょっと、聞いているの?)

「あ、はい。聞いているよ。えっと、その、ところでアメリア――」

 セシールは混乱した頭で、ようやく言葉を捻り出した。


「――シンディ・ジョンソンって、一体誰なの?」

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