第二話 可能性
「君の言う通り、同じ金を使って今すぐ楽になる人はたくさんいるだろう。しかし、そのやり方では未来への希望は与えられないのではあるまいかね」
(新聞記者に税金の無駄遣いと揶揄された際の、内閣総理大臣薮内修三の回答)
*
十二月の第一月曜日。
文部科学省官僚の
朝から退省間際まで読んでも、全然減ったような気がしない。初日から既に心が折れそうになる。
しかも、その内容のほとんどが誇大妄想の産物か、さもなければ小ぢんまりとまとまった優等生の作文である。前者は恐らく勢いで書き上げたものだろうし、後者は教師の肝いりで作成されたものに違いない。
佐藤はそもそも、この企画に乗り気ではなかった。
そもそもが大人の浅知恵が生み出した予算消化、実績作りのためだけのプロジェクトである。なんとなく利口なアイデアをいくつか選んで、それを発表すれば終わりだ。予算はつくが実績は問われない。しかも、そのフォローは外部機関に丸投げである。
発案者が最後まで責任を持てはよいのに、当人は企画だけ立ち上げるとさっさと企業に転職してしまった。彼の年収は倍増したらしい、と風の噂に聞いた。それで、同期入省である佐藤が敗戦処理のために、事務局長に任命されたというわけだ。
夢を語るコンテストの裏側に、大人の思惑が見え隠れしている。これでは波に乗れない。
眼鏡を外して目じりを強く揉む。少し涙が出たが、別に悲しいわけではない。いや、悲しいかもしれない。こんな何の意味もないコンテストに膨大な時間をとられることになった自分が可愛そうで、泣けてくる。
しばらく紙の束を見つめていると、後ろから声がかかった。
「佐藤さん、まだ続けるんですか」
振り返ってみると部内庶務の
「それにしても凄い量ですね。これが全部中学生の夢の塊なんですか」
彼女はプラスティック製のコーヒーカップを差し出してきた。入れたての香りがする。既に退省時間は過ぎていたから、わざわざ佐藤のために入れ直したことが分かった。
「あ、どうもありがとう」
「だいぶお疲れのようですね」
「まあね、朝からずっと中学生の夢に付き合っていたからね」
「それで、どうですか。何か素敵なアイデアはありましたか?」
「そうだな、これなんかはどうだろう?」
佐藤は机の上にある三つの山のうち、いまだ平野に近いところから紙の束を取り上げて、加賀山に渡した。
加賀山は何も言わずに受け取ると、そのままパラパラとめくってゆく。次第に顔の表情が失われていくのを佐藤はぼんやりと見つめていた。
「ふうん。地方の農業を再生させるための株式会社プロジェクトですか」
最後まで読んだ加賀山は、感情のこもらない言葉を発した。続けて、
「佐藤さん、こんなの朝からずっと読んでいたんですか」
と労わるような声で言う。
「いや、これはましなほうだよ。他には宇宙人の侵略に備えた地球防衛軍の新設、というやつもあるけど、読む? 組織図にかなり思いがこもった力作けど」
「いえ、遠慮しておきます。地球防衛に興味はないので」
そう言って加賀山は笑った。佐藤はその笑顔に少しだけ救われる。
「まだまだ先は長いですね。いったいいくつあるんですか?」
「応募総数は四千五百三十二通だった。中身を入れ忘れたのが一通あったので、それを除いた四千五百三十一個の夢が、僕の机の上にあることになる」
「それで、いくつ読み終わったんですか」
「まだ三百個強というところかな。一時間に約四つずつだから、それでもうお腹一杯になっていたところ」
「ご愁傷様です。でも、ひとつに十五分もかけるなんて真面目ですね」
加賀山は長い髪を揺らしてお辞儀をした後、あきれたような顔をした。
「加賀山さんはまだ帰らないの。他の連中はさっさといなくなっているんだから、君ももう帰ってもいいのに」
部内庶務はいろいろと面倒な仕事を押し付けられることが多い。
翌日の会議資料のコピーを急に依頼されることもある。作成者は自分のペースでその日の仕事の締めくくりとして完成させるから、どうしても時間外になることが多かった。
それでも加賀山はあまり文句を言うことはなかった。ただ、さすがに頻繁にお願いすると印刷結果や書類をとめる位置が粗くなるので、さすがに依頼者には意図が伝わる。
そんな風に、直接的ではないやり方で伝えられる加賀山の思いに、古参の役人ほど戦々恐々としていた。短大を卒業して入省してから既に十年。省内政治にも精通している。
「三島さんがまた間際にコピーを依頼してきたんです。ですから少々彼には痛い目にあって頂こうかと思いまして」
「お手柔らかに」
佐藤は苦笑しながら、目の前の紙の束に目を戻す。いつの間にか戦闘準備が完了していた。
*
しばらくして、加賀山は資料を整え終わった後、佐藤の様子を見に来た。
彼にとっては貰い事故のような主担当の仕事であるから、また落ち込んでいるかもしれないと、加賀山は同情したのだ。
ところが、資料を山積みにした彼のデスクに近づきながら、加賀山はそうではないことに気がついた。
――佐藤さん、何だか真剣な顔をしている。
佐藤は腕組みをしながら机の上にある書類を睨みつけているようだった。
「佐藤さん、何かあったんですか。怖い顔をしていますけど」
「あ、加賀山さん。ごめん、そんなに怖い顔をしていたかな」
そう言って佐藤が微笑む。加賀山は自分の体温が二度ほど上がったような気がした。
「いや、別に怒っていたわけじゃないんだ。ちょっと気になる夢があったものでね」
「気になる夢、ですか」
「そう、とても荒唐無稽なものなんだけれど、妄想とは言い難い。それに、大人の影が全く見えないとても純粋な中学生の夢なんだよ」
そこで佐藤は実に楽しそうな顔をした。
「だから、真剣に考えていたんだ。これは本当に実現可能なのかなって」
佐藤が机の上にあった紙を持ち上げて、加賀山に差し出す。
加賀山はその表紙を眺めた。そこにはこう書かれていた。
「プロジェクトC」
その下には「名取第四中学二年一組」という学校名と学年、「
「読んでみて感想を聞かせてくれないかな」
佐藤はとても真剣な声でそう言った。
*
一週間後の第二水曜日午前十時。
佐藤はつくばエクスプレスに乗って、つくば市に向かっていた。
夢の山は月曜日の時点ですべて読み終えていた。
最初のうちはひとつの作品に十五分もかけていたものの、そのうちタイトルを見ただけで内容が推測できるようになり、最後には五分もかからなくなってしまった。それで思ったより早く済んだのだ。
膨大な量の夢を「選考通過」という小さな山と「選考不通過」という大きな山、そして「保留」という平野に振り分けて、事務方に渡したのが昨日。
それと同時に出張申請を行い、訪問先の了解を取り付けた。しかしながら用件はまだ伝えていない。「明日行くから時間をくれ」と言っただけである。
つくばエキスプレスの急行は高架の上を勢いよく進んでゆく。
日本の人口が減少に転じてからというもの、沿線は当初期待されていたほどには開発が進まず、駅と駅との間には広大な農地が広がっていた。
住んでいる人にとっては日常なのだろうが、都心で働いているとこの景色は非日常に見える。
つくば研究学園都市の建設計画を立てた人間は、はたして理解していたのだろうか。この景色の中を移動していると、都心の狭い了見が拭われると同時に現実から遠のいてしまうような気分になることを。
建設当初は直通電車すらなかったというから、さらに現実感は希薄になったに違いない。
そして文部科学省にいるというのに、佐藤が仕事でこの電車に乗ることは殆どなかった。私用でなら何度か乗ったことがある。その時は目的が共通していた。
彼に会うためである。
*
つくば駅で降りると、駅前でタクシーを拾う。
佐藤がドライバーに、
「JAXAまで」
と告げると、
「あいよ」
と無愛想な声が返ってきた。佐藤はそれに拘らずに、後部座席に背中を預ける。
ドライバーは一応プロらしく、行き先の略称で通じたのが有難い。この間来た時には新米のドライバーで、略称が通じない上に正式名称を告げると、似たような名前の研究機関にあやうく連れて行かれそうになった。
車はスムースに道路を走り出す。ドライバーは既に新聞を広げていた。
――今どき紙とは珍しいな。
と佐藤はぼんやり考える。
ただ、よく見ると日付が一週間前だった。つまりはただの暇つぶしである。
自動運転技術が進歩した現在、目的地まで行くのにタクシードライバーがやらなければならないことは目的地の入力だけである。後は監視業務であり、特に作業はない。
それゆえドライバーの平均所得はマンションの管理人よりも低く、人材がなかなか集まらないと聞く。
それに、ただ座っているだけの仕事だから、続けるためにはどこかが壊れていないと辛いのだろう。愛想のよいドライバーに出会えたためしがなかった。
安全性の観点から、国土交通省は完全無人化に強硬に反対していると聞くが、ドライバーがいたほうが危険なのではないかと佐藤は考える。
他省の頭の固さは目に入りやすい。
さほど時間がかからずにJAXAの正門前までたどり着く。
タクシーを降りて守衛に来意を告げると、
「こちらを」
という無愛想な声とともにカードを渡された。
昔の日本人はどのような職業でも、愛想だけは世界一だったと聞く。いつの間にかその美徳は伝説上の生き物と同じになっていた。
JAXAの来客用カードはディスプレイ機能を搭載しており、施設内の案内図を表示することが出来る。しかし、何度か訪問したことがある佐藤には必要のないものだった。建て直されたばかりの本館を横目で見ながら、奥に進む。
その向こう側に、朽ち果てるのを心待ちにしているかのような古びた別館が現れるので、そこの玄関に足を踏み入れた。カードを使う必要はない。それ用の機器が取り外された痕跡すらある。
玄関のドアは常に開け放たれており、その先にはまるで獲物を待ち構えるような薄暗い廊下が続いている。節電のために照明が間引かれているのだ。
人気のない廊下を奥へと進む。とても最先端の研究施設の中にある建物には見えないほど、老朽化が進んでいた。壁にはいつごろのものなのか判然としない、学会の開催案内が貼られていた。
しばらくすると、廊下の向こう側に明かりが見えてくる。
佐藤はその明かりを見ると、何故かいつもルネ・マグリットの『光の帝国』という絵を思い出した。外は晴れ渡った青空なのに、そこだけが夜の雰囲気を感じさせる。
明かりが漏れる扉の前に立つ。
一応の礼儀としてノックをしたが、中からは何の返事もない。佐藤は溜息をついた。
「いるのは分かっている。入るよ」
そう言いながら佐藤は扉を押し開いた。
室内は以前と変わらず、台風直後のように物があちらこちらに放り出されている。電子媒体に移行する前の学会論文集が片隅に転がっていたかと思うと、なにやら複雑な機械の残骸がその隣に置かれていた。
奥のほうから、
「いるのが分かっているのなら無駄なノックはやめておけ」
という、音響機器を通したことが明らかな声が聞こえてきた。
佐藤は得体の知れない物の山をすり抜けるようにして、奥に進んだ。
二つの部屋の間には、その場に不釣合いなごつい電子錠が取り付けられた、鉄製の扉がある。
佐藤はその扉の前に立つと、今度は手前に引いた。足元にスリッパが置かれていたので、それに履き替えると、扉を閉めて室内を見回す。
こちらの部屋は、相変わらず完璧に整理されていた。
入口から右手側の壁には棚が置かれている。右の棚には書類の類が背表紙に年月が書かれた状態で順番に並んでおり、左の棚には書籍の類が分野毎に分けられて著者の名前順に並んでいた。
中央には大きな会議机がひとつあり、パイプ椅子が六脚、均等な間隔で置かれている。机の上には何もなかった。
部屋の左側には事務用の机があり、その上には巨大なディスプレイが三台置かれている。机の隣には佐藤の腰の高さに機材が三台、横に並べて置かれており、低い唸り声を上げていた。
そして、事務机の前には部屋の主である白衣の男性が座っている。
柔らかそうな髪を長く伸ばし、それが目元を半分ぐらい隠している。殆ど手入れをしていないために、髪はところどころ逆立っていた。
肌は白い。もともと色白である上に、自宅と研究室の他には外出を殆どしないので余計に作り物めいた白さになっている。そのため唇の赤さが妙に強調されていた。
長身で痩せているが、だからといってひ弱とは言いがたいことを佐藤は知っている。男は「物理法則を理解する」ために合気道を続けており、学生の時には全国優勝を果たしたこともあった。
佐藤とは大学時代の同級生で、同じ合気道部に所属していた関係で腐れ縁が続いている。
白衣の胸元には名札がついており、そこには『
「それで、今回の用件は何だ」
戦は時候の挨拶もなしにいきなり本題に入った。いつものことだったが、佐藤は苦笑する。
「久しぶりに会ったのだから、近況報告とか世間話とかしないのかよ」
「俺のほうはいつも通りだ。お前も別に変わったようには見えない。だから近況報告の必要はなかろう。世間話は言われても俺には殆ど分からん。だから早く用件を言え」
戦は流れるようにそう言う。佐藤は眉を上げると、黙って鞄から書類の束を取り出した。
それを、やはり無言で戦に渡す。
戦は受け取ると表紙を一瞥し、眉を少しだけ上げるとそれをめくって本文を読み始めた。
佐藤はその様子を見つめながら、加賀山との会話を思い出していた。
*
「佐藤さん、これって……」
加賀山はそう言うと、言葉を失った。
「面白いだろう? 今回のコンテストの趣旨をよく理解し、それを確実に押さえた上で、それを上回るアイデアを出してきた。先ほど私は荒唐無稽と言ったが、決して妄想ではない。最低限の実現可能性は考えた上で、自分たちの手に余る部分については素直に『分からない』と記述している。しかも、これは教師のチェックを受けていないものだろう。もし見せていたら、馬鹿馬鹿しいの一言でつき返されていたはずだ」
「……」
「しかも、実に中学生らしい夢が語られている。仲のよい友達との思い出作りのために考えたというのがまた素朴で良い」
「……しかし、これはやっぱり無茶じゃないでしょうか」
「君もそう思うか。私もそう思った。書かれていることに理解不可能な点は何もない。にもかかわらず、これは実現可能かどうかが判断できないし、なによりも金がかかる」
「そう、ですね。それに、とても子供の手には負えない夢だと思います」
「そこがまたコンテストの趣旨に合致している。自分達の手で出来るレベルのアイデアならば、自分でやれと言いたくなるところだが、これは大勢の人が協力しないと実現できない」
佐藤はそこで言葉を切る。加賀山が何か言いたそうにしていたからだ。
「あの、正直に言っても構いませんか? 多少無責任な意見になるのですが」
加賀山が申し訳なさそうにそう言ったので、佐藤は両手を大きく開いて促した。
「構わないよ。君の意見が聞きたかったんだから」
「そう、ですか。じゃあ、言わせて頂きます。私はこの夢を面白いと思いました。そして、ここまで突き抜けなければ夢とは言わないと思います」
加賀山が真剣な顔で言い切る。佐藤はにやりと笑った。
「君は彼らのアイデアにやられたようだね」
「はい。そのようです」
加賀山は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「そうか。実はね――」
佐藤は懐かしそうな顔になって言った。
「――僕もそうなんだ。自分がコンテストの主担当であることを忘れて、わくわくしてしまった。実際に実現した時の様子を想像して、鳥肌が立った」
「では――」
「でもね。これだけではまだ駄目なんだよ」
加賀山を右手で制止しながら、佐藤は話を続ける。
「このままコンテストの選考を通過させても、どうせ途中で上の連中から『荒唐無稽だ』と言って却下されるのは目に見えている」
「……確かにそうですね。もっと簡単に実現できそうな夢が、最優秀賞に選ばれるに違いありません」
「君もそう思うかい。だから、これをもっと上の段階まで進めるためには、どうしても専門家のお墨付きが必要なんだ。必要な知識を持っている、しかるべき立場の人間が『実現可能です』と言ってくれないと、これは次の選考を通過することが出来ない」
「その通りだと私も思いますが――しかし、これを評価できる人がいるのでしょうか? 大学教授なら能力的に可能かもしれませんが、真面目に考えてくれるかどうか……」
「その点は問題ない。実は心当たりがあるんだ。これを笑わずに、正当に評価してくれる人間にね」
そう言って佐藤は加賀山に微笑みかける。加賀山はさらに体温が一度上昇したような気がした。
*
佐藤が回想モードに入っている間に、戦は全部読み終えていたらしい。机の上に書類を置き、難しい顔をしていた。
「佐藤、これは一体何だ」
「ああ、こいつは文部科学省が主催する『中学生・夢コンテスト』の応募作品だよ。私が主担当になって進めているもので、全国の中学生から送られてきた作品のひとつだ」
「中学生の夢? それにしては妙にリアルだが」
「それはそうだ。なぜなら最優秀賞に選ばれた作品には国の予算がついて、実現に向けたサポートが受けられることになっているからな」
「ふむ、それでやっと理解できた。要するに、お前はこれが実現可能かどうかを俺に聞きたいのだな」
「そうだよ。理解が早くて助かる」
「ふん、当たり前だ。誰に物を言っている」
戦は面白くもない冗談を聞いたような顔をしてから、真顔に戻って言った。
「実現可能だ」
「おいおい、いきなり即答かよ。前提条件とかつけなくていいのか」
「俺に聞きたいのは理論的な実現可能性の話じゃないのか? その点だけで言えば、難しい点は何もない。彼らが書いている通り、実際にある物理現象の模倣であり、材料はどこにでもあるもので十分賄える。難しいのは――」
戦の白い眉間に皺がよる。
「――費用と大人達の協力だな」
「お前もそう思うか。それで一体いくらかかると思う?」
「いや、それが俺にもまったく見当がつかない。そういう現実的な実務の世界には疎いのでね。だから、助けを呼ぼうと思う」
そう言うや否や、戦は目の前にある端末を操作し始めた。無料の通信ソフトを立ち上げると、登録されていた番号に速やかに接続する。
相手を呼び出しているらしい電子音がしばらく端末から聞こえ、そして急に画面全体に顔が映し出された。
眠そうな顔をした女性。
長い金髪が少し乱れて顔にかかっている。細く開けられた瞳はアイスブルー。肌は透き通るように白く、唇は別な生き物のように赤い。
画面から見える部屋は暗く、彼女は胸元が大きく開いた薄い布地を身につけているだけだった。人形めいた可憐さと胸の谷間の急峻さがアンバランスで、佐藤は目のやり場に困る。
しかし、戦はまったく躊躇せずに言った。
「ウェンディ、ちょっと助けて欲しい」
ウェンディと呼ばれた女性は、しばし目をこすっていたが、戦の言葉が脳に到達した途端、目を大きく見開いた。
顔が赤く色づき、満面の笑みを浮かべる。まるで天使のような微笑み。陳腐な喩えだが、佐藤の頭にはそれしか浮かばなかった。
彼女の唇が開く。
「なんや、キシンはん。えろう水臭いやないか。わしとあんたの仲や、遠慮なんかせんでええがな。で、何すればええの?」
日本語、しかもおっさん臭い関西弁が彼女の口から飛び出した。
*
戦の話を聞いたウェンディは、顔を下に向けて黙り込んだ。
当然の反応だと佐藤は思う。戦や加賀山は彼の知り合いであり、その性格をよく理解していたから「この話をしても大丈夫だ」と信じることが出来たが、普通の人間にはこんな話は受け入れられないだろう。
ましてやウェンディは外国人である。日本の中学生の夢に付き合う必要はない。しかも、部屋の様子から考えるに向こうは真夜中である。となると、アメリカあたりだろう。
こんな時間にたたき起こされて、その上こんなおかしな話を聞かされたのでは、普通の人間なら怒り出しても当然である。
ウェンディが顔を上げた。
「キシンはん。ほんまにこれはおもろいわ」
彼女もまた普通の人間ではなかった。
「確かにこれはキシンはんの言う通り実現可能や。理論的な問題はいっこもあらへん。で、わしに実現するための費用を見積もれということやけどな――」
彼女はそこで微笑んだ。佐藤が思わず顔を赤らめるほど、可憐な笑みだった。
「――そいつはえろう高くつきまっせ。ただではあきまへんなあ」
しかし、言うことは関西商人である。落差が激しすぎて佐藤はついていくのがやっとだ。
ところが戦は顔色も変えずに言った。
「もちろんだ。ただでとは言わないが、何をすればいい?」
「何でもよろしいのでっか?」
「常識の範囲内であれば」
「そうでっか。せやなあ――」
ウェンディは右手の人差し指を頬に当て、右腕の肘を左腕で支える格好で、小首を傾げた。その愛くるしい仕草と言葉のバランスがまったくとれていない。
しかも、胸の下に左腕があるものだから、薄布の下にある豊満な胸が押し上げられている。非常に嬉しい――いや、心臓に悪い光景だった。
ウェンディは急に顔を赤らめて言った。
「――そんなら、今度学会でおうた時にデートしまひょか」
「了解した」
「……ほんまでっか」
「本当だ」
途端にウェンディの笑顔がはじける。これ以上の幸せは考えられない、という表情。
「よっしゃ、商談成立や。ちょいと時間をもろうてええですか。明日には連絡しますさかい」
「それで構わない」
「いやあ、こいつはええ話や。今からさっそく取り掛かりますよって、ほな、さいなら」
映像が切れる。佐藤の瞳にウェンディの嬉しそうな顔が残像として残った。
佐藤は大きな溜息をつく。
「お前、今のは一体誰なんだよ。私は全然面識がないから、大学関係じゃないよな」
「佐藤、お前は文部科学省のキャリアの癖に、ウェンディの顔を見たことがないのか」
「ないよ。一度見たら忘れられないほどの美人じゃないか。それに文部科学省と何の関係があるんだよ」
佐藤の興奮した言葉に、戦が冷静に応じる。
「彼女の名はウェンディ・マコーリー。イギリス出身で今はアメリカに在住しているNASAの技術顧問だよ。年は俺達と同じ。そして最新の『ネイチャー』に写真が載っていた。小さいけどな。文科省のキャリアなんだから『ネイチャー』ぐらい読めよ」
佐藤は想定外の回答に唖然とした。
「……マジ?」
「嘘をついてどうする」
「あれで三十二か? いや、問題はそこじゃなくて、なんでお前がNASAの技術顧問とお友達なんだよ。それにお前は人から『キシン』と呼ばれるのを嫌がっていたじゃないか。どうして彼女はOKなんだよ」
「外国人には『ヨシノブ』という発音が難しいからだ」
「ああ、そうかい。じゃあそれは許すとしよう。ところで、完全に向こうはお前に惚れてるじゃないか。一体どういうことなんだよこれは」
「うるさいなあ。それより、面倒な約束をしてしまったものだ。彼女とデートとはね」
そう言って困惑する戦の顔を見ながら、佐藤は右の拳を握り締める。
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