残暑のアトリエとヴィシソワーズ
暇ができたので先輩のアトリエに寄った。窓は全開になっていて、熱い風が吹き込んでいる。
先輩は巨大なキャンバスに真剣な表情で向き合っている。立ち姿が絵になるのは、脚が長いからだろうか。板パレットを支える手は意外と大きく骨ばっていて男らしい。
見ているわたしとしては眼福の一言なのだけど、この部屋は暑すぎる。じっとしていても汗が滲んでくるのだ。
だいたいが、キャンバスが林立するアトリエに先輩一人しかいないのはおかしい。暑すぎて逃げたんじゃなかろうか。
先輩が顔を上げた。どうやら気づいてくれたらしい。
「先輩、ここの気温おかしくないですか。外より暑いですよ」
「ああ、冷房の吹き出し口かなんかが壊れてるらしい。明日には修理が来るようだけど」
「他の人は修理が済むまで避難してるんですか?」
「まぁ、自主制作に没頭して来ないやつも普段からいるから。いつにも増して居ないのは確かだけどね」
一人だろうが酷暑だろうが制作をする先輩のストイックさは好きだ。とはいえこれでは身体に悪い。首筋に汗が流れを作っているではないか。
「先輩。休憩にしましょう」
「さっきお昼食べたよ。まだ三時間も経ってない」
「パフェの時は食後一時間でも行くじゃないですか。適度に休憩を挟まないと効率が落ちますよ」
「そうだけど、新作パフェはこのあいだ食べに行ったじゃないか」
「今日はわたしのおすすめです。たまにはいいでしょう?」
見せられた笑顔は渋いものだったけれど、同意してくれた先輩を連れてプラタナス食堂へ向かう。お茶の時間ではあるけれど、幸い席は空いていた。案内してくれた店員に手早く注文を伝える。
「何頼んだの?」
「見てのお楽しみです」
わたしの頼んだ物を知りたがる先輩との攻防を楽しむ間も無く注文した品が来た。薄いガラスのカップに入ったヴィシソワーズ。
冷たいじゃがいものスープだ。刻んだパセリが彩に添えてある。先輩は甘いものが来ると思っていたのか、目を丸くしている。
「今の先輩に必要なのは電解質ですよ。塩分摂ってください。甘いものを召し上がるんでしたら、このあとにご自分で注文なさってください」
もちろん、先輩がそこまで大食らいじゃないことは知っている。甘いものは好きだけど別腹はない、というのが先輩の言だ。
「そこまで甘いのが食べたいわけじゃないよ」
笑って手を合わせた先輩の、いただきますという呟きを聞く。育ちが良さそうと思うのはこんな時だ。
先輩が手にしたスプーンがとろみのあるスープの表面に触れる。絵筆でなくとも、先輩が持っているだけでちょっと良いものに見えてしまう。
冷たいスープでスプーンを満たすと、口元に運ぶ。途中にしずくを落としたりなどしない。先輩の手はいつも精緻な動きをする。
観察はそれくらいにして、わたしも自分の分のスープを口にする。きんと冷えていて舌に心地よい。唇に触れたスプーンまで冷たさが伝わってひんやりしている。
ミルクとじゃがいも、それからポロ葱の甘みが舌を通り過ぎる。具材はとろけて、かすかな舌触りを残すのみである。それらがもつ味や香りは余すことなくスープにとどめられている。
そしてすべての素材をまとめ上げるようなブイヨンの旨味。きつすぎない塩気が熱くなった身体をいたわってくれる。とげのない優しい塩味なのは充分に旨味があるからかもしれない。
先輩の様子を伺うと、それなりの速さでスープが減っている。気に入ってくれたのだろうか。
飲み終わってスプーンを置くと、夕方のちょっとしたお腹のすき間が満たされていた。元気が出たついでに、わたしも課題を進めに行こうか。
「美味しかったよ、ありがとう。気を使わせてごめんね。またいつでも遊びにおいで」
先輩は言葉少なに挨拶をして立ち上がると、止める暇もなくわたしの分まで会計を済ませて去ってしまった。
なんというか、格好良すぎる。いずれまた遊びに行きます。社交辞令かもしれないけれど。
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