第79話 父と母。

 騒動のあと聞いた話だけど。


 カメさんがあの時、私を助けに来られたのは、猫村さんが知らせてくれたお陰だった。


 社員用入口で別れた後、猫村さんはたまたま忘れ物を取りに引き返して、そこで物騒なものを握った物々しい雰囲気の鵺ヶ原さんを見かけたという。


 一時期裏で手を組んでいた二人だが、鵺ヶ原さんの私に対する執着は、恋愛のそれとは形が違うものだと、猫村さんでも妙に感じる節が前々からあったそうだ。


 私が向かった先に進む彼を見て、もしやと思い跡をつけて、例の現場を目撃し、大慌てで猫村さんは店の前で待機していたカメさんに事を伝え。

 カメさんを行かせてからは、店長さん、制服警備員らに動いてもらえるように一人走り回ってくれたのだ。


 警察が駆けつけ、救急車がやってきて。

 私たちは病院でそれぞれ怪我の治療を受けた。私は軽い打撲と、擦り傷と診断されたが。

 カメさんの方はしばらく仕事に支障が出るだろうと言われてしまった。

 当たり前だ、刃物を直で握り込み、そのうえ何度も暴行を加えられたのだから。


 それもこれも、私を庇うために。


「――ミツルちゃん……!?」


 処置室の前の長椅子に沈み込み、まだ混乱の渦の中にいた私の顔を上げさせたのは、身なりの綺麗な五十代半ばほどの女性だった。


 優しそうな雰囲気。一目見てわかった。


「カメさんの……お母さん……」


 私が立ち上がると、彼女は慌てて駆け寄って、私を抱きしめてくれた。


「よかった……! 話を聞いてほんとうに、ほんっとうに心配したのよ! 大変な目に遭ったって……怖かったでしょう……怪我をして」


 ハンカチを鞄から出して、私の濡れた衣服をしきりに拭いてくれる、自分だって濡れているのに。


「あっ、ごめんなさいね、いきなりびっくりするわよね。話は大介から聞いていたのよ、少し前に事件に巻き込まれたって……だから私のことも覚えていないかもしれないけど、亀井戸かめいど 世利子よりこです。大介の母です。本当は何度か会っているけれど、今はきっとはじめましてね、ミツルちゃん」

「ごめん、なさい……私が、カメさんを巻き込んで……カメさんが、怪我をッ……」


 そう口に出して思い切り頭を下げるので精一杯だった。


「謝らないで。悪いのは犯人の方でしょう。なにがあったのかはまだよくわからないけど、ミツルちゃんが乱暴されそうになったって聞いたから……私はそっちの方がずっと心配だったわ」

「お母さん……」

「もしそんなことになっていたら。ずっとずっと辛い思いをしたでしょうから。だから、無事でよかった……。大丈夫よ、大介なら、あの子あれで結構丈夫なの、手を切ったって聞いたけど、命があるなら、なんとでもなるもの。ミツルちゃん、そんな顔しなくていいのよ」


 二人とも無事だったんだから。


 そう笑いかけられて。私はまた目頭が熱くなるのを感じた。

 ここは怒鳴ってもいいところなのに。うちの息子をよくも巻き込んで、ぐらい言っていい場面なのに。やっぱりこの人は、カメさんのお母さんだ。


 ちょっと前からたまにカメさんにお母さんの話を聞かされていた。

 カメさんの家は、十年前に離婚して、今はお母さんとお祖父さんと、お姉さんとの四人暮らし。

 私も何度か遊びに行ったことがあるそうで。お母さんは一人暮らしの私を気にかけてなにかとお土産を持たせてくれたそうだ。

 私が記憶障害になったことも知っていて。とても心配してくれていたということも聞いていた。

 もう少し思い出せてきたら、また遊びにいらっしゃいと。言ってくれていたことも。


 カメさんのお母さんはほんとうに穏やかな人で、カメさんの治療が終わるまで、私に付き添い、長椅子に座って一緒に待ってくれた。


「ミツル、…………あ、お袋……」

「あ、お袋……じゃないわよあんた! もう!」


 しばらくして、処置室から送り出されてきた包帯まみれのカメさんが、ぽかんと第一声を吐いて。

 世利子さんは、まるでいつもと変わらないように冷静なツッコミを入れた。

 全然取り乱してない。すごいや流石シングルマザー……。


「聞いたわよ、犯人倒したのミツルちゃんだって。もうあんたはなにをやってるのよ! 男のくせに!」

「ぐ……。そこ突かれるとすごく痛い」

「お姉ちゃんもおじいちゃんも呆れてたわよ! だから日頃から少し体鍛えとけって言ってるのにって!」

「ねえ! おれの心配は!?」


 タジタジのカメさん。

 そのやりとりに、少しだけ心が軽くなった。


「――ミツルッ!!」


 なんて思った矢先。ばたばたとやって来る。うちの家族。

 父親を先頭にして、姉貴、母親が私の名前を呼ぶ。

 そりゃあこんなことになったんだもの。来ないはずはないのだろうけれど、凄い形相で三人がこっちに向かってくることに私はヒヤッとした。


 あれから、私の方からはカメさんのことについて家族になんの報告もしていない。

 父親が走ってくる。


「ちょ、お父さん、あの――」


 誤解して怒鳴るんじゃないか。

 やばい衝突するかも。

 危機感を感じて、まず状況を説明しようと私が前に出ると。


「亀井戸さん。初めまして、美鶴の父です。こちらは家内、長女です……この度は――ほんとうに、うちの娘が大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした!」


 びしりと、彼と、彼のお母さんの前で止まったかと思うと。

 うちの父親は、眉間に皺を寄せ。深く深く頭を下げた。


 母親も、姉貴も。続いて丁寧にお辞儀をする。


 思い描いていたのとだいぶ違って、私はしばらく呆気に取られていたけれども、すぐに私も家族の方に回って、二人に頭を下げた。

 勿論二人はそんなふうに謝ってもらう必要はないと言ったが。父親は首を振り、特にカメさんには手を握って、御礼と、謝罪の言葉を何度も言い。

 私たち一家は、それから何度も何度も、カメさん親子に頭を下げた。


 私がなにをされそうになったか。どんな状況だったかは。既に警察から聞いていたようだ。

 父親は背を丸め、声を掠れさせ、頭を下げる姿はまるで鹿おどしのようだった。

 顔を見たら、ほんとうに情けない顔をしていた。

 こんな父親の姿を初めて見た気がして。


 私は、複雑な気持ちだった。

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