下
その日の夜。
私と彼の他には誰もいない家の中、机の上で、エーリアスは神妙に巻物を広げた。
「知らないほうがいいと思うんですが……」
「私に手伝わせておいて」
「それを始祖竜様……いえ、アーシェさんに言われたら痛いところですね」
エーリアスは苦笑しつつ言う。わざわざ言い直してくれたのが少し面映ゆい。神がかりなものとして崇められているだけではない、とわかるから。
彼はしばし言葉を選んだあと、やや遠慮がちに言った。
「……結論から言えば、これは計画指令書です。教会の地下にあったものを私が盗み出しました」
「計画」
私のお触れで騒がせている間に忍びこんだことはわかる。でも、何の計画書なのか。
エーリアスの言葉はあくまで端的だった。
「要するには、"この村で災厄を引き起こせ"という教団本部からの命令書ですね。おそらく、そのための触媒なんかも送られていたのでしょう」
「……な、なんで?」
嵐は魔法の力の産物だった。そこまでは分かる。
じゃあ、なんで、始祖竜(わたし)を崇める教団の人たちがそんなことをする必要がある?
「……この村からはあなたの姿を観測することができた。その偉大なる始祖竜様の姿が、突如見えなくなった。当然、ドラゴン教団の方々は大変慌てふためいたでしょう。これは大変なことになるぞ、と」
「わかる」
「……ここからは想像になりますが――――おそらく彼らは困り果てたのでしょう。……『もう始祖竜様がいなくなって何日も経つのに、別に何も起こらないぞ』、と」
「わからない……」
何も起こらないならそれで良いじゃないか。
そんな私の内心の声が聞こえたみたいにエーリアスは笑みを零す。
「こう考えるものもいる、ということですよ。『偉大なる始祖竜様がいなくなられたというのに、何も起こらないなどということがあってはならない』、と」
「ええ……」
「……人間、わからないものですよ。私も決して例外じゃない」
エーリアスは皮肉っぽく呟く。
……確かに、私に話しかけようなんて、普通は考えないか。実際、彼以外に話しかけてきたのは頭のおかしい人ばっかりだったのが実情だ。
「始祖竜がいなくても世の中は回る。変わりなく回ってしまう。それが耐えられなかったか――まぁ、単に影響力を失うことを恐れたのかもしれません」
「……それで、何も起こらないなら自分で起こしてやれ、ってこと?」
「そんなところでしょう。というより、それ以外は及びもつかないというのが正直なところですが」
私はこくりと頷く。少なくとも理解はできそうな話。
「……そんなことまでしたのに、放っておいて良いの?」
「あまり良くはありませんが……取捨選択ですよ。教団という組織は強大ですから。下手に恨みを買ってもあまり良いことはない。だから、ここが手の打ちどころでしょう」
エーリアスはあくまで冷静に述べる。正直、納得はできなかった。あんな災害を引き起こして、大変な被害を出しておいて、それでお咎め無しなんて。思わず渋い顔にもなる。
「そう怒らないでください。教団からの命令でしょうからね、その責任を彼らだけに負わせるのもあんまりです」
「……エーリアスは、頭がいいんだね」
「そう悪いことばかりでも無いでしょう。始祖竜の存在を後世に語り継ぐのもまた彼らでしょうから」
私の言葉も皮肉っぽく聞こえてしまったろうか。彼はあくまでも真面目だった。
「……エーリアス」
「なんです?」
彼は広げていた羊皮紙を巻き直しながら向き直る。
「ありがとう」
「……藪から棒にどうかしましたか。アーシェさん」
「私に、会いに来てくれたこと」
二年前のこと――私からしたら、まだほんの少し前にも感じられること。
あの時、彼が訪れてくれたから、私は今ここにいる。
人間として生きるのはとても厄介で、面倒事も多いけれど――あの山の、死んでしまいたくなるような退屈だけは無かった。
「……それは……むしろ私がお礼を言うことですよ、アーシェさん。私は、あなたのおかげで、折り合いをつけて生きる決心がついたんですから」
「折り合い」
記憶によれば、彼は二年前――つまり私に会ったあと、この村で暮らし始めたと聞いた覚えがある。
そういえば、私は彼のことを全然知らなかった。冷静沈着で、弁舌が立ち、行動力があり、公正無私な人間。にも関わらず、あんな辺鄙なところまで私に会いに来た奇特な人間。
「……よければ、私のことでもお話しましょうか。大して面白くもないでしょうが――」
「話して。ぜひ」
私が即座に食いつくと、彼は思わずというように明るい笑みを漏らした。
その日、私は枕元でエーリアスのことを知った。
彼には魔術の師匠がいたこと。その師匠が私に執着していて、私に出会うことが悲願であったこと。そして、ついぞ私に相まみえること無く逝ったこと。それ以降、エーリアスは師匠の遺志を継ぎ、私の居所へと至る道――最果ての山脈に挑んだこと。
私が着ているローブはその師匠さんのものということ。……いいのだろうか。それは。
「どんな人だったの?」
「一言で、そう、言葉を選ばずに言えば……クソババアでしたね……」
あまりにもあまりな言い草だった――けど、そんなことを言えるくらいには気易くもあったのだろう。なぜだか少し羨望を感じる。
でも実際のところ、エーリアスは思ったよりずっと私に楽に接してくれていた。
無理に村を離れることもないかもしれない、なんて考えるくらいには。
だから――今は、こんな日がずっと続けばいいと思った。
◆
その日は、朝から村中がどこか慌ただしい感じだった。
嵐が去って道も開けたという報せが行き渡り、各地から支援物資が届いたりしたという。最果ての山脈に通じる村という立地上、ちいさな村でも政略的な優先順位は低くないという。
――そんな忙しない雰囲気も落ち着いた昼頃。建て替えの作業を一旦引き上げて集会所へ戻ろうとしたその時、彼らは突然にやってきた。
「貴殿がエーリアス・ルストに間違いはないか?」
「すまないが、ご同行願えようか」
今まで見たこともない白ローブ姿の集団。身体の至る所に部分鎧を付けており、頭には兜をかぶっているため顔の見分けは付かない。彼らは周りの村人らには一瞥もくれず、エーリアスを一瞥する。
「何用でしょう。あなた方は?」
エーリアスはそう言ってから私を手で制する。「離れていてください」と小声で言い添えて。
村人たちも何事かとざわめく。「大丈夫です、先に戻っていてくださって結構ですので」とは言うが、実際に先に戻ろうとする人は一人もいなかった。
「我々はドラゴン騎士修道会のもの」
「司教殿のお呼び立てにて聖都より参上仕った」
「聞き取り調査の結果、エーリアス殿、貴殿には偉大なる始祖竜に対する背信の疑いが見られた。平らにご同行を願いたい」
「……教団本部のものですか」
エーリアスは額に汗を浮かべて応じる。さほど驚いてはいないが、その表情からして事の深刻さは疑いようがない。
教団。すなわち彼らは、エーリアスが強大と評した組織の兵士。
「それは、どれくらいの罪なの」
「背信――特に始祖竜の名を騙る様なことがあれば、これは即座に死罪に値し得よう。重々罪を知らしめ、続く者の無いように思い知らせねばならぬ」
兜の男は無機質に応じる。男の口から語られる内容は無慈悲極まりない。
別に裁きが下されると決まったわけではないだろう。だが、にしてはエーリアスの表情はただ事ではない。
――――これは、ひょっとしたら。
全部、何から何まで仕組まれているとしたら。
「大人しく従ったほうが身のためですな、エーリアス殿。なんとなれば、罪に値するものが貴殿のみとは限りますまい?」
まるで私の懸念を裏付けるように、騎士修道会の後方から声がした。
ヨハネ司教とその一派。
思えば、教団本部と連絡を取れるのは彼らだけ。となれば、騎士修道会が彼らの心情に寄っていることは疑いようがない。
「脅すつもりですか。弱みがあるのはあなたも同じでしょう」
「あまり滅多なことを言わぬほうが宜しいかと。貴殿には背信者の疑いがありますゆえ、誰も信じはしますまい。それに、それこそ――貴殿の公平な裁きに差し障りがあるかも知れませんからな」
ヨハネ司教は老いた表情を歪めて言う。その目には嗜虐の色がある。以前、エーリアスに丸め込まれた時の雪辱を果たしたかのような。
そもそも、例の指令書を出したのがどこか。それを考えれば、真相に至ったエーリアスを握り潰そうとしているのは明白だ。
こんな要求に従う意味なんて何もない――そのはずなのに。
「わかりました。うかがいましょう」
「……な、」
なんで、と。喉が詰まって言葉が出ない。
「実に結構。賢明な選択をなさいましたな」
ヨハネ司教が笑う。村人たちがざわめく。「先生がなんか悪いことしたってのか?」
「まさか、そんなわけねえ」「何かの間違いに決まってんべ」「すぐにわかってくれるよ……」それはきっと正しいだろう。理屈の通じる相手であるかぎりは。
そして、目の前の彼らはもう、理屈なんかでは動いていない。
「エーリアス……ッ!」
歩み出す彼に呼びかける。
このまま行かせたら、彼はきっと死んでしまう。
エーリアスは背を振り返り、緩慢に首を横に振る。
「……いささか、深みまで踏み入り過ぎたようですね。理の通じる相手、と考えたのが間違いだったのでしょう」
「でも」
私が前に出ようとしたのを、エーリアスはまた掌を突き出して制する。「あなたはすぐに村を出たほうが良い」と小声で言って。
なぜ。私を気にかける必要など無いのに。私は死なないんだから。
なんなれば、今ここで彼ら全員を蹴散らすこともできる。そうしようと思えば、私は強引にでも彼を助けられる。
「静粛にせよ、小娘。なんなれば、貴様も連座に致そうか」
兜の男は重い声で言い放つが、そんなものは脅しにもならない。私はそれを睨めつけてエーリアスに視線を戻す。
「――――『私はそなたを助けられる』」
古代語を使うのは、ずいぶん久し振りの気がする。
ヨハネ司教は、文字を読めはしても聞き取るには至らないようだった。
「『私があなたを不当に縛るのは忍びない』」
エーリアスの返答は端的だった。
……確かに、ここで私が大暴れしたら大事になるだろう。教団とやらからすれば、ここにいるはずの騎士修道会がみんな消息を絶つことになる。その後どうなるか、私にはもう想像もつかなかった。
でも、彼の命に比べればそんなこと。そう思うのは、私が人間というものに疎いからなのか。
「『私の生は短く、そしてあなたの生はあまりに永い。あなたは、あなたが願った通りに生きるべきだ、アーシェ』」
「『私は、そなたが死ぬのを見過ごすような人間になりたかったわけではない』」
「『あなたを追われる身の上にはしたくない』」
一言。ただ一言でも、助けて、って言ってくれたら、私はそうするのに。
どうして、この期に及んでまで――自分のことじゃなくて、私のことばかり。
「貴様等、何を話している! 口を噤め!!」
その時、兜の男がエーリアスの背を押す。別の男が頭を思いきり叩く。エーリアスの痩せた身体が傾ぎ、かけていた眼鏡が地面を転がる。
「……ぐッ……!」
エーリアスは低い呻き声を漏らす。男たちに両脇を引きずりあげられ、無理矢理に立たされる。
「――お願い、だから、エーリアス」
私はすがるように言う。どうなっても、これを見過ごすくらいなら。ただ一言でも、助けを求めてくれたなら。
私の中で、誰かの声が囁く。
いいじゃないか。彼が良いというんだから放っておけば。もしかしたら許しが出るかもしれないし。どうせ彼はあなたより遥かに早く死んでしまう人間なんだ。無理に助けたりすることはない。
だいたい、あなたは今までに何百人もの人間を殺してきたじゃないか。今さら一人を見殺したくらいで何を悲しむ? 面倒事を背負い込むことなく世界を回れるんだから結構な話だろう?
――――だから、もう、いいんじゃないか?
瞬間。
エーリアスはおぼつかない足取りで歩みだし、ふと後ろを振り返る。そしてゆっくりと首を横に振り、微笑んだ――自分のことは良い、とばかりに。
ついぞ口を開くことなく、兵士たちに強引に連行されながら。
――――クソったれ。
あなたがそのつもりなら、私は私の好きにしてやる。
断じてあなたの意に反さないように。
「やめて。今すぐに」
私は前に出て男たちに命ずる。「お、おい、アーシェちゃん」「そいつらに逆らったら、どうなるか……!」私を案ずるように囁く村人たちの声。でも私はもう、そんなものでは止まれない。
「……アーシェ殿、と言いましたかな? 聞いておりませんでしたか。エーリアス殿が大人しく従ったからこそ、あなたに罪はないと判断されたわけですが……」
ヨハネ司教は言外に言う――「あなたもこの男と同じ目に遭いたいのかね?」と言わんばかり。
私は構わずに前に歩み出る。行く手に兵士の男が二人、立ち塞がる。
「止まれ。止まらぬのならばこれ以上容赦は――」
「やめろと言った。始祖竜の命ぞ」
私は彼らを見上げ、睨めつける。
――それだけで、エーリアスは私が何をしようとしているか察したのかもしれない。
「ッ……ま、待てッ! アーシェさん、それだけは――」
「口を噤めと言ったろう!」
エーリアスの身体を支えていた兵士が、彼の頭を殴りつける。沸騰するみたいに頭がかっと熱くなる。
「始祖竜? 何を馬鹿な。それは……先日の騙りを認めたということでよろしいかね?」
「騙り? ――――
断じる。瞬間、ヨハネ司教は呆気にとられたように目を丸くする。
それは、村人らさえ大した違いでは無かったかもしれない。
「貴様が? ……貴様のような小娘が、かの始祖竜様であらせられると?」
「そう」
私は静かに頷き、――――ヨハネ司教は失笑するように腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい」
「く、くく、はははッ!! これが笑わずにいられるかね? 皆の衆よ、聞こえましたかな? 今の言葉こそ、この娘の気が触れている何よりもの証拠ではありますまいか。どこの馬の骨とも知れぬ気狂いの娘を庇うなど、エーリアス殿もまた馬鹿なことをしたものですな!」
ヨハネ司教の笑い声が伝播する。教団の兵士たちは嘲笑うようなくぐもった声を漏らし、私に視線を注ぐ。
「……アーシェ、さん。それだけは、なりません。……『誓約』を破れば、あなたは……」
エーリアスのかすれきった声。
あなたが悪いんだよ。あなたがあまりに、優しすぎたから。それは、私の正体を知っているからかもしれないけれど。
「ふふふ、はは、これはもう背信の罪と見なすに差し支えはないでしょう! その娘も合わせて捕縛を――」
と、ヨハネ司教が言いかけた瞬間。
私は、殻を破った。
元の姿を取り戻した。
空に光が満ち、地上に巨大な影を落とす。
そして私は――守るべき『誓約』をかなぐり捨てた。
◆
ぶわ、と。
私の巨躯が空に浮かぶやいなや、猛烈な強風が地上に巻き起こった。
巨大な影を地上に落とし、私は人間たちを見下ろす。
「……な、な、な……ッ!」
ヨハネ司教が慄然として震え上がる。
兵士たちがその場で硬直する。
私はただ一言、空の高みから命じた。
「その男を離すが良い」
人間の時とは変わり果てた、重く、鈍い声。
それがわけもなく悲しかった。
「な……馬鹿な、なぜ、始祖竜様が、おられなくなったはずなのに――」
「あなたたちにはほとほと呆れ果てた」
いまだエーリアスを解放しようとしない様子を見て、私は掌を地面に叩きつけた。誰も潰してはいない。「ひっ、ひぃぃぃぃっ!」ただ叩きつけただけで地響きが起こり、兵士たちは我先にと逃げ去っていく。
「私の名を騙り災厄を引き起こすには飽きたらず、私の恩人をも害しようというのならば――――私は今すぐあなたを八つ裂きにしてやる」
こうすれば。
私がヨハネ司教を睨めつければ、彼とその一派は震えながらその場で額を地面に擦り付け始めた。
「お……お、お待ちくださいッ! あれは、あれはただ命じられてやったことでッ! 決して私どもとしても本意では無かったのです!! あ、貴方様が、人の姿でおられたなどとは思いも寄らず――」
「ならば、なぜ隠した? なぜ、
問いただすように威圧のことばを吐く。暴力的な衝動がふつふつと湧き上がる。あの邪魔くさい教会に灼熱をぶちまけてやればどれだけ気分が良いだろう。
でも、私はそうはしなかった。彼がそんなことを望むとは思えなかったから。
「ほ……本物だ」「本物の始祖竜様だ……」「まさかこんな近うで見られるなんて……」
村人たちが跪く。知られてしまった、見られてしまった。その後悔が今さらのように湧いてくる。魔女の警告が思い出される――『もう二度と、あなたの願いが叶うことはない』。
「どうか、どうかお赦しを……矮小な我が身に御慈悲を……」
もはや震えて許しを請うばかりとなったヨハネ司教らに言葉を続ける。
「私はあなたたちを見ている。もし同じことを繰り返してみよ。私はあまねく祭司を八つ裂きにし、あまねく教会を焼き払い、教団のことごとくを殲滅しよう。――――二度と、繰り返すな」
こんな言葉にどれほどの意味があるだろう。
私自身にはわからない。
けれど、もしまたこんなことがあったら――私は実際にそうするだろう。
先ほどまでは高慢に振舞っていた男たちがしきりに頭を下げ、地面に額を擦り付ける有り様。それを見てもあまり気分は晴れなかった。いっそ全部ぶち壊してしまえば良かったんだろうか。
「……アーシェ、さん」
エーリアスは緩慢な動きで立ち上がり、そして改めて地面に膝を着く。
まだ、そう呼んでくれることが嬉しかった。今の私は人間の姿とあまりにかけ離れているというのに。
「私はあるべき場所に戻ろう。私があの場所を離れるには……おそらく、まだ、早すぎたんだ」
結局、元はといえば、それがいけなかったのだろう。
私があの山を離れなければ何も起こらなかった。ドラゴン教団が馬鹿なことを考えたりもしなかった。誰も彼も、何かも、普段通りに回っていたはずだ。私があの場所に留まってさえいれば。
それは私の望むところでは無いけれど、でも、仕方がない。
今の私にはもはやそうするほかはない。だって、『もう二度と、願いが叶うことはない』のだから――――
私は地上のエーリアスを一瞥し、空に向かって咆哮する。あの日交わしたのと同じ言葉で。
『さよなら』
風圧が大気を揺るがす。地上の村人たちはこぞって手を振る。エーリアスが私に何かを叫んでいる。でも、風の残響でもうなにも聞こえない。
時間をかけてようやく慣れてきた人体の感覚はもはや無い。なのに、この馬鹿みたいな巨躯の感覚はあっという間に取り戻してしまった。
羽ばたき、風を切り、空を駆りながら――そのことが泣きたくなるほどに悲しかった。
◆
全ては、元通りになった。
結局、私はあの山――最果ての山脈の最奥に出戻った。他に今の私を受け容れられる場所があるとは思えなかったから。
日が昇っては沈み、夜の空には星と月。私は周りの全てに無感覚に生き続ける。
強いて収穫があったとすれば、人里に被害を出さないような飛び方を覚えたということか。もしものことがないように、私はしばしば村の様子を見に行った。行くたびに大変な騒ぎになるのであまり気は進まないけど、少なくとも彼は無事だった。
これが脅しになるならそれで良い。私の望みとは程遠いけれど、最悪よりはまだしも良い。
彼一人くらい見捨てれば良かったのに。あるいは無理にでも助け出せば良かったのに。
そう思うこともある。
けれど、エーリアスが以前のように過ごすためにはこうするしかなかった。なら、それで良いと思った。私の自己満足に過ぎないとしても。
全てが元通り、といっても本当に全てと言うには語弊がある。
特に私はそう。以前通りの孤独とは全く行かなかった。人間としての感覚がまだ少し残っているようで、山頂にて孤独でいることがやけに身にしみた。
どうせ何年も過ぎれば元に戻る。何百、何千年とこの姿でいるのに比べれば、人間の姿でいた期間などほんの
また彼が来てくれるかもしれない。そんな淡い期待が無いではなかったけれど、それも一時の慰みにしかならない。
人の身でこの山に留まるのは極めて困難だ。そのことはすでに実証されていた。
周囲の変化に鈍感になり、そしていつか時間の流れも曖昧になる。
私は一人、山頂で巨躯を丸めて眠る。
――――もう二度と、私の願いが叶うことはない。
そんなある日のことだった。
一体、あれからどれだけ時間が過ぎただろう。
まどろむような私の意識を叩き起こしたのは、遠く風を切る音だった。
私が空を見上げれば、そこにはどこか懐かしい感じの姿があった。
黒い鱗と強靭な肌に覆われた、一頭の竜。
それを眼にした瞬間、私は少なからず驚いた。まさかこの世に私以外の竜が残っていたなんて。
大昔には私以外の竜がいた。彼らは私に襲いかかってきて払い除けられるか、あるいは私に近づかないようにするかのどちらかだった。私は彼らの同族と見做されなかったのだろう。
黒い竜は碧色の目を見開き、私の姿を一瞥する。
見た限り、肉体は私よりは小さい。けれど目には理知の色が見える。いきなり襲ってくる獣のような類でないと分かる。
私はしばらく彼を見つめ、スンとちいさく鼻を鳴らした。
そして、気づく。
――――どこか、懐かしい匂い。
「……?」
私は無駄に重い首を傾げる。
黒い竜は空中で翼を羽ばたかせ、そして、私にごく近い山の峰にゆっくりと降り立った。
碧色の目。そびえる白角を這うように伸びた銀色のたてがみ。
それを目にした私の心中に、既視感――懐かしさとでも言うべき感情が湧き起こる。ある一人の名前が浮かび上がる。
まさか、と思う。
そんなはずがない、と思う。
けれど、もしかしたら。
そんな私の思いもよそに、黒い竜は大顎を開けて言い放った。
「お久しぶりです、アーシェさん」
「……ん、な……?」
その名で私を呼ぶものは。その話し方は、抑揚は。
彼を置いては他にない。
「すいません、後進への引き継ぎにかなり手間取ってしまって。来るのがずいぶん遅くなってしまいました」
「……あ、あ……?」
「……もしかして、遅すぎて忘れられてしまいましたか」
黒い竜は心配そうに言う。いかめしい面差しとは全く裏腹な優しい声音。
ありえないはずの状況。でも、間違いないと思った。
「……エーリアス……?」
「良かった。覚えていてもらえて」
忘れるわけもない。私がここを離れた理由で、ここに戻ってきた理由でもあるのに。
「……どうして、ここに、いや、なんで、そんな姿?」
「そんな姿、は無いでしょう。アーシェさんに合わせたんですから」
「それはわかるけど!」
とぼけたように言うのは冗談なのか真剣なのか。
「……どうやって、ってこと」
「細かいことは抜きにして一言で言えば……願いを叶えてもらった、ってところですよ」
あなたと同じように、と。
その一言で、私は全てを察してしまった。
「全くの偶然みたいなもんですけどね。……アーシェさんの願いが叶わないとすれば、私の願いを叶えてもらえれば良い。そうでしょう?」
「た、確かにそうだけど!」
ありか。そんなのありなのか。
何が幸せな結末だ、と悪態を吐きたくなることもあったけれど――まさか、そんな手で来るなんて。
「あなたに誓約を破らせてしまったのは私だ。ですから、末永くあなたに付き添うのが筋というものでしょう」
「ば、馬鹿だ。すごい馬鹿だ」
「馬鹿とはなんです」
「ご、ごめんなさい」
もう二度と、私の願いは叶わない。
でも、彼の願いはこうして叶えられた。
いつまで続くかも分からない永い時間も――あるいは彼と一緒ならば。
「迷惑だったらどこか反対側にでも飛んでいきますが」
「ううん。一緒に、いて。エーリアス」
「……良かった。いや正直、断られたらどうしたものかなと」
「やっぱり、馬鹿だ……」
断るはずなんて無いのに。
だって、私はもう人間にはなれないんだから。
大地の果て、世界の一番高いところで。
私はゆっくりと首を伸ばし、口先をこつりとエーリアスの眼と眼の間に触れ合わせる。
「……ずっと、一緒にいて、エーリアス。いつか、私が滅ぶまで」
「この身が健在である限りは。……アーシェ、あなたと共にありましょう」
私がゆっくりと口を離すと、エーリアスは私にも同じようにする。
お互い馬鹿に大きなくせに、あまりにも淡い触れ合いだった。
私は孤独が寂しくて、孤独ではない人間になりたかった。
そして、結局、人間にはなれなかった。
けれど、私は孤独ではなくなった。
ならばこれは、きっと、彼女が言うところの"幸せな結末"なのだろう。
どこかで魔女が、静かにほくそ笑んでいるような気がした。
◆
黒いローブ、黒い丸唾帽子を目深に被った女の影。
彼女は二頭の
「難儀なお姫様に……、いやはや、世話を焼かせてくれる弟子だったねえ」
願いを叶えることなく逝き、願いを叶えるものと化した魔女。
彼女はくつくつと喉を鳴らして笑い、そして、一陣の風とともに掻き消えた。
ひととりゅう。 きー子 @keyko191
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