先輩と誰かと冷たいアールグレイ

 わたしが先輩と同じ時間にプラタナス食堂を訪れたのは単なる偶然だ。授業の合間にお茶をすることを思い立った、ただそれだけだった。

 ちょっとした縁を感じないこともないけれど、わたしと先輩は深い間柄というわけではない。


 先輩は、着物姿の女性と一緒だった。墨を流したような黒髪を緩くまとめた、凛としたたたずまいの人だった。

 着物に慣れているのか動作がとても自然で、見ていて落ち着く。成人式でもなんでも、着物に着られてしまっている人は少なくないと思うから。


 先輩は和やかな笑顔で会話に応じているようだった。手の動きが大げさなのは、冗談を言っているからだろう。笑いのセンスはたぶんあるのだろうけど、よく見ると受けを狙う時に挙動がおかしくなる。


 いや、おかしいという程ではないのだろう。じっと観察していないとわからないし、言っていること自体はまともだし。


 わたしは先輩たちのいる奥のテーブルの方へ耳をそばだてる。女性の声は結構大きいから聞き取れそうだ。先輩はわたしとは反対側を向いているので話の内容まではつかめそうにない。


「本当に久し振り。同じ大学だからたまには会うかと思ってたけれど」


 女性が言う。どうやら高校か予備校か画塾の知り合いらしい。


「元気そうで安心したよ。芸術祭の時にいつも作品だけは見てたけど」


 昔から先輩を知っている人なんだ、と思った。先輩が昔から知っている人なんだ、とも。

 店員が冷たいアールグレイ・ティーをテーブルに置いた。コルクのコースターの上に、くもりのないグラスが配置される。お茶請けのサブレが白い小皿でついてくる。薄い陶器のお皿は貝殻に似ている。


 早くも水滴を集めているグラスに、ほの赤く透明な紅茶が揺れる。氷がピキリと音を立てる。サブレは焼き色も程よく、甘い香りが漂った気がした。


 落ち着こうと思って、細くて黒いストローをくわえる。頼りないものだけど、何もないよりは良い。

 キンと冷えた紅茶が乾いた喉をうるおす。すっきりとした香りが鼻に抜ける。渋みはあくまで軽く、夏の朝のように爽やかだった。アールグレイは柑橘で香りをつけているのだっけ。


 でも、どうして私はこんなに動揺しているのだろう。先輩の新たな一面を知ることができる喜びだろうか。それとも、先輩の別の側面への不安だろうか。


 不安じゃない、と思いたい。先輩のどんな部分も見ていたいから。恋は盲目なんてよく言うけれどそうではなくて。みっともないところも嫌なところも、先輩を構成する要素として認めたい。


「こうして一緒にお茶を飲む日が来るなんてね。気づかなかったかもしれないけれど、私の友達があなたにべた惚れだったのよ」


 先輩が身を固くしたのがわかった。こちらを向いている背中がこわばっている。今更そんな話をされても困るだけだろう。


「別に責めてるわけじゃないって。あの子もどうせ何にも言わないで卒業してったんでしょう。別の大学に行くことも決まっていたのだから、告白するか忘れるか二つに一つだったじゃない。あの子はそれなりに折り合いをつけて去っていったはずなの。だから、あなたが過去に縛られる必要性は皆無よ」


 その言葉はどれだけ先輩を縛るだろう。先輩のすらりとしたうなじからは、なにも読み取れなかった。


「こちらこそ、ごめんなさい。私が勝手に今のあなたと話してみたかっただけなのに。あの子が嬉しそうに教えてくれたあなたの姿と同じなのかって。ただのクラスメイトだったのに、わがまま言ってしまったよね」


 先輩が席を立つ。横顔は、いつもの優しい微笑だった。私には気づかずに去っていく。女性が後を追った。通路ごしに、樟脳がふわりと香った。おばあちゃんちの桐箪笥の匂い。


 先輩の気配が消えてから、サブレをかじった。歯を立てると堅いけれど、口の中でほろほろ崩れる。卵の風味が優しい。

 バターを卵とお砂糖と小麦粉。焼き菓子の主役となる材料は全部入っている。手作りのような家庭的な味だけれど、それが郷愁を誘ってなんだか寂しくなる。


 アールグレイを飲む。紅茶なのにちょっと甘味を感じるのが不思議だ。苦みもないし、渋さは舌に心地よい程度。


 窓の外を見ると、店名の由来になったプラタナスの大樹が木漏れ日を落している。その枝には青々とした葉が揺れているけれど、真夏よりも穏やかな色に感じられた。


 そうか、暦の上ではもうとっくに秋だったんだ。暦に、実際の季節がすこしずつ追いついてくる気配があった。

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