第94話 いつか帰りたい場所。

「最悪すぎる……」


 短い旅行はあっという間に終わりを迎えた。


 複雑な気持ちを笑顔の下に隠し、せめて帰るまでは、楽しいひと時を、と。

 そんな卑怯なことを思っていたせいか。二日目の昼過ぎ、カメさんが行こうよとパンフレットを見せてくれた『サボテンパーク』への移動中に、朝から薄々感じていた体の不調が折悪くピークに達し、なんとか終わるまではと平然を装っていたが、それをカメさんに見抜かれ、私たちは目的地まで後僅かというところで途中下車を余儀なくされてしまった。


 結局その後、予定していた観光もできず、海鮮丼も食べれず、お土産も買えず。途中、何度も何度も休みながら長い時間をかけて、東京行きの特急に乗車可能な駅まで戻ってこれたのは、すでに空がオレンジ色に染まりつつある頃だった。


「熱中症かな……昨日も今日も暑かったもんね」

「ごめんなさい」

「いいよ、少し落ち着いたみたいだから良かった」


 麦わら帽子を頭に押しつけ、がらんとして寂しい駅のホームのベンチに体を預けた私に、カメさんが側にあった自販機でスポーツドリンクを買って差し出してくれた。


「あとはもう特急乗るだけだから、寝てたらいいよ。きっと今までの疲れが重なったんだね。こっちこそごめん、ミツルは今まで色々大変だったのに。連れてきちゃって」

「そんな、こと! ないですよ!」


 謝る必要なんてこれっぽっちもないのに、そう言ってきたカメさんに私はかすれた声で言って帽子を脱いだ。


「ないよ……そんなこと。私、う、嬉しかったですよ、こんな状態なのに、連れてきてもらって、ロープウェイも遊覧船も良かったし、ホテルも海も、すごい綺麗だった、カレーも美味しかった――ッ」


 なのに私は。

 なんにも思い出せなかった。

 カメさんがこんなにも手を尽くしてくれたというのに。


 心の中で付け足したら。だんだんと声が震えて、乾いていた喉のが奥の方からきゅっと締まってきた。


「私が喜ぶだろうって、『サボテンパーク』連れて行ってくれたことも!私が体調崩しても、怒らないし……なんていうか、ありえないくらい、充実してました。ほんと、ほんとに…………楽しかったよ」


 楽しかった。

 そう、これは本当の気持ちなのだ。

 楽しかったから。

 こんなおかしなタイミングで、涙が出るのだ。


 こんな体験、今までしたことがない。

 一緒に手を繋いで歩いて。隣で海を見て。美味しいものをおなかいっぱい食べて。笑いあって。


 恋人がいる人の気持ちってこんな感じなんだって。


 こんなにいいものなんだって。こういうのが幸せなんだって。わかった。


「楽しかった、……楽しかったです」


 繰り返すたび、目の前のカメさんが歪んでいく。


「そうだね。楽しかったね。おれもだよ」


 カメさんは、ポケットからハンカチを出して、私の目に溜まった涙を拭き取って頭を抱き寄せた。


「楽しかったね」

「う……んッ」

「また来ようよ」


 そう言われて。私は涙と鼻水を飲み込む。


「ここから見える夕日も、あの時と同じだ。この夕日がおれ好きでさ、ずっと目に焼きついてた、またいつかここに帰ってきたいな。って、そう思える景色なんだよおれにとっては……だからさ、また来よう」


 私も。

 できることならそうしたい。

 また来たい。


 鼻水を乱暴に啜って、拳を握り締める。


 カメさんのこれからの苦労を思えば。

 このまま帰って、あの手紙を見つけてもらって、連絡を絶つべきだ。


 私の記憶障害は病気じゃないのだ。治る見込みも、元に戻る保証もない。


 元の私が、二度と戻ってこない可能性もあるなら。悔いがあってもここで終わりにするべき。


 カメさんのためにも――そう思ったのに。


 ここに帰ってこようよ、二人で。


 その言葉が、大波のように押し寄せて。心の中のなにかを掻っ攫われたような、そんな気持ちになり。

 私は、気がついたらカメさんの鞄の中を強引に漁って、昨晩何時間もかけて書いた手紙を引っ張り出した。


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