第一章 子供の領域

第一話 発端

 半世紀という膨大な時を使って努力しても、結局のところ我々は愚行をやめることが出来なかった。

 多くの血が流れ、多くの命が失われ、多くの悲しみが生み出される状況を、過去のものにすることが出来なかった。

 それでも私は、次の点だけは胸を張って言うことができる。

「あの夢のおかげで、我々はこの間、最悪の事態に陥ることだけは避け続けることができたのだ」と。

(スティーブン・アンダーソンの回顧録より抜粋)


 *


 雄太の様子がおかしいことに最初に気がついたのは、翔平だった。

「あいつ、何か悩みがあるのに、それを俺達に隠しているんじゃないかな」

 十月始めの昼休みの教室。

 生徒達はあちらこちらで群れをなし、他愛のない会話をしていた。

 最後方の窓際にある康一郎の机の上に腰を下ろしながら翔平がそう言ったので、百七十センチを超える長身を窮屈そうに椅子に収めていた康一郎は、腕組みをしながら細い目を上に向ける。

「そうか? 俺には全然分からないけど、翔平がそう言うからには間違いはなさそうだな」

「ああ、普段は顔に出さないようにしているけど、絶対に何か隠している。雄太とは長い付き合いだから分かるんだ」

「何かって、どんなことなの?」

 康一郎の右隣の席に座っていた綾香が翔平に訊ねた。大き目の色素の薄い瞳が、眼鏡の下で心配そうに見開かれている。翔平はその彼女の表情に少しだけ動揺しながら、言葉を続けた。

「そ、それは俺にも分からないよ。ただ、家の関係ではないと思う。そんなことなら俺に隠したりはしないはずだから」

 康一郎と綾香は目を見合わせた。

 確かに翔平の言う通りである。いくらなんでも翔平の家より面倒なことにはならないはずだから、雄太がそれを翔平に黙っているはずがないし、むしろ積極的に話すだろう。

 ――そのほうが翔平の気が楽になるはずだから。

 そう二人は考えたが、もちろん翔平には言わなかった。翔平も二人がそう考えていることを承知しているから、殊更に説明はしない。


 ただ、場の雰囲気が少し重くなりすぎたので、康一郎はいつもの通り方向修正を図る。

「となると、好きな子でも出来たのかな」

「えっ、そうなの?」

 綾香が慌てた声をあげたので、翔平は苦笑した。

「違うよ。それだったらやっぱり俺には話してくれると思う」

「そうだよな。お前達は幼馴染だもんな。でもさ、例えば翔平に好きな女の子がいて、同じ子を雄太が好きになったんだとしたら、さすがにお前には話さないんじゃないかな」

「えっ?」

「馬鹿言え。そんな話を雄太とした覚えはない」

 綾香がまた慌てた声を出し、翔平が顔を赤らめて即座に否定する。

「ごめんごめん。今のは冗談だって」

 野球部員らしい坊主頭を撫でながら、康一郎は申し訳なさそうな顔をした。綾香と翔平は怒ったような顔をしつつも、

 ――康一郎だから仕方がないか。

 と諦める。それに、彼のその軽いノリに助けられることは多かった。


 康一郎は日に焼けた四角い顔を少し引き締めると、それでも暢気な声で話を続けた。

「となると厄介だな。家の問題でもなければ、恋愛関係でもない。成績は相変わらず上位で、特に下がったわけではない。裏でいじめにあっているということもない」

「もちろんだ。いじめなんか、見つけたら俺が即座に叩き潰している」

 翔平が真面目な顔で言い切る。茶髪を短く刈りそろえた彼が、さらに目を細めて言い切ると迫力がある。

「だよな。するとどうなる? 何も残らないぞ。綾香、何か他に思いつくところはないか?」

 康一郎から話を振られた綾香は、右の拳を口元にあてた。考え事をする時の彼女の癖である。

 肩のところで揃えた真っ直ぐな彼女の黒髪が、換気のために開けられた窓から入り込んでくる風で、僅かに揺れていた。秋の匂いを含んだ風だった。

「うーん。それじゃあ身体の具合がちょっと悪いとか。でも、それなら翔平君に素直に話すよね。体育の授業の時もその様子はなかったから、これは違うかな。後は、思春期に特有のぼんやりとした不安とか。これは雄太君に限ってありえないだろうし。彼はたまに面白い発想をするけど、基本はとても現実的だと思う。そうすると、高校進学のことで何か考えていることがあるとか。まだ中学二年だから早すぎるけど、雄太君は先のことを前もってよく考えるほうだから、これはあり得るかもしれない。でも、そんなに選択肢があるわけじゃないよね。となると――」

 すらすらとそう答える綾香に、翔平と康一郎は目をみはる。綾香の思考はいつもながら繊細で思慮深い。

 彼女はさらに続けて言った。

「――誰か他の人のことを心配しているとか。これならば彼らしいと思う」

「でも、それだったらやっぱり俺に相談してくれるんじゃないか」

 翔平が疑問を投げかけたので、綾香はやんわりとした声でそれに答えた。

「でもね、翔平君の解決方法は基本的に実力行使だから、それでは不都合なケースじゃないかな」

「ああ、それはあるかもね。翔平に話すとぶち壊しになるとか」

「ああ、悪かったよ。俺は確かに口より拳のほうが先に出ますよ」

 翔平がそう言って横を向いたので、康一郎と綾香は顔を見合わせて微笑んだ。

 彼があえて損な役回りを買って出ていることを、二人は承知していたからだ。

「そういう意味じゃないよ。雄太君は翔平君のことをよく分かっているから、あまり無理をさせたくないんだと思うよ」

 そう綾香がフォローし、

「そうそう。そしていよいよ手に負えなくなった時に、最初に相談する相手は翔平だろうしな」

 と、康一郎も翔平の自尊心をくすぐる。

「まあな」

 翔平は即座に気を取り直して胸を張った。その分かりやすさと率直さが翔平のよいところである。

「でも、結局のところ雄太君が何を心配しているのか、全然分からないよね」

 綾香が首を傾げると、頭の左側につけた髪留めが光を反射して輝いた。


「そうだよな――」

 そこで翔平は、康一郎より頭ひとつ分低い身体で軽々と机の上から飛び降りると、立ち上がって右の拳を左の掌に勢いよく叩きつけた。

「――じゃあ、本人に直接聞くとするか」

 康一郎と綾香は、

 ――だったら最初からそうすればよいのに。

 と思ったが、もちろんそれを口に出すことはしなかった。ただ苦笑しただけである。


 *


 放課後。

 教室で三人に机の周りを囲まれ、翔平からその話を切り出された時、雄太は即座に謝った。

「あ、気づかれていたんだ。心配かけてごめん」

 それはもう見事なほどの素直さである。昨日一晩かけて理由を考え続けていた翔平は、大きく肩を落とした。

「お前さあ、悩み事があるんだったらさっさと俺に教えてくれればいいじゃないか」

「いや、悩み事というほどのものではないんだけどね。しかも、部活のある康一郎まで一緒にいるとは」

 雄太は自然に癖がついた長めの髪を掻き乱しながら、申し訳なさそうに言う。

「本当はもう少し形になってから話そうと思っていたんだけど、仕方がないなあ」

「お前の回りくどさには慣れているから、好きに話せよ」

 翔平は溜息をつき、やれやれという顔をする。雄太はその翔平の姿を見て微笑むと、話を始めた。

「僕達、もう中学二年じゃないか」

「そうだが、それがどうした」 

「来年は中学三年で、受験準備をしなければいけないよね」

「そりゃ当然そうなるな」

「そうなると、四人とも別々の道を進むことになると思うんだ」

「まあ、そうだけど――お前、それが寂しいとか言い出だすんじゃないだろうな」

「まさか、さすがに早すぎるよ」

 テニスのラリーのように雄太と翔平の会話が続いてゆく。

 そして、彼らが真面目な話を始めた時、康一郎と綾香は話を振られない限り口を挟まないようにしていた。そのほうが話が早いからである。

 雄太の回りくどい話に翔平が短くツッコミを入れることで、一定のテンポが生じるらしい。

「じゃあ、何が問題なんだよ」

「僕達、小学校からずっと一緒だったよね」

「そうだけど。田舎の学校なんだから、クラスの全員がそうじゃないか。別に珍しくもないだろ」


 彼らが住んでいるのは宮城県の名取市という町で、仙台市のすぐ隣にある。

 仙台への通勤可能範囲内なので、町の大半が仙台に通勤する世帯の住宅で埋め尽くされており、山の斜面すらも大規模な開発により住宅地と化していた。

 ただ、宅地開発がひと段落してしまうと住民数が増加することはなくなり、むしろ減少傾向にある。最盛期に細かく分割された公立の学校は、大きすぎる施設をもてあましていた。

 彼らが通っている名取第四中学もその一つである。

 昔ながらの集落と新興住宅地の狭間に作られた学校で、生徒はそのいずれかの集団に帰属している。雄太と翔平は集落、康一郎と綾香は新興住宅地の出身だ。

 私立校が進出する規模の町ではないから、中学校までは公立の学区通りに通学することになる。途中で転校してきた者を除けば、幼稚園から顔ぶれは一緒だ。


「だからだよ」

「だからって、何だよ」

「僕と翔平は家が近所だから、幼稚園よりも前から顔見知りだっただろう」

 そこで雄太は康一郎と綾香のほうを向いて話を続けた。

「康一郎とは小学二年の時に翔平と大喧嘩してから仲良くなったし、綾香も同じ時期に海外から引っ越してきて、いじめにあいそうになったところを翔平が助けたのが縁だよね」

「ま、まあ、そうだったな」

 翔太が顔を真っ赤にして頷く。

「僕はその横に立っていただけで、こんなに凄い友達が出来た。それは翔平にいくら感謝しても感謝しきれない」

 雄太が落ち着いた声でそう言うと、翔平の顔がさらに赤くなった。彼は褒められることに慣れていない。

「でも、その関係が中学で終わってしまうんだ」

「終わるって――それは大げさじゃないか? 別にその後もあって話ぐらい出来るだろう?」

「でも、今よりは不便になる。例えば、康一郎はスポーツ推薦狙いだよね」

 話を振られた康一郎は、にやりと笑ってから言った。

「まだ中学二年だから確定じゃないけどね。ほぼ確実と顧問には言われているよ。高校の野球部には内々に打診しているそうだから、後は中学生大会で実績作れば終わり」

「康一郎のことだから、実績は全然心配じゃない。風邪を引いていても、そんなの大丈夫だよ」

「馬鹿は風邪をひかないけどな」

 康一郎は胸を張って身も蓋もないことを断言した。ただ、他の三人は彼が言うほど馬鹿ではないことを知っている。練習のほうに時間を割きすぎているだけのことだと理解していた。

「綾香は清進狙いだよね」

「うん、そうだけど……」


 平成までは公立進学校が優勢だった仙台の高校事情も、年号が変わって以降に進出した私立高校の躍進により、大きく勢力地図が変わってしまった。

 ナンバースクールと呼ばれた高校こそなんとか生き残っていたものの、女子高のトップには私立の清進女子学院が君臨している。

 周辺からも進学希望者が集中するため、寮も完備しているという念の入れようで、他の追随を全く許さなかった。

 成績トップの綾香は、そこへの進学を親と教師から薦められており、模試の成績も合格確実圏内にある。


「綾香ならば清進でも十分やっていけると思う。それどころかトップレベルの成績優秀者になれるだろう。僕がそれを保障しても意味はないけどね」

「……」

 綾香は雄太の言葉に微妙な顔をする。

「僕と翔平もとうとう離ればなれだよ。平日夜か休日しか顔を合わせる時間はないよね」

「今までが近すぎたんだよ」

 翔平は平然と受け流す。実際は康一郎や綾香の話との違いを認識しながらも、そのように切り替えた雄太の機転を尊重した。雄太と翔平では成績が天と地ほども違う。

 このままでは仙台から遠ざかるほうの電車で通学することになるだろうと、先生からは言われていた。

「でも、それで縁が切れるほど、俺とお前の関係は細くないと思う」

 翔平の言葉に雄太は軽く頷き、それからゆっくりと言った。

 

「僕は四人が揃ったことの意味を考えていたんだ」


 その言葉を聞いた三人は顔を見合わせた。さすがの翔平も咄嗟に言葉が出ない。

 唖然としている三人を穏やかに見つめながら、雄太は話を続ける。

「この四人のうちの一人でも欠けていたら、僕達はこんなに楽しい学校生活を送れなかったんじゃないかなって思うんだ」

 それでやっと他の三人も話が飲み込めた。言葉は違うが、他の三人もほぼ同じようなことを考えていたからである。

「そもそも、翔平がいなければ四人が仲良しになることはなかったよね。君は躊躇わず、包み隠さず、相手に正面から向き合おうとするから、結果として人の輪が広がったんだ」

 雄太の言葉に康一郎が思わず噴き出した。翔平が尖った目で康一郎を睨む。

「なんだよ、康一郎。今のは笑うところじゃないだろ」

「いや、雄太は上手いこと言うなあと思って。喧嘩っ早いを言い換えると、『躊躇わず、包み隠さず、相手に正面から向き合おうとする』になるんだな」

「うるせえ」

 雄太はそんな二人のやりとりには関与せず、今度は康一郎に向き直る。

「康一郎はそうやって全体のバランスを整えるのが上手だよね。君がいると場がとても明るくなるし、なによりも会話が前向きになる。重い話題の時、そのことにどれだけ助けられただろうか」

「お調子者を言い換えると、『全体のバランスを整えるのが上手』になるのか?」

 翔平がそうやり返したので、康一郎はまた坊主頭をなでる。

「うちは家族が多いし、俺は末っ子だからさ、どうしてもキャラクターがそうなるんだよね」

「集団の中でこそ生かされる能力だと思う。そして綾香」

 雄太は綾香を見つめる。

「君は僕達の視野をいつも広く保ってくれた。視点を変えて、あえて逆の立場から考えてみることが出来るようになった。加えて、相手の気持ちを考えての意見は凄く役に立った」

「そんなこと――別に私は何もしていないよ。ただ考えたことをそのまま言っているだけ」

「謙虚なところも凄いと思う。それに、クラスの他の人が協力してくれるのは、綾香がいてくれるおかげだと思う」

「このクラスは素直な人が多いから」

 綾香は下を向くと、顔を赤らめてもじもじする。

「それでも、綾香だからみんなが話を聞いてくれんだと思う。翔平が集め、康一郎がまとめて、綾香がつなげるんだ。それぞれがうまく組み合わさっている」

 雄太は、いつものぼんやりとした視線を教室の中に向けた。四人の他に人影はない。

「他の人がいるところで言うと傲慢に聞こえるので、これまで話したことはなかったけど、クラスがまとまっているのはこの四人がいたからだと思う」


 幼稚園から中学校まで、ほぼ同じ顔ぶれで性格も自宅の場所も大体わかっている。それでも、いじめなどの問題は起きるもので、上や下の学年ではそのような問題が発生していることを四人は知っていた。

 ところが、彼らの学年は非常によくまとまっている。

 綾香が転校してきた際に、抗原抗体反応のようにいじめが起きそうになったが、それを翔平が芽の段階で叩き潰した。

 さらには康一郎が他の同級生との間を上手くつないで、綾香が早いうちにクラスに溶け込めるようにした。 

 他にも同じような例はあったが、翔平が叩き潰して康一郎が後始末をする分担に変わりはなく、さらには綾香が常に意見調整をして不満の種を摘み取っていったので、クラス全体がまとまっていた。


「いや、君たち三人のおかげかな。僕は特に何もしていないからね」

 雄太はそう言って笑ったが、聞いている三人は同じ思いを共有していた。

 確かに雄太は表立って行動することをしない。いつもぼんやりとした顔でクラスの中を見つめており、授業中に発言することも稀である。

 しかし、他の三人は雄太の存在がどれだけ大きいのかを理解していた。自分達が行った行動を雄太はいつも見ていた。そして、

「翔平、ご苦労様。いつも憎まれ役ばかりですまない」

「康一郎、いつもながら場を楽しくしてくれて嬉しいよ」

「綾香、あの意見はすばらしいと思う。よく気がついたね」

 と、的確な評価をしてくれるのだ。その言葉が聞きたくて彼らはクラスの牽引役を引き受けているといっても過言ではない。


 翔平が溜息をつきながら言った。

「雄太、お前は本当に黒幕体質だよな。その、英語では何と言うんだったっけ、綾香」

「ワイヤー・プラーだよ」

「そうそう、それそれ。裏で糸を引いているのはお前だろ」

 そう言われて雄太は微笑んだ。

「それでやっと本題に入るんだけれど、僕もそろそろ表で何かやりたいと思っていたんだ」

 その言葉に三人は驚いた。

「おい、雄太。まさかお前の悩みって」

 前傾姿勢で詰め寄る翔平を、雄太は両手を挙げて制止する。

「だから、悩みじゃないんだって。中学最後の思い出作りとして、この四人で何かやってみたいなと思って、その企画を考えていたんだよ。今から始めないと受験の前に終わらないからね」

「思い出作りって、具体的に何だよ。学校の校庭にタイムカプセルを埋めて、何十年か後で全員で集まって掘り起こすとか、そんなことか」

「違うよ。それじゃあたいした手間もかからずに、すぐに終わってしまうじゃないか。もっと大きなことをしたいんだよ」

「大きなことって何だよ。余計に分からないぞ」

「それが、さっきまで全然思いつかなくてさ。考え込んでいたところを翔平に見咎められたんだよ」

「だったら相談してくれてもよさそうなものじゃないか」

「それは……こういうものは突然発表して驚かせるのが楽しいんじゃないかな」

 そう言ってにこにこ笑う雄太を見て、翔平は全身の力が抜けた。

 ――そういえばそういうやつだった。

 考えてみれば翔平の誕生日の時に、雄太はなにがしかサプライズを仕組んでいた。心配するだけ損な男である。

 うなだれている翔平の隣で、綾香が急に声を上げた。

「あ、雄太君。今、『さっきまで思いつかなかった』って言わなかった?」

「言ったよ」

「ということは、思いついたってことだよね」

「うん、そうだよ」

 そう答えた後、雄太は自分の鞄を取り出した。中には他の生徒と同じように、筆記用具とノート、それにタブレット端末が入っている。


 教科書が電子書籍として配信されるようになってから随分たつ。

 毎年更新されて全学年の生徒に新たに配布されるものであり、その手間は膨大であったから、端末が一般的になった時に切り替わった。

 家庭の事情で端末を購入できない生徒には学校から貸与されるようになっていたので、昔のように教科書で鞄が重くなることはない。

 簡単なメモをつけることも可能なのでノートすら使っていない生徒もいたが、雄太はその点は保守的で、自分の手で書かないと落ち着かない性分である。


 彼は自分の端末を取り出すと、それを机の上において起動スイッチを押した。オペレーションシステムが起動したところで、学校のイントラネットにアクセスする。

 トップページが表示されたところで、最新のお知らせ欄に移動した。

「これなんだけど」

 雄太が指差す先に三人の視線が集中する。そこには、


「中学生・夢コンテスト 作品募集開始」


 という文字があった。

 雄太がその文字をクリックすると、ページが変わる。

「今日の昼過ぎに配信された最新の記事だよ。中学生を対象にして、夢を現実化する手助けをするのが目的らしい。最優秀賞をとった作品は、国の予算がつくそうだ」

「ええと、その、例えば康一郎が『大リーガーになりたい』という夢を応募したとすると、それを国が助けてくれるということなのか」

「そういうことだね、翔平。まあ、個人的な夢の場合は『自分で頑張れ』と言われそうだけど」

「四人でアイデアを出して、これに応募しようということなのかな」

「その通り。僕たち四人で知恵を出し合えば、面白いアイデアが浮かぶと思うんだ」

「いやあ、俺と翔平は肉体派だから、この手のものはどうかなあ」

「むしろ、頭で考えた広がりのない夢はよくないと思うよ。夢だけれど現実に根ざしていて実現可能性があって、それでも今まで誰も考えたことがないような夢、というのが理想なんだ」

「お前、今さらっとハードルを上げたな」

 翔平が雄太を睨む。しかし雄太は動じることなく笑っていた。

「僕たち四人で考えたアイデアなら、きっとそうなるよ」

 三人は顔を見合わせた。そして、一様に同じことを考えていることを悟る。

 ――駄目だ。こうなるともう雄太は止まらない。

 一度やると決めたことを雄太は決して曲げない。それはいつものことだった。

「締め切りはいつだろう」

 すばやく頭を切り替えた綾香が、もっとも重要な点を確認すべく行動を起こす。

「あった。十一月三十日必着だから、あと二ヶ月ないね」

「まずはアイデアを出し合って、そこから応募作品を決めて、肉付けをしているとぎりぎりになるんじゃないかな」

 雄太は涼しい顔でそう言った。

「分かった。でも、今すぐに何かアイデアを出せと言われても無理だから、時間をくれ」

「翔平ならそう言うと思っていた。じゃあ、三日後のお昼休みにアイデアを出し合うのでどうかな」


 *


 三日後の昼休み。

 まず翔平が、いきなり弱音を吐いた。

「ごめん。真面目に考えてみたんだけど、全然思いつかなかった」

 その様子を見て雄太がにっこりと笑う。

「そうなんだ。でも、ちゃんと考えてくれて有難う」

「役に立たないんだから礼を言われてもなあ」

 雄太の言葉に翔平は頭をかく。


 綾香はその様子を見つめながら微笑んだ。

 翔平の率直さは非常に好ましい。彼は行動から短気で飽きっぽいと思われがちだが、やらなければならないことは最後までやるタイプで、その彼が「真面目に考えた」というのだからそうに違いない。

 ――それに、夢どころではないんだろうな。

 翔平を取り囲んでいる現実が過酷であることは、綾香も承知していた。その中で夢を見ることは、彼にとって難しいに違いない。

 それは、決して見下しているわけでも哀れんでいるわけでもない。客観的な事実として綾香はそう考えたに過ぎない。

 それに、雄太も同じことを考えているのだろう。だから、その努力を褒めて、それ以上の無理強いはしなかったのだ。


「じゃあ、康一郎のアイデアから発表してもらおうか」

 雄太は即座に康一郎に話を振った。これは、翔平の背景にこれ以上意識をあわせないための配慮だろう。

「ほいきた。じゃあ、俺の考えたプランを見てくれ」

 康一郎もその切り替えに即応する。彼は鞄の中から一枚の紙を取り出して、それを机の上に置いた。それには、いかにも彼らしい黒々とした大きな字で、


「全国のお雑煮を食べてみよう!」


 と書かれている。それを見た綾香が噴き出し、雄太と翔平は唖然とした。

「あはは、康一郎君らしいよね」

「そうだろう。俺が思いつく夢といえば運動方面か食欲方面しかない。そして、正月のときにお袋が『宮城のお雑煮はいくらが入っていて贅沢だよね』と言っていたのを思い出した。それでこうなった」

 康一郎は清清しいほどに言い切る。それで余計に綾香は笑った。

「お前さあ、この間の雄太の話を聞いていなかったんじゃないか。実現可能性があって、今まで誰も考えたことがないような夢、と言ったと思うんだけど」

「実現可能性ならばっちりじゃないか。しかも、日本全国を巡り歩いて雑煮が食えるんだぜ。途方もない夢じゃないか」

 あくまでも康一郎は自信満々である。そこで、やっと笑いを抑えることに成功した綾香が口を挟んだ。

「これね、多分もう既にやっている人がいるよ。そういう本を見たことがあるし。それにこれは夢というより欲望だよね」

「あ、そうなんだ。しまった、先を越されていたんだ。それじゃあ駄目だよな」

 康一郎は残念がりながらも、即座に紙を鞄に戻した。彼は引き際が鮮やかで、後に嫌な感じを残さない。


「じゃあ、続いて綾香のアイデアを教えてくれないか」

 雄太にそう言われた綾香は、タブレット端末を取り出した。電源を入れてプレゼンテーションソフトを立ち上げると、作成途中の文書を呼び出した。

「今回の企画の目的を整理してみたんだけど」

 表示された文書には大きな丸が三つ描かれており、その中に文字がある。

「まずは中学生の夢としてふさわしいものであること。これは重要だよね。変に大人っぽい夢だとおかしいんじゃないかな」

「まあ、そうだよな。会社を作りたいとか言ったら、ちょっとおかしいもんな」

「そう、翔平君の言う通りだよね。それから、実現可能であるという点。夢だから荒唐無稽でも構わない、という訳にはいかないよね」

「それに、この間の翔平の例えじゃないけど、これは個人の努力次第でなんとかなる、というのも違うよな」

「そうなんだ。康一郎君の大リーガーになりたいという夢を、国が後押しするのもおかしいよね。他にもそうなりたい人は一杯いるだろうし」

「いやあ、別に俺は大リーガーになろうとは――ちょっとだけ思っているけどね」

 康一郎のいつもの台詞に、他の三人は微笑む。

「それでね。三つ目なんだけれど、今まで誰も考えたことがない、という点。これが一番の難関だと思う」

 四人は綾香が整理した図を見つめた。

「いつもながら綾香の整理はすごいなあ。こうしてみると、いかに今回の企画が無茶なものかよく分かる」

 翔平が腕を組んで眉をひそめる。

「そうなんだよね。ここまで整理してみて私もそう思ったんだ。だから私も具体的なアイデアが何も浮かばなくて。例えば、最近大人気の女性考古学者が世界の不思議を解き明かす映画があるじゃない?」

「ああ、『シンディ・ジョンソンの不思議な冒険』か」

「そう。それと似たようなもので『日本史の不思議を解き明かす』というアイデアを考えたんだけど、誰も今まで考えつかなかったような不思議って、中学生の私達には思いつかないよね」

「まあ、そうだよな」

「専門家が考えたこともないようなことって、結構難しいと思うんだ。だから途中で断念しちゃった。翔平君と一緒だよね」

「いやあ、俺はここまで論理的には考えなかったけどね」


 そして三人は雄太を見つめた。

「おい、雄太。この条件をすべて満たすアイデアを何か思いついたのか?」

 翔平は期待を込めてそう言った。

 雄太はいつもの通りの茫洋とした顔で言い切る。


「うん、思いついたよ」


 その力みの全くない言葉に三人は驚く。

「まじかよ! 早く教えろよ!」

 翔平の勢いを笑顔で受け止めると、雄太は話を始めた。

「綾香の整理はすごく的を得ていると思う。中学生らしく、実現可能性があって、今まで誰も考えていないことなんて、そうそうあるものじゃないよね。そんなの大人の妄想みたいなもので、期待値が高すぎると思う。だから僕も最初のうちはなかなか考え方がまとまらなかった。でも、諦めかけていた時に翔平の言葉を思い出したんだ」

「俺の言葉?」

 翔平は怪訝な顔をした。

「俺、別に夢の話なんかお前にした覚えはないぞ」

「夢の話じゃないよ」

「じゃあ、何の話だよ」

 翔平が珍しく雄太の回りくどい話にじれた様子を見せる。それは康一郎と綾香も同じで、この先の見えない話がもどかしくて仕方がない。

 しかし、当の雄太はマイペースなままで、こう言った。

「この間、コンテストの話をする前に翔平が言ったじゃないか。中学校の庭にタイムカプセルを埋めて、何十年か後で全員で集まって掘り起こす話だよ」

「へっ?」

 翔平は呆気にとられた。康一郎と綾香も想定外のことに言葉を失う。

「言ったけど、確かお前はあの時、手間がかからないので駄目だって言わなかったか?」

「言ったよ」

「それがどうして今回のコンテストの話に結び付くのさ」

「それをこれから話そうと思っているんだ」

 そう言いながら雄太は、一枚の紙を机の上に取り出した。


 *


 雄太の話を聞き終わった後、三人は押し黙った。

「というアイデアなんだけど、どうかな」

 雄太だけが相変わらずマイペースである。

 翔平が腕組みをして、目を閉じたままで言った。

「その、確かに夢ではある。そしてこんなことを真面目に考えたやつは多分いないだろう。というか、お前、どうしてこんなことを思いついたんだ?」

「そうだよ。タイムカプセルからこの発想は出ないと思うよ。それに中学生の夢というには壮大すぎるような気がする。どちらかというと中二病と思われそうなぐらいに」

 綾香はすっかり困惑した顔で翔平に同意する。

「雄太、俺もこのアイデアは面白いと思うんだけど、ひとつだけ問題があるよな――」

 めったに人の意見を否定しない康一郎が真顔で言った。

「――これ、本当に実現可能なのか?」

 雄太は三人を見つめながら言った。

「それは僕にも分からない。専門家じゃないからね」

「お前、それは無責任じゃないか?」

 翔平も珍しく雄太に厳しい言葉を吐いた。

 しかし、雄太は顔色を変えることはなかった。

「責任を持って実現可能性を断言することはできない、という意味だよ。これは実際にある物理現象だから、火星に人が常駐しようとしているこの時代に、絶対に無理とは言えないんじゃないかな」

 三人はその言葉を受け止めて、おのおの考え込む。

 雄太は窓の外に広がる美しい夕焼けを眺めながら、話を続けた。

「ただ、このアイデアは他にもひとつ問題があるんだ」

 三人が顔を上げて雄太を見つめる中、彼は淡々とした声で言った。

「国の予算がつくとはいえ、それが一体どれだけかかるのか見当もつかない、という点だよ。仕掛けは単純なんだけどね」

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