第一章

 寮から校舎へと続く赤レンガの道を歩きながら、俺は手にした缶の中身を喉の奥へと流し込んだ。

「ふう、やっぱり朝はしっかり食べないとな」

 五臓六腑に染み渡る感覚に、朝食はまだかと腹の中でうるさかった虫の音もようやく

落ち着き、俺はゆっくりと一つ息を吐いた。

 左手奥にそびえる石造りの校舎は三階建てで、連続する水平窓が真っ直ぐに日の光を受けて輝いている。そして、その周囲には等間隔で整然と植えられた木々がどこまでも立ち並び、時折吹く朝の爽やかな風に緑の葉を揺らしていた。

 俺は風になびく伸び放題になった長い黒髪を押さえながら、気持ちのいい風を大きく吸い込み空を見上げた。そこには白い雲と、それより高い位置に一つ大陸が浮いている。

 シフト。それが、あの大陸の名前だ。大陸と言っても実際は超巨大浮遊艦で、全部で七つあるらしい。どれも空を移動しながら互いに交流していて、大陸を浮かせるだけでなく生活のすべてに刻奏術が使われているのだとジルは言っていた。

 世界人口の約四割が生活するシフト。そして、その根幹技術である刻奏術。そんなものが俺に扱えるのか。

 重い気分を吐き出すようにため息をついて、それでも俺は校舎へと歩いて行く。

 すると、背後から近づいてくる足音とともに肩を叩かれた。

「よお、クウロ」

 聞き慣れた声が俺の名を呼ぶ。

「シンか。おはよう」

 友の名を呼んで、俺は隣に並んだ男に目を向けた。そこには茶髪のいかにもチャラチャラした感じの男――シン=ビットレイの顔があった。

 シンは爽やかな笑顔で「おはよう」と返すと、俺が手にした缶を見て途端に苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「また、そんなもの飲んでるのか? いい加減、まともな朝食にしろよ」

 半ば呆れたように言う友の言葉に、俺は缶に描かれた美味しそうなイラストを見せつけながら言った。

「何を言ってるんだ。今日は焼き魚定食味。しかも焼き海苔フレーバー付きだぞ。これ以上まともな朝食があるか?」

「焼き……」

 そこでシンの言葉が止まる。そして顔を缶から背けながらも、こう訊いてきた。

「ちなみに魚はなんなんだ?」

 気のせいか少し青ざめた顔のシンに、俺は缶を近づけながら答えた。

「鯖だ。旬の時期に捕れたものを使ってるから脂がのってて旨いぞ。飲むか?」

「いや、遠慮しとくよ」

「そうか? 旨いのに……」

 差し出した缶を押し戻して言うシンに、俺は焼き魚定食ドリンクの残りを一気に飲み干すと、近くにあったくずかごへと空き缶を放り投げた。缶はゆっくりと弧を描いて、狙い通りにカゴの中へ吸い込まれていく。小気味よい金属の音が響き、今日は少しはいいことがありそうな気がしてきた。

「シン! おっはよー!」

 すると、今度は元気な鈴の音を思わせる可愛らしい声が右から聞こえてきた。そちらへ視線を向ければ、女子寮へと続く道から小さな影が手を振りながら駆け足で近づいてくる。

 その影は軽い身のこなしでシンに跳びかかると、その体に抱きついた。

「チーちゃん。おはよ」

 その小さな体を抱きとめながらシンは彼女の名を呼ぶ、そして地面へ彼女を下ろすと、シンは彼女の頭を撫で回した。

 チーちゃんことチルト=タルトは、くすぐったそうに目を細めながら、もっと撫でてとでも言うようにシンを見上げる。それはまるで猫のような仕草で、しかし仕草以上に彼女の姿は猫だった。

 その頭には茶トラ猫を思わせるふさふさの毛が生えた三角形の耳があり、そして制服のミニスカートからは同じく毛で覆われた長い尻尾が伸びて、左右にピョコピョコと嬉しそうに揺れている。

 臓器付加(アド・オーガン)。

 彼女は、一般的にそう呼ばれる人間だった。

 この世界には大きく分けて二つの勢力がある。

 一つは、自分たちに合わせて環境を変えるべきだと考える者たちのグループ。もう一つは、環境に合わせて自分たちのほうを変えるべきだという考えを持つ者達だ。前者はシフト、後者はフィッツと呼ばれていた。

 そして、ナルはフィッツ側の人間だった。

 地上を捨ててまで理想的な生活環境を追い求めたシフトに対し、フィッツは地上に残り自らの食生活や習慣、極端な場合は彼女のように肉体まで変化させて自然環境に適応しようとした。

 ちなみにシンはシフトの出身だ。

「クウロもおはよ」

「おう」

 頭を撫でられながらチルトが片目だけ開けて、気持ちよさそうな声で言ってくる。そして十分堪能するとシンから離れて、俺たちの前を後ろ向きで歩きながら彼女は訊いてきた。

「ねえ、シン、クウロ。知ってる?」

「いや、知らん」

 耳を傾けながら、いかにも聞いて欲しそうに目を輝かせて言うチルトに俺は即答した。 途端にチルトは頬を膨らませて俺を睨みつけ、

「もう! まだ何も言ってないでしょ? クウロには教えてあげない!」

 そう言ってそっぽを向くと、捨てられた猫のような上目遣いでシンのほうをじっと見つめる。

 シンは少し考えるような仕草をしたが、あっさり降参すると彼女に訊いた。

「何かあるの?」

 すると彼女の顔に満面の笑みが浮かび、

「あのねあのね、今日、編入生がやって来るんだって!」

 そう楽しげにチルトは答え、シンは思い出したように相づちを打つ。

「ああ、そういえばそんな噂が男子寮でも流れてたな。たしか、腰まである流れるような白髪のきれいな女性だとか……」

「く、詳しいのね」

 シンの言葉にチルトの顔が少し引きつったような気がしたが、シンは記憶をたぐり寄せるように空を見ていて気付いていない。

「ああ、結構な美人らしいってことで男子寮でも盛り上がってたからね」

「ふ、ふーん。で、シンはどうなの?」

 チルトは俯きながら、器用に後ろ歩きのまま低い声で尋ねた。

「どうって?」

 軽い声で聞き返すシンに、チルトは指をモジモジさせながら窺うように上目遣いで言った。

「だ、だから……、編入生のこと、気になる?」

「まぁ、美人なら一目見ておきたいかな」

「へ、へぇ、そうなんだ……」

 チルトの周囲が一段沈んだように暗くなった気がした。

「チーちゃん?」

 俯いて黙り込むチルトにシンが不安そうに声をかける。

 チルトの耳と尻尾は力なく垂れ下がり、その足取りがピタリと止まる。

「シンの……」

 俯いたままのチルトから声が漏れ、同時に授業開始の五分前を告げる予鈴が鳴った。

「何? チーちゃん」

 そしてシンが耳を近づけ、その耳にチルトも手を添えて口を近づける。そして、

「シンのばかーーーっ!」

「―――――――!?」

 真っ赤な顔で大声を上げると、彼女は砂煙を上げる勢いで校舎へと走り去っていった。

「え? ちょっと、チーちゃん?」

 片手で耳を押さえながらシンはもう一方の手を伸ばすが、そこにチルトの姿はもうなかった。

 わけがわからないといった顔を向けてくる友に、俺も首を左右に振ってため息をつく。

 やっぱり今日も、面倒ばかりでいいことのない一日になりそうな気がしてきた。

       ◆

「えー、我々がシーリアと呼んでいるこの世界は、多数の国家と呼ばれる組織体が大小様々な土地を領土として支配していた混沌による統一時代――ユニオンを経て……」

 スフィア13の校舎。その二階端にある十三組の教室では、二十名ほどの受講生を前に講師が世界史の講義を行っていた。

 講師の後ろにある壁には一面に模式図が投影され、講師の手の動きに合わせてユニオンを示す図が、シフトとフィッツを表す図へと変化する。

 俺は窓際の席でテキストを広げながら、ぼんやりと外へ視線を移した。

 外は昼間だというのに薄暗く、空には暗い大きな陰が三つ浮かんでいる。

 空を覆い日を隠すシフト艦の群れ。

 朝に見たもののほかに、それぞれ形の違う艦が二つ、L字になるように接舷している。

 あそこに世界の四割近くの人が住み、それぞれの生活を営んでいるのだ。

「……その結果、考え方の違いから人間は大きく二つの勢力に分かれました。一つは、ユニオンにおいて、これほどまでに人間が自分勝手に世界を変えてしまった以上、今後も人間が責任を持って世界を管理しなければならないという絶対管理主義に基づく勢力。もう一つは、あくまで人間は自然の一部なのだから、どんなに自然が荒廃しようともそれを受け入れ、同じ過ちを犯さないように今後は自らを自然に合わせ、自然へと回帰すべきだとする自然回帰主義による勢力。これら二大勢力はシフト、そしてフィッツと呼ばれ……」

 講師の説明を聞き流しながら、俺は斜め前へと視線を向ける。そこにはシンがいて、困り顔で隣のチルトに何か話しかけている。しかし、当の獣耳(けもみみ)少女は聞く耳を持たないといった感じで耳の向きを器用にシンから逸らし、頬を膨らませたまま頑なに前を向いていた。

 周囲を見回しても彼女のような身体的特徴を備えた者はいない。

 フィッツの中でも臓器付加はレアキャラ。

 シンから最初に彼女を紹介されたとき、チルトはそう言って笑いながらも少し影のある表情を浮かべていた。

(まあ、いろいろあるんだろうな)

 シフトとフィッツ。かつての混沌とした時代を教訓として大きな争いはないものの、互いに相容れない考えを持つ二つの勢力。

「俺は……」

 そこまで言って、俺は視線を空へと戻してため息をつく。

 すると、後ろのほうから囁くような小さな声で話し声が聞こえてきた。

「ねえねえ、編入生の話聞いた?」

 横目で見れば、ツインテールの女子が隣のメガネ女子に話しかけている。

「編入生って、例のあれに似てるっていう?」

「え? 何、その話」

 メガネの話にツインテールのほうが興味津々といった感じで聞き返す。

「知らないの? 今度来た編入生って七不思議に出てくるアレに似てるらしいわよ」

 メガネは心なしか暗い声で答え、含み笑いを浮かべる。それに対してツインテールは、少し躊躇いがちにだが先を促した。

「あ、あれって?」

 メガネは少し俯き加減でゆっくり息を吸うと、口の端をつり上げて低い声で言う。

「音楽室の幽霊」

「えっ!? マジで!?」

 思わず立ち上がって声を上げたツインテールに講師の話は止まり、周囲の視線が彼女に集中する。

 静まり返った教室の中でツインテールは我に返り、

「……す、すみません」

 そう小さな声で謝ると、席に座り直して縮こまった。

 それを見て周りの受講生が何人かくすくすと笑い、講師は咳払いを一つして授業を再開する。

「えー、そして、統一時代末期に開発された技術――刻奏術によって人間は可能性そのものを操作できるようになりました。それは未来という無限の可能性を、現在そして過去へと変える術。すなわち能動的な時間操作とも言えます。ただ、過去から未来へは……」

 受講生達も講師のほうへと視線を戻し、好奇の目から解放されたツインテールは、周囲を多少気にしつつも懲りずに再びメガネに話しかける。

「それって、本当なの?」

「ええ、幽霊を実際に見たっていう子が言うには、足下まである長い白髪に顔立ちまで何もかもがそっくりだって」

「何それ。こわーい」

 言葉とは裏腹に、どこか楽しげに言うツインテールとメガネから目を逸らして、俺は天井を見上げた。

 たしか、音楽室は三階にあったはずだ。

 よくある学園七不思議に出てくる音楽室の幽霊。

 そして、それにそっくりな編入生。

 考えただけで既に面倒そうな雰囲気に、俺は肩を落として机の上に突っ伏した。

       ◆

「なあ、幽霊って見たことあるか?」

 教室で昼食のドリンクを手にしながら、俺は隣に来ていたチルトとシンに話しかけた。

「何よ、いきなり」

 フォークに刺した拳サイズの鶏肉の唐揚げをシンの口に詰め込みながら、

「私は見たことないし、見たくもないわ」

 と、フォークを押し込みながら彼女は答えた。

 シンはと言えば、なんとか肉の塊を半分だけ口に入れ、

「ほれって、ななふひひの?」

 と、もごもごと頬を膨らませたまま何か言っている。

「もう、食べながらしゃべらないのっ! それに残さないで最後まで食べる!」

 チルトに勢いよく残りの唐揚げを突っ込まれたシンは、顔を青ざめさせ白目を剥いて黙り込む。

 そんな彼に俺は御愁傷様と取り敢えず視線だけを送って話を続ける。

「なんか、編入生が学園の七不思議に出てくる幽霊に似てるんだと……」

「ふーん。どうせ色白で病弱な感じってだけなんでしょ?」

 なんとか肉を呑み込んだシンの口に、これまた彼女の腕くらいの長さはあるバゲットでできたサンドイッチを突っ込みながら彼女は興味なさそうに言った。

 涙目で助けを求めるシンから俺は窓の外へと目を向け、手にしたドリンクの残りを飲み干す。タマネギの甘味とポン酢の酸味が爽やかな香りとなって鼻から抜けていく。

 空には二つ。午前中とは別のシフト艦が並んで浮かび、いつもと変わらない平和な日常に俺は一息ついた。

「それにしても、相変わらずドリンクだけでよく飽きないわね」

 平穏を味わっていた俺に、チルトが柔らかそうな白パンにローストビーフとチーズをたっぷり挟んだサンドイッチを手にして言ってきた。

 ふとシンの様子を窺えば、そこにはシマリスのように頬を膨らませた友の安らかな顔が横たわっている。

「…………」

 俺は視線を戻して話を続けた。

「ん? そりゃ、毎日メニューが違うからな。ちなみにこれは玉ねぎポン酢ソースハンバーグ定食だ」

「えっ、玉ねぎで定食? よくそんなの飲めるわね」

 チルトは明らかに気持ち悪そうな顔で言った。

 そんな彼女に、俺は空き缶に描かれた虹色に輝く筋肉料理人(マッスルコック)を見せながら言い聞かせる。

「おまえ、レイエナのドリンクを馬鹿にするなよ?」

「れい……何?」

「おいおい、まさか知らないのか!? レインボーエナジー社。略してレイエナ! ドリンク業界の魔術師! レイエナにドリンク化できない物はないと言われるほど、ドリンク業界じゃ有名だぞ!」

「へ、へぇー。ソウナンダ」

 なんにもわかってない様子のチルトに、俺はさらに缶に書かれた成分表を見せなから懇切丁寧に教えてやる。

「ご飯や味噌汁はもちろん。付け合わせの茹でたブロッコリーにポテト、それにキャロットグラッセまで再現するとか。もはや神だろッ!」

「いや、神かどうかは知らないけど。す、すごいことだけはなんとなくわかったわ」

 缶を押し返しながら顔を引きつらせて言うチルトに、俺はため息をつく。

 目の前でサンドイッチを頬張り始めた彼女の口からは鋭い犬歯、こいつの場合は猫歯か?が覗き、それがパンと肉を容赦なく噛み切っていく。

 その光景に俺の背筋に悪寒が走り、慌てて俺は彼女から目を逸らした。

 すると、教室の扉の向こうに人影が集まっている。そして直後に扉が開いた。

「ここが君の教室だ」

 そう言って入ってきた講師に続いて、見覚えのない女性が現れる。しかし、その特徴的な姿に俺は一目で気付いた。

 あれが噂の幽霊編入生か……。

 教室内がさざ波のように静かにざわついた。

 それは噂どおりの足下まで伸びる長い白髪で、細身の体がまとう黒いシャツとズボンに映えていた。そして、その隙間からのぞく色白の肌は陶器のようになめらかで、卵のような丸みを帯びた小顔には青い瞳が静かな色を添えている。

(幽霊と言うより人形みたいだな)

 そう思っていると、不意に彼女と目が合った。しかし、その瞳はどこか遠くを見ているようで俺ではない何かを見ているように思えた。

 講師は教壇に立つと、隣に彼女を置いて言った。

「彼女は、今日編入してきたナル=レクト君だ」

 彼女――ナル=レクトは、周囲から向けられる好奇の視線にも動じることなく周囲を見回すと、

「よろしくお願いします」

 それだけ言って軽くお辞儀をした。そして再び顔を上げると、扉のほうへ向いてさっさと教室を去ろうとする。

「おい、レクト。ちょっと待て」

 講師の声にレクトは振り向いて首をかしげ、講師は教室内を見回してこっちを向くと、

「クウロ。クウロ=ルワーノ」

 見下ろすような視線とともに俺の名を呼んだ。

 嫌な予感しかしないが、講師は俺の気持ちなど気にせず続きを口にした。

「おまえ、レクトに学園内を案内してやれ」

「げっ」

 思わず声を漏らした俺に、講師は大げさに拝むような仕草をして言う。

「午後は講義無いだろ? 頼むよ?」

 しかし、その目は笑っている。

 知っているのだ。俺が断れないことを。

「なんで俺が……」

 視線を逸らし「嫌です」と言おうとして、俺は締め付けるような頭痛に顔をしかめた。

 いつもこれだ。わかっていても、どうしようもない。 ――不断症――

 何かを断ろうとすると、頭痛や吐き気、息苦しさと言った原因不明の症状に襲われる。

 このせいで俺は、周囲から使い勝手のいいお人好しだと思われていた。

 鈍い痛みを逃がすように大きく息を吐くと、俺は苦痛を引かせるために仕方なく了解の言葉を口にする。

「……わかりましたよ」

 途端に講師はしたり顔になって、

「さすが、便利屋クウロ。じゃあ、頼んだぞ」

 と、変なあだ名とともにレクトを残してさっさと去って行く。

 残されたレクトを半眼で睨むが、彼女は何も言わずに俺のほうを向いたまま、その場で静かに立っていた。その青い瞳はガラスのように澄んでいて、見ているとまるで吸い込まれそうなほど、何も映ってはいない。

 動かない彼女に俺は一度大きくため息をつくと、重い腰を持ち上げて彼女に言った。

「じゃあ、さっさと行きますか」

       ◆

「今いる二階の俺たちがいる十三組の並びがCクラス。で、ここの下が講師室……」

 俺は廊下を歩きながら、コの字型をした学園校舎について端から説明していく。

「で、角を曲がるとAクラスの教室で、さらに曲がって奥がBクラスの教室。で、各階の角には階段とトイレ。Cクラスの上には備品室と音楽室。Aクラスの上には特Aクラス。で、Bクラスの下には実習室がある」

 ちょうどAクラスの廊下が見える角に来たところで俺の説明は終わった。だから俺は、ついてきているはずのレクトに視線を向けて、

「以上だ」

 そう締めくくる。 しかし、そこにあったのは目をつり上げたチルトの顔だった。

「ちょっとクウロ、あんた、ちゃんと案内しなさいよね」

「はぁ? 今ので十分だろ?」

「あんたねぇ、レクトさんはここに慣れてないんだから、わからないところはないかとか聞きなさいよね。それにAクラスの下とBクラスの上が抜けてるわよ」

 俺はチルトの後ろでこっちを見ていたレクトに言う。

「Aクラスの下は昇降口、Bクラスの上は……仮工房が二つあったな。これでわかったか?」

「はい」

 不満そうな顔もせず、彼女は頷いた。

「じゃ、そんな感じで終わりだが」

「だぁああっ、そうじゃなくて!」

 用が済んだので教室に戻ろうとする俺に、なぜかチルトは地団駄を踏んで怒り出す。そんな彼女の様子に、俺はどうすればいいんだと視線でシンに助けを求める。

「仕方ない。あとは俺に任せろ」

 不敵な笑みを浮かべるとシンはレクトの肩に手を置いて、髪をかき上げながら、

「じゃあ早速。ナルさん、スリーサイズは?」

 そう言った。

「あんたは、いきなり何訊いてるのよ!?」

「いたたた。か、噛むな! 手を噛むなよ!」

 手に食らいついたチルトを振り払おうとするシンの横で、レクトが考え込むようにつぶやく。

「えーと、上から……」

「あんたも答えないっ!」

 とっさに突っ込んだチルトに、俺は呆れながら言う。

「おいおい、初対面であんた呼ばわりかよ」

 するとチルトは慌てて口に手を当て、

「あ、レクトさん、ごめんなさい。つい勢いで」

 そう言うと眉尻を下げた上目遣いでレクトの様子を窺った。

「ううん。構いませんけど……」

「けど?」

「レクトじゃなくてナルで構いませんよ?」

 途端にチルトは目を輝かせ、顔をほころばせかけたものの俯くと胸の前で手をぎゅっと握り黙り込む。

「あの……、チルトさん?」

 黙り込んだチルトにレクトは不思議そうに声をかけ、それにチルトは再び上目遣いでレクトを見つめる。その視線は真っ直ぐで、しかし瞳は不安に揺れている。

 それでもチルトは口をゆっくりと開き、唇を震わせながらも彼女の名前を口にした。

「……ナ、ナル?」

「はい」

 目を細めて微笑みながら返事をするレクトに、チルトは満面の笑みで飛びつきながら彼女の細い体に抱きついた。

「よろしくね。ナル!」

 少し大げさな喜びようにレクトは少し驚いているようだったが、それでもしっかりとチルトを受け止め、レクトは彼女の頭を優しく撫でた。

 二人の間に少し近寄りがたい華やかな謎空間が生まれる。

「なあ、クウロ」

「なんだ?」

「なんか俺たち蚊帳の外?」

「そうだな」

 シンは二人を見て困ったように頬をかき、俺はため息をついて廊下の窓から空を見上げた。

 相変わらず、空にはシフト艦がのどかに浮かんでいる。

「ところでシン?」

 そんな穏やかなムードを遮って、チルトがレクトに抱きついたまま低い声で言った。

「ん? 何? チーちゃん」

 呼ばれて少し嬉しそうに返事をするシンに、チルトはレクトを後ろにかばうようにして言った。

「あんた、ナルに謝りなさいよね」

「え? なんで?」

「彼女のスリーサイズ訊いたでしょ?」

「いや、だってほら、案内するにも相手のこと知らないと。失礼があったらいけないし……」

 シンは後ずさりながら、睨みつけるチルトに説明を試みる。しかし、彼女はダンッと足音を立てて一歩詰め寄ると、

「女性にスリーサイズ聞いてる時点で失礼よ!」

 鼻息荒くそう言った。

「いや、でも、大事なことだし……」

 顔を近づけ睨みつけるチルトから目を逸らそうと俯いたシンは、ふと、そこにあるスラリとしたチルトの体を見下ろし黙り込む。そして、顔を上げると真面目な顔で、

「なんか、すまん」

 そう言って彼女の肩をぽんぽんと軽く叩いた。

「シィーーーーンンンンン!」

 尻尾と毛を逆立ててチルトが業火のごとく真っ赤な顔で牙を剥く。

「ひぃっ!」

 とっさに俺の後ろに隠れてガクガク震えるシンにため息をついて、俺は面倒ながらも友をかばうべく、チルトにそれくらいにしておけと言おうとして、

「ふふっ」

 突然聞こえた笑い声に、迫る猫娘の後ろへと目を向ける。

「え? 何?」

 チルトも驚いて振り返れば、そこには口元を手で押さえたレクトの姿があった。

 突然笑い出したレクトに、チルトの尻尾と耳はしぼんだように垂れ下がり、

「わ、笑われた……」

 そう言うと、よほどショックだったのかその場にパタンと座り込んだ。

「ご、ごめんなさい。でも……」

「でも?」

 上目遣い訊いてくるチルトに、レクトは微笑みながら答える。

「可愛らしいなと思って……」

「か、可愛い!?」

 途端に耳まで真っ赤にして、チルトは尻尾を激しくくねらせた。

 そんなチルトをよそに、俺は内心レクトの言葉に驚いていた。

(チルトが可愛い?)

 今まで学園内でそんなことを言った奴を、俺はシン以外に知らない。

 いつの間にか隣に立っていたシンに視線を向ければ、彼も驚いたような目でレクトを見ていた。

「ま、まったく。しょうがないわね」

 そう言って立ち上がると、チルトはレクトの手をとって楽しげに言った。

「失礼な男どもなんて放っておいて行きましょ。見ておきたい所とかある?」

「見ておきたいところですか?」

 レクトは少し考えて、

「……七不思議……」

 と、つぶやくようにそう言った。

「七不思議?」

「ええ。なんだか私を見て皆さんがそうおっしゃっていたので……」

「ああ、それね……」

 途端にチルトは困った顔で、どう説明したものかと唸り始める。

(本当に表情がころころと変わる奴だな)

 そんなことを思いながらも、俺はチルトを見るレクトの視線に異質なものを感じていた。

       ◆

「よくある学園七不思議の一つに、たまたまナルに似た女の子がいてね」

「そうだったんですか」

 チルトの話に、レクトは特に気にした素振りもなくそう言った。

「まあ、似てるって言っても色白で髪が長いってことだけだから気にしないで」

 心配そうにチルトはレクトの顔色を窺ったが、

「それで音楽室の幽霊のほかには、どんなものがあるんですか?」

 と、当の彼女は自分が幽霊に似ているということよりも、七不思議のほうが気になるようだった。

「え? ほ、ほかには? えーとね、願いの叶う井戸に神隠しでしょ、実習室の動く人体模型に終わらない階段、開かずの扉。これにさっきの音楽室を入れて六つだから、あとは……」

 親指から順に指折り数えていたチルトの指が小指を立てたまま止まる。

「…………」

 レクトと俺とシンの視線が小指に集まり、チルトは思わせぶりに俺たちを見回すと、

「誰も知らないのよね」

 お手上げといった感じでそう言った。

「は? 知らないのかよ!」

 思わず声を上げた俺に、チルトはふて腐れたように口を尖らせて視線を逸らす。

「知らないっていうかぁ、誰も知らないこと自体が七つ目の不思議? みたいな?」

「おまえな……」

「まあ、よく最後の不思議を知ると不幸になるとか死ぬとか言うからね」

 シンのフォローに、チルトはそれが言いたかったとばかりに「そうそう」と頷いた。

 レクトは少し残念そうな声で「そうなんですか」と言ったものの、

「よければ、その一つ一つについて、もっと詳しく教えていただけませんか?」

 と、熱心にチルトの手を握って真っ直ぐな瞳を向けた。

「いいけど、もしかしてナルさんって怖いもの好き?」

「え? ええ、まあ、そんなところです」

 そう言って浮かべたレクトの笑みは少しぎこちない感じがしたが、チルトは「ふーん」と少し考える素振りを見せただけで、彼女の手を握り返すと笑顔を浮かべ、

「わかったわ。じゃあ、説明しながら実際にその場所にも案内してあげるね」

 そう言って嬉しそうにレクトの手を引っ張って歩き始める。

「はい。お願いします」

 それに続いてレクトも歩き出し、手を繋いで仲良く歩く獣耳少女と幽霊少女の背中を見ながら、俺はふと当初の目的を思い出してため息をついた。

「チルトだって人のこと言えないじゃないか」

「まったくだね。本当は幽霊とか苦手なくせに世話が焼けるよ」

 隣を見れば、やれやれとえらそうに友が首を振っている。

「だったら、さっさと世話を焼きに行くぞ」

 俺はシンの首に腕を巻き付け絞めつけると、取り敢えず二人の後を追うことにした。

       ◆

「ここがチルトさんのお部屋ですか……」

 そう言ってレクトさん、じゃなくてナルは私の部屋に入ると室内を見回した。

 奥の窓側には机が二つ、手前の廊下側には壁際にベッドが二つあり、ベッドと机は部屋の真ん中を広く使えるように左右対称に並んでいる。

 入って左側は私が使っていて資料や道具が並んでいるけど、もう一方にそういったものは何もなく、荷物の入った箱が三つ、ぽつんと置いてあるだけだった。

「本当にこの部屋で……、私と一緒の部屋でいいの?」

 私は隣で部屋を眺めるナルに尋ねた。

 七不思議を中心に一通り学園を案内し終えて、私達は男どもと分かれて女子寮に戻ってきた。そして、寮長からナルの荷物が部屋に運んであると聞いて彼女の部屋へと向かったのだけれど、それは私の部屋だった。

「机やベッドもありますし、荷物もちゃんと届いてますから、特に問題ないと思いますけど?」

 事も無げにナルは言う。

「えと、あの、そういう意味じゃなくて……。〝私〟との相部屋でいいのかなって……」

「?」

 〝私〟の部分を気持ち強調して言ったつもりだったけど、彼女は小首をかしげてこっちを見るだけだった。じっと見つめるその視線から逃げるように、私は絨毯の敷かれた床へと視線を落とす。

 彼女を疑うわけではないけれど、どうしても胸でざわめく不安を私は口にする。

「いや、あの……。私、こんな姿だし……。ナルは、その、可愛いって言ってくれたけど……。大抵の人は気味悪がるから……。こんな私と一緒にいるとナルに迷惑が……」

 チラリと横目で窺うと、彼女は相変わらず小首をかしげたままぽつりと口を開いた。

「迷惑、ですか……」

 彼女の声には肯定も否定もなくて、私に向けられたものかどうかもわからなくて、どうしようもなく不安になる。

「わ、私は迷惑じゃないし嬉しいんだけど、けど……」

 自分の気持ちをなんとか伝えようとして、でも出てきた言葉は言い訳みたいで私は自分の弱さに虚しくなった。

「チルトさん」

 名前とともに私の手が握られる。

 少し冷たいその感触に、私は視線を上げてナルを見る。目の前の彼女は私を真っ直ぐに見つめていた。

「チルトさんは自分のことが嫌いですか?」

 穏やかなナルの声が私の耳を打ち、直後、私の耳と尻尾の毛がぞわぞわと逆立って、自分でもわかるほどに顔が熱くなる。

「そんなこと、ないけど……」

 思わず視線を逸らした私に、

「私は気にしませんから、あなたも気にしないでください」

 彼女はそう言って、ふわりと私を抱きしめた。

「ナル?」

 彼女の体は手と同じように少し冷たくて、でも、それは海に包まれているように心地よかった。

 頬から次第に熱が引いて、体から余計な力が抜けていく。

(なんだか落ち着く)

 そんなことを思いながら、自然と私も彼女を抱きしめ返そうと腕を伸ばし、

「あ、荷ほどきをしないと。チルトさんも手伝ってくれますか?」

 そう言ってナルは私の腕からするりと抜けるように、白い髪をなびかせて行ってしまう。

 伸ばした腕の中には、もう何もない。

 私は箱を開け始めたナルの背中を見つめ、少しふて腐れながら彼女に向かってこう言った。

「……チルト……」

「え?」

 聞き返す彼女に、私は掴み損ねた手を握りしめて、自分の気持ちを絞り出すように声にする。

「だから……チルトって呼んで! ナルも私のこと、呼び捨てにして!」

 思わず大きくなった声に顔が熱くなる。でも、私はナルから目を逸らさず、じっと彼女を見つめた。

 時間が伸びるような感覚に頭がくらくらし始め、そんな私にナルは微笑を浮かべて手を伸ばす。

「では、手伝ってくれますか? チルト」

 待っていたその言葉に私は、

「うん!」

 と大きく返事をすると、彼女の手をとって二人で荷物を片付け始めた。

       ◇

「えっ!? あの子、神隠しに遭ったの?」

 静かな廊下に女生徒の声が響いた。

「しーっ! 今、Aクラスは授業中よ!」

 もう一人の女生徒が慌てて横の教室を指さし言う。

 廊下には彼女たち二人しかおらず、耳を澄ませば教室から聞こえる年老いた講師の声が変わらず講義を続けている。

「でも、掲示板には退学だって……」

「そりゃそうよ。神隠しに遭ったなんて言えるわけないでしょ」

 互いに顔を寄せ合って二人は声を潜めて話を続ける。

「それに彼女、いなくなる前日の夜に願いの井戸の近くにいたんだって」

「嘘っ!? それって……!」

「だーかーら、いちいち驚かないでよ」

 驚いた女生徒の口を手でふさぎ、もう一人が教室のほうを気にしながら注意する。

「…………」

「え? あんた、何? 急に震えて、どうしたの?」

 口をふさがれた女生徒が青ざめた顔で声を震わせ言葉を漏らす。

「ど、どうしよう。私、お願いしちゃった……」

「お願いって……。えっ!? マジで?」

 今度は自分の口を慌てて押さえ、さすがに場所を変えようと震える女生徒の肩を抱いて歩き出す。しかし、ふと立ち止まると彼女は俯く女生徒の耳元に話しかけた。

「で、何をお願いしたのよ?」

「え? そ、それは……」

 聞かれた彼女の顔が、みるみるうちに青から赤へと変わっていく。

「もしかして彼のこと?」

「ち、違うわよ!」

 慌てて彼女は否定するが、それを見てもう一人が意味ありげに笑みを浮かべた。

「ちょっとぉ、何をお願いしたか詳しく教えなさいよぉ」

「嫌よ! なんだっていいでしょ?」

 肩に回してきた腕をはねのけて、女生徒はもう一人にあかんべーをすると一目散に廊下を走り去っていく。

「あっ、待てーーーっ!」

 狙った獲物を逃すまいと、それを追いかけてもう一人も廊下の先へと消えていく。

 誰もいなくなった廊下は静けさを取り戻し、ただ講義の音だけが変わらずしていた。

 そんな廊下の壁には教室と同様に、講座案内やサークルの催し物などの連絡事項が賑やかに投影され、そして、そうした通常の連絡事項から少し離れた場所に、飾り気のない文字列で一つの通告が表示されていた。

『告 以下の者を学則第三十八条に基づき退学処分とする。 第一四九期生 ナルミ=ユウノ 時間監視局員養成所 第十三学園長』

       ◆

「さて、今日は一般的な符の実習をやってもらう」

 教室三つ分はある広い実習室で、厳ついタンクトップ姿の講師が赤い縁取りの紙切れを一枚手にして説明をしている。

 正面にある教壇を中心に受講生達は思い思いの場所に椅子を置き、講師を囲むように座っていた。

 二クラス合同ということで受講生の数は多いが、それでも机などの余計な物は一切ないので十分な広さがある。ただ、黒一色に塗りつぶされた天井と床、そして普通の教室よりも小さな窓のせいで多少の圧迫感はあった。

「それから、わかっていると思うが今回の実習には危険が伴うから決して注意を怠らないように。いいな?」

 睨むように見回して言う講師に、受講生達からは「はーい」と言う声や頷きがまばらに生まれる。

 俺は天井や床に付いた無数の傷や爆発跡を見ながら「へーい」と適当に答える。

(この程度で危険か)

 思わず頭をよぎったジルの怪物討伐と比べてしまい、俺はため息をついた。

 今一つ緊張感のない雰囲気のまま、講師は半ば諦めた感じで話を続ける。

「まったくおまえらは……。まあいい、では実習の前に軽く符のおさらいといこう」

 そして俺のほうを向くと、

「チルト=タルト。おまえ言ってみろ」

 と、俺の隣にいたチルトを指名した。

「えっ? 私ですか?」

「そうだ」

 緊張するチルトをよそに、俺はほっとして高みの見物を決め込む。

「えーと、符とは鍵の集合体で……、鍵は、えっと鍵は……」

 立ち上がったチルトがたどたどしく符の説明を始める。その視線はすぐさま助けを求めるように周囲を彷徨い、しかし逆に自分に集まる視線で余計にオロオロし始める。

「あの、その……」

 言葉が続かないチルトに、周囲からはくすくすと笑う声が聞こえ始め、それは明らかな嘲りの色を持った視線となって、その数を増やしていく。

「うぅ、えっと…………」

 ついには俯いたまま力なく耳と尻尾を垂らしてチルトは黙り込んだ。

 俺は思わずこめかみを押さえ、講師は呆れたような視線を彼女に向けてこう言った。

「もういい。ビットレイ、代わりに答えてみろ」

 その言葉にチルトを挟んで反対側にいたシンは「はい」と短く返事をして立ち上がり、泣きそうな顔で立ち尽くすチルトの頭を撫でて座らせる。そして周囲をゆっくり見回すと、鋭く息を吸って一気に説明を開始した。

「符とは鍵の集合体であり、鍵とは過去の源を意味します。そして鍵は、万物の可能性である可変素子が量子状態にある時相、すなわち来相に触れることで錠と呼ばれる過去の土台を構築し、その周囲に門が形成されることで来相は過相へと相転移します。その中間というか来相と過相の境界面こそが、我々が認識する今、すなわち現相であり、符とは特定の過去、簡単に言えば現象の起源を固定化させたものと言えます。また広義では、未来という本来は未確定な可能性を意図した過去へと確定的に転移させるための手法、またはそのために使われる符を実体化させた道具も符と呼んでいます」

 そして、それは途切れることなくまだ続く。

「ただし、その作成には鍵を集積させるために多少なりとも期間が必要で、低次符と呼ばれる物質を基にした符の場合は、作成にかかった期間によって三年物や十年物などという等級が存在します。また、単純で小規模な現象しか引き起こせない低次符に対して、複雑で大規模な現象を起こせる高次符は生命体を基盤とし、それゆえに人間は自らを用いて……」

「ストップ、ストップ!。もういい。それくらいでいいだろう」

 講師の声に、シンは開いた口を閉じると黙って席に着いた。

 いつの間にか周囲の受講生達は静まり返り、講師は咳払いを一つして視線を集める。

「つまり、符とは特定の現象を発現させるトリガーということだ。では、これから符を配る」

 そう言って前にいる受講生達に紙の束を渡して後ろに回すように指示を出す。

「符には発動条件があるが、今渡した符の条件は一般的なキー・ワード・アクション方式で……」

 そう言って、講師は手にした符を親指と人差し指で挟んで立てると前に掲げた。

「閉紋(ロック):バースト!」

 その言葉の直後、符は赤い光を放って先端を一気に燃え上がらせる。そして、符はたいまつのように炎を揺らめかせながら周囲に光と熱を放ち続けた。

「このように〝バースト〟というワードと親指と人差し指で挟むというアクションによって発動する」

 紙の部分が短くなってくると、講師は符を床に捨てて踏んで消火する。そして周囲を見回して、

「全員、符は行き渡ったか? 無い者がいたら手を上げろ」

 誰も手を上げないことを確認すると、

「じゃあ、全員立って椅子は端によけろ。それから、それぞれ距離をとって符を構えろ」

 そう言って受講生に散らばるように指示を出す。

 俺も符を手にして距離をとると、次の指示を待って講師を見る。

 すると講師はこちらを見て、

「おい、レクト。編入早々だが、おまえが最初に使ってみろ」

 チルトの後ろにいたレクトに声をかけた。

「はい」

 レクトは言われたとおりに、符を親指と人差し指で挟んで立てるとワードを口にする。

「閉紋:バースト」

 それは抑揚のない声で、すぐに沈黙が訪れる。

 周囲は明るくも熱くもならず、レクトの手には真っ直ぐに立ったままの符が変わらずあった。

 それを見て白髪の少女は小首をかしげる。

 そんなレクトに、講師は困ったような呆れたような表情を向けながら言った。

「あのな、レクト。発動条件は、ただそれをすればいいってもんじゃないんだ。鍵で構成される符は精震に反応する。発動条件は、その精震を符へと伝えるための方向付けに過ぎないってことも知らないのか?」

「……すみません」

 レクトは符を掲げたまま、視線だけを講師に向けて淡々と謝った。

 講師は大きくため息をついて、仕方ないという感じで説明する。

「幾ら条件どおりにやったって肝心の精震が弱かったら符も反応しない。大事なのは、その現象が起きる未来のイメージだ。そんな冷めた言い方で燃えるような未来が起きると思うのか? 人形じゃないんだから、もっと気合いを入れてやってみろ」

 講師の言葉にレクトは少し黙り込み、符へと視線を戻すと再びワードを口にする。

「閉紋:バースト!」

 今度は気持ち少し大きな声だった。

「…………」

 しかし、結果は変わらない。手にした符がお辞儀をするようにヘニャリと曲がり、講師もがっくり頭を垂らす。

「もういい。しばらく後ろのほうで一人で続けていろ」

「……はい」

 呆れる講師にそれでも大して表情を変えず、レクトは素直に指示に従った。

 教室の後ろ、壁際まで下がると符を構えたまま、「バースト」「バースト」とまるで呪文のようにワードを繰り返す。

 その様子に周囲はそれこそ幽霊でも見るかのように距離をとり、チルトはそれを遠くから心配そうに見つめ、俺とシンは困り顔で苦笑を浮かべていた。

 すると、誰かが俺の肩をつかんだ。

 嫌な予感に振り返れば、暑苦しい講師の顔がそこにある。

「クウロ。じゃあ、次はおまえがやってみろ」

「はぁ、俺ですか……」

 肩を落として言う俺に、講師は見下ろすような視線を向けながら言う。

「汚名挽回のチャンスだ。今度は壁に穴を開けるなよ?」

 その言葉に俺は「それを言うなら返上だろ」と思いながらも大人しく符を前にかざす。そしてレクトと似たような感じで、やる気なくワードを口にした。

「閉紋:バースト」

 直後、符はまばゆいほどの赤光を放ち、天に昇る龍のように天井へと炎を吹き上がらせる。それは暴風のような風音ともに天井を瞬く間に火の海へと変え、俺は講師の言葉に不本意ながらも納得せざるをえなかった。

       ◆

「ねえ、あなた。ちょっといいかしら」

 夜の帳が降り始めた夕方。学園の廊下に女性の声がする。

 教室の明かりはすべて消え、廊下の壁に一定間隔で備え付けられた球体ガラスが、白く無機質な光を発していた。

 窓の外は暗く、ほのかな月明かりは闇を余計に濃く感じさせる。

「は、はい?」

 廊下を歩いていた女生徒は声に振り返って、

「ひっ!?」

 目の前に現れた白い人影に思わず息を呑んだ。

 色白の肌に長い白髪。まるで人形を思わせる無表情で端整な顔。

 女生徒は、目の前にある透き通った髪の流れに沿って、ゆっくり下へと視線だけを動かす。そして、床についた足を見つけて安堵のため息をついた。

「あなた、この学園の七不思議は知っているかしら?」

 よくよく見れば、その人影は同じ学園の女生徒だった。

 そういえば幽霊みたいな編入生が来たって噂になってたっけと思いながら、青い瞳をこちらに向ける彼女に女生徒は聞き返す。

「……七不思議、ですか?」

「知っているの?」

 詰め寄るように訊いてくる彼女に、女生徒は少し怯えながらも答える。

「知ってはいますけど……」

「じゃあ、開かずの扉があるっていう廃校舎の場所は知ってる?」

 さらに詰め寄りながら、彼女は立て続けに訊いてくる。

 その勢いに少し気圧されながらも女生徒は、

「は、廃校舎ですか? それなら……」

 と、校舎の北側を指さしながら答えた。

 彼女はそちらへ青い瞳をじっと向け、そのまま無言で女生徒の横を通り過ぎる。

 その動きを追うように、彼女の長い白髪が揺れて廊下の明かりをさらさらと反射し、その光景に女生徒は目を奪われて息を呑んだ。

「ありがとう」

 白い背中越しに抑揚のない静かな声が礼を言い、そして彼女は廊下の先へと消えていった。

       ◆

「ナ……ル?」

 廊下を曲がると見えたナルの白髪にチルトは声をかけようとして、しかし彼女ではない悲鳴に思わず角に身を潜めた。

 角から廊下の向こうへ目を凝らせば、ナルの背中越しに見知らぬ女生徒がちらりと見える。

「何してるのかな?」

 耳をそばだてると二人の声が微かに聞こえる。しかし、何か話していることはわかっても内容まではわからなかった。

 チルトは気になって、二人の話をよく聞こうと背を低くしながら壁伝いに近づいていく。

 しかし、数歩進んだところで不意にナルの白髪が揺れて、

「あっ!」

 廊下の向こうへと消えていく彼女の背中に、チルトは慌ててその後を追いかけた。

       ◆

「この先って、廃校舎だよね?」

 ナルを追って校舎北にある森の手前まで来たチルトは、思わず立ち止まって怪訝な視線をその先に向けた。

 森と言っても人工的につくられたそれは整然と並んだ木々の集まりで、白髪は躊躇うことなく真っ直ぐに奥へと進んでいく。

 雲越しに周囲を照らす月明かりは頼りなく、木々の影は隙間なく地面を黒く塗りつぶし、奥に行くほど闇は深さをしていく。

 思わず身震いして周囲を見ても、背後に人気のない校舎が壁のようにあるだけだった。

「うぅ……」

 視線を戻せば白い影は闇に溶けかけ、チルトは勇気を出して一歩を踏み出そうとして、

「ひっ!?」

 急に聞こえた不気味な鳥の鳴き声に、後ろへ思わず跳び退いた。

 直後にドスッという鈍い音が二階の壁から聞こえ、そこからチルトが落ちてくる。

 彼女は素早く体勢を整え四つん這いで着地すると、背中をさすり顔をしかめた。

「いったぁ……もう何よぉ」

 文句を言いつつ森を見れば、そこに白い人影はもう無かった。

       ◆

 朽ちた二階建ての木造校舎を前にして、ナル=レクトは小さく頷くと迷うことなくその中へと入っていく。

 窓ガラスは砕けて床に散らばり、壁や天井には大きな穴が空いていた。しかし吹き抜ける風は重く、歩くと変化を拒むように淀んだ空気が肌にまとわりつく。

 ある程度壁の残っている一階とは違い、二階はほとんど柱だけの状態だった。

 見上げれば視界を遮る物は何も無く、すっかり暗くなった空の雲間には月が浮かんでいる。そして、その丸みを帯びた静かな明かりを遮るように、大きな直線的な影が二つ並んで、微かな重低音とともに空をゆっくり横切っていく。

 レクトは懐から一本の小さなライトを取り出すと、明かりをつけて廃校舎の中へと歩みを進めた。

 外から眺めた感じでは廃校舎はL字型をしているようだったと脳裏に思い浮かべながら、自分が入ってきた正面玄関らしき入口のあるL字の短部から長いほうへと、彼女は周囲にライトの光を向けながら慎重に進んでいく。

 左側には窓が並び右側には扉が幾つか見えるが、レクトは一番近くにあった木製扉の取っ手に指をかけると力を込めた。

「!」

 バキメキッという音とともに扉は取っ手ごと真横に裂け、上部は支えを失って崩れ落ちる。

 鈍い音とともに砂埃が舞い上がり、レクトは鼻と口を覆うように手を顔に当て、扉を失った開口部から部屋の中へと明かりを向けた。

 入口正面には教壇らしき机と段差があったが、机にはキノコが密集し、床には草が生い茂っていた。そして、光の届かない部屋の隅や闇が濃い物陰からは時折、複数の赤い点がレクトを窺うように光っていた。その点へと明かりを向けると、丸みを帯びた小さな影を伴って、それはチチチッという鳴き声とともに別の暗闇へと逃げていく。

 しかし、レクトはそんな様子を特に気にすることなく、周囲を見回して特に変わった点がないことがわかると次の部屋へと向かった。

 その後も、収穫のないままそんなことを繰り返し、ついにレクトはL字の一番奥、廊下の突き当たりまで来る。そこには、ただ行き止まりの壁があり、左右には朽ち果てた壁と外の闇が広がっているだけだった。

 見上げれば天井は無く、いつの間にか空は晴れ、浮かんでいた二つの大きな影も見当たらない。

 ただ、月だけは変わらずあって壁を一枚の石碑のように冷たく照らしていた。

「ここね」

 レクトはそう言うと、キノコも苔も生えていない壁に向かって手を伸ばす。

 すると壁に触れる直前、ガタッと大きな物音が右側から聞こえる。

「――!?」

 音のほうへと振り向けば、そこには一体の人体模型がこちらを向いて立っていた。

 隣には薬品棚が一つあり、その扉が風も無いのに開いてゆっくり揺れている。

 その下辺りで何かが動いたような気配がしてレクトが明かりを向ければ、赤い点が二つ、こちらを窺うように鈍く光っていた。

 その正体にレクトは一息つくと、気を取り直して壁に向かって手を触れた。しかし、それはなんの変哲もない木の感触で、彼女は軽く握り拳をつくると壁を二回叩く。

 トン、トン。

 短く軽い音が、ほとんど響くことなく消えていく。

「?」

 その音に違和感を覚えたレクトは、壁の横に回り込んで厚さを確認する。

(手のひらほどの厚みにしては音が軽い気がする)

 レクトはもう一度、今度は壁に耳をあてて反対側から強めに壁を叩いた。

 トン、トン。

 しかし、それは先程と同じように小さく、まるで遠くで叩いたようだった。

「……圧縮空間……」

 そう小さくつぶやいて、レクトは壁の正面に立ち直ると今度は自分の胸に手を当てた。そして、鋭く息を吸って声を放つ。

「リミテッド・リリース」

 直後、彼女の胸から淡い光が溢れ、

《精震限定解放自動承認》

 彼女と同じ声が静かに響いて消えた。

 静けさを取り戻した闇の中、レクトはズボンのポケットから一枚の紙片を取り出す。そこには黒い線で複雑な幾何学模様と文字が描かれている。それを壁に当て、親指を中心に当てたまま彼女はワードを口にする。

「閉紋:ディス・ケーシング」

 すると紙は壁の中へと吸い込まれるように消え去り、代わりに木でできた両開きの大きな扉が壁面に浮かび上がった。

 扉は周囲の瓦礫とは違い、今も使われているかのように、どこにも壊れた様子は見られない。

 レクトが丸いノブに手をかけゆっくり回すと、それはカチャリと小さな音をたてた。手前へ引けばスムーズにそれは開き、彼女はそのままゆっくり扉を引いていく。

 扉の奥には闇に浮かぶように、銀色の柵に囲まれた銀色の床が広がっていた。

 レクトが一歩を踏み出せば、床が高い金属音を響かせる。

 周囲を見渡せば床は正方形をしており、扉はその一辺の中央に位置していた。床の辺に沿って立てられた柵は床と同じ金属製で、扉から正面を見れば、胸の高さまである柵が指の爪ほどの高さに見える。柵の向こう側には何もなく、ただ真っ暗な空間が広がっているだけのようだった。

 レクトはライトで周囲を照らしながら目を凝らす。すると、正面にある柵に一カ所だけ光を反射しない部分があった。

 どうやらそこだけ柵がないようで、近くへ行って確かめてみれば、そこには地下へと続く銀色の螺旋階段があった。

 下へと明かりを向けるが階段の終わりは見えず、闇の中へと螺旋の先端は消えていく。

 しかし、レクトは迷うことなく階段を降り始めた。

       ◆

 約一時間後。

 レクトは階段の終わりにいた。

 ライトで照らした正面には、鏡のように静かに暗闇を映す銀色の巨大な両開きの扉があって、見上げれば倒れてきそうなほどの高さがある。

 扉には複雑な模様が刻まれ、まるで無数の蛇が這っているようだった。

 レクトは扉を見回して取っ手のようなものを探すが、扉には模様以外は何もない。

 試しに押してみるがびくともしない扉に、彼女は再びポケットから模様の描かれた紙片を取り出すと、それを扉に貼り付け人差し指と中指で上から下へとなぞりながら口を開いた。

「閉紋:ディス・ボルト」

 言葉とともに、紙は溶け込むように扉の中へと消えていく。そして、扉は金属の軋むような音とともに震えだし、それは十秒もしないうちに収まると、扉は開かないまま再び黙り込んだ。

「?」

 レクトはもう一度紙を取り出し同じことを繰り返す。しかし、結果は変わらない。

 試しにもう一度押してみても、やはり扉は動かなかった。

 闇にそびえる扉を見上げて、彼女はため息をつく。

「今日はここまでね」

 そう言ってレクトは踵を返すと螺旋階段を上り始める。そして、数段昇ったところで、ふと何気なく後ろを振り返った。

 そこには相変わらず大きな扉と闇があるだけで、何も変わった様子はない。

 レクトは扉の中央をじっと見つめ、

「…………」

 しかし、それだけで彼女は再び階段を上り始める。

 残された扉は、離れていく明かりとともに再び闇の中へと沈んでいった。

       ◆ 薄暗い部屋に低い男の声が響く。

「ここ、スフィア13の地下に研究施設があるはずだ」

 一辺が大人の背丈二つ分くらいしかない狭い部屋には、中央に大きなテーブルが一つあるだけで、その上には今、淡い光を放つ地図が投影されている。

 光で描かれた地図には、中央にコの字型の建物とスフィア13の文字があった。

 その明かりに照らされて浮かぶ人影は二つ。

 一つは、ぼさぼさの髪に無精ひげを生やし、迷彩服に身を包んだ男のもの。

 もう一つは、細身に黒いシャツとズボンをまとい、長い白髪をさらりと背中に流した少女のものだった。

「ナル。おまえは編入生としてここに入り施設を探せ」

 そう言うと、男は地図の上に彼女の顔写真入りのカードと書類を置く。

「生徒証と推薦状だ。ほかに必要なものは既に寮へ届けてある」

 男はテーブルから少女――ナル=レクトへと視線を移して確認する。

「いいな? ナル」

「はい。マスター」

 レクトは生徒証と推薦状を手にとると、男を真っ直ぐに見て頷き応えた。

「よし。じゃあ、行け」

「はい」

 レクトは出口の扉へと向かう。

 その後ろ姿をじっと男は見つめ、

「……何かあったら必ず連絡しろ」

 そう言って薄明かりに揺れる白髪からテーブルへと視線を落とした。

 レクトは立ち止まり、しかし振り返ることなく「わかりました」とだけ言って部屋を出て行く。

 扉の閉まる音が部屋に響き、それが消えるのを待って男は地図を消した。そして、代わりに一枚の写真をテーブルに表示させる。

 そこにはレクトと同じ姿をした少女と若い男の姿が写っていた。

「もう少しだ。もう少しだけ待ってくれ、ナルミ……」

 男はそう言って、満面の笑みを浮かべる少女の顔にそっと指を触れた。

       ◆

「なんか騒がしいな」

 昼休みの廊下を歩きながら、俺は隣を歩くシンに話しかける。

「ああ、どうやら学園の生徒が神隠しに遭ったらしい」

「神隠し? あの学園七不思議のか?」

 周りをよく見れば、相変わらずレクトに向けられる視線は多いが、それは好奇のものから疑惑のそれへと変わっていた。

 後ろにいるレクトは気にした風もなく歩いているが、隣のチルトはひそひそとした話し声や視線を気にしてか、耳をせわしなく動かしてはレクトの顔色を窺っている。

「神隠しに遭った彼女、その直前にレクトさんと一緒にいたんでしょ?」

 廊下の端にいる女生徒二人組から、そんな声が聞こえてくる。

「放課後、二人で何か話してるのを見てた子がいるって」

「もしかして、レクトさんが彼女を?」

(想像力がたくましいことで……)

 そんなことを思っていると、不意に後ろから勢いよく人影が飛び出した。

 それは二人組に向かって突進すると、勢いのままに彼女たちを壁に押しつける。

 背中を打ちつけ苦悶の表情を浮かべる二人に向かって、

「勝手なこと言わないでッ!」

 そう怒鳴りつけたのはチルトだった。

 女生徒二人の肩を掴み、全身を小刻みに震わせながらチルトは二人を睨みつける。

「ちょっと、チーちゃん……」

 シンがチルトを落ち着けようと手を伸ばすが、それを尻尾で振り払って彼女は言った。

「ナルがそんなことするわけないでしょ! いいかげんなこと言わないでッ!」

 しかし女生徒の一人は、厄介ごとに巻き込まれたとでも言うように嫌そうな顔をしながら小声で言い返す。

「でも、神隠しに遭った子は彼女に怯えてたみたいだって……。それに、いろいろと七不思議のことも聞き回ってたし……」

「それは……」

 途端にチルトの声が小さくなる。

「チーちゃん……」

 シンは心配そうにチルトへ声をかけるが、彼女は二人を壁に押しつけたまま悔しそうに唇を噛み締めていた。

(はぁ、まったく面倒臭い)

 俺はチルトの頭に手を乗せると、鋭い目つきで俺を睨む彼女に言ってやる。

「本人に聞いていみればいいじゃないか」

「え?」

 驚き、直後に不安げな表情を浮かべた彼女は、戸惑いながらもレクトへ視線を移す。

 そこには、さっきからずっとチルトに青い瞳を向ける彼女の顔があって、

「レクトが、その子を隠したのか?」

「いいえ。その方に七不思議のことを聞いたのは本当ですが、それ以降彼女には会っていませんし、神隠しに遭ったということも今初めて知りました」

 と、俺の質問に彼女は顔色一つ変えることなく淡々と答えた。

 俺は二人組を見ると、彼女たちに尋ねる。

「だとさ。ほかに何か聞きたいことはあるか?」

 二人は互いに困ったように顔を見合わせると、

「えーっと……」

「ない、かな?」

 そう言って引きつった笑みを浮かべた。

 俺が二人をチルトから解放すると、二人は軽くお辞儀をして小走りに走り去っていった。

 周囲に残った鬱陶しい視線の群れを払うように見回せば、蜘蛛の子を散らすように野次馬どもも普段の学園生活へと戻っていく。

「まったく……」

「お疲れさま」

 大きくため息をついた俺の肩を叩きながらシンが楽しげに言った。

「まったくだ。面倒臭い」

 俺は肩を落として言葉を返す。

 すると、俺の服を誰かが軽く引っ張った。

 何かと視線を向ければ、そこにはそっぽを向いたチルトがいて、

「あのさ。クウロ」

 彼女は少し唇を尖らせながら俺の名を口にする。

「なんだ?」

「……あ、ありがと」

 ちらりと俺を見て礼を言うチルトの頭をポンと軽く撫で、

「気にすんな。それより……」

 と、彼女を見つめていたレクトへ視線を向ける。

 チルトは真っ直ぐ自分を見つめるレクトに何かを言おうとして、

「チルト……」

「な、何? ナル」

 先に名前を呼ばれて、そう緊張した声で聞き返す。

 そんな彼女にレクトは近づいて手を握ると、目を細めてこう言った。

「ありがとう」

「え?……う、うん」

 一瞬浮かんだ驚きの表情は、すぐに眉尻を下げた照れた笑みへと変わり、チルトはレクトの手をしっかり握り返した。

       ◆

「チルト、大丈夫ですか?」

「うん、私は大丈夫。でも、ごめんね」

 女子寮の自室で、チルトはナルに膝枕をしてもらいながらベッドの上で丸まっていた。

「なんか、自分勝手なことしちゃって……。余計なことしたよね?」

「そんなことありませんよ。それに、大した問題でもありませんし」

 チルトの頭を優しく撫でながらナルは言うが、チルトの耳は力なく俯いている。

「ナルは強いね」

 腰に巻き付けた尻尾の先をさすりながら、チルトはつぶやくように言った。

「そんなことは……」

「ううん、強いよ」

 ナルの言葉を遮ってチルトは言い、そして沈黙が訪れる。

 強い風は窓を叩き、カタカタと音をたてた。

 チルトは体をぎゅっと小さく抱きしめ直すと、ぽつりと話し始める。

「私ね、去年まで、この見た目が原因でいじめられてたんだ」

「…………」

 ため息のようにチルトの口から漏れ出る言葉を、ナルは無言で聞いていた。

「故郷を出るときに、そういうことがあるって言うことは聞いてたし覚悟もしてたけど……。でも……」

 チルトは何かを思い出すように黙り込み、そしてぽつりと言った。

「許せなかったの」

「…………」

「おまえは人間じゃない。化け物から生まれた怪物だって……」

 体を震わせる彼女にナルは手を伸ばしかけ、しかし触れることなく代わりに一つの言葉を口にした。

「人間、じゃない」

 それは独り言のようで、しかしチルトはうずくまったまま震える声で話を続ける。

「お父さんとお母さんは化け物じゃない。人間だよ。私だって……」

 ナルは静かにチルトの頭に手を乗せた。

「だから、ナルは幽霊じゃないし神隠しだって関係ない! 私の友達なんだから!」

 唇を噛んで肩を震わすチルトを見下ろし、ナルは穏やかな声で言う。

「羨ましい、ですね」

「え?」

 驚き見上げようとするチルトを遮るように、ナルは獣耳の間に置いた手をゆっくりと動かした。それに、チルトはくすぐったそうに目を細める。

「私には……」

 どこか遠くを見つめながらナルは言う。

「そう思えるものがあるのでしょうか」

 その少し悲しげな響きが気になりながらも、チルトは頭に置かれた手を邪険にすることもできず、されるがままに撫でられていた。

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