第7話 笑顔はまだ

肌を射す太陽と息苦しい熱気から一転、涼やかな空気が火照った身体を冷やした。

ついでに独特のインクの香りが鼻腔を抜けるとなんとも心地よい。

本屋に来たという感じがする。

何度味わってもこの感覚は悪くないな、とリクは自然と口角が上がる。

『さあ、リオは何を読む?俺は何を買おうかな。君も好きなものを探しなさい。教材も買うからな。あ、筆記用具は欲しくないかい?』

さっきまで暑さで気だるそうだったリオの顔も少しは持ち直していたが、今度は冷ややかな目をリクに向けている。

『なんだよ、冷房が効き過ぎたか?』

『楽しそうだね』

と、リオはリクのご機嫌に水を差す。

『楽しくない?俺は昔から好きだったなぁ。筆記用具を集めるのが好きだったし、本も。まあ、その頃はもっぱら漫画だったけどね』

がリクは気にしない。

『私は分からない。本屋あんまり来たことないから』

『なら嫌いではないわけだな。よし、じゃあ君を書店好きにしてやるよ』

リクから、いつもは考えられないような暑苦しさを感じて少しリオは距離をとる。

『たった今嫌いになりそう。しかも文字の多いやつとか、勉強道具を買うんでしょ』

白のワンピースをパタパタさせながら言う。

リクがリオのために駅のオシャレそうなショップでマネキン買いしたものだ。

このだらしない動作さえなければ、一見清純なお嬢様なのだが。

『君が選ぶと良い』

『どれがいいのかなんてわからない』

『最初はなんでもいい。君が読めそうな文庫本を探しといてくれ。ちょっと俺は君のための教材を選んでくるよ』

リクはそう言ってリオの反応を待たず、ひとりで参考書コーナーへ向かった。

素直にわかった、という反応は期待してない。

『わかった』

だからもちろん、後ろから聞こえたリオの素直な返事にリクは戸惑った。

リオの声だったよな。

リクは一瞬立ち止まって、よく考えれば褒めるようなことはしてないかと思って何も言わずまたすぐ歩き出した。

それでも、それはリクの上がった口角をさらに引き上げるには十分な出来事だった。


リクの足取りは軽く、気がつくと目的の場所についていた。

この大きな書店の角には大きな参考書コーナーがあり、ここに来るとまずは赤色が目に入る。

リクはリオの昨日の様子を思い出し、自然と思った言葉が漏れ出す。

『高校レベル…はいきなり無理かな』

まして受験用なんてのはもってのほかだ。

たぶん小中レベルがちょうどいいと思うのだが。

奥に進むとどんどんと学年が下がっていき、角に突き当たると小学生コーナーへたどり着く。

やたら種類がある。

これ一冊!など甘い誘い文句が溢れているが、その言葉通りだったことなど一度もない。

リクは幾つか手に取ってみるがどれもピンとこない。

いくらリオでもこんなのはできるだろうし、もっとちょうどいいのがないものだろうか。

そもそも彼女がどの程度までできるのか知らなかった。

特に考えもなく歩を進める。

いつの間にか小学生コーナーを通り過ぎて資格コーナーに入っていた。

宅建やらなんやらとゴチャゴチャしている。

行政書士コーナーだ。

…よくわかる行政書士試験 憲法編、か。

リクは行政書士資格を大学在学中に、大手資格予備校の通信講座で1年かけて取得した。

試験対策に市販の教材は使ったことはないが、…これをやらせるのも面白いかもしれないな。

手に取ってみる。

分厚くずっしりと重たい。

パラパラとめくるとぎっしりと文字が詰まっている。

悪くない、条文を日本語からわかりやすく解説している。

判例も長めにとってあるし文章を読む練習になるかもしれない。

高校でいうと、政治経済の政治分野の勉強にもなる。

買いだ。

そう決めるとリクはすぐさま、行政法編、民法編、商法・会社法編、一般知識編と次々と手に取って抱える。

即断即決。

リクは本にお金を惜しむことはしない。

彼の両親はゲームは渋ったが本ならいくらでも買ってくれた。

終いにはゲームを我慢して攻略本だけを読む始末だ。

今となっては意味不明な思い出だが、そう言った経験が彼の本好きを加速させたのだろう。

大量の試験対策本を抱えたリクはこれでよし、と文庫本コーナーへ足を戻した。

冷静に考えれば、小学生中学生レベルの教材を買いに来て、どうして行政書士試験と書かれた本を抱えて戻ってくるのか謎である。

今のリクにはそんなことは思いもつかないようだ。

文庫本コーナーに着くと、その一角にある夏のミステリーフェアと書かれた旗が空調機でパタパタと揺れている。

リクは辺りをぐるっと見渡す。

リオがいない。

文庫本コーナーの列を一つ一つ確認していくが姿が見当たらない。

いやいや、こっちの方がよっぽどミステリーだ。

読みたい文庫本を探しとけと言ったのに、高校生にもなって一体どうしていなくなる。まったくガキじゃあるまいし。

フラフラと子供コーナーにでも行ったか?

冗談半分だが。


−−–−–いた。

試し読みコーナーにある黄色の可愛らしいソファー。

子供たちに不自然に混じって、絵本を集中して読んでいる。

クールビューティとも言えそうな容姿をしているせいで無駄に目立ってしまっている。変な人がいるものだと通り過ぎるとこだった。

ずいぶん大きなお子様がいたもんだ!

『お嬢ちゃん迷子かな?』

リクは皮肉って声を掛けた。

リオは顔を上げてリクの顔を確認すると、再び目を絵本に落とす。

あ、だめだ。こいつ蹴っ飛ばしていいかな?

『文庫本は選んだのかよ』

溜息と同時に声が出た。

リオは絵本から顔をそらさないまま、右手で横に置いてあった文庫本を拾い上げてみせた。

『…オリエント急行の殺人か』

どうせ特に考えなしに、ミステリーフェアの棚から適当に目に入ったものを取ったのだろう。

別に良いけど、とぶつくさたれてリクはリオの隣に座った。

隣は絵本の内容に熱中している。

いくら知能幼稚園児レベルのリオでも、さすがに絵本にハマっているというのは不思議だった。

『絵本、好きなのか?』

無視されるのを覚悟で、聞いてみた。

『好き…というより、思い出した。まだお父さんが生きてた頃のこと』

リオは絵本から目を離さなかったが、すぐに応えた。

『…絵本が好き、だった?』

『うん、たぶん。もう覚えてないけど、お母さんが毎日読んでくれてた気がする。絵本を買いに行ったこともあったはず』

『絵本を買いに行くのは楽しかったか?』

リオは表情を変えない。

そして、何も答えなかった。

『…それ、買うか』

『いい』

あ、即答ね。オッケー。

数日一緒に暮らしただけだが、大方彼女の反応はわかるようになった。

想定の範囲内だ。

『いや、買う。俺が欲しくなった』

リクはそう言ってリオから本を取り上げる。

醜いアヒルの子、シンデレラ…、彼女にぴったりかもな。

『あとは、ノートとか筆記用具も買っとくか。ファイルとかも必要だよな。女の子ってのはそういうのが好きだと思ってたんだが、君は好きじゃないかい?』

…。

『…リオ?どうした?』

リオは顔を伏せていた。

うつむいているのはいつものことだが…どうしたことだろう、なんとなくいつも以上に腰やら首やら背中やらが曲がっている気が。

それ大丈夫?首とれない?と心配になる。

髪に隠れて顔は見えなかったが、口元がキュッと締まっていることは分かった。

下唇を噛み締めているようにも見えた。

『リオ---

『もういいよ』

『え?』

『もういいって』

『何が?どうした?』

何かをこらえているような声だ。

『こんなのはいいから。ほっといてくれて、いいから…』

そして、その声は今にも裏返りそうだった。

『リオ、どうしたんだ』

『もういいんだって!!』

刹那、甲高い大声が店内に響き渡る。

リオは折り曲げていた体を勢い良く起こし、リクを睨みつけた。

彼女の目には大粒の涙が溢れており、真っ赤に充血していた。

『リオ、どうして泣いている。何がもういいんだ?』

『私は、ずっと忘れてたの!こんな感覚…もういいよ!やめてよ!』

こんな感覚…。

『…それは、楽しいとか、嬉しいとか?』

『…わからないけどッ!もういいんだって!ありえない!』

『なんでありえないんだ?』

…応えない。

リクはリオの肩を掴み上げ、再び伏せようとする顔を上げさせた。

『答えなさい。なんでありえないんだ?』

リオはリクから目を逸らす。

その赤い目からは相変わらず涙が溢れ出している。

『もう、こんな感覚はいらないの…。無くなってしまうから。怖い…』

今度は消えそうな、か細い声でそう言った。

『…無くならない、無くならないって。今度は無くならない、絶対に』

リクの両手は彼女の肩を掴み、支えている。

リオは顔を背け、今にも体を背けそうだったが彼の両手がそれを許さなかった。

『…うそ…』

『うそじゃない。少なくとも、俺はいなくならない。本当だ、俺がそう決めたんだから』

『…何言ってんの…バカみたい…そんなこと言われても…』

リオは吐き捨てるように言う。

『リオ、君は大丈夫だ。少なくとも絶対に俺はいなくならないから、安心して信じて良い』

『…無理しなくていよ…私なんかに』

『無理なんかしてない、君のためじゃない。自分で決めたことだからだ。やり遂げなかったら絶対後悔する。だから俺はいなくならない』

『自分のため?』

彼女の声色は元に戻ってきている。

『そうだ。俺は君のためじゃなく、俺のために君の前からいなくならない。それじゃ納得できないか?』

『…納得って』

顔を背けたままに応えているが、拒絶は感じない。

リクを否定的に扱き下ろしているようで、むしろ言葉を求めているようだ。

探している。

何かの答えを欲しがっている。

いや、答えはわかっていて、その答えを受け入れるに足る理由を待っている。

『まずは俺から信じてみろ。俺は裏切らないから、予防線だと思えばいい。それから他人を信じてみるんだ。そいつに裏切られても、俺は絶対に裏切らない。どうだ?安心だろ?』

『…バカじゃないの?』

リオの顔は髪で隠れて見えない。

『リクちゃんは賢いねと言われたことはあるけど、それは言われたことはないな…』


『…ふふっ』


笑い声。


リクは思わず声ともわからない音を喉から出し、目を丸くした。

『リオ、今笑った?』

『は?何が?』

リオの顔は、いつもの分厚い鎧に覆われた無表情に戻っていた。

目はまだ赤い。

こいつの中には笑い顔を見せたら負けって法律でもあるのだろうか。


---今はまだいい。

現実の人間関係の変化は、ドラマのように劇的じゃない。

少しずつ、氷を溶かしていければいい。

だから、笑顔はまだいい。


店を出ると、再び燃えるような熱気に包まれた。

案の定、車内は立派なサウナに完成しており、運転席のドリンクホルダーに入れっぱなしのウィルキンソンは今朝の味噌汁のように暖かくなっていた。

キャップを開けると、フシュッという音と共に気持ち悪い熱気が顔に吹き付け、同じく気持ち悪い強炭酸の液体が喉へ注ぎ込まれた。

その液体は生温いという以上に温かかったが、不思議と悪い気がしなかったのは、先ほどの出来事のせいなのだろう。


−−−−−−−−−−


『もしもし』

『もしもし、黒坂です』

『あら黒坂先生どうしたの?昨日電話したばかりよね』

『ええ、すみません。私事で申し訳ないのですが、お話したいことがありまして』

『リオちゃんのこと?』

『はい、そうです。今日、書店に行ったのですが---


『そうなの、そんなことがあったのね』

『私もびっくりしました。でも少しでも近づけたなら嬉しいなと思って』

『それで電話をくれたのね』

『はい、すみません。こんなことで』

『いいえ、大歓迎よ。こんなこと、なんてことはないわ。重要なことよ。それに私もリオちゃんのことは気になるもの』

『リオのこと、気にかけてくださって本当にありがたいです』

『こちらこそ、お電話してきてくれてありがとう』

『また、お話聞いてもらってもいいですか?…ってこれじゃ、どっちが先生だかわかりませんね』

『もちろんよ。私も人生の先輩として、未来ある若者に貢献したいわ。先生って呼んでもらってもいいわよ、冗談だけど』

『本当にそうさせてもらいたいです。ありがとうございました』

『ええ、私の方こそ。おかげさまで、余生を退屈しないで済みそうだわ』

『夜分に失礼しました。では失礼します』

『はい、お休みなさい』


−−−−−−−−−−











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

実践!よくわかる貧困少女の育て方 @takayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ