第93話 決断すべきは。
私は、鵺ヶ原さんとの騒動が終わってから、ずっとふつふつと込み上げさせてきたある考えを初めてそこで口にする。
「……私、別れることも……考えるべきかな」
携帯を握りしめる手が汗ばむ。
聞こえたかな、と振り向いても、彼は寝返りも打たず夢の中だ。
『卑怯ね。あんた』
「……そう思う」
『それでもって贅沢』
う、
『いざこざからやっと抜け出せて、優しい彼とうんと羽伸ばして……守られて大切にされてること改めて知ったのに。その恩返しが、別れてくれ?』
驚く様子もなく。恐らく前々から私が考えていたことを少なからず予想していたのかもしれない、ウサは。
『薄情にもほどがあるわ』
と言いながらも。やめろと言わないのは、私がまだ口にしていない心の内を、わかってくれているからだ。
「もしそれを選んだとしたら、彼は今まで以上に傷つくし、あんたも同じよ、深く後悔することになる」
「でも、苦しいのはその時だけだよ……。あのさ、ウサ、私が今一番怖いのはさ、記憶が戻らないことじゃなくて。カメさんが私にばっか合わせて、辛くなってもそれを隠して、我慢し続けちゃうことだよ」
いつもの散歩コース、行きつけのレストラン。
そういえば前、ここから見た夕日綺麗だったねって。話したいって思ってても言えない。
こんな話をして笑いあったよねって打ち明けたくても、できない。
私は彼と、今までの思い出を共有できない。
それは私も辛いけど、きっとカメさんにはもっと辛いこと。
そんな場面がこれから何度もあって、お互いズレを感じたまま進んでいって、カメさんが私から離れたいな、自由になりたいなって思ったとしても。
あの優しい人はきっと、言い出さないんじゃないだろうか。
「そんなの、いやなんだよ私……」
自分の知らないうちに、これ以上傷つけたくない。
あんなに優しくて、穏やかで、包容力があって、温かい人を。
「カメさんには、うんと幸せになってほしいから」
あんなに助けてもらったのに、カメさんが楽になれるのはこの方法しかないんじゃないかって。そう思ってしまう私には。きっと彼を本当の意味で幸せになんてできない。
正直言って、今はまだ誰かに支えてほしいし、カメさんにはそばにいて欲しい。でもそんな自分本位は、もう捨てるべきだ。
私よりも、彼に相応しい女性は他にいるはずなのだから。
怒られるだろうし、悲しませると思う。反対して、最後まで粘るんじゃないだろうか。そして最後には、とてもとても傷ついた顔をさせてしまうんだと思う。
それでも――いつかこれで良かったと思える日が来るかもしれない。
私は、ウサとの通話を終わらせて。月明かりだけが照らす窓辺のテーブルに、港の売店で購入した、魚の便箋と、海色の封筒を広げた。
なかなか進まないペンで、長い、言い訳を書き並べて。それを、カメさんの鞄の奥底の方に沈めた。
こんな方法しか選べない自分が馬鹿で、情けなくて、指が震えて、何度も便箋を駄目にした。
便箋を破り捨てるたびに、私は、
ねえ、いいの。
さっさと帰ってこないと、あんたの恋愛、終わっちゃうよ。
私が、台無しにしちゃうよ。
三年。
あんたが大事にしてたはずの三年の初恋が。
なにもかも、だめになっちゃうよ。
そう、頭の中で繰り返したけれど。
カメさんの彼女だった私は、私の中に戻ってきてはくれなかった。
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