第13話 ドイツ・イギリス・清
大刀会の仲間は、1時間ほど過ぎてから到着した。4人の手下を捕縛し、2人の遺体を運び出す。ホームズが最後に抱えたその顔を見て、一つ息をついてから言った。
「……この人物はフリッツ・ハーバーではありません。身分証に載っている名前が違うし、持ち物の中に特徴を書き留めた本物の写真が入っている。影武者です。列車の中で何度も鏡を見ていたのは、変装のための化粧を気にしていたんでしょう。ただ、彼が林英文さんを殺したのは間違いない。彼が使っていた機材は、ロンドンで調べた装置の記録に合致しています」
「そうですか……」
林が答えた。
「残念ながら、僕たちにできることは一つ一つの犯罪に決着をつけるところまでです。李師父のおかげもあって、あなたの兄を殺した相手に裁きを下すことはできた。ですが、そこまでです」
「……それでも、一つの脅威は防げました。私の目的は復讐ではない。この国にもたらされる災厄を防ぐことです」
「存じております。しかし、真実もまた同じように大事にするべきです」
ホームズが林に向いて言った。
「どういう事ですか?」
「フリッツ・ハーバーが影武者であったように、あなたもまた影武者だったということです。あなたは大刀会が編成する組織である
「……よくわかりましたね」
「あなたは林という苗字ではあるのでしょう。しかし黒児という名前ではない。ワトソンが旅の中で記録を取るたびにどう描かれているかを気にしたのは、名前を覚えてもらえと大刀会にしつこく言われたからでしょう。その代わりに兄の仇を討つために出資してもらっていた。
英語が上手で僕の協力が必要な人は多くない。あなたはこの役回りにうってつけだったのでしょうね。最初にシャパロンを断った時、これは遠慮ではなく身近におく人を増やしたくないのだなと気がつきました。その後、乗船時の署名で、ペンの反対側を見てスペルを確認しました。サインはアルファベットで書くことになっていますから、それを頭に入れる。それから船の中で清国語を学び、発音と異なっている名前を書いているのがはっきりしました。これで確定です」
「もう、驚くこともなくなりました。そのとおりです。兄の無念を晴らすこと、私にはそれが全てでした。
これでお会いすることもないでしょうが、あなたのことは忘れません。深く感謝いたします、ホームズさん」
「いえいえ」
林黒児を名乗った女性は私たちへの報酬を渡すと、馬をかけて役人へ事件を知らせに行った。
ホームズが、最後に李の前に立った。言葉は通じず、その背に追うものも違う行きずりの男へ、乱闘でぼろぼろになった帽子を脱いで頭を下げた。やや遅れて、李も右の拳を左手で包む礼をホームズに向けた。
お互いに微笑をかわした。よく見なければ気づきもしないような。しかしそれは、二人の間だけに通じる最高の敬意であった。
大刀会の1人がたどたどしい英語で「君たちの仕事は終わりだ、先に北京へ行け」と馬を指さした。後日スコットランドヤードから犯罪の証拠を送ると伝え、ホームズが騎乗した。私も汚れた服をはらって横に並んだ。
冷たい風が吹いていたが、雹はもう降りそうにない。行く手の空から、鮮やかな陽光が降りていた。
「ホームズ」
「なんだい」
「私たちは果たして誰のためにここまできたのだろう。イギリスのためかね。清国のためかね。偶然に利害が一致しただけで、ドイツという国家に害をなしたに過ぎないのではないかね」
「ワトソン君、それは違うよ」
ホームズは寒空の下ではっきりと答えた。
「僕は難事件を解決に来た。それが全てだ。清国はこれからも列強から干渉され続けるだろう。フリッツ・ハーバーが生きている以上、毒ガスはまた悲惨な事件を生むに違いない。
しかし、今回のことがあったから、それは全て公に記録されるようになったのだ。闇に葬られそうになった事件を世にだした。これが探偵としての正義を果たしたことになると思うよ」
ホームズが語った。それはそれで納得のいく理屈ではあった。しかし私には、この友人が全てを話しきってはいないようにも感じた。
「もう少しこの国にいたいと思うかい?」
私が聞いた。
「君の推理には何の論拠もないね」
「そんなことはないさ」
ホームズはわずかに口を動かしかけたが、治りかけた肩の傷に触れると、ふたたび雪原へ目をむけた。
「いい旅行だったよ、ワトソン君。やはり、たまにはドーバー海峡を渡るべきだね」
*
1898年、プロシア帝国は膠州湾租借権を獲得。同地はドイツにとって清国進出の
1900年、大刀会は
1914年、第一次世界大戦勃発。ハーバー・ボッシュ法で知られる化学者フリッツ・ハーバーを擁したドイツ軍は、東部戦線でロシア軍に大規模な毒ガス放射を実施した。さらにイーペル戦線では数百トンの塩素を放出してフランス軍に局地的壊乱をもたらし、化学兵器の脅威を世界に知らしめた。この時ガスの拡散に使われたのはダイナモとモーターではなく、ドイツの進歩的な工業技術で作られたガスボンベであった。
ホームズが学んだ武術、バリツはステッキ術や日本式レスリングを含む総合的な護身術としてロンドンで何度か紹介された。東洋の神秘として一時は話題になったものの、後年商業的に失敗し、教える者がいなくなった。
李書文は義和団事変には参加しなかったが、その後も軍事・武術の指導者として活動を続けた。彼の八極拳は世界に広まり、質実純朴にして強大な威力を誇る拳術として多くの武芸者を魅了し、現在も高く評価されている。
(完)
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