第74話 立ち去る影。
大きく首を振り乱して拒絶をするも、聞き入れてもらえるはずもなく。
「やめてくださいッ」
鵺ヶ原さんがゆっくり近づいて、私の頬を触って、腕を掴んでくる。
鵺ヶ原さんは最初から私のことを好きなわけじゃなかった。ただ単に欲求の穴を満たすためのピースの一つにするために私に近づいた。そういう態度を取って、言葉を吐いていた。あの時も、三年前も――。
そんなことに傷ついている暇さえない。
この先にどんな展開が待ち受けているか、考えたくもないのに想像してしまって。体が、恐怖で動かない。
なにか、しないと。どうにかしないと。
いやだ、いやだ、いやだ。
ただ思い通りにできなかったから、そんなくだらない逆恨みで。
「こん、な……ッこと、したって、後で、鵺ヶ原さんも大変なことになりますよ……」
「って、みんな言うよねぇ」
……え。
「いいよ、警察に届けてくれても」
「そしたら――」
「届けて、君も一緒に辛い思いしていいのなら、だけどね」
鵺ヶ原さんが次に私の視界に入れてきたものを見てから。私はまた大きくぶるりと震えることになった。
携帯……、まさか、……やだ、やめて、いや――。
「ちゃんと最後まで撮ってあげるから。今のネットって凄いからね、一度流せばたちまち拡散されて、複製だって一瞬だ。だから根が絶たれることはほぼない。こういう類の動画は特にね。たとえ君が俺を警察に突き出したとしても、別に人を殺したわけじゃない、この国は本当に罪人に甘い、すぐに出てこられる。でも君はどうだろうね、俺が罪を償い終わった後でも、剣木さんはネット世界にばら撒かれた自分の醜態に苦しみ続けることになる。一生ね」
震えが、止まらない。
涙が、目の奥からこみ上げてくる。
卑劣で、邪悪すぎる。
普通の人間の考えじゃない。
「って、言うとだいたいみんな泣き寝入りで終わるんだ。だけど一応忠告しておこうか、もしも、警察になんか行ってみなよ――動画流すだけじゃなくて、俺、君のこと殺しに行くから」
「ッ、ひ……」
「そうなったら俺は君の代わりにちゃんと言ってあげるよ。交際によるトラブルから、衝動的な殺意を沸かせてしまった。もともと殺すつもりはなかった、反省している。剣木さんのために全力で罪を償いたい……ってさあ。内心舌出して、法廷で頭下げてやるよ。そしたらせいぜい十年そこらかなあ、無駄にしても。ブタ箱でいい子にしてればもっと短いってね。それを考えると日本ってほんっと、クソだよねえ」
そこまで全部。いつも用意している脅し文句なのだろう。でも――鵺ヶ原さんは笑っていなかった。
目が、本物の犯罪者のそれだと思えた。
「まあ心配しなくていいよ。ここは駐車場の一番奥。誰も来やしないよ、叫んでもね」
「いや……」
「大丈夫、怖いのは最初だけだから、剣木さんが喜ぶように、色々とスタンガン以外にも用意してきたんだ」
そうして鵺ヶ原さんは私の首元に顔を埋めてきて、私の、シャツのボタンを一番下から外し始めた。
わざと時間をかけて、でも逃げないように跨って。
「やめてください……やめて! やめてくださいよぉお!! イヤァアアアッ!!」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、こわい、コワイ、キモチワルイ、怖い――。
叫びも虚しく雨音にかき消される。
世の中には。ある日突然、なんの前触れもなく、こんな、不当な目に遭って、悲しくて、悔しくて、心がぐちゃぐちゃになるぐらいの辛い思いをする人が、きっと、私の知らないどこかにいるんだと。
そう今まで思っていた。
今の自分がそうなろうとしているなんて。そうなってしまうなんて。
思ってもみなかった。みんな、想像なんてできないよこんなこと。
こんな理不尽なこと――。
「あ――ッ」
その時。雨に濡れた窓ガラスの向こう側に。
ぽつんと立った人影を見つけた。
「あ、あ、ああああ――」
こちらを見ていた。
カメさんだった。
目を見開いて、傘もささず。
土砂降りの雨に打たれて。
車の中の私たちを見ていた。
「かめ、さ……ッ」
手を伸ばした時。彼は踵を返してその場を立ち去った。
振り向きもせず。豪雨の中、私の前から消えてしまった。
うそだ、うそだ、やだよ……。
血の流れが止まったように、全身が寒くなる。
誤解、されたんだ…………。
カメさんは、車の中でもつれる私たちを見て、あの顔、きっと誤解した。私が、自ら鵺ヶ原さんに体を明け渡していると思ったんだ。そして見離された、見切られた。
そんな、違うのに、でも、帰ってこない。行っちゃった。
違う、違うんだよ。戻ってきて――たすけてよ、私。ちがうの。
カメさん……ッ。
「あッ……う……ッ、やだ」
失意の底に沈む感覚。伸ばした腕がばさりと落ちる、抵抗を続けていた右腕も力をなくす。
三つ目のボタンが外された。
残り二つで……。でも、もう暴れる気にもなれない、暴れたところできっと無駄だ。
「もしかして剣木さん処女なの? ああ……そうでなかったとしても、今は精神的には初めてだよねきっと」
そんな馬鹿なことを耳元で囁かれる。
プツッと、四つ目がいとも簡単に外され。最後の一つに手をかけられた時、私の中の恐怖も一緒に弾け飛んだ。
マグマが湧き上がるようにガタガタと体の底から震えて、吐き気が昇ってくる。
これが真の恐怖――そう確信した瞬間。
私は、思い出した。
断片的な記憶を。
この恐怖。初めてじゃない。私は似たような恐怖を体験している。
あの時に――。
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