第三章
「ねえ、どうしよう……」
朝の登校時間帯。
いつもの赤レンガの通りを歩く俺の横で、チルトが不安そうに左右にいる俺とシンを見上げて言う。
レクトが行方不明になってから既に四日。
短期間に連続して行方不明者が出たことで学園側も事件性を感じたのか、昨日の朝から保安部の腕章を着けた連中が学園内のあちこちにいる。
授業はまだ通常どおり行われていたが、時間監視局から派遣された捜査官の邪魔にならないよう学園生達の行動は制限され、授業以外で不必要に校内に留まることは禁止されていた。もし保安部に見つかれば、強制的に寮へと退去させられるらしい。
(ほとんど学園内に軟禁状態だな)
そんなことを思いながら俺たち三人はいつもどおりに、しかし普段より静かな学園内を歩く。
レクトの姿が見えなくなった直後から、学園中は噂の幽霊編入生が消えたという話で持ち切りだった。
それは今でも変わらないが、静かになったことで余計にざわざわとした不安な空気となって学園全体を包み込んでいた。
俺たちはといえば面倒なことに、レクトに一番近かった者として保安部の直接監視下に置かれている。
そんな中、尻尾を自分の足に巻き付けて体を縮こまらせ、オロオロと左右を気にするチルトに俺は肩を竦めて言う。
「どうしようって言われてもな。レクトの行きそうな場所なんて俺にはわからないしな」
そのまま横目で後ろを窺えば、俺たちの後ろを保安部の男が一人、隠れることなくついてきている。
しかし、それ以外にも少なくとも三つ、俺たちを監視するような視線があった。
(動物のほうが隠れるのはうまいな)
師匠との生活を思い出しながら、俺は気付いていない振りをして隣のシンを見る。
すると彼は、まるで姫を護衛する騎士といった感じで、チルトをかばうように鋭い視線を周囲に向けていた。
「チーちゃん、大丈夫だ。さあ、好奇心旺盛な女性達よ、遠慮なく私を見るがいい!」
そう大仰に言って両腕を左右に勢いよく広げる。
すると、それまで周囲にあったまとわりつくような視線が一瞬で消え去った。
俺は友をじと目で眺め、しかしチルトをさりげなく背後にかばう彼に、これはこれでいいかとため息をつく。
対してチルトは、そんなシンの様子を一切気にすることなく、眉根を寄せた真剣な眼差しで彼の上着の裾を引っ張って言う。
「シン、私のことはいいから、早くナルを探さないと」
「えーっと……チーちゃん?」
困惑の表情を浮かべるシンに、彼女は歩みを止めると上目遣いでじっとシンを見つめた。
俺とシンも足を止め、黙り込む三人の横を生徒達が遠巻きに通り過ぎていく。
シンを見るチルトの瞳は微かに潤んで、不安と心配に揺れていた。
彼女は自分の感情を抑えるように、それでも震える唇を開いてシンに言う。
「こういうことには慣れてるし、それに、私には二人がいれば大丈夫だから……。私より早くナルを……」
その頼りなくも真っ直ぐな瞳に、シンは観念すると口を開いた。
「わかったよ」
その言葉に、チルトの足に巻かれた尻尾が緩む。
シンは彼女の頭に手を乗せると耳の間を軽く撫で、彼女はくすぐったそうにしながらも素直にそれを受け入れる。
そんな二人の場違いな空気に、俺はさっさと話を進めることにした。
「で、シン、何かレクトについてわかったことはあるのか? 女性に見境のないおまえのことだ、彼女のことは当然調べてあるんだろ?」
俺の言葉にチルトの耳がピンと立ち、頭を撫でていたシンの手がピタリと止まる。
「クウロ、ちょっと待て。何か勘違いしているようだが、俺は女性に見境が無いんじゃなくて平等に扱ってるだけだ」
「平等?」
シンの手を頭に載せながらチルトは疑いの眼差しを向け、それにシンは一瞬動揺したものの胸を張ると大きく頷いた。
「おまえの嗜好についてはどうでもいいんだが……」
俺の指摘にシンは不満げな視線を向けるが、無言で先を促すと彼は腕を組んで目を閉じ、一瞬だけ片目を開けて俺たちの後方を見た。そこには暇そうに木によりかかる保安部の男がいる。
そして一呼吸置くと、シンは俺とチルトを見て話を始めた。
「やっぱり七不思議が怪しいかな」
「七不思議か」
俺とシンの会話にチルトは三角耳を傾けて熱心に聞いている。
「最初に会ったときも結構興味があるみたいだったけど、その後も一人で調べていたらしいしね」
俺はレクトと出会ったときのことを思い出して頷く。
「じゃあ、取り敢えず七不思議を一つずつ調べていくか」
「それが妥当じゃないかな」
シンも俺も手短に話をまとめる。
すると、それまで黙っていたチルトが口を開いた。
「ねえ。シン、クウロ」
彼女は、なぜか気まずそうに視線をそらして、
「私、それなら気になる場所があるんだけど……」
小さな声でそう言うと、再びシンの制服をぎゅっと掴んだ。
◆
「ここか」
俺は、月明かりに浮かび上がる廃校舎を見上げて言った。
夜空を横切る巨大な影が、その直線で構成された輪郭で月の曲線を切り取っていく。
「よくこんな状態で残ってたな」
隣でシンも、手にしたライトで廃校舎の中を照らしながら物珍しそうに感想を口にする。
その後ろを見れば、シンの背後に隠れるようにしてチルトが周囲をキョロキョロと窺い、頭の上でピンと立った二つの耳も、まるで別々の生き物のようにそれぞれが俊敏な動きで周囲を警戒していた。
彼女は左手でシンの制服を掴み、もう片方の手で腰に巻き付けた尻尾の先を握りしめている。その腰はすっかり引けて、危うくスカートの中が見えそうなほど尻が突き出されていた。
「おい、チルト」
「ひゃっ!! ひゃにッ!?」
注意しようと声をかけただけなのにチルトはシンの背後から彼に抱きついて、その背中に顔を埋めて彼ごと自分を尻尾で縛った。
「え? ちょっと、チーちゃん?」
突然のことにシンは慌てるが、チルトは耳を閉じていて彼の声は届かない。しかも抱きついたまま、彼女は両腕に力を込めて締めていく。
「ちょ、うぉ、ぐるじ……」
呻き苦悶の表情を浮かべるシンだったが、俺は気にせずライトでチルトの顔を照らすと一つ訊いた。
「で、いちゃつくのは勝手だが、レクトはここに来たのか?」
「え?」
眩しそうに目を細めながら、チルトは自分の腕の中で白目を剥いたシンに気がつく。
「わっ、わわわっ!?」
そして、泡を吹くシンから慌てて離れようとするものの尻尾がうまくほどけず、チルトはバランスを崩して彼を地面に押し倒した。
地面に顔面から激突したシンはくぐもった声を上げ、チルトは動かなくなった彼を下敷きにしたまま、何とか尻尾をほどいて上半身を起こす。
「うう、鼻痛ぁい」
シンの背中に跨がったまま鼻をさするチルトに、俺は光を当てたまま質問を繰り返す。
「だから、いちゃつくのは勝手だが、本当にレクトはここに来たのか?」
「うう、えっと……、私が見たのは森に入っていくまでだから、実際にここに来たかは……。でも、こっちにある七不思議に関係する場所はここだけだし……」
チルトはシンの背中から退きつつ、自信なさげに答えた。
「そうか。まあ、ほかに手がかりもないしな」
俺は再び周囲を照らしながら見回すが、暗闇の中で浮かび上がるのは静かに佇む壁や柱の残骸と、時折明かりから逃げるように動く小さな赤い点だけだった。
「いててて」
声のほうを見れば、シンが顔に手をやりながら起き上がる。
「チーちゃん、抱きついて押し倒すなら、もう少しおしとやかにしてくれるかな?」
「へ、変な言い方しないでよっ!」
仲良く揃って鼻の頭を赤くした二人に呆れつつ、俺はチルトの頭に手を乗せて言う。
「夜行性だからって興奮しすぎだ。ちょっとは落ち着け」
「もう! クウロまで!」
手を払い除けてチルトは牙を剥いて爪を立てて見せた。
「とは言え、今回はそれが頼りになりそうだけどな」
「え?」
俺の言葉にチルトの動きが止まる。
「チーちゃんは夜目が利くからね。さあ、ナルさんを一刻も早く見つけよう」
続けてシンが彼女に真剣な顔を向けて言った。
「あ……、うん。任せて! 私、頑張るから!」
自分を奮い立たせるようにチルトは拳を握りしめ、俺とシンはそれを見て頷き合う。
「じゃあ、俺はこっちを調べるから、三人で手分けしていこう」
「え?」
途端に固まるチルトの表情。
「クウロ、おまえな……」
そして呆れた目で見てくる友に、俺は頬をかきつつ口を開く。
「あー、そうだな……、シンを一人にするとレクトを見つけたときに彼女が危険だから、チルトはシンと二人で向こうを調べてくれるか? 俺は一人でこっちを調べるから」
「そ、そうね。それなら仕方ないわね。わかったわ。任せといて」
そう言ってチルトはシンの手をぎゅっと握ると「さあ、行くわよ」と彼を連れて歩き出す。
シンは俺に不満そうな顔を向けながらも彼女に引かれて後に続き、そして俺を指さしぽつりと言った。
「貸しだからな?」
「ああ。わかってるよ」
ため息をつきつつそう答え、俺たちは二手に分かれて廃校舎を調べ始めた。
◆
「おい、クウロ!」
夜の空をゆっくり動いていた大きな影はいつの間にか姿を消し、虫の鳴き声さえも眠りに就いた頃、俺を呼ぶシンの声が闇の中に響いた。
腰までの高さしかない朽ちた壁に囲まれた教室から出ると、俺は所々に穴の開いた廊下へと出て声のほうへと目を向ける。
そこには廊下の突き当たりを示す壁があり、その前に明かりを手にした人影が二つあった。
「どうした?」
「いいから、ちょっとこれを見てくれ」
明かりを壁に向けながら手招きするシンのほうへ歩いていくと、そこには彼の手を握るチルトの姿と、その前に立ちはだかるように垂直に伸びる木の壁がある。
それは二階部分まであったが二階の床などは一切なく、ただの大きな板のようで多少の傷が表面にはあるものの特におかしいところは見当たらない。
「クウロ。これ、どう思う?」
シンの問い掛けに俺は手にしたライトで壁を上から下へと照らす。
まるで廃墟に建てられた石碑のように壁は堂々とそびえ立ち、闇の中でその存在を浮かび上がらせている。
「なんか変だな」
漠然とした違和感を口にする俺に、シンが俺たちを見ていたチルトに一つ頷き、彼女も頷き返す。
何かと思ってチルトを見ると、彼女は壁を指さしさながらおずおずと口を開いた。
「あのね、クウロ。この壁に何か描いてあるんだけど……」
指された部分を見るが、そこには木目があるだけだった。
「どこにあるんだ?」
「ここに、こーんな感じで」
そう言ってチルトが壁を指でなぞっていく。
それは床から上へと、人一人が通れるくらいの縦長の長方形をしていた。
「チーちゃんには見えるんだって」
「ぼんやり光ってる感じなんだけど……」
俺を見て言うチルトの瞳は瞳孔が大きく開き、黄色い満月のようになっている。
「夜目が役に立ったな。で、ほかに何か見えるか?」
「えーとね。関係者以外立入禁止って書いてある」
俺は思わず言葉を失いシンを見た。すると、そこには俺と同じく怪訝な表情があって、
「怪しいだろ?」
「怪しすぎるな」
そう言って俺とシンは壁をじっと見て考え込む。
そんな俺たちにチルトは心配そうな視線を向けて言う。
「どう? 何かわかりそう?」
じっと見つめる彼女に、俺は取り敢えず浮かんだ思考を口にする。
「立入禁止ってことは、立ち入ることができるってことだよな?」
「じゃあ、入ってみるか? 壁の中に……」
シンは壁を見たままそう言って、
「入れるの? どうやって?」
続いたチルトの言葉に、俺とシンは壁を見たまま黙り込んだ。
しかし、目の前の壁はいつまでも壁のままで何も答えてはくれない。
「ねえ、二人して黙らないでよ」
俺たちを交互に見るチルトに、俺は何かいい案があるか?とシンの様子を窺った。
しかし、その顔は俺やチルトではなく俺たちの右後方を向いて固まっていた。
彼はそちらへと明かりを向け、
「おい、あれ……」
と指をさす。
「な、何?」
チルトは恐る恐る振り返り、俺もそちらに目を向ける。
すると、そこには裸というか内蔵までオープンにした人体模型が立っていた。
「ひっ……」
チルトの息を呑む音が聞こえ、その背後に口の端を歪めたシンが忍び寄ると、彼は毛の先までピンと立ったチルトの獣耳に口を近づけ、
「ふー」
と息を吹きかけた。
「いっやぁああああッ!」
悲鳴とともにチルトの回し蹴りがシンの体をなぎ払う。
「ぶほっ!!」
というよくわからない音とともに、くの字に折れたシンの体が背中から壁へとぶつかり、しかし壁は軋むことなくボンという分厚い金属のような音を響かせて彼の体を跳ね返した。
「いやぁあ! 耳! 私の耳が何かざわって、ざわってなった!」
その横でチルトは飛び跳ねながら両耳を手でパタパタと払い、その場にしゃがむと抱えた膝に顔を埋めて耳を伏せる。そして、何やらブツブツとつぶやき始めた。
地面に倒れて痙攣するシンと体を丸めて震えるチルトにため息をついて、俺は人体模型を照らしながら獣耳少女に言ってやる。
「ちょっとは落ち着け。ただのシンのいたずらだ。それにあれも、ただの人体模型だ」
「え? あ、あれ?」
俺の言葉に、チルトは周囲を見回し戸惑いの表情を浮かべる。
しかし、そんな彼女は放っておいて、俺は気になったことを確かめるべく壁を軽く叩いてみた。
すると、シンがぶつかったときとは違い、今度はコンコンという木の音が聞こえる。が、それもよく聞くと、どこかくぐもったような感じがしなくもない。
「何か術でもかかっているのか?」
「術?」
落ち着いたのか、チルトがシンをまたいで俺と同じように壁を叩くが、よくわからないのか首をかしげる。
「だとしたら、恐らく封印系の術だと思うが……」
「どうやら、俺の機転が役になったようだな。あとは俺に、任せろ」
地面から聞こえる声に下を向けば、シンが仰向けに寝転がったままゾンビのように弱々しく両手を上げている。片方にはライトを持ち、その明かりはチルトを下から照らしていた。そして、もう片方の手は彼女のスカートへと伸びて、
「ちょっと、何するのよッ!」
慌ててスカートの裾を押さえたチルトの足が、最小限の動きで鋭く上げ下ろされる。
「え?」
その言葉を残してシンの頭が地面にめり込んだ。
「この変態ッ!」
そして、続く罵声とともにチルトは何度もシンを踏みつける。
「ぐっ、ちょ、ひょっと待っへ!」
顔を踏まれながらも、シンは手を上げたまま何かを訴え続けた。
「うるさいっ! 黙れ! この女たらし! さっきはよくもッ!」
しかし、チルトはそれを無視して容赦なくシンを足蹴にする。
それを傍観しながら俺は、スカートへ伸びたシンの手に一枚の小さな紙切れが握られていることに気がついた。
「これは……、符か?」
シンの手から引き抜いた紙切れには、両面ともにびっしりと文字や幾何学模様が描かれている。
「クウロ。ひょれを、ふかえ。ワードは……」
そこまで言ってシンは力尽きた。
「シン。おまえの尊い犠牲は無駄にはしない」
俺は、地に伏して動かなくなった友と蹴り疲れて息を切らしているチルトから視線を外し、目の前の壁へと手にした符を当てる。
放つワードは、力尽きる直前に見せたシンの清々しい笑顔が教えてくれた。
「閉紋:ジ・エロスッ!」
「あんたも変態かっ!」
鋭いチルトの突っ込みが、即座に俺の後頭部に炸裂する。
「……痛い目に遭った上に何も起こらないとは、シンよ、いったいどういうことだ?」
後頭部をさすりながら言う俺の視線の先で、シンが自分の顔をライトで照らしながら恨めしそうに見上げてつぶやいた。
「おまえまで、そんな目で俺を見てたのか……」
そして、ゆらりとゾンビのごとく立ち上がると、俺から符を取り返して壁に勢いよく当てて叫んだ。
「閉紋:ダイス・キー・オブ・パイ!」
直後、背後から俺の蹴りとチルトの正拳突きを同時にくらったシンは、現れた扉を押し開けて闇の向こうへと消えていった。
◆
「それにしても、あんなのでよく封印を解除できたな?」
「あんなのって……。おまえな、あの符は学会員も密かに利用するという店で手に入れた十年ものだぞ」
俺とシンは、扉の先にあった地下へと向かう螺旋階段を降りながら話していた。
周囲に明かりはなく、あるのは遙か下でライトの光を反射する三階分の高さはあろうかという銀色のやたらと背の高い扉だけだった。
「学会って、シフトにある学術研究の最高機関でしょ?」
後ろを歩くチルトの声に振り返れば、彼女は疑いに満ちた眼差しをシンの後頭部に突き刺しながら話を続ける。
「学会御用達の十年もののワードがアレなの?」
語気を強めて言うチルトに、シンは顔を引きつらせながらも懸命に説明する。
「いやいやいや! よく聞いて、ダイス・キー・オブ・パイ、円周率の運命鍵って意味だから! 別に他意はないから!」
「んなわけあるかっ! どう聞いても〝大好きおっぱい〟でしょうが! この変態ッ!」
「ひいっ!」
牙を剥きだし拳を振り上げるチルトに、シンは一目散に階段を駆け下りた。
その姿はあっという間に闇に消え、途中で短い悲鳴が聞こえたかと思うとガランゴロンという音とともにライトの明かりを散乱させながら何度も何度も円を描いていく。
「結構、下まであるみたいだな」
歩きながら俺は、拳を振り上げたまま立ち尽くすチルトに振り返って言った。
「何呑気に言ってるの? 追いかけないと!」
我に返ったチルトは慌ててシンの後を追って走り出す。
俺も仕方なくチルトの前を照らすようにライトを向けながら追いかけ、そして、まるで同じ所を何度も回っているような錯覚を覚え始めた頃、俺たちはようやくシンに追いついた。
彼は少し広めの踊り場で、まだまだ続く螺旋階段の下へと明かりを向けている。
「どうした?」
そう訊くと、シンは無言で下を見たまま首をかしげ、そんな彼の顔を覗き込むようにチルトも尋ねる。
「目が回って気持ち悪いとか?」
しかし、それにもシンは答えず、明かりの先を指さすと不思議そうに疑問を口にした。
「なあ、あれって逃げたりするのか?」
何を言っているのかとチルトとともに下を見れば、そこには降り始めた頃とまったく変わらない大きさで、何もなかったかのように銀色の扉が静かに光を反射していた。
◆
そこは薄暗い空間だった。
ナル=レクトは金属製の細長いテーブルに横たわり、目を閉じて眠っている。
そばには大人の背丈で十数人分の高さと幅を持つ巨大な黒い球体が宙に浮かび、低く呻るような音を一定のリズムで響かせている。
その球体からは大小様々なケーブルが伸び、ぼんやりとした光を放つモニターや計器類が並ぶ大型コンソールへと繋がっていた。
「ん……ここは……?」
ゆっくり目を開けたレクトが、視線を周囲に向けながらつぶやく。
すると近くから足音が聞こえ、それはレクトのそばまで来ると人影となって彼女の上へ覆い被さった。
よく見れば、それは白衣を着てレクトとよく似た顔をしている。
「壊れてはいないようだな」
淡々とした声で、白衣の女は青い瞳をレクトに向けながら言った。
「あなたは……」
誰?と言おうとしたレクトだったが、口が思うように動かず言葉は途切れた。
しかし白衣の女は、レクトの問いに機械的に答える。
「安心しろ。私はB9。ここで現相炉の維持管理を任されている者だ」
そして長い白髪を揺らして首をかしげると、彼女は言葉を続けた。
「それにしても、なぜ、そんな格好をしている?」
レクトは自分の体を見ようとするが頭が重くて動かない。しかたなく視線だけを下げて見れば、そこには学園の制服が見えるだけだった。
白衣の女へと視線を戻せば、彼女は品定めをするようにじっとレクトを見ている。
その瞳を見返したレクトは、まるで万華鏡に囚われたかのように自分が曖昧になる感覚に襲われた。
「それは……」
自然と漏れ出た声に、レクトはすんでのところで口を噤む。
(余計なことを話している場合じゃない)
はっきりしない思考を無理矢理動かして、レクトは自分のすべきことを思い出す。
(……現相炉……)
B9と名乗った女はそう言った。そして、その言葉はレクトが欲していたものだった。
自分が探していたものをB9は知っている。
(それなら、彼女から情報を聞き出さなければ)
その一心でレクトは自分の体に起き上がるよう指示を出す。
「くっ……」
しかし、体は言うことを聞いてくれない。テーブルに張り付いたように四肢は動かず、込めた力はわずかな呻き声となって口からこぼれるだけだった。
「無意味なことをするな」
「む、いみ?」
B9の淡々とした言葉がレクトの神経を逆撫でし、その言葉を否定しようとムキになってみても結果は変わらなかった。
「そうだ。おまえは、ただそこにいればいい。そのための存在なのだから」
「それは、どういう……」
感情のこもらないB9の声に疑問を返しながら、レクトはその言葉に嫌な予感を覚え始めていた。
しかし彼女はレクトのことなど気にせず、ただ質問に答えを返す。
「おまえにP2IDはないだろう?」
「P2ID……」
当然のように言うB9だったが、レクトはその問いに答えられなかった。
しかし、それでいいとでも言うようにB9は話を続ける。
「我々パペットを識別・管理するための個体識別子。それすらも知らないことが、何よりの証拠だ」
(……私のP2ID……)
その言葉を頭の中で反芻し、レクトは浮かんだ言葉を口にする。
「私は……、ナル」
「ナル? それはP2IDがないという意味だろう?」
B9はそう言って不思議そうに聞き返し、レクトは自分の理解とは違う意味に戸惑いを口にする。
「何も……ない?」
「ナルとは、そういう意味の言葉だと記憶しているが違ったか?」
B9は怪訝そうな顔でレクトを見下ろす。
薄暗い闇を背に自分と同じ青い瞳が二つ。それは昔の自分を見透かすようで、レクトをひどく不安にさせた。
「……違う」
否定の言葉を口にして視線を逸らしても、一度生まれた不安はゆっくりとだが確実にレクトの思考を蝕んでいく。
(私はナル=レクト。ウェイス様のパペット)
レクトは崩れ落ちそうな何かを抱きとめるように、自分の名前と存在意義を思い浮かべる。
「……ウェイス様……」
そして大切な人の名を口にした。
それを訊いたB9は、怪訝な表情を嘲りを含んだものへと変えて言う。
「ウェイス? まさか名前だけでなくマスターまでいるのか? 燃料のおまえに?」
「……燃料? 違う。私はウェイス様のパペットで……」
虚ろな思考でレクトはB9の間違いを訂正するが、なおもB9は呆れた顔で言葉を続ける。
「違う。おまえは人という可能性を模した実験用生体燃料――プエラ。識別する必要のない消費されるだけの存在。だからP2IDもない」
「そんな、ことは……」
私には名前があるとレクトは自分に言い聞かせる。それがどんな意味だろうとマスターがつけてくれた名前に違いはない。
でも……、
(……燃料……?)
B9の言葉はレクトを不安にさせる。
「おまえのマスターは何を思って燃料に名前を付けたのか……。理解に苦しむな」
「やめてッ!!」
思わず叫んだ直後、目眩とともにレクトの全身から力が抜けていく。
意識も薄れ始め、それでも球体から聞こえる鼓動のような音だけはやけに心地よく、レクトの目蓋は徐々に重くなっていく。
狭くなるレクトの視界からB9は視線を外すと何も言わずに離れ、そして完全な闇が訪れる。
《……ウェイス様》
レクトは闇の中でマスターへと呼びかけた。
通信の返事を待つ数秒さえも、止まった時のようにもどかしい。
胸が締め付けられるような苦しさの中、
《……どうした?》
ノイズに混じって頭の中に聞き慣れた声が響いた。
その声にレクトはゆっくり一つ息を吐き、自分の役目を実行する。
《現相炉とおぼしきものを見つけました》
《……そうか。よくやった。それで何か人体実験のような、人を犠牲にしている証拠のようなものはあったか?》
《……それは……》
急くようなマスターの口調に、レクトはなぜか距離を感じて言葉に詰まる。
今は自分の現状をマスターに伝えることが先決。そう自分に言い聞かせ、
《一つ確認したいことがあるのですが?》
しかし彼女が言葉にしたのは報告ではなく質問だった。
《……なんだ?》
マスターは少し訝しそうにしながらも先を促す。
言葉と思考の乖離に戸惑いながらもレクトは言葉を続けた。
《私のP2IDを教えていただけますか?》
《…………》
相手はしばし沈黙し、そして思い出すように彼女に答える。
《P2ID? そういえば、たしか、おまえにはなかったと思うが……。もしかして証拠を掴むのに必要なのか?》
《いえ。そういうわけではないのですが……》
《そうか? 必要なら偽装P2IDを早急に用意す……》
ノイズでマスターの言葉が途切れ、レクトはその間に浅く息を吐くと、
《いいえ、大丈夫です。私にはウェイス様から頂いた名前がありますから》
と、普段どおりの口調で話を続けた。
《証拠については、恐らくもう少しで決定的な情報が手に入ると思います》
《そうか。では、俺も今から学園内に入る。マーカーは残しているな?》
《はい》
レクトは、そう返事をしながら別のことを考えていた。
周囲の状況とB9の言ったことだけでは、マスターの求める証拠にはまだ足りない。
(でも、彼女が言ったことが本当なら)
自分に似ているからか、それとも自分とは違うパペットとしてのあるべき姿を彼女に見たからか、レクトにとってB9の話は真実めいて聞こえた。
パペットなら誰もが当然のように持っている自分の存在理由。
それを自分も手に入れることができるかもしれない。
そのことにレクトは自分の奥底で蠢いていた靄が消えていくのを感じ、同時にそれは今の自分を否定することだと自覚していた。
(……ウェイス様……)
人の形をしながら人との関係を望まれない、ただ可能性を閉じ込めるためだけの器。
(消えることが存在理由なら、確かに名前なんて必要ない)
《じゃあ、俺が行くまで引き続き情報収集を続けてくれ。頼んだぞ、ナル》
聞こえるマスターの声に、レクトは名前を付けてもらったときのことを思い出し、
《了解です。ウェイス様》
そう答えながら自分の名を呼ぶマスターの声を記憶の底へと保存した。
そして通信が終わる。
ノイズの無い静寂の中へと意識がゆっくりと溶けて、レクトの脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
(さようなら)
それは誰に向けた言葉なのか、もう彼女自身にもよくわからなくなっていた。
◆
「隠し扉の次は無限ループかよ」
螺旋階段の下を覗きながら、シンがうんざりした顔で言った。
俺は真っ黒な底に浮かぶように佇む扉にライトを向けてぽつりとつぶやく。
「いっそのこと飛び降りてみるか」
「ちょっと本気?」
目を見開いて驚くチルトに俺は、
「いや。冗談だが?」
と即答する。
口を開けて唖然とするチルトの横で、シンは後ろを向いて背中を震わせている。
そんな彼に、チルトはこめかみをひくつかせながらも笑顔を向けると、その肩に優しく手を置いて言った。
「……シン。あんたが行ってきなさい」
そして軽々とシンを両手で持ち上げ階段の外へ放り投げようとする。
「へっ……」
突然のことに気の抜けた声を上げるシンだったが、すぐに自分が仰向けで持ち上げられていることに気付くと、チルトの腕を後ろ手に掴んで彼女に言う。
「えーっと、チーちゃん? 落ち着いて?」
「放しなさい。そして落ちなさい」
頭上でシンを揺らしながらチルトは淡々と告げ、
「ちょ、ちょっと待って、チーちゃん! 落ちる! 落ちるから! 危ないからッ!」
シンは慌てて体を捻り、無理矢理チルトの腕にしがみついた。すると、彼女の小刻みな揺れが大きく背後へ傾いていく。
「あっ!?」
チルトはバランスを取ろうと尻尾を前の手すりに巻き付けるが、そっちに意識が集中したせいで両手が一瞬おろそかになった。
「うぉわわわっ!?」
宙へと放り投げ出される形になったシンはチルトの手を掴み直そうとして、しかし、彼女の手が目の前から急に消えたことに驚いた。
よく見れば、手すりの近くでうずくまったチルトが尻尾の付け根をさすりながら目尻に涙を浮かべている。
シンは放物線を描きつつ、諦めの笑みを浮かべて落ちていく。そして、「またかああああああッー!」という言葉を響かせながら再び階段を転がっていった。
俺は先に行く友を見送ると、ズボンのポケットから一枚のコインを取り出す。
「仕方ない。これを落とすか」
そう言って隣を見れば、チルトは涙を拭いながら立ち上がり、
「そうね。あいつより役に立ちそうだわ」
と自分のお尻をさすりながら同意する。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ。それより、人のお尻をじろじろ見ないで」
彼女の鋭い視線に、俺はすぐに目を逸らして手すりの外、扉のほうへと顔を向ける。そして気を取り直すと、「いくぞ」と言ってコインを闇の中へ落とした。
銀色の硬貨はゆっくり回転し、ライトの明かりを反射しながら音もなく落ちていく。
次第にそれは明滅する光の点となって、しばらくすると動かなくなった。
「底についたの?」
「いや。何も音はしなかったし、今もコインは回転してるみたいだな……」
落としたコインは見えなくなるわけでもなく、同じ強さで明滅し続けている。
「もしかして、シフト艦と同じ力が働いているのか?」
「どういうこと?」
「シフト艦は一見すると宙に浮かんでるけど、実際は落ち続けているだろ。あのコインも、それと同じじゃないかってことさ」
「止まってるのに落ちてる?」
小首を傾げて疑問符を浮かべるチルトに、俺は思わずあ然とした。
シフト艦の浮遊機構には刻奏術が使われている。その事は講義でやったはずだが、なぜこの猫娘はそれを覚えていないのか。
理解に苦しんでいると下のほうから声が聞こえてきた。
「チーちゃん、ちゃんと講義受けてるの? シフト艦の浮遊機構は移動系の講義でやったでしょ?」
そう言ったのは、息を切らしつつ階段を上ってくるシンだった。
「そ、そういえば……講義で、やったかも?」
チルトはシンから目を逸らして乾いた笑みを浮かべて答える。
俺は呆れつつも、取り敢えず話を進めることにした。
「まあ、復習も兼ねて説明すると、物を浮かせる基本的な方法としては流体を噴出してその反動を使う方法か、翼なんかで揚力を生み出して使うのが一般的だけど、シフト艦の規模でそれをやると超大型台風並みの流体渦が発生して、浮かんでも地上やシフト艦自体に大きな影響が出る。かといって、流体の影響を弱めると浮力を弱めることに繋がる。それで、代わりに考え出されたのが圧縮空間を使う方法」
そこまで一気に話して、俺はチルトの顔を窺った。
「圧縮空間……」
そこには先程と同じように小首をかしげるチルトがいて、それを見たシンは愕然とした表情で一歩後ずさった。
「チーちゃん。そんな……」
その反応にチルトは慌てて、
「な、何よ!? 圧縮空間くらい知ってるわよ! 圧縮した空間でしょ?」
と説明になっていない説明を口にする。
「いや、まあ、そうなんだけどね……」
シンは、さらに冷ややかな眼差しを向けて苦笑を浮かべた。
チルトは腕を組んで頷きながら「やっぱりね。そうでしょ。そうに決まってるわ」などと一人で納得している。
俺は猛烈に不安を覚えつつも、咳払いをして無理矢理気を取り直すと話を続けた。
「空間の圧縮自体は統一時代より以前から理論的に可能であることは知られていたから、過相抵抗――つまり刻奏術を阻害する可能性の否定もほとんどないし、空間自体はほぼ無限にある。そんなわけで、一般的には倉庫なんかで使ったりするんだけど……」
「あっ、知ってる知ってる! 中に入るとやたらに広いアレでしょ?」
今度は知っていたらしくチルトがやたらと食いついてくるが、俺は気にせず続ける。
「それで、それを立体じゃなく平面に展開して空間密度をできるだけ高めたのが空間障壁……」
「あ、それも知ってる! 実習でやったあれでしょ? 入ると人が消えちゃうやつ」
「チーちゃん、手品じゃないんだから、もう少し学園生らしい発言を……」
そう言ったシンは、チルトの「黙って」の一言とともに肘鉄を腹に食らってその場に崩れ落ちた。
俺はやる気を大量にそがれつつも、なんとか惰性で話を続ける。
「空間障壁の場合、圧縮される空間の距離は最低でも惑星の円周くらいはあるからな」
「でも、それだとシフト艦も消えちゃうんじゃない?」
「お、チーちゃんにしては、いい質問だね」
腹を押さえて膝をついたシンが、苦しげな笑みとともに人差し指を立てて言う。
その指を無言であらぬ方向に曲げながら、チルトは先を促すように笑顔を俺に向けた。
「……あー、まあ、シフト艦を呑み込むくらい広ければな」
俺は見なかったことにして話を続ける。
「違うの?」
「ああ。ここがポイントで、空間障壁を浮かせたい物より小さくする。そうすると、どうなると思う?」
「うーん。浮かせる物より小さいってことは、空間障壁の中に入らないってことだよね?」
考えるような仕草をしたものの、すぐにチルトはお手上げというように肩をすくめた。と同時に、指を解放されたシンが恨めしそうにチルトを見上げている。
俺は面倒が起きる前に、さっさと話を進めることにした。
「距離的に圧縮されてるだけで、空間障壁もただの空間だから通過はできる。でも、通常空間との密度差によって、この場合、空間障壁に接触している部分が障壁を抜けるまで、それ以外の部分はほとんど移動しないんだ」
「うーん……つまり?」
眉間に深い皺を寄せてチルトは訊いてくる。
「そうだな。イメージで言うと机に置いた氷の上に熱した鉄板を置くような感じか」
「えーっと、氷が溶けきるまで下に落ちないってこと?」
大きく首をかしげるチルトの隣で、シンが指をさすりながら立ち上がると俺に言った。
「でも、ここが空間障壁内だとすれば、氷を溶かすようにはいかないぜ」
「ああ。そうなんだよな。どうしたものかな」
俺は未だに回り続けるコインを見下ろす。
「術で解除すればいいんじゃないの?」
気楽に言うチルトに俺とシンは顔を見合わせてため息をついた。
「チーちゃん。頼むから本当に勉強してくれ」
「う、うるさいわね。あのエロ解除符でもだめなの?」
顔を赤くして言うチルトに、シンは懐から出した小さな符をひらひらさせながら言った。
「これは封印を解除する符だからな。空間障壁は封印じゃないし……」
「それに圧縮空間を下手に解除すると周囲の空間ごと一気に膨張して爆発する」
「じゃあ、どうするのよ?」
ふて腐れたように手すりに寄り掛かるチルトにシンは肩を竦めて苦笑を浮かべ、俺は腕を組んで考え込んだ。
「穴を開けるように部分的に解除できればいいんだが、符でそこまで細かいことはできないしな……」
そのとき、不意にくぐもった振動音が俺の懐から響いた。
「な、何っ!?」
尻尾を抱きしめて怯えるチルトをよそに、俺は制服の胸ポケットから携帯端末を取り出す。
光を放つ画面に表示された着信マークと相手の名前を確認すると、俺は端末を耳に当てて相手に呼びかけた。
「師匠。どうかしたんですか?」
相手は俺の師匠――ジル=イルスだった。
◆
「おいおい! 師匠って、もしかしてジルさんか?」
「ジルって誰?」
俺の端末に耳を近づけようとするシンの頭をがっちり背後から両腕でホールドして、チルトが俺に尋ねてきた。「知らないのか!? マスタークラスの刻奏師だぞ! まあ、俺としてはもう一つの顔のほうに興味があるんだけど」
そう興奮気味に、俺ではなくシンが早口で答える。
なおも、しつこく顔を近づけようとする彼から一歩離れて、俺は端末から聞こえる声に耳を傾けた。
《おい、聞いているのか? おまえが困っていると思って連絡してやったのに、まったく……》
「はい、聞いてますよって……、えっ、今、師匠なんて?」
自分の現状をずばり言い当てられて俺は思わず聞き返した。
《どうもスフィアが騒がしくなってるようだし、なんか怪しいやつも動き出したから、どうかと思って連絡したんだが、困ってないんだったらいいんだ。じゃあな》
「待ってください、師匠! 困ってます。困ってますから切らないでください!」
慌てて言って、俺は師匠に行方不明になった編入生と彼女が来てから起きた一連の事件、そして現状をかいつまんで伝える。
《なるほど。それなら、ちょうどいい物がある。ちょっと、そのまま待ってろ》
そう言うと端末の向こうから何やらごそごそと音がし始める。
「なぁ、クウロ。ジルさんは何だって?」
チルトに頭を抱えられ若干のけ反りつつも、シンが俺の制服を引っ張ってくる。
俺はその鬱陶しい手を払うと、端末に耳を傾けつつ二人に言った。
「よくわからないけど、なんかいい物があるらしい」
「おお、さすがは地獄耳のジル! 情報が早いな!」
感嘆の声とともに、シンが師匠の二つ名を口にする。
「地獄耳?」
獣耳をぴょこぴょこと動かして言うチルトに、シンは嬉々とした表情で答える。
「そう! ジルさんは刻奏師としてだけでなく情報屋としても凄腕なんだ。なんたって、あの学会内部の情報さえも入手できるって噂だからな」
しかしチルトは、「へー」と余りよくわかっていない様子でシンの頭をぎりぎりと締め、シンはそれでも師匠の凄さを延々と話し続けていた。
《おい、クウロ》
再び聞こえた師匠の声に、俺は携帯端末へと意識を戻す。
視線の端ではシンとチルトがじゃれ合っているが、俺は気にせず話を続けた。
「はい、師匠」
《今から刻器を送るから使ってみろ》
まるで果物ナイフでも渡すかのように師匠は気軽に言うが、俺はそこに含まれた単語をすぐには理解できず思わず聞き返していた。
「……コッキ?」
「何をアホみたいな声を出してる。刻器も知らんのか。いいから、さっさと受け取れ」
「て、まさか!? あの刻器ですか?」
「は? 刻器だと!? それ、いい物ってレベルじゃないぞ!」
シンも俺の言葉に驚きの声を上げる。
「刻器って、あの凄い人達が持ってるやつだよね?」
チルトでさえも知っている刻器とは、使い手(ユーザー:刻奏使)、学士(スカラー:刻奏士)の上にある、師範(マスター:刻奏師)クラスの者だけが持つ専用の道具だ。
高次符を使用・制御するための道具で強力な刻奏術が使えるが、使用者ごとのカスタマイズが必要で、それに加えて常に大きな代償も必要とされる。そのため使用者の個性が刻器には強く反映され、刻奏師のシンボルにもなっている。
確かに師匠はマスタークラスの刻奏師だから刻器は持っているし、見たこともある。
《その刻器だ。ゲートを開くから早く受け取れ》
「いや、でも……」
師匠の刻器を送られても使えないと言おうとしたが、問答無用で端末から響いたゲート展開音に、俺はライトをチルトに渡すと端末を耳から離して目の前にかざした。
すると、端末の画面から小さな光の輪が浮かび上がり手のひら大に広がる。そして、その何もない中心部分から剣の先端のようなものが伸びてきた。
それはレイピアを二枚貼り合わせたような形で、しかし尖っているはずの剣先も鋭く研ぎ澄まされているはずの刃も丸みを帯びていた。また、柄に当たる部分には拳より少し大きめのリングが刀身と同じく二枚重なって水平にあり、まるでΦの字ようになっている。
そして、そのすべてが真っ白だった。
俺はゲートから現れた刻器を手に取ると、端末のゲートを閉じて無事受け取ったことを師匠に伝える。
「受け取りましたけど、これ、師匠のじゃないですよね?」
《当たり前だ。そいつの名はハクセン。まあ、プロトタイプだが、一応おまえの刻器だ》
手にした白い剣状の刻器を見ながら、俺は師匠の言葉を繰り返す。
「俺の、刻器?」
「おいおい。マジかよ」
「それ、クウロのなの?」
シンとチルトもそう言って、驚きの眼差しを刻器に向けてくる。
《そいつなら、狙った部分の空間障壁だけを切断して通り道をつくれるはずだ》
「つくれるはずだって、いきなり言われても……。それに、よりによって切断……うっ!」
切断をイメージした瞬間、こめかみを突き刺すような痛みが走り膝の力が抜ける。
「おい、どうした!?」
「クウロ!?」
とっさに刻器を杖代わりにしたものの、俺は片膝立ちの状態から動くことができなかった。
心配する二人に短く「大丈夫」とだけ言って、俺はいつものように目を閉じ息を整える。
そして、ゆっくり目を開くと、もう一度大きく深呼吸をした。
他人の頼みを断るだけでなく、何かを断つという行為自体に俺の体は拒否を示す。そんな不断症の俺が、この刻器を扱えるはずがない。
目の前に立つ白い剣を見ながらそんなことを考えていると、
《余計なことは考えるな。いいから、取り敢えず認証してみろ》
心を見透かすように師匠の言葉が落ちていた端末から聞こえてくる。
「認証……?」
《刻器に触れて名を呼ぶだけで済むはずだ》
俺は端末から刻器へ視線を向けると、手に力を込めてその名を口にした。
「ハクセン!」
すると、手に吸い付くような感触とともにハクセンの重さがほとんどなくなる。そして、重なる刀身の隙間から青白い光が漏れ出す。
《構戒錠文を確認。認証完了》
それは聞いたことのない女性の声で告げられ、直後、光が消えるとハクセンに重さが戻ってくる。しかし、それはちょうど扱いやすい程度の重さで、立ち上がって軽く振れば腕の延長のような一体感があった。
(これが、俺の刻器……)
違和感のなさを不思議に思っていると、気付けば頭の痛みやふらつきもいつの間にかなくなっている。
《おい。認証は済んだか?》
どこか急かすように言う師匠の声に、俺は端末を拾うとすっきりした気分でハクセンを見ながら答える。
「はい。で、これ、どうやって使うんですか?」
《符と基本的には同じだ。対象をイメージしてワードを言えば発動する》
そして師匠はワードを言うと、
《あとは実際に試してみろ。細かいことは刻器が教えてくれる》
そう言って、さっさと通信を切った。
「え? 師匠!?」
突然のことに俺は、通信終了の表示を浮かべた端末をしばらく見つめていた。
「クウロ?」
「で、それ、使えるのか?」
二人の声に、俺は気を取り直すと端末をポケットにしまい、
「よくわからないが、使えるみたいだな」
と、掲げたハクセンを見ながら答えた。
人が自分の体を理解していなくても動かせるように、この刻器も俺にとっては既に体の一部なのだと、そんな感覚が次第に強くなっていく。
「よくわからないって……」
「それって、大丈夫なの?」
不安そうに言う二人をよそに俺は手すりに近寄ると、眼下で明滅を続ける小さな光と下の扉を見下ろし、
「取り敢えずやってみるさ」
そう言ってハクセンの切っ先を光と扉を結ぶ直線上に向けた。
シンとチルトは俺の両隣でライトを手に成り行きを見守り、そんな二人に目配せをして俺はハクセンに意識を集中する。
一瞬、脳裏を不断症のイメージがよぎるが、それが具現化する前に俺は障壁を切断するイメージとともに言葉を放った。
「閉紋:千里刃!」
《始錠(シフト):閉紋→来相転移》
再び、あの女性の声が頭に響き、それがハクセンのものであることを俺は確信する。そして、
《構過(セット):来相@事象範囲》
声なき刻器の音は連続し、
《顕現(アクト):事象∽千里刃》
刻まれた時の噛み合う音が空間を振るわせた。
それは視界の先に一つの変化をもたらす。
さっきまで同じ位置にあった光が静かに下へと落ちていき、それはあっという間に闇へと呑み込まれると、しばらくしてから微かな金属音を響かせた。
「……うまく、いったのか?」
シンが闇へと明かりを向けながら目を細めて言い、その隣でチルトは、手すりから身を乗り出して同じように下を覗きながら「うーん」と目を光らせている。
そんな二人の横で、俺は未だに頭痛も目眩もないことに一抹の不安を覚えていた。
(症状がないってことは……)
もしかして切断に失敗したのかと思っていると、
「あ、床が見えるよ!」
と、チルトが上半身を逆さまにする勢いで下を指さした。
「チーちゃん!? 落ちる! 落ちるから!」
シンが慌ててチルトの上半身を起こそうとしがみつく。
「ちょ、ちょっと!? どこ触ってるのよ!」
シンの両手はチルトの胸らしき部分をがっしりと掴んで、
「危ないから! 暴れると危ないから!」
それに気付いていないのか、なおも必死で手すりから下ろそうとするシンの顔に、暴れるチルトの後ろ蹴りが炸裂した。
「ぶっ!?」
下から鋭く蹴り上げられた足はシンの顎を直撃し、彼は白目を剥いて崩れ落ちる。
その横で、手すりから降りたチルトは胸を隠すように自分の体を抱き、少し目に涙を浮かべて真っ赤な顔でシンを睨みつけた。
「そのまま寝てろッ! このエロバカッ!!」
そんな二人にため息をついて、俺は落ちていたシンのライトを拾うと、一人先へと階段を降り始める。そして、数段降りたところで振り返ってこう言った。
「さっさと先へ行くぞ。このバカップル」
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