第78話 叫び。

 唐突に放った一撃は想像以上の威力を発揮した。


 女の私にはわからないが、そこはやはり男にとっての最大の急所とも言える場所。

 鵺ヶ原さんが奇怪な悲鳴を発して、たったの一撃でよろけて倒れこんだのを見て、改めて実感した。


 だが――、

 これだけじゃ、気がすまない。


 びくんびくんと地面で跳ねて痛みにのたうつ彼に、冷静さを完全に手放した私は、さらなる追撃を。


「テメェ……みたいなッ! 最低のクズ野郎にッ……私は傷つけられるほど弱くねぇんだよぉおお!! 私はッ――そんな自分勝手な理由で人生狂わされていいヤツじゃないんだ! テメェのオモチャじゃない!! ちゃんとその身に刻めクソッタレがァッ!!」


 息を乱し、心臓を跳ねさせ、私は何度も、何度も、悲鳴を上げる鵺ヶ原さんの股間を無遠慮に踏みつけた。


「誰かをほんとうに好きになったこともないくせに! 女を食い物にしてんじゃねーよッ! 女は、女はなあ! テメェが思ってるほど弱かねぇえんだよッ!!」

「――ひぎぃあッ」


 断続的に悲鳴を発する口から唾液が溢れていく。

 それでも私は、急所だけを狙った連続攻撃を緩めない。


「テメーにこの苦しみがわかるかよ! 好きな人を忘れた苦しみが! 忘れた自分を恨む苦しみが! 思い出せない苦しみがッ!!」


 そしてその思いを弄ばれ――傷つけられる苦しみが!!


「テメェに、テメェなんかに! 私を邪魔する権利なんかない! 奪う権利も――!!」

「もぉッ……やめ――」


 泣いて懇願されても、もう遅い。


「カメさんを馬鹿にする権利も、傷つける権利も――!!」


 声が掠れて、息をするのも苦しかった。

 それでも。私は――徹底的に全てを吐き出した。


「ひとつたりともねェんだよぉおおおおおおおお――――!!」


 最後の一撃を、全身全霊で踏み抜いて。


 サイレンのような高い絶叫が雨空に打ち上がって。


 鵺ヶ原さんは泡を吹きながら卒倒してしまった。


 はぁはぁはぁはぁと浅い呼吸を繰り返す私はそこで急に寒さを感じた。


 あ…………。

 終わった…………。


 …………終わった……んだ。


 私が我に返ってその場にバシャリとへたり込むと。


「――おい! 君たち!」


 懐中電灯のいくつもの光が私たちを照らした。


「大丈夫か!!」


 駆けつけてきたのは、ホームセンターの店長さん、数人の男性スタッフ、制服警備員のおっちゃんら。


 転がされたナイフ、手から血を流したカメさん、前全開で下着を晒し、服と髪を乱した私、大の字で倒れて泡を吹いている鵺ヶ原さん。


 この惨状、誰が被害者で誰が加害者なのか。すぐに見分けがつくはずなかった。


「――そいつです! その倒れている方の男を捕まえてください!!」


 人集りの中から指をさし、声を張り上げたのは……。


「ねこむら……さん」

「その男、スタンガン持ってます……! それで先輩にッ――乱暴を!!」


 傘を持って、険しい顔をした猫村さんだった。


「おい血が出てるぞ……! 君、大丈夫か!」

「とにかく取り押さえて! 警察!! あと救急車も――!!」


 男性数十人がばたばたと取り囲む中で、私はろくに言葉も出せずぼうっとしていた。

 猫村さんに傘をさされ呼びかけられても。


「先輩怪我は――!?」

「あ、ははは……見た…………? あの顔、あの鵺ヶ原さんの顔……やばいよね、あはは…………はは」

「先輩! しっかりしてください!」


 なにが起こっていたのか。理解が追いつかなくて薄く笑う私に上着をかける猫村さん。


「……ミツル、いいよ、だいじょうぶ」


 肩を震わせる私の、シャツのボタンをカメさんはそう言いながら閉めていく。

 血のしたたる手で、上から、きっちりと。


「だいじょうぶ。だいじょうぶ」


 もう終わったから。


「だいじょうぶ……もう大丈夫」


 白いシャツに血が染みていく。

 眼鏡も探さずに、淡々と私と私の身なりだけを気遣うカメさんは、私以上にボロボロだった。


 ボタンがかけられていくたびに、だんだんと現実に引き戻されるようで。


「カメさん……ッ、ち……ちがっ……血がぁっ」


 カメさんが来てくれなければどうなっていたかとか。

 殺されそうになったとか。

 なにも悪くないカメさんが殴られて、蹴られて、怪我をしてしまったとか。

 その全てのことが、どしんと頭上からのしかかってくるようで。

 先ほどと比べものにならない震えが爪先から昇ってきた。

 鼻の奥が痛くなって、目元が熱を帯びて。


 そして一気に流れ出す。



「大丈夫だよ。ミツル」



 私は、もう立つこともできずに、込み上げてきた涙を溢れさせて、子供のように大声出して泣くことしかできなかった。


 夏の終わり近づく。嵐の夜のことだった。

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