第二章

 青白い月明かりが差し込む音楽室。

 音を奏でる者のいない室内は静まり返り、代わりに冷たく柔らかな光が、波のように漂う埃に反射して白く輝いている。

 窓から室内へと入り込む光は、奥へ行くほど白から青そして黒へとグラデーションを奏で、その光と闇の波間に白い人影が浮かび上がった。

 人影は透けるような白いワンピースを身にまとい、足首まである白髪を背中に流して、丸みを帯びた小さな顔を窓の外へと向けている。

 視線の先には女子寮があり、まだ幾つかの窓には明かりが灯って人影も見える。

《……私は……》

 白いそれは唇を動かすが、声は空気を揺らすことなく月明かりに溶けていく。

 白い人影の見つめる部屋には二つの影。一つはベッドに腰掛け、もう一つはその影に重なり丸くなっている。

 白いそれは腰掛けたほうの影をじっと見つめ、そして自分の髪をかき上げる。

 髪は手のひらからさらさらとこぼれ落ち、月光を反射して白いオーロラのように光を揺らした。

 しかしすべてが落ちきる前に、それは窓から差し込む闇によって輝きを失ってしまう。

 何かと窓から空を見れば、そこには大きな黒い塊が一つ浮かんでいた。

 塊は、その輪郭を示すように赤い点の連なりをゆっくりと点滅させている。

《……父さん……》

 白い影は黒い塊を見つめたままそうつぶやき、きつく自分の体を抱きしめた。

 その瞳は遠い憧れに揺れ、口元は悲しみに歪み、視線は再び地上の明かりへと落ちる。そして、そこにある温もりに強ばった表情は緩んでいく。

《……母さん……》

 その声が聞こえたかのように丸まった影がぴくりと反応し、二つの三角形を載せた頭が現れる。それは何かを探すような動きを見せ、しかし、もう一つの影が頭を撫でると再び丸くなっていく。

 白い影はベッドに腰掛ける黒い影に視線を移す。

《……私が……》

 月明かりを遮る巨大な影は遠ざかり、再び白い光が音楽室を、そして女子寮へと続く幾何学的な森を照らしていく。

《……私の、夢……》

 互いに体を寄せる二つの影を見ながら、白い影はもう一度、今度は優しく自分の体を抱きしめた。

 ふと俯いて自分の体を見下ろせば、そこには足先の代わりに床が見える。

 しかし彼女は気にすることなく窓の外へと視線を戻し、

《……叶え、ないと……》

 そうつぶやくと、よろめくように輪郭を歪ませた。

 風もなく揺れる影は、まるでノイズに浸食されるように徐々に引き裂かれ、音もなく人の形を失っていく。そして、ついには陽炎が消えるように白いそれは姿を消した。

 人影のなくなった音楽室には青白い月明かりだけが残り、室内は何事もなかったかのように静かなままだった。

       ◆

 神隠しの噂から数日後。

「今度はなんだ?」

 いつもの校舎へ続くレンガ道をシンとともに歩きながら、俺は周囲の明らかに浮ついた雰囲気に朝から少し疲れていた。

(せっかくの爽やかな朝が台無しだ)

 朝食のカツ丼ドリンクを飲みつつ周囲を窺えば、数日前まで怯えるように沈んでいた空気が嘘のように、今朝は周囲から明るい声がよく聞こえる。

 それも、特に女生徒を中心に。

 ある女生徒は小さな声だが興奮気味に何かを熱心に話し、それを聞いた別の女生徒は驚きの声を上げ、しかしすぐに慌てて口を噤む。そして、少し赤面しながらも再び小声で話し始める。

 そんな光景があちこちで繰り返され、たまたま目が合ったと思えば、なぜか非難がましい目で睨まれた。

(なんだ? この面倒な状況は……)

 自分の顔が険しくなっていくのを感じながら、俺は彼女たちと目を合わせないように少し視線を下げて歩くことにした。すると、そんな女生徒達にある共通点があることに気がついた。

 それは、彼女たちが人目をはばかるように同じような仕草をしていることだった。

 体を抱くように胸を腕で隠したり、胸の辺りに手をやったりしている。

 それを見て俺は、さらなる共通点に気がつく。

 それは、彼女たちの体型が一様にスレンダーだということだった。

「なあ、シン。何か新しいダイエットでも流行ってるのか?」

 隣で楽しげに周囲を眺めていたシンに話しかける。

「ん? 違うよ。その逆」

「逆?」

「それがさ……」

 シンは、なぜか周囲を気にすると耳元に口を寄せて小声で続けた。

「胸が大きくなったんだって」

「は?」

 シンが何を言ったのか一瞬理解できず、俺は疑問符を浮かべて彼を見た。

「だから、願いの井戸にお願いしたら一晩で胸が3サイズもアップしたんだって?」

「えーと……」

 なんだろう。単語の意味はわかるが、状況がイメージできない。

 俺は自分の体を見下ろして、シンの言葉を四、五回頭の中で反芻してみる。

 しかし、どうにも女生徒達が浮かれている意味がわからない。

(胸ねぇ……)

 大きい・小さいくらいしかわからない俺は、素直に疑問を口にした。

「なぁ、それって騒ぐほどのことか?」

「はぁっ!? おまえな、3サイズって言ったら平地に山ができる天変地異レベルだぞ!」

「お、おう……」

 詰め寄るシンに気圧されながら、俺は平地がゴゴゴゴという地鳴りとともに隆起して山になる姿を思い浮かべる。

「それは……、すごいかもな」

 女性の体と大地では、なんか違うような気がしなくもないが、俺は取り敢えず納得しておくことにした。

「平地がどうかした?」

 後ろからかけられた声に振り向けば、そこにはチルトの姿があった。

 横にはレクトの姿もあって、チルトは彼女の腕に抱きついて嬉しそうな顔をしている。

「おまえらも何かあったのか?」

 俺はレクトに尋ねるが、彼女は微笑むだけで何も答えない。それに二人の体を見ても、スラリとした体に特に変化は見られなかった。

「いやー、朝からナルさんの笑顔を見られるとは今日はついてるな」

 爽やかな笑顔でシンはそう言ってレクトに近づくと、その手を取ろうとする。しかし、それをチルトが立ちはだかって邪魔をする。

「ちょっと、何するのよ? 私のナルに気安く触れないで」

 小さな牙を剥いて威嚇する彼女にシンは少し考え込むように顎に手を当て、そして目の前に立ちはだかるチルトの体を、上から下へと真剣な眼差しでじっと眺め始める。

「な、何よ?」

 無言で自分を見つめるシンに、チルトは怯える猫のようにその凹凸の少ない体を抱きしめた。

 そんな彼女の肩に手を置くと、シンは一つ頷きチルトの瞳を真っ直ぐ見つめてこう言った。

「チーちゃん。井戸に行こう」

「は? なんでよ?」

 意図がわからず怪訝な目を向けるチルトに、シンはさらに両肩を掴んで答える。

「チーちゃんのちっぱいをおっぱいに……」

 その瞬間、チルトのこめかみがひくつき彼女の体から殺気がほとばしる。そして、

「ちっぱい言うなッ!!」

 怒号とともに放たれた彼女の回し蹴りは、見事にシンのこめかみを直撃した。

       ◆

「それって本当なの!?」

 チルトが俺の襟首を掴みながら、血走るような目で睨みつけ言ってくる。

 横目で地面を見ればシンは白目を剥いて倒れ、その頬をレクトが無表情でつついている。

 シンの暴言の説明を迫られ、胸が大きくなるという話をした途端に俺はこうなっていた。

「で、具体的にはどれくらい?」

 チルトは俺の首を絞めながら訊いてくる。

「なんでも、3サイズアップしたとか……」

「3サイズもっ!?」

「ぐぉ! く、くるし……」

 興奮するチルトの手には力が入り、その目は獲物を追い詰めた獣のように輝きを増す。そして、弓なりに歪んだ口からは「くくく」と不気味な笑い声が漏れ始めた。

 その声に応えるように、足下からシンの声が聞こえてくる。

「……そうだ、チーちゃん。今こそ……」

 声の主は、ゆらゆらと立ち上がり、自分の服の胸元を両手で掴むと勢いよく左右に引きちぎって叫んだ。

「今こそ、ちっぱいメガ進化のとき!」

「だから、大声でちっぱい言うなぁあああああああ!」

 チルトは俺から手を離すと素早く腰だめに構え、拳を大砲のような勢いで剥き出しになったシンの上半身へと発射した。

「ぐぼぉがああああっ!?」

 絶叫だけを残してシンが俺の目の前から消える。

 ようやく解放された首をさすりながら、俺は真っ直ぐ続く赤レンガの上を低空で飛んでいく友を見送った。

 突然の人間砲弾に道行く生徒達は驚き、絶叫に気付いて紙一重で避けながらも呆然と彼の行方へと視線を向ける。

 そして、それは学園を囲む森の中へと消えていった。

 直後に鈍く重い音が一つ響き、木々の間から十数羽の鳥が空へと羽ばたいていく。

 俺は空を見ながら友の安らかな眠りを祈ると、チルトへと視線を戻した。

 そこには拳を突き出したまま真っ赤な顔で荒い息を吐く獣耳少女の姿があった。

 そして、いつの間にか俺の後ろに隠れていたレクトがぽつりとつぶやいた。

「後で行ってみないと」

「「え?」」

 チルトと俺が同時に驚きの声を上げる。

 レクトはちょうど井戸のある方角を見つめたまま、考え事をするように小難しい顔をしている。

「レクトも、もしかして気になるのか?」

 俺の質問に、しかし彼女は意味がよくわからないというように首を傾げるだけだった。

「ちょっとクウロ、〝も〟ってどういう意味!?」

 そしてチルトは、なぜか不機嫌そうに睨んでくる。

 拳を握るチルトから微妙に距離をとりつつ、俺は話を続けた。

「……いや、胸の、じゃなくて体型のこと、なんだけど……」

 レクトの反応が気になるのか、チルトも彼女を見て動きを止める。

 二人の視線に彼女は口を開きかけ、しかし、それを遮るように予鈴の音が鳴り響いた。

「あ、皆さん、急がないと」

 レクトはそう言うと、さっさと先に行ってしまう。

「え? ちょっと、ナル?」

 チルトも慌てて彼女のあとを追いかける。

 残された俺はほっとしながら、女性って奴は面倒だなと空を見上げてため息をついた。

       ◆

 空に三つの大きな影と三日月が浮かぶ空の下、月明かりの届かない影の濃くなった校舎の壁沿いを、小さな明かりがきょろきょろと動いている。

 動く明かりは地面を照らし、光源を上へと辿れば小さなライトが、そして、そのすぐ後ろには長い髪を揺らす人影があった。

 人影は時折、周囲を素早く照らして人気がないことを確認しながら、足音を立てないようにゆっくりと、しかし迷うことなく歩みを進める。

 校舎の角、ちょうど音楽室の下へと来ると人影は立ち止まり、目の前にある丸い石積みの井戸へと明かりを向けた。

 井戸には木の蓋がされ、開かないように鎖が何重にも巻き付けられている。そして、蓋の表面には文字のような模様が大きく描かれ、鎖にも細かな模様が刻まれていた。

 人影はしばらく模様を眺め、それから再び周囲を見回して誰もいないことを確認すると、胸に手を当て小さく息を吸う。そして、つぶやくように言葉を放った。

「リミテッド・リリース」

 胸から漏れ出る淡い光に浮かび上がったのは、長い白髪に包まれたナル=レクトの無表情な顔だった。

《精震限定解放自動承認》

 機械的な声が聞こえ、それもすぐに夜の闇と静寂に消えていく。

 そんな中、彼女はポケットから一振りのナイフを取り出した。

 その刃は月明かりを吸い込むように艶なく黒く、表面には直線で構成された幾何学模様が微かに凹凸を浮かび上がらせている。

 レクトはナイフをゆっくり鎖へ近づけ、その鋭い先端が無骨な鎖に触れて澄んだ金属音を響かせた瞬間、ワードを口にしようとして、

《閉紋:シャドー・シフト》

 突然頭に響いた音の無い言葉に動きを止めた。

 今まで目の前にあった鎖と蓋が消えている。

「???」

 驚きに目を見開くレクトの前で、口を開けた井戸は息をするかのように周囲の空気を吸い込み始めた。

 その勢いはすさまじく、井戸へと流れ込む風はナイフを持ったレクトの腕に絡みつき、彼女の体を井戸の中へと引きずり込もうとする。

「くっ!」

 引っ張られていく体を、レクトは下半身の踏ん張りでなんとか耐えるが、今度は空気の流れを無視するように井戸の中から何か濃い霧のようなものが溢れだしてきた。

 それはライトの光とは関係なく、闇の中でもオーロラのように様々な色を見せる。

「これは来相……いや、疑似可変素子(ヴィナール)!?」

 思わず漏れたレクトの声に反応するかのように霧は無数の腕の形をとって、ナイフだけでなく彼女の体へまとわりついていく。と同時に井戸の口、ナイフの先端近くに顔のようなものが浮かび上がる。

 目鼻立ちや輪郭さえも揺らめいて曖昧なそれは、しかし歪んだ口で言葉を紡ぐ。

《あなたの願いは何?》

 それは頭に直接響き、直後にレクトをめまいが襲った。途端に体から力が抜け、手から抜けそうになったナイフを、彼女はライトを捨てて両手で掴む。それでも体は一気に井戸へと引っ張られる。 なんとか井戸の縁に体を引っかけながら、レクトは疑問を口にする。

「私の……願い?」

《願いを聞かせて》

 しかし霧の顔は同じ言葉を繰り返し、無数の手は勢いを増す風とともに少しずつレクトを井戸の中へと引きずり込む。

《もっと近くで》

 それは耳元で囁くように、しかし頭を締め付けるようにレクトの意識を奪っていく。

《もっと》

 ついには井戸の底へ向かって体が傾き、頭は完全に井戸の中へと呑み込まれ、無数の色が嵐のように視界を埋め尽くす。

《もっと》

 そして、完全に力の抜けた手からナイフがこぼれ落ちた直後、

「ねぇ、あなた……」

 突然、背後から女性の声が聞こえ、レクトは手放しかけた意識をすんでのところで掴み直した。

 声のほうへと視線を向ければ、そこには自分によく似た顔がある。

 レクトを見下ろす彼女は透けるような白のワンピースを着て、同じく白い長髪を風に揺らしていた。そして、その全身は淡く青白い光に包まれていた。

 彼女は、なぜか悲しげな表情を浮かべながら青い瞳をレクトに向けている。

 自分にそっくりで明らかに自分でない存在に、レクトは目を見開き唇を震わせる。

「あなたは……」

《逃がさない》

 レクトの言葉を遮るように再び歪んだ声が頭に響き、井戸から伸びた手はレクトの顔を覆って首を締め付け、その全身を包み込むと、ついには彼女を井戸の真上へ持ち上げた。

 そして次の瞬間、ぽっかり空いた井戸の口がレクトの体を呑み込んだ。

 それを白いワンピースの影は、井戸の縁から黙って見下ろしていた。

       ◇

「いったい、これはどういうことなんですか!」

 男の怒鳴り声が理事長室に響き渡る。

 落ち着いた色の赤絨毯が敷かれた室内には高級そうな執務机があり、そこに手をついて男は怒りの形相を浮かべていた。男は無精ヒゲに皺だらけのスーツと、いかにもこの部屋に似つかわしくない格好をしている。

 その対面には、でっぷりとした体格にブランドもののスーツを身にまとった理事長が椅子に腰掛け、額に吹き出た脂のような汗を金の刺繍入りの白いハンカチで拭いていた。

「どういうことかと言われても……」

 理事長は、立派な革張りの椅子に腰掛けながら顔をしかめて口籠もる。そして隣にチラチラと視線を送る。

 そこには、理事長とは対照的にひょろりとした体型の教頭が立っていた。

「ユウノさん」

 教頭は冷たい声で、神経質そうにメガネを直しながら言った。

「少し落ち着いてください。我が校としても事件性がない以上、無断欠席が続けば退学とするしかないのです」

「なっ……!?」

 男のこめかみに青筋が浮かぶ。

「娘が! ナルミが無断欠席なんてあるはずがないっ!」

 詰め寄る男に、しかし教頭は動じることなく淡々と話を続けた。

「ですが、理由もなく欠席しているのは事実。窃盗や傷害といった事件性を示すものがあれば話は別ですが、ただ姿を消しただけということであれば、当学園としては校則に従って対処するしかありません」

「しかし、たった一週間で捜索を打ち切るなんてっ!」

 拳を執務机に叩きつけて男は苦渋の表情を浮かべる。

 それを見下ろすように教頭は大きく息をつくと、いかにも申し訳なさそうな表情で男に言った。

「残念ながら当学園は最低ランクのスフィアですから、現実という壁を突きつけられて夢を諦める生徒も数多くいます。もちろん、娘さんも努力はされていたとは思います。が、最低ランクといえども世界の時を監視する機関――時間監視局(クロノフィス)の局員を養成するのが当学園の役目。やはり彼女の成績ですと、刻奏士になるのは……」

 そして大げさに首を横に振る教頭に、男は唇を震わせ血走った目で睨みつけながら言葉を絞り出す。

「たとえそうだとしても、ナルミが私に何も言わずにいなくなるなんて、自分の夢を諦めるなんて、あるはずがないッ!」

 それでも教頭は動じることなく、変わらず淡々と話を続けた。

「ここのところの試験でも彼女は成績不振が続いていたようですし、そのことで悩んでいたという話も聞いています。それに、監視局から捜査官として派遣された刻奏士による報告では、願いの井戸とかいう根も葉もない噂にも頼っていたとか……」

 男を見る教頭の目が、眼鏡の奥で嘲るように歪む。

 男の拳にはますます力が籠もり、血の気を失い白くなっていく。

 男は歯がみして教頭を睨みつけ、教頭も男を見たまま表情を変えなかった。

 張り詰めた沈黙がピリピリと空気を震わせる中、それまで無言だった理事長が吐き捨てるようにぼそりとつぶやいた。

「これだから身の程を知らない無能は……」

 瞬間的に男は理事長へと振り向き、同時に拳を振り上げる。

「貴様ぁああああああああああッ!」

 怒号とともに男は、それを躊躇なく振り下ろした。

「ひぃいいいいいっ!?」

 理事長は短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ち、男の拳は目標を失って鈍い音ともに執務机を凹ませた。

 怯える目で見上げる理事長と、その横で冷ややかに見下ろす教頭を順番に睨みつけ、男は荒い息をつきながら言葉を吐き出す。

「とにかく娘の退学は認めないからなっ! 娘は事件に巻き込まれたんだ! 敷地内を全部掘り返してでも探してもらうぞッ!!」

「そ、そんな無茶苦茶な……」

 椅子によじ登りながら理事長は冷や汗を浮かべて困惑を口にする。

 その態度に男は理事長を睨みつけ、

「おまえらができないなら俺がやってやる!」

 言うと同時に再び机を殴りつける。

 理事長は座りかけた椅子から再びずり落ち、しかし、慌てて言い返す。

「し、敷地内を勝手に掘り返すことは許さん!」

 その顔は青ざめ、二重顎からは冷や汗が滴り落ち、唇は紫色になっていた。

「そうですね。それは困ります」

 続いて聞こえた教頭の声はやけに冷たく、それに理事長は、なぜか怯えた視線を彼へと向ける。

 男は二人の様子に怪訝な視線を向けるが、教頭はメガネに手をやると二人の視線を無視してこう言った。

「一週間です」

「何?」

 男は意味がわからず聞き返す。

 それに教頭は短く息を吐くと話を続けた。

「あと一週間だけ捜索を続けましょう。それで何も事件性を示すものが出なければ、彼女は無断欠席により退学。それでいかがですか?」

「いや、少なくとも一カ月くらいは……」

 譲歩に難色を示す男に、教頭は疲れたように首を横に振る。

「さすがに、それでは授業に支障が出ます。たった一人の生徒のために、ほかの将来有望な生徒達の貴重な時間を浪費することは、それこそ、ナルミさんも望んでいないのではありませんか?」

 娘の名前を出され、男は言葉に詰まる。

 その様子に理事長は、椅子に深く腰掛け直すと大きく息をついた。そして、懲りずに小声でぼそりとつぶやいた。

「これだからフィッツに関わる者どもは……」

 その言葉に男の顔が再び真っ赤に染まる。

「また貴様はッ! 娘だけでなく妻までバカにするのかッ!!」

 そう怒鳴りながら、男は机を乗り越え理事長に殴りかかった。

 しかし振り下ろされた男の拳は、理事長の眼前でピタリと止まる。

「暴力はいけません」

 教頭はやれやれとため息をつきながら、男の手首を掴んだまま涼しい顔をして言った。

 男は教頭を睨みつけ、しかし椅子から再び転げ落ちた理事長を見下ろすと、腕から力を抜いて教頭へと視線を向ける。

「あと一週間は捜索してくれるんだな」

「はい」

 感情を抑えて言う男に、教頭は手首を放しながら慇懃に一礼して答えた。

 男は白く血の気を失った手首をさすりながら、教頭を一瞥すると出口へと振り返る。そして、その場で二人を見ることなくこう言った。

「わかった。だが……」

「だが?」

 教頭が短く聞き返す。

「ナルミは俺の娘だ。俺も探させてもらう」

 そう言って男は、決意を込めた表情とともに歩き出す。

「おい! 君、それは……!」

 理事長が男を呼び止めようとするが、男は無視して理事長室をあとにする。

 拒絶するように勢いよく閉じられた扉を呆然と見つめる理事長の横で、教頭はメガネに手をやりながら微かに口の端をつり上げていた。

       ◇

 濃い緑の生い茂った深い森の中、乱立する木々の影は重なり、起伏の激しい地面を濃淡の影が黒く染めている。

 そんな暗い中を、ぼさぼさの髪によれよれのミリタリーコートを着た男が一人で歩いていた。

 男は泥で汚れた顔に玉の汗を浮かべ、伸ばし放題の髭の間から息を吐きつつ前を見る。

 視界を埋め尽くすように立ち並ぶ太い幹の間から、白い日差しが細く見え、そして男は森の開けた場所へと辿り着く。

 そこにはクレーターのような巨大な穴があった。

「ここが、現相炉の関連施設跡か」

 穴の縁から底を見下ろし男はつぶやく。

 くぼんだ穴の中には、まるでゴミ溜めのように施設の残骸らしき崩れた柱や壁、ベルトコンベアやダクトのパーツが散乱している。

「? あれは……」

 男はコートから双眼鏡を取り出し、穴の中心付近へ向ける。

 そこには人の手足や胴などが山積みになっていた。

 しかし、よく見ると手足の関節部分は球体になっていて、皮膚を失った部分は黒く、頭髪のない頭部も黒く整った卵形をしている。

「施設で動いていたパペットか? しかし、それにしては数が多すぎる気が……」

 男は無数の人形がバラバラに絡み合った光景に顔をしかめながらも、茨のように石と鉄が生い茂る急斜面を慎重に降りていく。

 人形の山へと辿り着いた男は近くにあった真っ黒な頭部を一つ手に取り、人間であれば耳のある部分に開いた丸い穴の縁を見た。

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 そこには縁に沿って小さな文字の羅列が刻印されている。

「八四式。統制管理用か。かなり高性能なパペットだな」

 男はそう言ってコートの中から端末を取り出すと、その端から細いケーブルを引き出した。そして、その先端にある探針を穴の奥へと差し込み端末を操作し始める。

「何か情報が引き出せればいいが……」

 すると頭部の内側が微かに青白い光を放ち、

「いけるか?」

 そう思った矢先、焦げたような臭いが立ち込める。

「……熱っ!?」

 手のひらに感じた熱さに、男は思わず頭部から手を離した。

 落ちた頭部は堅い木のような音をたてて瓦礫の上を転がり、すぐに止まると目や口の穴から白い煙を上げ始める。

「まあ、そう簡単にはいかないか」

 ため息をついて、男は人形の頭から立ち上る煙を追うように空を見上げる。

 そこには巨大な長方形の板を思わせるシフト艦が一つ。そして、その下を薄暗い雲の群れが浜辺に押し寄せる波のようにゆっくりと流れていく。

 男は視線を人形の山に戻すと別の頭部を手に取り、先ほどと同じように探針を頭部に差し込んだ。

 そんなことを何十、何百と男は淡々と繰り返した。

 いつしか降りだした雨は男の全身を濡らし、雨雲は日差しを遮って影を濃くする。

 それでも男は、人形の頭や胴を山から引っ張り出しては端末を繋ぎ、調べ終わったパーツを背後へ捨てていく。

 日が落ち、男の後ろに背丈ほどの山ができはじめた頃、男は棺のようなものを人形の中から見つけた。

「ん? こいつは……」

 周囲のパーツをどけて引き抜いてみれば、棺の端部には肩幅ほどの巨大な接続端子があり、棺自体が何かの機器に繋いで使用する大きなカートリッジパーツのようになっていた。

 男は、接続端子に手にした端末の探針を接触させて状態を確かめる。

「これで開くか?」

 端末を操作すると、棺からプシュッという空気を吸い込む短い音がして、蓋が少し浮かび上がった。

 男はゆっくりと蓋を開く。すると、そこには一体の女型パペットが横たわっていた。

「……ナルミ?」

 思わず口にしたその名前に、男は慌てて首を振る。

 よく見れば、その皮膚は白色半透明で奥の黒い体がうっすらと透けて見える。そして、傷一つない艶やかな肌を優しく包むように、長く白い髪が足首まで伸びていた。

 男はパペットの頭を起こして耳裏を見る。

 しかし皮膚に透けて見えるはずの文字列は、そこにはなかった。

「ノーナンバー? 個体識別子がないってことは、出荷直前で廃棄されたのか?」

 固有の番号を持たない人形は、まるで死体のように静かに目を閉じている。

「たしか、初回起動は物理スイッチで奥歯の裏側に……」

 男はパペットを起動させようと、その小さな唇を親指と中指で器用に開く。そして、口の奥へと人差し指を進めた。歯に沿って指を進め、歯とは違う角張った感触を探り当てると、指先を曲げてそれを押す。

 するとスイッチの凹む感触とともに、半透明だった全身を覆う皮膚の表面を淡い光が波のように走り始める。

「おおっ!?」

 驚く男の目の前で、パペットは口を開くことなく起動を告げる。

《起動シークエンスを実行しています》

 そして、次第に皮膚は透明感を失い色白な肌へと変わり、同時に体全体が引き締まって肌に張りが生まれる。

 人の形をしたただの塊から力の流れる体となったパペットは、その上半身をゆっくりと起こし、男のほうへと目を閉じたまま顔を向ける。

 白髪は雨に濡れてその細い体に張り付き、長いまつげや柔らかな唇、そして肌を幾つもの水滴が流れ落ちていく。

《起動シークエンス終了。命令待機モードへ移行します》

 起動終了を告げたパペットはまぶたをゆっくりと開き、そこにある青い瞳を男に向けながら小首をかしげた。そして、そのまま動かなかった。

       ◇

「このように生体人形――通称パペットは性能の向上とともに当初の用途であった愛玩道具という枠を越え、その汎用性及びヒトとの親和性の高さから医療・介護または研究開発の分野まで幅広く活躍の場を広げていった」

 そう言って男は無精髭の生えた顎を撫でながら一息ついた。

 中央に大きなテーブルが一つだけ置かれた狭い部屋には、男女が向かい合わせで椅子に座っている。

 男は薄い板状の端末を見ながら話を続け、女は手にした男と同型の端末を熱心に見ながら頷いている。

 その青い瞳は好奇心旺盛な子供のようにせわしなく動き、しかしその顔を包むように左右に流れる長い白髪は落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 男は、そんな彼女の様子に苦笑を浮かべながらも説明を続ける。

「汎用性については、ヒト型という形態上の理由だけでなく、動力機関である疑似精零(シェム・スフィア)が基本的には水さえあれば動作可能であるため、ヒトの消化器に当たる部分のスペースを利用して、用途に応じた拡張機能を搭載可能であることも理由となっている」

 男は端末に表示された文字列を読みながらも、目の前の女――施設跡で拾った女型パペットのことを考えていた。

 このパペットが廃棄されていた施設跡は、スフィア13ができる前に同じ敷地にあったとある研究所の関連施設のものだった。

 そして、そこで行われていたある計画に男は疑念を抱いていた。

 〝現相炉計画〟

 それは現在から万能性を持つ未来を、すなわち現相から来相という量子状態の可変素子を人工的につくり出す計画だったらしい。

 刻奏術のように時を上書きするのではなく、時を破壊して巻き戻す。

 そんな夢語りのような計画の存在を知ったとき、男はそれが実現していれば娘がいた頃に戻れるのだろうかと思わず考え、すぐにそんな自分に呆れた。

 計画は成功したかどうかも不明で、計画の存在自体も確たる証拠がなく曖昧な情報が多い。

 しかし、それでも男は現相炉計画と研究所の存在を調べずにはいられなかった。

 スフィア13によって続けられた娘の捜索では結局何も手がかりは見つからず、男も独自に調べてみたが結果は同じだった。だから、わずかな情報でも男にとっては希望だった。

 そして現相炉計画にはもう一つ、男にとって気になることがあった。

 それは現相炉の燃料として使われる、あるものの存在。

 噂レベルの情報で隠語だと思われるそれは〝プエラ〟と呼ばれていた。

 その意味は少女・処女・娘で、いずれにしても男の不安をかき立てるには十分だった。

 男は目の前にいる人形をじっと見つめる。

(こいつから何か情報が引き出せれば)

 彼女には生体活動を維持する基本行動はインプットされていた。しかし、それ以外は言語設定さえもされていないようで、精震感応(ディバイン・エコー)による意思伝達以外はまともに会話すらできない状態だった。

(情報に対する認識力と理解力は高くて、言葉はすぐに覚えてくれたが……)

 男は顎を手でさすりながら端末の画面へ視線を落とす。

「あの、マスター」

 パペットが呼びかけても、男は画面を見たまま考え込んで視線を上げない。

(会話をするには、ある程度の共通認識が必要だからな……)

「マスター?」

(それにしても、まさか俺が教師のまねごとをすることになるとは……)

「マスター。聞こえていますか?」

(ナルミにだって、父親らしいことは何もしてやれなかった俺が……)

「マスター!!」

「おおっ!? なんだ、ナル……」

 そこまで言って、男は自分の口から出た娘の名を慌てて呑み込んだ。

「……ナル?」

 目の前のパペットは白髪を小さく揺らし、小首をかしげて男を見つめる。

 一人と一体の間に無言が生まれ、次の一言を先に発したのは人形だった。

「ナルとは何ですか?」

 首を傾けたまま向けられる青い瞳に、男は居心地の悪さを感じて目を逸らす。

「………………」

 黙ったままの人形に、男はちらりと視線を向けて様子を窺う。しかし、彼女は変わらず男を見ている。

「名前……かな?」

 観念するように、男はそう答えて再びパペットから目を逸らした。

 男の耳に、パペットの声で「名前、名称、識別するための言葉……」などという言葉の羅列が聞こえてくる。

 そして、それが終わると一呼吸置いて、人形は男に一つの質問をした。

「それは何の名前ですか?」

「それは……」

 傷に触れられたような引きつった顔を人形に向け、男は言葉を詰まらせ黙り込む。

「マスター?」

 さっきからずっと首を傾け自分を見つめる人形に、男は娘の顔を思い出す。

(……ナルミ……私の、娘……)

 しかし、その言葉は声にならず男の口を微かに動かしただけだった。

 それを見ていたパペットが、まねをするように口を動かす。

「……わた、し?」

 出てきた言葉を理解しようと彼女は何度か口を動かして、一つの推論を口にする。

「もしかして、それが私の名前ですか?」

 勘違いするパペットに男は苦笑を浮かべながら、そういえば彼女に名前をつけていなかったと、今さらながら気がついた。

(〝おい〟とか〝おまえ〟じゃ不便かもな)

 男は大きく息を吐くと、背筋を伸ばして彼女を真っ直ぐ見て答える。

「ああ、そうだ。それがおまえの名前だ」

 それを聞いたパペットは、目を閉じて胸に手を当てゆっくり一つ頷いた。そして再び顔を上げると、男を見て無表情にこう言う。

「了解です。私の名前はナル。認識・登録しました」

 そして彼女――ナルは軽くお辞儀をしながら言葉を続ける。

「今後ともナルをよろしくお願いいたします。マスター」

 その仕草に男は顔を気まずそうに視線を外すと、鼻をかきつつ端末へと視線を向ける。

「そういえば前から気になっていたんだが、そのマスターって呼び方は変えられたりするのか?」

 端末を見たまま言う男に、ナルは頷いて答える。

「はい。ご希望の呼び方を教えていただければ、そのようにお呼びいたします」

「そうか。じゃあ……」

 男は少し考えると、端末の画面に表示されていたゴミ箱のアイコンを見て言った。

「ウェイス。これからはウェイスと呼んでくれるか?」

 それは捨てられたものを意味する言葉だった。

「わかりました。ウェイス様」

 しかしナルは無表情に、そのまま彼の名を了承する。

 そんな彼女に男――ウェイスは苦笑を浮かべる。

 その瞳は悲しげで、しかし優しい色を微かに帯びていた。

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