非日常の基礎知識

関根パン

エントロピー/entropy

 書店、と一口に言っても、種類はいろいろだ。


 いわゆる普通の本屋さんだって、個人で経営している店と全国的にチェーン展開しているような店とではだいぶイメージが違う。

 また、漫画やアニメ関係の書籍を中心に扱う書店など、特定のジャンルに特化している書店もある。

 ほかには、中古の書籍のみを扱う店もあれば、ネット上でのみ販売を行っているような書店だってある。

 さらに、書店と言いながらほとんどスーパーマーケットのような機能を備えている販売店だって存在する。

 そのどれもが「書店」という言葉一つで表現できてしまう。


 言葉の定義なんてものは実に曖昧で、だからこそ便利なのだろう。


糾史ただしさん」


 俺の隣に立っていたエプロン姿の女の子が、俺の名前を呼んだ。


 エプロン姿というと妙にいやらしいけれど、ちっともそういうエプロン姿ではない。

 深いココア色の布地に「日吉ひよし古書店」というロゴが入った、しごく地味なエプロンだ。もちろん、その下は裸などではなく襟付きのシャツとジーンズをきちんと身に着けている。


「暇ですね」


 地味エプロンを着た関村せきむら詩歩しほはため息まじりに言った。

 エプロンこそ地味だが、明るい栗色の髪をした詩歩ちゃんは決して地味ではない。

 ぱっちりした目と、鼻筋の通った顔、そして、エプロンごときでは隠し切れないというかむしろエプロンで強調されちゃっているスタイルの良さは、さびれた書店には似つかわしくない華であふれている。


「暇だな」


 他に言うべき言葉もなく、俺は芸のないコメントを返した。


 俺のじいさんが経営している日吉古書店は人通りの少ない通りにある。

 客は大変少ない。

 時間帯によっては通りかかった人が「ちょっと入ってみようかな」と中を覗いて「なんだ今日は定休日か」と勘違いして帰ってしまうくらい少ない。


「わたし、忙しいバイトっていやだなあと思って、ここのバイト選んだんですけど――」


 つまり、うちは閑古鳥が鳴いてるから楽そうだと。


「――何もしないで立ってるだけっていうのも、結構しんどいですね」


「まあな」


 たしかにしんどい。


 だが俺としては、かわいい後輩バイトと二人きりで過ごせる時間ということもあり、決してしんどくはない。

 じいさんが年だから夕方だけ店を手伝ってくれと母さんに頼まれている俺には、実はバイト代が出ていないのだが、それでも欠かさず来てしまうくらいだ。


「糾史さん」


「何?」


「おもしろい話ありませんか」


 しんどい展開になった。


「詩歩ちゃん……。そう言われておもしろい話できる人なんていないよ」


 少なくとも一般人には。


「そうなんですか」


「そうだよ」


 詩歩ちゃんがこちらを困らせようとして「おもしろい話」を振ってきているのなら、俺は彼女を嫌いになるだろう。

 しかし、詩歩ちゃんは天然で、悪気はないのだ。だから許せる。


「なんでですか?」


「なんでって……。そうだな」


 俺はちょっと考えてから言った。


「詩歩ちゃん。うまい歌聴かせて」


 詩歩ちゃんはちょっと考えてから答えた。


「スーザン・ボイルとかですか? iPodとってきますね」


「ごめん。言い方間違えた。えっと、そうだな。一緒にカラオケに言った友達から『うまい歌歌って』って言われてマイク渡されたら、詩歩ちゃん嫌だろ?」


 詩歩ちゃんは即答した。


「嫌です。そんな子は友達じゃないですね」


 そこまで?


「そんなこと言われたらものすごいプレッシャーです」


「だろ? 『おもしろい話して』っていうのも、それと一緒だよ」


 俺の言葉に詩歩ちゃんは深く頷いた。


「なるほどですね」


 それから深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。わたし、ひどいこと言ってたんですね。どうか友達でいてください」


 友達っていうか一応先輩なんだけど。


「いや、あの全然、怒ってるわけじゃないから……」


 詩歩ちゃんは顔を上げた。


「よかったです。いつまでもずっと友達でいましょうね」


 友達以上になるチャンスもほしい。


「糾史さんって、人にもの教えるのうまいですね。お仕事の説明も、すごくわかりやすかったですもん」


「いやあ、別にそんな」


 心のニヤケっぷりが顔に出ないように注意しながら言った。

 実はこの店には大した仕事がないし、詩歩ちゃんの覚えが優秀だっただけなんだけど。


「そうだ、糾史さん。一つ教えてほしいことがあってですね」


「何?」


 なんでも聞きなさい、かわいい後輩よ。

 この頼れる糾史先輩が、きみの質問になんでも答えてあげよう。


「エントロピーってなんですか?」


 詩歩ちゃんは思いがけない言葉を口にした。


「……なんて?」


「エントロピーです。きのうお兄ちゃんが見てるアニメを横で見てたら出てきたんですけど」


 ほう。兄がいるのか。メモメモ。


「エントロピーっていうのが世界中には増え続けているんですって。このままだといつかエントロピーがいっぱいになって世界が滅んじゃうとかいうんですね」


 詩歩ちゃんは首をかしげながら言った。


「でも肝心のエントロピーがなんだかわからないからピンとこなくて。エントロピーってなんなんですか?」


 エントロピー。


 聞いたことのない言葉じゃない。

 マンガかアニメか。あるいはドラマか映画か小説か何かで、俺も見たり聞いたりしたことがあるはずだ。

 でも「説明してくれ」と言われたらわからない。何やら難しそうな科学っぽい言葉だっていうことがわかってるだけだ。


「何やら難しそうな科学っぽい言葉ってことだけはわかるんです」


 俺と詩歩ちゃんは同レベルだった。


「でも、どういう意味かはわかんなくて。糾史さん、わかります?」


 わかんない。だが、頼れる先輩としてここはこう答えねばなるまい。


「まあな」


「さすがです。で、エントロピーってなんなんですか?」


 困った。


 俺は頭をフル回転させて、それっぽい例文をとっさに五つほど考えた。

 

 一、人が生きるためには酸素・水・エントロピーが欠かせません。


 二、エントロピーの含有量が最も高い食品は意外にもエビ。


 三、エントロピーの方向性が違うので、俺らは解散します。


 四、ふっ、エントロピーできるのがお前だけだとでも思ったか?


 五、おめでとう! エントルはエントロピーに進化した!


 だめだ。混乱してよくわからなくなってきた。いや、そもそも最初からよくわかってないんだけど。


「どうしたんです?」


 どうしようか。

 詩歩ちゃんに間違った知識を与えるのは嫌だし。


「糾史さん。ほんとは知らないんですか? エントロピーのこと?」


 詩歩ちゃんが俺に疑いの目を向けている。


「そ、そんなことないって。い、一日十七回くらいは言ってるし」


「わあ、すごい。エントロピーマスターですね」


 何か言わなければ。


 頼れる先輩らしいところをアピールして、友達以上先輩以上になれる可能性を広げなければ、タダ働きしている意味がない。


「じゃあ教えてください」


 詩歩ちゃんが期待の目で俺を見ている。


 仕方ない。どうせ詩歩ちゃんもわかってないんだからなんでもいいだろう。俺は最も正解っぽい雰囲気を出している「一」の意味をとることにした。


「エントロピーっていうのは――」


「はい」


「人が生きるために――」


 ガラガラ入り口の戸が開く音がして、俺の声を掻き消した。


 客だ。

 ハンチングをかぶった中年の男が店に入ってきて、趣味と実用書の棚のあたりを物色しはじめた。


 なんていいタイミングで来てくれたんだ、客! いや、お客さま!


「いらっしゃいませ!」


 俺はふだん出さないような声でお客さまを出迎えた。


「いらっしゃいませ」


 詩歩ちゃんも客に笑顔で挨拶する。来客があるのにダラダラと私語を続けるような不届きな詩歩ちゃんではない。


 つまり会話はもう続かない。


 ありがとう、お客さま。おかげで難局は乗り切れました。

 二時間近く立ち読みなされただけで何もお買い求めにならずにお帰りになられやがったことも、お許しいたします。



 さて、しかしまずいことになった。


 救世主のような来客のおかげで、その場はなんとかうやむやにすることができたのだが、帰り際に俺は詩歩ちゃんと約束してしまった。


「先輩。あした詳しく教えてくださいね。エントロピー」


「お、おう!」


 店を出て行く詩歩ちゃんを見送ったあと、俺はすぐに携帯からインターネットにアクセスして「エントロピー」を調べた。


 検索窓に〝エントロピー〟と打ち込むと、WIKIやらまとめサイトやらけっこうな数のページが出てくる。

 よし。これで大丈夫だ。

 あしたにはめでたく、後輩からの羨望の眼差しをゲットだ!


 そう思いながらページの一つを閲覧すると、そこにはエントロピーの概要としてこう書かれていた。


「エントロピーとは、熱力学や統計力学において〝情報の乱雑さ〟〝でたらめの度合い〟を指標するために定義された状態量、情報量である」

 

 非常に困った。

 これ概要なの? 何も概してくれてないよ?


 きっとこれをこのまま詩歩ちゃんに話しても、羨望のまなざしはもらえないだろう。こんな文言を聞かされても、詩歩ちゃんはポカンとするだけだろう。


 なぜなら、俺が何度読んでもわからないからだ。



 次の日の朝。


 俺は通っている高校で、クラスの友人に聞いてみることにした。わからないことは他人に聞くのが一番だ。詩歩ちゃんがそうしているように。


「な、阿佐木あさぎ


 俺が声をかけると、机に突っ伏している天パ気味で小柄な短髪の男は、眠そうな顔でこちらを振り向いた。


「……うん?」


「エントロピーって知ってるか?」


「エン……何?」


「エントロピー」


「ああ……。エントロピーね……」


 阿佐木はあくびしながら言った。


「子供の頃、飼ってた」


「それはたぶん違う」


 少なくとも生き物じゃない。


「あ、それザリガニだ」


「ぜんぜん違うじゃねえかよ!」


 一文字もあってない。せめてエンゼルフィッシュとかグッピーとまちがえろ。


「でもほら。アメリカザリガニだよ?」


 何が「でもほら」なんだ。


「俺はエントロピーのことを聞いてんだよ」


 阿佐木は眠そうな目をこすりながら言った。


「うーん。知らないけど。糾史が言うんだし、どうせエロい言葉でしょ?」


「なんだよどうせって!」


 発展性のない会話をしていると、一人の女子が声をかけてきた。


「おはよ! 何の話してんの? ん?」


 振り向くと赤梨あかなし千春ちはるがいた。俺と阿佐木とは一年のときから同じクラスで仲が良い女子だ。女子のくせに背が高くて、阿佐木よりも高い。俺は一応ギリ勝ってる。


「糾史が『エントロピー』が何か知りたいんだって」


「ああ」


 千春はポンと手をたたいて言った。


「子供の頃飼ってたかも」


「お前もかよ!」


「あ。ごめん、それブルーギルだ」


 やっぱ全然違う。っていうかブルーギルってあれだろ。環境問題になってる外来魚。


「ブルーギルって家で飼えんのか?」


「じゃ、ブルーギルじゃないかも」


 なんなんだ。千春は幼少期に何を飼ってたんだ。


「エントロピーねー。なんか聞いたことあるような……」


 千春は考えこんだ。


「あ! 思い出した!」


 再びポンと手をたたくと、これしかないと言わんばかりに千春は言った。


「エロい言葉でしょ!」


「ちげーよ!」


 なんなんだ! 人はエントロピーという言葉を聞いたら日本の生態系を壊す生き物かエロい言葉しか想像できないのか!


「ちょっとー。もう朝から二人で何の話してんの、もー」


「ちげーよ! 断じてエロワードじゃない!」


 エントロピーの名誉にかけて俺は言った。


「えー。でもなんか聞いたことあるよー、あたし?」


 千春が不服そうに言った。


「たしかエントロピーって成分があってさー。ランナーズハイになると頭ん中にいっぱい出てきて、そうすると気持ちよくなるんだって。長距離やってる友達が言ってた」


「それってあれだろ。脳内麻薬」


「そーそー。エントロピーでしょ?」


「いや、なんか似てる違う言葉だろ?」


 なんだっけ。


「で、なんでそれがエロい言葉なの?」


 阿佐木がのんきに千春に聞いた。


「エロいことするときも出るんだってー。エントロピー」


 お前こそ朝から何の話だ。


「なんだよ糾史。やっぱエロい言葉じゃん」


「ちげーよ! それはあれだろ、ほら」


 エントロピーじゃなくて、えっと……。


「エンドルフィン」


 訂正したのは俺ではなかった。


 俺は声のした方。後ろの席を振り返った。

 そこにはいつもと変わらずカバーをかけた文庫本に目を落とす、保科ほしな真菜日まなびの姿がある。


 保科真菜日はこの四月から編入してきた編入生だった。


 ショートカットの黒髪に白い肌、華奢な体型の保科は、一見地味な外見だが一つだけ目をひく大きな特徴がある。


 それは左目につけている眼帯だ。


 二年に進級してから一ヶ月近く経つが、彼女はなぜかずっと眼帯をしている。


 理由は不明だ。


 なぜなら彼女はほとんど誰とも口をきかず、休み時間も自分の席で文庫本を黙々と読みふけっている。

 そんな様子から「きっとアレな人に違いない」と陰で噂されていた。


 そんな保科が珍しく口を開いたことで、僕らのまわりは一瞬、時が止まったような空気に包まれた。

 俺が反応に困っていると、千春はまぬけな声で言った。


「あ、そーだ! エンドルフィンだ。ごめん、違ったわ」


 それはもう別にどうでもいい。


 それよりなんだか気まずいこの空気をなんとかしてくれ。空気の読めない千春ならなんとかできるだろう。


「へー、でもよく知ってたねー。保科さん」


 千春は空気を変える一言を笑顔で放った。


「エロい言葉詳しいんだね!」


 悪い方に変える一言を。


「……」


 保科はそんな言葉など聞こえなかったかのように、その後も黙々と文庫本を読み続け、凍りついた空気はホームルームが始まるまで続いた。

 


 俺に近しい人間は、頼りにならないことがわかった。


 こういうときは先生に聞こう。わからないことは先生に聞きなさいと、子供の頃はよく言われたではないか。


建部たけべ先生」


 朝のホームルームのあと、教室を出ようとしていた担任の建部先生を呼び止めた。美術科担当の若い女の先生だ。


「はあい。どうしましたあ? 日吉くん」


 建部先生は髪型も体型も性格もしゃべり方も、全体的にふんわりしている。


「ちょっと聞きたいことがあるんですが」


「はいはあい。なんですかあ。先生にわかることなら教えまあす」


 先生は子供をあやすように優しく微笑んだ。


「あのー、エントロピーっていう言葉がわからないんですが」


「えんとろぴい」


 建部先生は呪文のように反復してから、眉根を寄せた。


「エッチな言葉ですか?」


 先生までも。


「いや、違います。科学の用語です」


「ふうん。言われてみれば、SFに出てきそうな言葉ですね」


「そうなんです。増えると宇宙が滅ぶらしいんです」


「時間遡行ものとかディストピアものとかスペースオペラものとか……。そういうので聞いたことがあるかもしれませんねえ」


 建部先生は映画好きらしい。以前に授業で話していたことがある。


「ググってみましたかあ?」


「一応……。でも調べてもよくわからなくて」


「ううん。建部先生は美術の先生ですからね……。物理の先生だったらわかりやすく教えられるんでしょうけどお」


 物理の先生か。

 物理の授業は受けたことがないから、先生の名前すら知らない。


「あとでわたしから、聞いておいてあげましょうかあ?」


「いいんですか?」


「もちろんです。勉強熱心な生徒にはきちんと答えてあげたいですから」


「あ、ありがとうございます」


 実は勉強しようという気はてんでない。

 さくっとわかりやすく教えてくれればそれでいい。なぜなら詩歩ちゃんに説明して、ただ尊敬されたいだけだからだ。


「それにしても日吉くん。そんなに物理に興味があったんですかあ。なんか意外ですねえ。将来は博士さんですねえ」


 建部先生としゃべっていると、自分が幼稚園児のような気がしてくる。


「いや、あの、別にそこまでガチの勉強は……」


「がんばれえ。未来のはかせごおっ。ごーごーっ」


 先生が片手でガッツポーズを作って小さく振り上げ、俺は心が少し傷んだ。



 建部先生が教室を出て行ったあと、自分の席に戻ろうとして保科と目があってしまった。というかなんだかこっちをじっと見ていた。


 気まずい。


「……さっきは、なんかごめん」


 俺が謝ることでもないが、なぜか謝ってしまった。


「……」


 保科は無言で、また文庫本を取り出して読み始めてしまった。


 ……おい。何か一言くらいあっても良かろうに。



 昼休みの廊下。


 学食から帰る途中で阿佐木と別れ一人便所に行ってから教室に戻ろうとした俺は、思わぬシチュエーションに出くわしていた。


「あの、ひひ、日吉糾史さんですよね」


 目の前で女の子がもじもじしている。


 制服から察するに一年生だ。前かがみで足を内股にして震えている。前髪がやたら長いせいではっきりと表情はわからないが、頬には赤みがさしていた。


「そうだけど」


「あ、あああ、あの。これ、受け取ってください!」


「え」


 女の子が頭を下げながら、両手で差し出したのは封筒だった。俺は促されるままに、その封筒を受け取る。


 これはまさか。


「そそ、それじゃ!」


 俺に封筒を渡すと、女の子は脱兎のごとく駆けていってしまった。


 これはまさか……。


 俺はそろりと壁際の陰まで移動すると、さっきの女の子の緊張が手紙から乗り移ったかのように、震える手で封筒を開けた。

 もちろん、中には手紙が入っていた。


 これはまさか……!


 俺は何重にも折りたたまれた紙をゆっくりと開き、書かれていた文字を読んだ。

 そこにはこう書かれていた。


「放課後。E会議室へ来てください」


 文字が手書きでなく、どう見てもワードソフトで打ちこんだ素っ気ない明朝体なのはじゃっかん気にはなる。

 無理してA4の紙を折りたたんで小さな封筒に入れたのも気にはなる。

 だが、放課後に異性を人気のない場所に呼び出そうというのだ。

 することは一つしかありますまい。


 これはまさか!


 告白!


 コクのハク!


 ……でも、まったく面識のない子だったな。いったいどこでこの日吉糾史の存在を知ったのだろうか。

 まあ、そんなことはどうだっていい。


 どうやら俺、はじまったな!


 俺は手紙をたたんで封筒に丁寧にしまうと、制服のポケットに入れてそわそわしながら教室に向かった。


「日吉くん」


 ぴくりとしながら声に振り返ると、立っていたのは建部先生だった。


「どうしたのお? そんなに怯えて」


「い、いえ、なんでもないです」


「日吉くん。物理の先生のことだけどお」


 物理の先生? なんのことだっけ。


「えんとろぴいのこと聞こうと思ったんだけどお」


 そうだ、エントロピーだ。俺はエントロピーについて詳しくならないといけないのだった。なんでだっけ。

 そうだ、詩歩ちゃんと仲良くなるためだ。


 まいったな。

 前髪の一年生という新たな選択肢が出てきてしまった以上、俺は今、詩歩ちゃんか彼女かどちらかを選ばないといけない状況だ。


 どちらかといえば、積極的な行動に出てくれた前髪ちゃんの方が優勢。


 でも待てよ。

 ひょっとしたら、エンロトピーを完璧に説明しきった暁には詩歩ちゃんルート開拓もありうるかもしれない。

 となると、前髪ちゃんの告白は断らないといけなくなるけど……。


「あのねえ。出張ですってえ」


 先生はのほほんと言った。


「はい?」


「だから、きのうから出張でしばらくいないんですってえ、物理のたいら先生」


「出張って、どこにですか?」


「マカオ」


 海外!

 ていうか、マカオに教師が出張する用事なんてあるのか。


「……ってことは、エントロピーは?」


「謎のままなの。ごめんなさあい」


 俺は決意した。

 さようなら詩歩ちゃん。俺は目先の幸せを選びます。



 いつもよりも果てしなく長く感じた授業はすべて終わり、ホームルームも滞りなく過ぎて、念願の放課後が到来した。


「放課後だな。阿佐木!」


 俺の抑えきれない妙なテンションに阿佐木は不思議そうな顔をする。


「何? 急に?」


「ごめんな、阿佐木。俺は今日の放課後を境にして、新しい領域に踏み込んでしまうのかもしれないよ」


「どうしたの? 大丈夫?」


「だいじょばなくない」


「どっち?」


 俺はまわりを見回して、千春も保科も誰もいないことを確認して、阿佐木に耳打ちした。


「実はな阿佐木。俺、LLをもらったんだ」


 俺は思い切って、というか、自慢したくて言った。


「糾史のサイズならMでしょ?」


「シャツの話じゃねえよ」


 あと俺はLだ。ぎりぎり。


「LLだよ。LL」


「ラブレターか」


「……よく当たったな」


「え、当たったんだ。適当に言ったのに」


 勘の鋭いやつ。


「へーえ、ラブレターか」


 マイペースな阿佐木が珍しく驚いた顔をしている。そうだ。驚け。もっと驚くがいい。


「イタズラじゃないかな」


 勘の鋭いやつが嫌な4文字を言った。


「阿佐木……。なぜせっかく俺が考えないようにしていたことを」


「あ、ごめん」


 しかしイタズラの可能性は低いと考えている。

 もしイタズラなら机とか靴箱に手紙を入れるはずだ。わざわざ自分で渡して報復のリスクを増やしたりすまい。


「あとはほら、罰ゲームとかね」


 阿佐木がもっと嫌な4文字をしれっと言った。


「俺にラブレターを渡すのが、罰でゲームなのか……」


 だとしたら、イタズラよりもショックだ。


「俺はそんなに嫌われていますか?」


「あ。ごめん。あくまで可能性の話だから。たぶん罰ゲームの対象にされるほど、日吉のこと知らないよ、女の子」


 それは喜んでいいのか悲しんでいいのか。

 ともかくあまりいい気はしない。


「もういい。さよならだ。阿佐木」


 お前としゃべっていたら、嫌な想像が増えていく。


「うん、さよなら。また明日ね」


 阿佐木は教室を出て行った。

 また明日、か。


 明日の俺はもう今日の俺とは違う。お前とは住む世界の違う人間になってしまっているだろうけどな。



 特別棟には大小いくつかの会議室がある。

 俺は今まで利用したことがないが、生徒会に申請をだせば授業以外でも使うことができるのは知っている。

 ただし、目的は学習目的に限られている。だから、申請書をだすときに目的を明示しなければならない。


 前髪ちゃんはなんて書いて申請書を出したんだろう。まさか「日吉先輩に告白したいから利用希望」と書くわけにもいかないだろうし。


 まあ、どうでもいっかー。そんなことー。


 E会議室は図書室の隣にある小さな会議室だった。ドアの前に立つ俺はかつてないほど緊張していた。

 このドアの向こうに未知の世界が待っている。

 俺は万感の思いを込めてドアをノックした。


「どうぞ」


 中からそっけない声がする。


 変だな。昼に廊下であった前髪ちゃんの声とちょっと違う気がする。


 しかしまあ、あのときは焦っていたし俺の記憶力だって怪しい。俺は懸念をはねのけてゆっくりとドアを開いた。


 俺の目に飛び込んできたのは――


「……」


 無言で文庫本を読む、ショートカットの眼帯女だった。


「保科?」


 俺が思わず疑問系で名前を呼ぶと、保科真菜日は本も閉じずに答えた。


「保科」


 そりゃそうだろうな。


「そ、そっか。じゃ……。じゃあ、またな」


 俺はパタンとドアを閉めた。


 き、きっと会議室を間違えたのだろう。

 そう思ってドアにかかっているプレートを見直してみたが、残念ながら紛れもなくE会議室だった。


 じゃ、じゃあ、手紙の方を読み間違えたんだろう。

 俺は慌てて制服のポケットに手をつっこんで、手紙を取り出した。やはりこちらにも間違いなく『E会議室』と書いてある。


 じゃあなんで? なんで前髪の子じゃなくて保科がいるんだ? たまたまか? たまたま保科がE会議室にいる時間なのか? そんな時間ってあるのか?


 戸惑っているとドアが開いて、保科が顔を出した。


「あ……」


 持っていた手紙を凝視されて、俺は慌ててポケットに隠した。


「その手紙。私が書いた」


 保科は、はっきりとそう言った。


「あの前髪の長い子は……」


「妹」


「お、同じ学校に妹いたんだ」


 何かで目元を隠す血筋なのか。


「妹には渡すのを頼んだだけ」


 なんてことだ。あの前髪ちゃんはただの配達員だったのか。


「じゃあ、保科が俺を呼んだのか?」


「そうだよ」


「なんだよ、用があるなら自分で渡せよ。ていうか声かければいいだろ」


「私としゃべっているところを、人にあまり見られたくないかもと思ったの」


「別にそんなことは……」


 ……まったくなくはないけど。

 本人がそれを気にして口にだしちゃうのはどうなんだ?


 保科は眼帯をしていない方の右目で俺のことをじっと見ている。黒目がちな瞳からの射抜くような視線はまともに見ていられない。

 僕はうつむいて聞いた。


「えっと……。で、俺に何の用なの?」


 ひょっとしてこれはまさか……保科が俺にコクのハクなのか?

 一つ前の席の俺の後ろ姿を見ているうちにロボットのような心にそういう感情が芽生えた的な展開なのか?


 そうだとしたらちょっと考えさせてほしい。

 いくら新しい領域に踏み込みたい俺としても、相手が保科っていうのはちょっと敷居が高いというか……。

 などと考えていると保科は言った。


「日吉くんの知りたいこと。教えてあげる」


「俺の知りたいこと?」


「うん」


 保科はそっけなく言った。


「エントロピーについて」



 長机が一つと、事務用椅子が数脚。

 それから、何も書かれていないホワイトボードと、隅っこに物がごちゃごちゃと積まれた書棚があるだけの部屋。

 外に面した窓は閉じていて、ブラインドがかかっている。


 その小さな空間で、俺は保科真菜日と二人きりで向かいあって座っていた。


「あのさ。なんで、教えてくれるんだ?」


「日吉くん」


 保科はまっすぐに俺を見据えるのでちょっとどぎまぎした。


「は、はい」


「日吉くん。どんなのが好み?」


「え」


 好みって。やっぱりコクのハクなのか?


 そりゃあやっぱり詩歩ちゃんみたいなタイプの子が好みであって、少なくとも眼帯したアレな感じの女ではない。


「マンガでもテレビでもスポーツでもなんでもいい。どんなのが好み?」


 なんだ、趣味の話か。


「そうだな……。別に詳しくはないけど、マンガはわりと読むかな。あとはゲーム」


 日吉は目線を外さずに言った。


「仮の話だよ。日吉くんは電車に乗っている。日吉くんの近くにいる二人組が日吉くんの好きなマンガの話をしている」


 たしかにそういう状況はある。


「その二人が登場人物の名前を間違って話していたら? 気にならない?」


「そりゃあ、気になるだろ」


 実際、そういうようなことってあるな。


「正しい名前を教えたくなる?」


「まあな」


「そういうこと」


 保科は続けた。


「今朝、教室で日吉くんはエントロピーについてわからないと言っていた。私は正しい解釈を知ってる。だから教えたくなった。そういうことだよ」


「ちょい待て」


 俺は異論をはさんだ。


「俺はその、電車の二人組に正しい名前を教えたいと思いはするけど、本当に教えたりはしないよ? 赤の他人だし困るだろ?」


 すると保科は言った。


「私と日吉くんはクラスメイトであって、厳密な赤の他人とは違う」


 たしかにまあそうだけど、ほぼ赤の他人だろ。普段しゃべらないし。


「それに、私は電車に乗り合わせた赤の他人でも訂正する」


「そ、そうなんだ」


 保科は意外とアグレッシブな性格だった。


「別に話したくはないけど、訂正しないと気が済まないの」


 なんだかよくわからないが、ともかく保科は俺にエントロピーについて説明したくてしょうがないらしい。


「それに日吉くん。とても知りたがっていたようだから。先生にも聞いていたでしょう」


 保科さんよ。盗み聞き大好きか。


「物理の先生にまで聞きにいこうとしていたし。真剣に勉強したいのでしょう?」


「……ま、まあな」


 実はバイト先の女の子から感心されたいだけなんだが。


 ……そうだ。

 前髪ちゃんとの素敵な未来が消滅した俺には、詩歩ちゃんの頼れる先輩となり、さらにそれ以上の関係の先輩になる未来しか残されていないのだ。


「……わかったよ。じゃあせっかくだし。教えてくれ」


 結構じゃないか。

 わざわざ教えてくれるというんだ。ここは恥をしのんで、保科大先生に教えを請おうじゃないか。


「エントロピーって、なんなんだ?」


「日吉くんはどの程度わかってる?」


 俺はわかっていることを説明した。


「物理学で使う言葉で『でたらめさの度合い』とかなんとか。あと、とにかく増えるってことくらいかな。増えすぎると世界が滅ぶ? とか?」


 俺の要領を得ない解説を聞いた保科は表情一つ変えずに言った。


「わかってないんだね」


「……」


 悔しいがその通りだ。


「ちょっと待ってて」


 保科はそういうと部屋を出ていった。



 しばらくすると、保科はインスタントのティーパックが入ったティーカップが二つと、魔法瓶が乗ったトレイを持って戻ってきた。トレイの上にはミルクポーションと砂糖の袋も二つずつ乗っかっている。

 なぜいきなり放課後紅茶タイム?


「それ、どっから持ってきたんだ?」


「妹」


 経路はわかったが詳細は不明なままだ。とにかく前髪ちゃんは保科に都合よくパシられているらしい。

 保科はティーカップにお湯を注いで、机の上に置いた。


「飲んでいいのか?」


 冷たい飲み物の方が嬉しいが、ちょうど喉が乾いていたところではあった。


「だめ」


 だめなのかよ。


「日吉くん。さっきあなたはエントロピーを『でたらめさの度合い』と言ったね」


「ああ」


 言った。言ったが意味は知らない。


「たしかに統計学や情報理論ではそういう意味で使われている。たとえば」


 保科は文房具やら雑誌やら野球ボールやらペットボトルやら、秩序なく物がごちゃごちゃと積まれた書棚の上を指差した。


「こういうでたらめに物が散らかった状態は『エントロピーが大きい』」


「ただ散らかってるだけだろ?」


「日吉くん。これをこのまま放っておいたら、どうなる?」


「どうなるって?」


「勝手に物が動きだして『エントロピーが小さい』状態、つまり整理整頓された状態になることがある?」


「そんなホラーな現象は起きない」


 まあ、勝手に整理整頓されるんならありがたいけど。


「そう。つまり『エントロピーは減らない』。この場合、散らかった棚の上が勝手に整理整頓されることはない。『エントロピー増大則』があるから」


「なるほどな」


 俺はもっともらしく頷いた。


「わかってないね」


 ばれていた。


「……ああ。全然わからないな」


 結局エントロピーが何で、何が増えたり減ったりするのかはっきりしない。


「日吉くん。エントロピーはもともと『でたらめさの度合い』ではなくて、熱力学で断熱変化の不可逆性を示すために用いられた指標なの」


「ふ、ふうん」


「わかってないね」


 ばれている。


「熱力学ってのは……、エネルギーとかに関する学問だろ?」


「そうだよ。だからとりあえず、基本である熱力学での使い方を教えるね」


 保科はなぜそんなことに詳しいんだ?


「まず、断熱変化の不可逆性とは何か」


 ようやく解説が始まるらしい。


「じゃ、十分待って」


 始まらなかった。


「え? 十分も? なんで?」


「いいから」


 なぜ意味もわからず十分待たないといけないんだ……。


「待ったら、きっとわかる」


「待つあいだ。紅茶飲んでいいか?」


「だめ」


「だめなのかよ」



 無言のまま、気まずい時間が過ぎた。


 保科は例によって、黙々と文庫本を読んでいる。

 俺はといえば、ごちゃついた棚の上を整理整頓していた。本屋でバイトしていることもあり、整列されていないとどうにも落ち着かない。


 外からパラパラと、窓をたたく音がまばらに聴こえてくる。


「げ、降ってきた……」


 まいったな。保科のエントロピー授業なんて無視して、さっさと帰るべきだったか。

 傘を持ってきてはいるけど、降らないに越したことはない。 


「そろそろいいね」


 保科は顔を上げて文庫本を閉じた。十分経ったらしい。

 俺は椅子に腰掛けた。机の上にはすっかり冷めて湯気の立たなくなったティーカップが置いてある。


 保科は魔法瓶を手にとり、もう一つのティーカップにもお湯を注いた。


「どうぞ」


 差し出されたのは今淹れたのでなく、冷めてしまったほうだった。


「そっちのあったかいのは?」


「私の」


 俺もそっちがいいな。


 仕方なく、差し出された紅茶をすすった。ぬるくてまずい。


「どう?」


「ぬるい」


 保科は自分の紅茶を一口すすった。


「こっちはあったかい」


「そりゃそうだろ」


「なぜ日吉くんの紅茶はぬるい?」


「そりゃ、十分も放っておいたから紅茶の熱が外に逃げたんだろ」


「そう。あったかい紅茶は放っておけば熱が逃げる」


 なんでそんな当たり前のことを。


「それじゃ、日吉くん。このまま紅茶を置きっぱなしにしたら、どんどん熱が逃げていつかは凍ってしまう?」


「そんなことはない。まわりの温度と同じになったら、それ以上は下がらない」


 保科は俺をバカにしてるんだろうか?


「そう。まわりと均一な温度になったら、それ以上は変化しない」


 保科は続けた。


「逆はどう? 逃げた熱がいつか戻ってきて、もとのあったかい紅茶に戻ったりする?」


「そんなことがあったら、超常現象もんだな」


「うん。つまり、紅茶は自然に冷めることはあっても自然にあったかくはならない。これが、断熱変化の不可逆性」


「要は、一度冷たくなったら二度と勝手にあったかくはならないってことか?」


「そんなところ」


 保科は続けた。


「紅茶に限らず、なんでもそう。温度の高いものと低いものがあったら、高い方の熱が低い方にうつり、やがて温度は均一になる」


「そうだな」


「それはなぜだと思う? 低い方から高い方に変化してはなぜいけないの? なぜ温度は均一になるの? 何か困ることがある?」


「それは……」


 そんなこと考えたこともない。


「そりゃ、そういうものだからじゃないか?」


 どうせわからないので、僕は適当に言った。

 すると、保科はちょっとだけ口元に笑みを浮かべた。


「その通りだよ」


 正解だったらしい。


「ただ『この世界がそうできている』から、そうなるだけ」


 饒舌な保科は、いつもと別人に見えた。いや、見た目はいつもの眼帯女なんだが。雰囲気がまるで違う。なんというか〝楽しそう〟だ。


「じゃ、日吉くん。熱力学第二法則は知ってる?」


「ああ。あれね」


「わかってないね」


 ばれていた。


「ごめんなさい。第一も知りません」


「第一はエネルギー保存の法則のこと。聞いたことあるはずだよ」


「ああ」


 理科で習った気がする。


「たしか。エネルギーの種類が変わってもエネルギーの量は変化しないってことだったな」


「そう。エネルギーには電気エネルギーとか太陽光エネルギーとか、種類がいろいろあってそれぞれ他のエネルギーに変換できるけど、種類が変わってもエネルギーそのものの量は変わらない。増えも減りもしない」


 保科は、俺が整頓した書棚の上に乗っていた野球ボールを机の上に乗せた。


「たとえば」


 保科は小さな手でボールをちょんとついた。

 少しだけ転がって、ボールはすぐに机の上で止まる。


「今私がボールを動かすのに使ったエネルギーも、ボールが止まったからといってなくなったわけじゃない」


 そうなの? ものすごくなくなったっぽいけど。


「私がボールに与えたエネルギーは、机との摩擦で熱に変換された」


「だ、だよな」


 保科は、どうも納得してない様子の僕の顔を見て言った。


「走っている自動車のタイヤが通ったあとの路面は熱くなるでしょう。それと一緒」


 僕がわかってないのを察して、わかりやすい例をあげてくれた。


「なるほど……。でも待て。時間が経ったら路面は元の温度に戻るんじゃないか。熱がなくなってるじゃないか」


「熱は大気中に逃げただけ。紅茶が冷めるのと一緒ね。なくなってはない」


「ああ。なるほど」


「エネルギーは形が変わってもなくならない。これが熱力学第一法則」


 保科は手でピースサインを作った。


「次。熱力学の第二法則」


 ピースサインで「二」をあらわしているのだろう。こんなにはしゃいでいる感じがまるでないピースサインも珍しい。


「エネルギーの種類の変換は、効率の良いエネルギーから悪いエネルギーに変換される。これが第二法則」


「つまり?」


「ざっくり言うと、どんなエネルギーも最後には今のボールの運動や紅茶が冷めた例みたいに、熱に変換されていくってこと」


「なんで?」


 保科は言った。


「『この世界がそうできている』から。これが熱力学の第二法則の示していること」


「……なるほど」


 とは言ったが、俺はまたなんだかよくわからくなってきて首を傾げた。


「紅茶。もう飲まない?」


 保科が気をつかってくれた。紅茶でも飲んで頭を少し休めろというのだろう。お言葉に甘えてぬるい紅茶をすすろう。ぬるいけど。


 俺はカップを手に取った。


「ミルクか砂糖。入れたら?」


 ミルクや砂糖くらいでは、ぬるくなったがっかり感は覆せないのだが。


「じゃ、ミルク」


 俺はミルクのポーションの一つを手にとって、ぬるま湯ティーに注いだ。白い液体が紅茶の中に溶けて広がっていく。


「日吉くん」


 カップに口をつけようとしたら、保科が呼び止めた。


「そのミルクティー。もとのミルクと紅茶に戻してみて?」


「無茶いうな」


 そんな魔法みたいなことできるか。


「そう。これも変化の方向が決まっている」


 なんだ。紅茶をすすめたのも講義の一端で、俺に気をつかったわけじゃなかったのかよ。

 俺は紅茶のカップを置いた。


「……不可逆性、だったか」


「うん。もうわかるでしょう。なぜミルクと紅茶は溶けて混ざりあおうとするのか。別にまざらなくたって何も困らないはず」


 今までのパターンからいくと、


「つまり、『そういう風にできてるから』か」


「その通りだよ」


 保科は、よくできましたと言わんばかりに少し微笑んだ。


「この世界で起きるあらゆる自然現象は、なぜか変化の方向が決まっている」


 保科は言った。


「なぜか、あらゆるエネルギーは熱に変わりその温度を均一にしようとする。なぜか、物質はとにかく外に広がって他とまざりあい空間に均一に存在しようとする。私たちはいつも何の疑問も抱いていないけど、よく考えたら不思議なことだよ? だって『そうならなければならない理由』なんてないんだから」


 たしかにそうだ。


 放っておいたら紅茶が冷めるのも、ミルクが勝手に混ざるのも経験上『そうなる』と知っているから、見ても驚かないだけだ。


 もしも紅茶の冷めない世界があって、俺がそこで育った人間で、今日初めてこっちの世界で紅茶を飲んだのなら、きっと驚くはずだ。


「それじゃ、なんで変化の方向が決まっているのか。つまり、変化の方向は不可逆なのか。その理由を説明するために作られた言葉が『エントロピー』だよ」


「作られた?」


「『紅茶が冷める理由』や『ミルクが紅茶に溶けて混ざろうとする理由』を『エントロピーが大きくなったから』っていう風に『決めた』ってこと」


「ちょい待て」


 俺は口を挟んだ。


「そんじゃ『これがエントロピーです』っていう『もの』はないのか」


「ないよ」


 保科は何を今さら、という感じで言ってきた。

 そうなのか。俺はてっきり「エントロピー」っていのは目に見えないものすごく小さな粒子みたいなもので、それが増えたり減ったりするのかと思っていた。


「でも『増える』ってことは、数値で表せるんだろ?」


「もちろん。単位もあるね」


「実際にはないものが、なんで数値で表せるんだ?」


「変なこと言うね。日吉くん」


 保科は眉根を寄せた。


「温度や時間はどう? 数値であらわせるけど、実際に『何か』がある?」


「それは……。そうか。ないな」


 言われてみればそうだ。


 温度は「水が凍る冷たさを0度と呼びましょう」と「決めた」だけだし、時間にしたって「地球が一回自転する長さを一日って言いましょう」と「決めた」だけだ。


「そもそも『数』っていうのはそういうもの。物事を考えやすくするために、何が『1』で何が『2』か『決めた』だけ。エントロピーも一緒ね。ただの『概念』だから」


「いやだけど、温度は『温かさ』だし、時間は『時の長さ』だろ。エントロピーの場合はなんなんだ?」 


「そうね。具体的には、『物質を構成する原子や分子が、いかに好き勝手に動いていろいろな状態になれるかの度合い』」


 長いな。


「温度が均一になろうとするのも物質が広がろうとするのも、ミクロの世界ではどちらも原子や分子が動きやすくなろうとしてる、ってことなの。動きやすいってことは、原子や分子がでたらめに動ける状態にあるってこと。だから『でたらめさの度合い』って言うの」


 やっとそこにつながるのか。


「『エントロピーが高い』ってことは、何がどこにあってどういう性質なのかがつかみにくい状態ってことになるね」


「要するに、ミルクティーのどの部分が紅茶でどの部分がミルクなのかがもう見分けられないとか、散らかった棚の上は何がどこにあるかわかりにくい、って話か」


「そう。で、その『わかりにくさ』がエントロピー」


 なんとなく、わかってきた。


「それじゃ、エントロピーが増えると宇宙が滅びるっていうのはどういうことなんだ?」


 エントロピーが何を表しているのかはなんとなくわかったが、それが増えて世界滅亡というのはピンと来ない。


「それは『ねってきし』のことだね」


「ねってきし?」


「字で書くとこう」


 保科は席を立つと、ホワイトボードに水性マジックで字を書いた。

 だが、読めなかった。


 なぜなら、とてつもなく字がへただ。


「……ごめん。なんて書いたんだ?」


 その文字を見た俺は、素直な感想を言った。


「だから手書きは苦手」


 そういや呼び出しの手紙もパソコンで打ったやつだったな。


「漢字で書くと、熱量の『熱』、的中の『的』、惨殺死体の『死』」


 保科は口で漢字を説明してくれた。別に惨殺しなくてもいいだろうに。


 俺は確認するようにつぶやいた。


「『熱的死』……ね」


 保科は席に座りなおした。


「日吉くん。何か変化が起きれば、必ずエントロピーは増大する。ということはつまり、それ以上変化が起きない状態は、エントロピーが最大ってことになる。これはわかる?」


「紅茶にミルクが広がっていい感じにまざり終わったら、ティーカップの中のエントロピーは最大になってるってことか」


「そう。で、最初に言ったように変化は不可逆だから『エントロピーは減少しない』」


「『エントロピー増大則』だったな」


「うん。で、あらゆるエネルギーは最後は熱になって大気中に逃げると言ったね」


「ああ」


「そうすると発散された熱で大気はどんどん熱くなって、地球上のエントロピーはいつか最大になり、もう熱を逃がすことはできなくなるはず」


「そうか。大気と地表の温度が一緒になったら、もう熱の移動は起こらないな」


「でも、地球はそうなってはいない。それはなぜ? 大気中に出ていった熱はどこに行ってしまったの?」


 エネルギー保存の法則があるから、なくなったりはしない。とすると、地球じゃないところに逃がすしかないわけだから……。


「宇宙か?」


「そう。宇宙があるから地球のエントロピーは低い状態に保たれている。つまり、エントロピーは増えすぎたら減るようになっている。変じゃない?」


「そうだな。エントロピーは減らないって話だったはずだ」


「そう。実は『エントロピー増大則』は『孤立系のエントロピーは減少しない』というのが正確なの。地球のエントロピーが減るのは、地球が『孤立系』ではないからだよ」


「『孤立系』ってなんだ?」


「簡単に言うと外部からエネルギーや物質の干渉がない状態のこと。そういう状態のものはエントロピーが減らない。たとえば、さっきの散らかった棚の上。今日、私がこの部屋に来るまで完全に孤立していた。だから片付かなかった」


「俺、さっき片付けちゃったけど」


「そういうこと。つまり保科くんという『外部』の干渉があったから、エントロピーを低くすることができた」


 なるほど。


「地球も同じ。太陽からエネルギーの流入があって、かつ宇宙区間にエネルギーを逃すことのできるシステムがあるからエントロピーを減らすことができる」


「じゃ、別にエントロピーが増えすぎて世界が滅びるなんてことはないじゃないか」


 すると保科は言った。


「それは微妙なとこ」


「微妙?」


「だって、宇宙空間に熱を逃がしてるってことは、今度は宇宙全体のエントロピーが増えているってことだからね」


「宇宙全体のエントロピー……」


 途方もつかない話だ。


「地球には宇宙空間という『外部』との干渉がある。だけど、宇宙空間には『外部』なんてあるの?」


「さ、さあ」


 宇宙のこともいまいち知らないのに、外側の話をされても……。


「もしもないのなら、宇宙は孤立系ということになる。つまり、やがては宇宙のエントロピーが最大になって、物質も熱も均一に混ざり合ったそれ以上変化しない状態が訪れるわけ。変化が起きないということは時間も意味を持たない」


 保科がホワイトボードに書いたヘタクソな文字を指さす。


「これが、熱的死」


「……」


 俺はぬるくなったミルクティーを見た。

 ミルクと紅茶がまざったそれは、もはやミルクでも紅茶でもない。


 同じように宇宙も、すべてのものがまざりあって、何が誰でどこが何かわかないような状態になるってことか。


「ただ、宇宙にはまだ解明されていないことが多いから。最近の学説では、実際に熱的死を迎えるかどうかは怪しいと言われているけど」


「……そっか」


 それを聞いて俺はなんだかほっとした。


 どっちにしろ、熱的死がどうこうとかいうよりもはるかに前に俺は土に還るんだから、ほっとする意味はないような気もするのだが。



俺はカップに残ったぬるくてまずい紅茶を飲み干した。せっかくだから飲まないともったいない。


「どう。エントロピーについて少しは理解できた?」


「まあ、な」


 俺は言った。


「なんていうか。経験値みたいだな」


 保科は不思議そうな顔をした。


「経験値?」


「ああ。RPGのさ。モンスターを倒したり事件を解決したり、何か行動を起こせばどんどん溜まっていく」


 そして基本的に減りはしない。


「経験値を溜めてレベルが上がれば、キャラクターは強くなる。できることが増える。ゲームはどんどん複雑になる」


 分子や原子が自由に動ける範囲をどんどん広げていくように。


「でも、経験値には上限があるからいつかカンストする。エントロピーが最大になって変化が起きなくなるのと似てるだろ。これがオンラインゲームなら運営から新しいシステムが提供されて、経験値の上限も増える。そうしたらまた遊べる」


 外部の干渉があれば、変化を続けることができる。


「でもサービスの提供がなくなって外部からの干渉がなくなったら、何をしても新しい変化はないし、やる意味もない」


 すべてが均一になってしまった状態だ。


「そしたらもう、そのゲームは終わりだ」


 ゲームという世界の終焉。熱的死。


「だからエントロピーってのは、宇宙全体で共有してる経験値みたいなものじゃないか?」


「経験値……」


 保科は首を傾げた。


「何の話?」


「……保科。ゲームとかあんまりやらない?」


「全然」


 渾身の例えが、まるで伝わらなかった。


 興味のあること以外には、とことん興味のないタイブだな。


「まあ、とにかく人に聞かれたら軽く説明できるくらいにはわかったよ」


 詩歩ちゃんが理解できるかどうかは怪しいが。


「そう。良かった。わたしもすっきりするよ」


 保科は少し口元を緩めた。


「……なあ、保科。一番気になること聞いていいか?」


「何?」


「なんでその、エントロピーっていうか、熱力学だとかに詳しいんだ?」


 なぜただの高校生のくせに、先生も知らないような用語について語れる。


「たまたま」


「は?」


「たまたま知ってた」


「たまたま、エントロピーのことにだけ詳しいのか?」


「ちょっと違う」


 保科は言った。


「距離を縮めたいと思ってる」


「距離?」


 誰と? 何と?


「非日常だよ」


 保科はじっと俺の目を見ながら言った。


「私、本が好きなの」


 そりゃあ、言われなくても見りゃあわかる。四六時中、読んでるみたいだし。


「特にSFみたいな、非日常的な話ね」


 それもそれっぽいな。


「非日常の世界では、日常では起こらないようなことが当たり前に起きる。タイムリープや星間飛行、パラレルワールド……」


 保科は目線を落として言った。


「でも、残念ながらこの世界は『そういう風にできてない』し、そういう世界に行く方法なんてない。本の世界の話を本気で信じるのは馬鹿げているしね」


 これは意外だった。


 そういうことを信じちゃってるタイプの子なんだろうと今まで思っていたのに。


「だからせめて、非日常的な物語に出てくる言葉について知ろうと思ったの。非日常の世界を形作る言葉を知れば、少しでも日常が非日常に近づいていくんじゃないかって」


「エントロピーも、そんな言葉の一つってわけか」


「うん。本の中では簡単に書いてあるだけで、詳しくは説明してくれなかった。だから自力で調べたの。だから知ってた」


 それから保科は少し寂しそうに言った。


「でも調べてみればみるほど。自分が普通の人間でここは普通の世界だってこと、かえって知ることになるんだけどね」


 そうか? 俺からしてみれば、物理の先生みたいな講義をそらでできる女はじゅうぶんファンタジーな存在だぞ?


「……なあ、保科。一番気になること聞いていいか」


「さっきもそう言ったね」


「いいだろ。一番が二つあったんだよ」


 俺は、実はさっきより気になることを聞いた。


「なんで眼帯してるんだ?」


 俺が聞くと、保科はうつむいた。

 ありゃ、やっぱ聞いちゃまずかったのか。


「いや、ひょっとしたら、なんか病気とかなのかなって思って。あ、いや。その厨二的な意味じゃなくて、ほんとのさ。別に答えにくかったらいいけど」


 俺がまごついていると、保科は恥ずかしそうに言った。


「ものもらい」


「へ?」


「治らなくて」


 保科は、しごく真っ当な理由で眼帯をつけていた。聞いてみれば単純なことだ。


「ところで日吉くん」


「なんだ」


「チューニテキって何?」


 知らんのかい。エントロピーについてあんなに詳しく語れたのに、それは知らんのかい。


「じゃ、今度、教えるよ」


「いい。自分で調べる」


 それはやめた方がいいんじゃなかろうか。きっと眼帯してるのがもっと恥ずかしくなってくるんじゃなかろうか……。まあ、いいか。


 俺は席を立った。


「今日はありがとな。なんか意外だったよ。保科ってすげえしゃべるやつだったんだな」


「正しい情報を伝えたかっただけ。別に、しゃべるのは好きじゃない」


 あんなにしゃべっておいて。


「あまり人としゃべると面倒になるから」


 保科は言った。


「私は『孤立系』でいいの」


「……そうか」


「だから日吉くんも、別にあした無理して、用もなく私に話かける必要はないよ」


 自分から人を居残らせておいて、なんだそれは。


「……」


 孤立系のエントロピーは増大していくんだろう。行き場のない熱を溜め込んで、いつか終焉を迎えるんだろう? 保科はそれでいいのか?


 本当は、保科だって堅苦しい場所を出て自由に動き回りたいんじゃないのか?


 だって、人を作っているのも原子や分子だろう。


「雨、やまないね」


 保科に言われて、俺は窓の外を見た。

 相変わらず窓は、雨粒がぶつかる音がパラパラと鳴っている。


「だな……」


 俺は保科と、会議室をきょろきょろと見た。


「保科。傘は?」


「忘れた」


「大丈夫か? 予報じゃ、今日このあとずっと降るって話だ」


「……雨、好きだから」


 好きだからって、濡れたくはないだろう。


「さっきの話だけど」


 どの話だ。


「地球が太陽からエネルギーを受け取って、宇宙にエネルギーを逃がすシステムのこと」


 だいぶ前の話だな。


「それを担っているのは地球上の水なの。地表や海から熱を吸い取った水蒸気が大気圏まで上昇して宇宙に熱を逃がす。熱を失って冷やされた水蒸気はどうなる?」


 熱を失ったら水蒸気は水に戻るから……。

 あ。


「雨」


「そう」


 保科は窓の方を眺めたまま、少し微笑んで言った。


「雨のおかげで、地球のエントロピーの増大は抑えられているの。濡れるのは嫌だけど。たまには雨に感謝しないとね」


 ブラインドの窓ごしに雨粒の柱が、いくつも見える。

 それを見ている保科の顔は、まるでオーロラか流星群の前にでも立っているかのように、きらきら輝いていた。


 ひょっとしたら、あの眼帯の奥に隠れた瞳には、俺なんかとは違う世界が見えているのかもしれない。

 それが非日常なのかどうかはわからないけど、ちょっと羨ましいと思った。


「……保科。これ使っていいよ」


 俺は持っていたビニ傘を差し出した。


「え。でも、日吉くんは?」


「大丈夫。親の言いつけで、普通の傘と別に折りたたみ傘も持たされてるから。自分を犠牲にして傘を人に貸すほど、俺は格好よくない」


 こう言いつつ実は折りたたみ傘なんて持っていなかったら格好いいが、残念ながら本当に折りたたみ傘も持っている俺だった。


「でも……」


「紅茶代と受講料のかわりだ。面倒だったら返さなくてもいい」


 そう言うと、保科は小さな手で俺の傘を受け取った。


「絶対返す」



 今日の日吉古書店も、安定の客不足に悩まされていた。


 唯一残っていた男性客も、五分ほど前に二十年くらい前のグラビアアイドルの写真集を五冊ほど購入して帰っていった。


「糾史さん」


 俺の隣に立っていた詩歩ちゃんがつぶやいた。


「暇ですね」


 来た。


 来た来た。


 来た来た来た。


「……暇だな」


 エントロピーチャンスが来た!


 さあ、いつでも聞くがいい詩歩ちゃん。俺はいまやエントロピーマスター日吉だ。さあ、かかってこいや。


「しりとりでもします?」


 あれ。


「それじゃあ、あたしから、しりとりのりー」


「いや、ちょっと待って詩歩ちゃん」


 話が違う。


「あれ、しりとり嫌いですか」


「いや、嫌いじゃないけど」


 好きでもないけど。


「詩歩ちゃん、俺になんか聞くことあるだろ?」


「え。糾史さんに聞くことですか?」


 詩歩ちゃんは考えこんだ。


「初めてししとう食べたの何歳のときですか?」


 なんだその質問。


「六歳くらいかな」


「わ。はやいですね」


「本当にそんなこと聞きたかった?」


「……いえ、あんまりですね」


 忘れている。エントロピーの件忘れている。


 俺が無策で挑んだのなら忘れてくれていて大変結構だったんだけど、今となっては説明したくてしょうがないぞ。


「詩歩ちゃん……。きのう話してたエントロピーのことだけど」


 俺がその単語を出すと詩歩ちゃんは目を見開いた。


「ああ! そうです。忘れてました! エントロピー!」


 よし、いい食いつきだ!


 マスターの知識を存分に発揮してやろうじゃないか。そして、俺を敬い恋焦がれるがいい。関村詩歩、満十五歳。


「エントロピーっていうのは――」


 俺が言いかけると、詩歩ちゃんは言った。


「わたし自分で軽くネットで調べてみました!」


「え。あ、そう……」


 でも、ネットで軽く調べたくらいじゃ……。


「驚きましたね。孤立系のエントロピーは必ず増大するんですね」


「お、おう」


 俺がさっき初めて知った言葉を、詩歩ちゃんが当たり前みたいに言っている。


「それで永久機関の実現にはエントロピーを減少させるマクスウェルの悪魔が不可欠なんですよね。結局、悪魔自身が情報を失うためにエネルギーを必要とするから、永久機関の実現は無理ってことみたいで、残念ですね」


「う、うん」


 何語? これ何語?


 悪魔って何? 物理学にそんなファンタジーな要素でてくるの?


「熱的死も、てっきり宇宙が熱くなるのかと思ったんですけど。実際は絶対零度に近い温度になるんですね。まあ、理屈を考えたらそりゃそうですもんね。膨張宇宙のビッグチルとは性質が違うって話ですけど」


 やばい。詩歩ちゃんの背中がどんどん遠ざかっていく。


 そうだった。俺は見落としていた。詩歩ちゃんは、たしかに天然でちょっと抜けたところはあるけど、物覚えは抜群に優秀なのだった。


「それにしても、自然な変化が必ずボルツマン分布に向かうっていうのは不思議ですね」


 誰? ボルツマンって、誰? ヒーローもの? 戦隊もの?


「そ、そだね」


「糾史さんは、どうしてボルツマン分布に向かっていくんだと思います?」


「え、えーっと」


 見くびっていた。

 詩歩ちゃんに尊敬されるためのハードルがこんなに高かったとは。


これではどうにかして、詩歩ちゃんの中に蓄積してしまったエントロピーの知識を全部消去しないかぎり俺が優位に立つことはできない。


 だが、それはミルクティーを紅茶とミルクに戻すより難しそうだ。


「ねえ、なんでだと思います?」


「そ、そりゃあ」


 どうする? どうするエントロピービギナーただし。

 そのとき奇跡が起きた。


 ガラガラガラ。


 店の入り口が開いて、ハンチングの中年男性が入ってきたのだ。また、きのうと同じように趣味・実用書の棚を物色しはじめる。


 客だ。


 いや、神だ。あなたは神です、おじさん。いえ、おじさま。

 俺は全身全霊を込めて接客した。


「いらっしゃいませ!」


 神さま。どうぞ、好きなだけ物色してください。あなたさまは何も購入なさらなくて結構でございます。 


 むしろ買わずに閉店までいてください。



 詩歩ちゃんからの尊敬からの敬愛からの純愛をゲットしようぜ計画が失敗に終わってしまった次の日。

 俺はいつものように学校に登校した。


 雨はすっかり上がって、空には太陽が我が物顔で登っている。

 今日も地球にエネルギーを提供して地球がぬるいミルクティーになるのを防いでくれているわけだ。がんばれ太陽。


 いつもと同じ登校風景だけど、いつもと少し違う。

 俺は教室に向かって歩いているだけだが、ただ歩くだけでも、ちょっと手を動かすだけでも、エントロピーは増えている。


 どんなささいな変化だって、エントロピーは増える。それはなんというか。どんなささいなことにだって、きっと意味があるってことなんじゃないか。


 そう思うと、目にうつるもの一つ一つが新鮮に見えた。


 教室に入ると、そんな新鮮な世界を教えてくれたやつが俺の後ろの席に座っているのが目に入る。


「よお」


 相変わらず、俺を無視して本を読んでいる。

 結局、元通りのしゃべらない保科だ。


 俺の椅子には、きのう俺が貸した傘が無造作に立てかけてあって、机の上には小さな紙切れが折りたたんでおいてあった。

 紙を開いてみると、そこには謎の曲線が何本も記されている。書いた本人じゃないとこれを文字として認識できないだろう。


 席についた俺は振り返って、眼帯女に聞いた。


「これ、なんて書いてあるんだ?」


 孤立しようったってそうはいかない。


 保科と俺の関係は、保科自身の意志によって、きのう変化をはじめてしまったんだから。不可逆な変化を。


 きのうより前の関係には決して戻らないんだ。


「これじゃ、読めない」


「……」


 保科は文庫本を見つめたまま小さな声で、しかしはっきり言った。


「傘、ありがとう」


「おう」


 俺と保科を取り巻くエントロピーは、もう増えていくしかない。

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非日常の基礎知識 関根パン @sekinepan

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