画集と桃のショートケーキ
買ったばかりの画集を開く瞬間の、紙とインクの香りが好きだ。午後のプラタナス食堂でケーキを待ちながらだったら、なおさら。
話し相手がいないからページをめくる音が明瞭に聞こえる。指先になめらかな紙の肌触りを感じる。
一緒にお茶をする相手に困っている訳じゃない。あたしを含め、周りの女の子たちはたいていここのケーキが好きだから。だけど時々こんなふうに一人の時間が欲しくなる。
そういう時は、空きコマに誰も誘わずにお茶をしに来る。お気に入りの画集を眺めながら甘いものと紅茶を楽しむ至福のひととき。
やがてケーキと紅茶がやってくる。画集を閉じて、そっと袋に戻す。紅茶はポットサービスで、カップはちゃんと温めてある。
今日選んだのは桃のショートケーキ。真っ白いクリームとあわく紅の差す桃の層を挟んで、ふんわりとした卵色のスポンジの断面が見えている。いちばん上はクリームと、ピンク色のピューレに桃が浮かぶ飾り付け。
カップのふちに引っ掛ける、ちょっとお洒落な茶こしをセットして紅茶を注ぐ。深いルビー色のお茶が白いティーカップに映える。穏やかな香りが立った。
カップを手にとって、香りを胸に吸いこむ。すぐに飲むには熱すぎるので、銀の華奢なフォークをつまんでケーキに取り掛かる。
スポンジケーキはわずかな抵抗で切れた。ほのかに桃の甘い匂いが立つ。
口に含めばまず、クリームのなめらかさと控えめな甘さが舌に感じられる。桃の爽やかな香り、しつこくない甘さ。それからとげのない酸味が全体を引き締める。
とろんとした舌触りの中にも、果物らしい歯ごたえのある桃のかけら。スポンジの、かすかな卵の風味。ミルクの風味豊かな生クリーム。
甘い幸せに満たされた口の中に、追いかけるように紅茶を含む。すっきりとした渋みがケーキの甘みをゆっくりと流していく。混ざりあい、溶けていくケーキと紅茶。
紅茶でリセットして、またケーキに戻る。甘すぎなくて、いくらでも食べられそう。
夢中でフォークを動かしていると、大きくはないケーキはあっという間になくなってしまう。紅茶の残りをティーカップに注ぎ、指をおしぼりで入念に拭う。それから、渋さの強くなった紅茶を啜る。
先ほどの画集を取り出して、開く。インクと紙の香りが、また広がる。少しずつ紅茶を飲みながらページをめくる。そのたびにインクが香って、あらたな色と形の世界が広がる。
誰にも邪魔されないあたしだけの時間は、とてま穏やかに過ぎていく。凪いだ海の上でボートを浮かべているみたいに。
誰かが注文したのか、コーヒーの匂いがした。授業が終わるチャイムが鳴った。そろそろ現実に戻らなきゃいけない。席を立つと、陶器が触れ合うかすかな音がした。
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