妹の帰りを待つ話。

桜枝 巧

妹の帰りを待つ話。

 私は、妹の帰りを待っている。

 硬いソファに腰かけ、膝をぴんと伸ばし、手は優雅に軽く膝の上に乗せている。

腰まであった茶髪はこの間妹に切ってもらったので、今では肩にぎりぎり届くくらいだ。切ろうか、と言われたときは少し惜しい気もしていたけれど、彼女が言ったことなので素直に受け入れた。大抵、妹の言葉は正しいのだ。

 おねえちゃんとしては、少し恥ずかしいけれど。

 今住んでいる部屋も、妹にもらったものだ。

 桃色の花がたくさんついた壁紙、プラスチック製のテーブルとイス、TV、ソファ。柔らかい布が敷かれているベッド。おしゃれなキッチン。

 部屋は二つ。簡単ではあるけれど、妹の「好き」がたくさん詰まった大切な部屋だ。世界の片隅でうずくまるようにして、私はこれくらいで十分なのです、と言っているような空間。


 妹はまだ帰ってこない。


 仕事が忙しいのだろうか。仕切に鳴り続ける電話に、困り果てているのではないだろうか。

 ……まあ、一日中動かなくていい私が言っても仕方がないのだけれど。

 働かない人生、素敵。

 テーブルの上に置かれた紅茶のカップは、すっかり冷えてしまっていた。妹が朝置いていったもので、中身はすでに空だった。片づけようかとも思ったのだけれど、彼女がわざと忘れて言ったような感じがしてやめた。そうでなくても、そこに彼女がいるような気がした。

 妹はまだ帰ってこない。

 実は、私たちは本当の姉妹ではない。

 初めておもちゃ屋さんで彼女に会った時、否、目が合った時――どんよりとした雲が風で薙ぎ払われていくように、彼女はぱぁぁと笑顔を浮かべた。

「おねえちゃん!」

 見知らぬ少女に話しかけられ、硬直するしかない私に、

「あなた、おねえちゃんに似てる! わたし、あなたをおねえちゃんにする!」

彼女はそう宣言した。目が合うまでの重く沈んだ表情は、すでにそこにはなかった。

 私は――何も言わず、ただ彼女に向かって微笑んだ。

 元々いた場所を捨てる怖さなんて、どこにも存在しなかった。

 私は「要らない子」だったから。

 どちらにせよ、あともう少しで捨てられていたところだっただろう。

 彼女の両親にも会って、受け入れられて。

 私は今、ここに存在している。

 ニートだけど。

 なんて幸せなのだろう!

 彼女と両親の話を盗み聞きしたところ、どうやら妹にはおねえさんがいたらしい。病気で亡くなった、とか。

 私はその代わりらしかった。どうでもよいことだけれど。

 やがて少女だった妹はいつしか大人になり、ぐずぐず燻っていた私と家を出た。

 私は何も変わらないまま、妹についていった。


 妹はまだ帰ってこない。


 部屋が徐々に暗くなっていく。もうすぐ、夜が明日を迎えに行くのだろう。

電気はつけないまま、私はやはりぼんやりとソファに座っていた。壁に掛けられていたかわいらしい時計は、壁紙ごとびりびりのぐちゃぐちゃになっていた。妹にこの部屋をもらった時から、そうだった。床にはその残骸らしきものも残っているけれど、手を出す気にはなれない。

 妹がやったことなのだ、きっと意味があるのだろう。

 妹の色に染まった部屋と、ソファと、壊れた時計。それから、妹を待つ私。

確かに少しだけおかしいかもしれない。歪んでいるかもしれない。でもそれはぎりぎりのバランスで保たれた、美しい世界で――

 ――とそのとき、外が、そして部屋の中がぱっと明るくなった。

「ただいま、おねえちゃん」

玄関の扉が開き、大きな瞳がぬっと現れた。続いて、部屋が中心から真っ二つになるようにして開いていく。

 私の背丈ほどもある大きな手が、優しく私をつかんだ。体が浮く。振動でテーブルに乗っていたティーカップが床に落ちる。もちろんプラスチック製だから、壊れなかった。

 やはり妹の言葉通り髪を切って正解だった、と考える。もう二度と伸びることはないけれど、持ち上げられたときに顔が隠れなくて済む。

 私の大切な妹の顔を、しっかりと見ることができる。細く長いまつげ、薄く、分からないくらい薄く施した化粧、ふんわりとした唇。

「おねえちゃんは変わらないね」

 妹の口端がひゅっと持ち上がる。

「わたしも変わらないよ」

 スーツ姿の、すっかり大人になったはずの少女は、最初に出遭った時と同じ顔で笑う。

「だって、時計は壊しちゃったんだもん」

 プラスチックで作られた、小さなドールハウス。

 一部、時計の箇所が壊れて欠けてしまっているけれど、壊れかけているだけだ。

 売れ残って捨てられそうになっていた私に妹が与えてくれた、大切な住処。

 時間を失った世界で、私は静かに微笑んでいた。

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