第76話 乱闘。

「てめえがなにしてやがンだこの眼鏡がァアッ!!」

「ミツルに触るな! っ……絶対に許さねえ……このおおッ!」


 ボンネットのカメさんに向かって威嚇する鵺ヶ原さん。

 一瞬怯むような素振りを見せるも、カメさんはハンマーを放り捨てて身長も体格差もある鵺ヶ原さんに突進していく。


「王子さま気取りかよ! ァアアッ?!」


 全身濡れ鼠で、それでも果敢に向かっていく彼を、鵺ヶ原さんは笑いながら一蹴した。

 力を比べる間もなく、カメさんの細い体が深い水溜りに投げ飛ばされ、眼鏡がコンクリートに叩きつけられる。


「ハハハァアッ! 弱すぎだろ!!」

「カメさん……ッ!!」

「ほらほらぁ、ミツルちゃんみてるよぉ~? 君、王子さまなんでしょ? だめじゃんさあ、カッコいいとこ見せてあげないとさぁ?」


 痛みに表情を歪ませ、横たわったカメさんに鵺ヶ原さんはゆっくり近づきながら髪を掴んで上を向かせる。


「それともここで、さっきの続き見せてあげようか。実況してあげるよ? 君のためにさあ!」


 悪魔のような顔で告げられて、カメさんが顔つきを変えて拳を握る。


「ふざっ……けんな……お前みたいなやつに……ミツルをこれ以上、傷つけさせるか……! ミツルが、どんなに一人で苦しんでるか、それも知らない、お前なんかに……ッ!!」

「んなもん知らねえよ……!」

「うぅううぐッ――!!」


 髪の毛を放され、カメさんに容赦ない蹴りの嵐が降り注ぐ。


「世の中みんな見た目さえよければいいんだよ! お前みたいなパッとしない奴はさぁ! こうやってしゃしゃり出ちゃダメなんだって! 俺みたいな一軍の踏み台になって、羨望の眼差し向けながら地面の泥でも舐めてりゃいいんだよぉおお!!」


 それでも抵抗をやめないカメさんは、自らを襲う乱暴な脚に縋りついて、


「ミツル……っは、や……く! 早く逃げて!」


 私に叫び続ける。


「噛んでんじゃねえよ!」


 ぼごっとまた鈍い音が豪雨の中で上がって。水溜りが飛沫を上げる。


「ミツル゙――ッ!」

「もう終わりかよ、ほらほらもっと張り合ってくれないと困るんだけどさぁあ!!」


 私はその時気づいた。

 吸い殻入れに刺さっていた刃物がない――。


「ちょっとさァ……図に乗りすぎだろお前、顔面低レベルがよぉ」

「ッ……う……」

「勝ち誇ってんじゃねえよッ!! ブサイクどもが!!」


 もはや理屈もなにもない暴言を吐いて、鵺ヶ原さんが倒れたカメさんの上に跨って、ポケットからあの刃を出す。


 残忍な眼、激しく上下する肩。

 あれは――もう、脅しじゃない。


 私は後部座席にあった自分の鞄の中から慌てて小型のスプレー缶を取り出して、車から、水浸しの外へと転がり出た。


「うぁ゙あ゙ああ゙ああああああああッ!!」


 わけがわからなくなるほどに走って、無茶苦茶に叫んで。

 私は、スプレー缶を握って鵺ヶ原さんの背後に向かって腕を掴み、肩口に噛みついた。

 悲鳴を上げて飛び上がる鵺ヶ原さん。でもそんなの一瞬だけだ、すぐに全身の力を使ってはね飛ばされる私。


「ミツル――!!」


 鬼の形相で睨まれ、尻餅をつく――でも。

 私は震えまくる手でキャップを外し、あの事件後、姉貴が護身用だと勝手に鞄に入れていた。催涙スプレーを。

 襲ってくる恐ろしい顔面に向けて一気に噴射した。


 小さくても効き目は抜群、鵺ヶ原さんはすぐに目元を押さえて呻いた。

 やった……。


「っ、ッ……ふざけるな――このクソオンナッ!」

「ミツルあぶな――!!」


 しかし私はやはり詰めが甘い奴だ。

 仕掛けた一撃が予想以上に効果を発揮して、気を緩めてしまった。

 鵺ヶ原さんの手にはナイフ――私はスプレーで確かに隙を作ったが、充分まだ射程圏内にいたのに。


 鋭い切っ先がこちらを向く。

 近い……やばい……やばいよ、今度こそこれ。


 本当にし――、



「み……つるッ!」



 あの時と同じ死の恐怖を感じ。

 動けなくなった私の前に赤い雫が滴って、息を吹き返したように顔を上げると。


 鵺ヶ原さんが振り上げたナイフを、背後からカメさんが、刃先もろとも握って……。


「退けよ! ……殺すぞ……ほんとうに……!」


 脅されても、カメさんは握った手を開かずに歯を食いしばって、痛みに顔を歪ませながらも退こうとはしない。


 ナイフも、鵺ヶ原さんの腕も、カメさんの手の中もみんなみんな赤に染まっていく。


 血が……水溜りに混じって溶けていく。

 カメさんの、血。


「この――ッ」


 流れていいはずがない――彼の。

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