その後、私はエーリアスの家に招かれた。ぐしょ濡れになったローブの代わりを渡すためという。

 本当にありがたい限り。ただでさえ慣れない服なのに、濡れてへばり付いているせいで余計に気持ちが悪かったのだ。


 彼の家は村の外れにあった。少しこじんまりとした丸太小屋。嵐による被害はほとんど見当たらない。


「……妙に離れてるんですね」

「ええ。村では少々変わり者で通っていまして……まぁ、魔術師相応といったところです」


 エーリアスは曖昧な笑みを浮かべる。あんまり笑うことに慣れていないような、不器用な表情。

 濡れ鼠の私が玄関口で待つ間、彼はおもむろに居間の衣装箪笥を漁り始める。


「……へえ……」


 一方、私は興味のおもむくまま家中に視線を向ける。

 魔術師という名乗りから来る印象とは裏腹、家の中は意外に整然としていた。奥には閉じたままの扉が見える。あの向こうがひょっとしたら腐海と化しているのかもしれない。


 次にエーリアスに視線が行く。

 彼になら、私の正体――始祖竜であることを話しても良いだろうか。

 でも、それを知ったら今のように気軽には接してもらえないかもしれない。そう考えると正直に告白するのも悩ましいところだった。


「どうぞ、これを使って下さい。アーシェさんには少し大きいかも知れませんが……」


 私がうんうん唸っていたところ、エーリアスは私にぽんと服を渡す。肌着と、腰でくくる紐と、今私が着ているのと同じような黒いローブ。


「……ううん。ありがとう」


 私はそっと頭を下げ、濡れたローブをさっそく脱ぎ始める。一刻も早く脱ぎたいくらいの気持ち悪さだったのだ。腕の中で脱いだローブを四つに折りたたみ、ついで肌着も脱ぎ出す。


「今着ているものは洗濯しておきますので、着替えは浴室の方に――――って」


 エーリアスはそう言いながら私を見て、ぎょっと目を丸くした。

 なんだろう。もしかして鱗でも見えたのか。私は思わず自分の肌に目を落とす――うん。大丈夫。ちゃんと彼と同じような白い肌だ。問題はない。


「何をなさってるんです!?」

「え、き、着替えを」

「向こう! 浴室がありますので!!」


 私はエーリアスに手を引かれ、垂れ幕の裏に隠れていた部屋まで連れられていく。石張りの、少し熱と湿り気がこもった部屋。


「……着替えついでに、そこの溜水も温まってますので、身体を流しておくと良いでしょう。良いですか、ちゃんと服を着て出てくるんですよ」

「は、はい」


 エーリアスに切々と言い聞かされ、私は是非もなく頷くほかなかった。

 彼はやり辛そうに目を背け、「ゆっくりなさって下さい」と言い添えてから戸を閉めた。


 ――そこまで動揺する理由があったろうか。先ほどまでの様子とは打って変わったような強引さだった。私は服も靴も全て脱ぎ落としながら考える。

 服を脱いだから? そんな馬鹿な。だって、私はあの時も服なんか着ていなかったじゃないか。


 ……いや、あの時とは姿が違う。人間は服を着ているのが当たり前なのだった。

 では、人間が服を脱ぐのはいつか。生まれてきたとき、身体を洗うとき、そして、


「……交尾?」


 うん。多分間違いない。

 なるほど、驚くわけだ。出会ったばかりの雌と繁殖したがる雄など野生にもそうはいないだろう。

 それに、彼の年頃は三十になるかならないか、といったところ。すでに番いがいても全くおかしくはなかった。


 私は大いに納得し、温かいお湯を頭からかぶって身を清める。濡れて冷えこんだ身体には実に良い具合――これも初めての経験だった。



 ◆



 エーリアスが先に言っていた通り、渡された服は少しだけ大きかった。

 余った袖をまくり上げ、裾は引きずらないようにたくし上げる。


 大きい、といってもエーリアスの服よりはずいぶん小さいように思える。ならこれは誰のものだろう。彼が今より小さかったころか、あるいは単なる来客用の備品に過ぎないのか。


「時に、アーシェさん」

「……は、はい。なにですか」


 居間で濡れた髪を拭いていたその時、彼は出し抜けに言った。

 なんだろう。改めてどこから来たか尋ねられると、正直に答えるしか無くなるのだけれど――


「得意なことはありますか」

「得意なこと……」


 あまり派手なことをして目立ちたくはない。人間として生きることを止めたくはない。

 でも、せっかく彼の世話になったんだから役に立ちたいのも事実。と、なると――


「力仕事なら、なんでも得意」

「……本当ですか?」

「高所での作業も」

「…………本当に言っているのですね?」


 そんなに信用ならないだろうか。……今の身体の小ささでは無理もないか。

 私は自信いっぱいにふんすと頷いてみせる。力仕事はもちろんのこと、高所作業ならお任せあれだ――なにせ飛べるのだから。


「……わかりました。では、ちょっとついて来てくれますか」

「うん」


 意気揚々と彼の後について歩み出す。外はまだ夕暮れ前だった。



 ◆



 やってきたのは山の入口と反対側の細い道。

 エーリアスが言うには「他の土地とも繋がる唯一の要衝なんですが……」とのことだが――


「……塞がってますね」

「はい。ご覧の通り」


 その道は、横倒しの巨木で見事なまでに塞がれていた。道に面する森が強風に晒されたためだろう。


「おぉ、医者先生!」

「来てくれたのか」

「このザマだよ、先生。魔術でなんとかならねえのか?」


 巨木の前には村人の男性らが十数人とたむろしている。樹の幹には何本もの縄がかかっており、巨木をなんとか退かそうとした努力の痕跡がうかがえる。

 しかし十数人がかりでも巨木は動かなかったらしく、男たちはいよいよ立ち往生していた。

 彼らはこぞってエーリアスに「先生」と呼びかける――若さのわりにかなり慕われているらしい。


「魔術でなんでもできるわけではありませんよ。私は治療や補助が専門ですし……」


 エーリアスはちょっと苦笑し、ちらっと私のほうに目配せする。


「ですが、助けにはなるかも知れません。……アーシェさん、本当に良いんですね?」

「もちろん」


 まだ不安そうな彼を安心させるようにこっくりと頷く。

 あんまり安心したようには見えない。ちゃんと実演しておいたほうが良かったろうか。


「……先生、こちらの娘さんは?」

「先生の妹さん……じゃ、ねえわな」

「旅人のアーシェさんです。寄りかかった縁ということで、力仕事には自信があると仰られまして」


 と、エーリアスは私を紹介する。

 ところが、男たちが私を見る目はエーリアス以上に不安げだった。正気の沙汰ではない、と言わんばかり。


「……言葉より実際に見てもらったほうが早いかと」


 そうまで不審がるなら見せてやろうじゃないか。我ながら大人げないにも程があるが、これは気持ちの問題だ。

 私は巨木に歩み寄り、半ば辺りのロープを掴む。他の男達も半信半疑ながら、しぶしぶ別のロープに手をかけ始める。


 そして、私は両手に全力をこめ、思いっ切りロープを引っ張った。


「――――ふんッッ!!!!」


 ずるるるるッ!


 大木が勢い良く地すべりし、地中に食いこみながらもおよそ数歩分の移動に成功する。


「せッ!!」


 ぐっ、とロープを引き上げれば埋まりかけた樹皮が顔を出す。

 これでずれるほどに埋まっていくことは無いだろう。


「……おおッ!?」

「お……」

「おおおおおッ!?」


 上がる声は、賞賛――というより愕然としているようだった。

 ロープを掴んでいた村人さんが何人かすっ転んでしまっている。いけない。このまま動かしたら轢き潰してしまうところだった。


「真っすぐ引いてくから。離れてて」

「お、おう……」

「ま、待てよ。あんた一人じゃ……」

「だいじょうぶ」


 実際に試したところ、大木は私だけでも十分動かせるくらいの重さだった。

 村人たちが木から離れたのを確認し、私は縄を背負うように引きずっていく。


 ――――ずる、ずる、ずる、ずる。


 さっきよりも少し陽が傾いたころ。私は無事に倒木を広い場所へ引き入れることに成功した。

 疲労感はさほどでもない。私は額に少し浮いた汗を拭い、一息つく。さすがに竜の時ほどの力はないが、人間よりは遥かに大きな力があるようだ。


「こ、これ、現実かよ」

「……すごいな」


 では、周囲の反応はというと――褒められているというか、脅えられているというか。思ったよりやり過ぎたのかもしれない。

 私はエーリアスをちらっと見る。彼はちょっと呆然としていたが、私と目が合うとすぐ我に返った。


「……これは、本当に、凄いですね。よくぞやって下さいました、アーシェさん。おかげで道が空きましたから、また駅馬車も来るようになるでしょう。これを木材に加工すれば復興も進みます」


 エーリアスは周りの人よりずっと冷静だった。彼がそう言ったのを皮切りに、村人たちも諸手を上げて歓声を上げ始める。


「って、のんびりしてる場合じゃねえ、駅舎まで連絡に行くぞ!」

「俺も行こう。途中の道がどうなってるかもわからん」

「……加工すると言ってもな、こいつはちょっとした一苦労だぞ」

「やるな、嬢ちゃん! まだ子どもだってのに」


 各々の村人たちが見せる反応は人それぞれ。「子どもじゃないよ」と私は笑ってあいまいに誤魔化す――褒められるほどにズルをしているような気がしてならなかった。私の力であることに違いはないのだが。


 私が所在無げにしていると、エーリアスが私のすぐ横から声をかける。


「正直、ここまでのものとは思ってもみませんでした。申し訳ありません」

「……どうして謝るの?」

「半信半疑だったものですから。魔術――なのですよね?」

「似たようなもの、だと思う」


 正確に言えば違うような気はする。この力は生まれつき持っていたものに過ぎない――私が努力して手に入れたものではない。

 エーリアスは瞑目して頷き、私に言う。


「アーシェさん、聞いての通り、これで他所との道は繋がりました。もしお望みでしたら今すぐ村を出られます。……ですが、私としてはきちんとお出迎えしたいな、と思います。わざわざ働いてまで下さったんですから」

「あなたには私を監督する責任がある」


 と、私は昼のやり取りを引き合いに出す――エーリアスはにわかにきょとんとした顔をする。


「旅を急ぐ用もない。ご相伴と宿にでもあずかれたら嬉しいな」

「……恩人にそれしきの用意も出来ないとあっては、聖地の名折れですね」


 彼は再び真面目な表情を浮かべたかと思うと笑って言う。

 ……聖地?


「聖地」

「ええ。……今となっては、始祖竜様の怒りを被った土地、だそうですが」


 そういうエーリアスの声は信じてもいなさそう。

 彼は北方に向き直り、遠い目をする。遥か山脈の彼方を見るかのようだった。



 ◆



 それからの数日は瞬く間に過ぎた。

 その間、私はエーリアスと一緒に行動しながら働いた。嵐で倒壊した家の素組みをしたり、水路の崩壊部を埋め立てたり、強風で吹き飛んでしまった屋根を張り直したり。

 作業は危険なものも多く、怪我人が出るたびにエーリアスは村中を駆けずり回った。彼の魔術の腕は確からしく、折れた骨も数日ほどで完治に導いてしまうほどだった。


 一方、彼がこの村の指導者というわけではなく、村長さんが他にいるようだ。すでに六十歳近いであろうお爺さん。年齢に見合わずかくしゃくとしていて、意思決定に問題はなさそう。

 エーリアスはいわばその相談役。お医者さんでもあり、知識人でもある、という微妙な立ち位置らしい。


 そこで気になったのが司教と呼ばれていた男たちのこと。この村で数日を過ごしても、彼らの立ち位置だけは今ひとつわからなかったのだ。

 たまに作業場に姿を表し、私を監視するように見ている場は散見された。特に口を挟まれることは無かったけれど、それはそれで気味が悪かった。


 ――村全体の集会所。嵐で家を失った村人たちのために開放された大きな木造建築物。

 夕暮れ時、カウンターとホールとで分けられた大広間に、私とエーリアスは揃って脚を踏み入れた。


「今日も一日お疲れさま――っと、先生じゃないかい」

「アーシェちゃんもお疲れ様。いつも働き者だねぇ」


 いえ、と私は声をかけてくれたカウンターの中年夫婦に会釈する。

 カウンター内には他にも十人近い人たちが行き来している。今はこの集会所に多くの村人たちが寝泊まりしていて、彼らの食事を用意することも必要だからだ。食材なんかは村の蓄えを総動員し、日ごとに分量を管理しながら調理しているようだった。


「アーシェちゃんはいつまでこの村にいる気なんだい?」

「……あまり考えてなかったです。急ぐ旅でもないので」


 おばさんの問いかけ。

 今までにも何度か同じことを聞かれたが、私はいつもそう答えていた。


「良いのかい、こんな何にもないところで。しかもこんな大変な時にねぇ」

「良いところです。仕事も、食べるものも、寝るところもあるから」

「アーシェちゃんは身も蓋もないねえ、若いってのに――はいよ、持ってきな!」


 と、厨房の奥から持ってこられるのは木のお皿いっぱいに盛られたシチューと手にちょうど収まるくらいのパン。シチューの中にはぶつ切りにされた野菜類がごろごろと入っている。


 エーリアスが手渡してくれるのを受け取ってくれると、ふいに片割れのおじさんが言う。


「せっかく馴染んできたところだもんなあ。先生もずいぶん助けられたろう」

「そうですね。アーシェさんのおかげで予定よりだいぶ早く作業が進んでますから……この分でしたら収穫の頃には村も元通りでしょう」


 エーリアスも自分の分の皿を受け取りながら言う。――私の目の前で言われるとやけに面映ゆい。


「このままアーシェちゃんがいてくれたら助かるのになあ。もし何かがあっても安心じゃないか」

「確かに、その通りですね――ですが、まさか無理強いするわけにもいきませんから」


 おじさんが言うのに、彼はあくまで冷静に答える。

 私は正直言って驚いていた。村の人がこうもあっけなく身内として見てくれるとは思いもしなかったから。便利に使われているだけという感じはあるが。


「今のところ、行くあては特にないけど……」


 エーリアスは私をちらっと一瞥する。「ううん」と私は思わず唸る。ここに居着く理由も、離れる理由も特には無い。

 しいて言えば、エーリアスに以前のお礼を言うことか。――毎日の忙しさにかまけて告白の機会を逸しているわけだけれど。


「そうだ。二人が結婚したら良いんじゃないかい?」

「ぶッ!?」


 突然のおばさんの一言にエーリアスが吹いた。

 今までに一度も見たことがないような醜態だった。


「結婚」

「そう。先生も元は旅の人だったんだよ。最果ての山脈に出掛けて、戻ってきて……それで、ここに留まるって言ってくれたのさ。もう三年も前のことかねえ……」

「三年」


 ――三年。

 告げられた年月に思わずぽかんと口が開く。エーリアスが私に会いに来てからそんなにも時間が経っていたのか。

 私は呆気に取られたような思いだった。


「……冗談はやめてください。私とではおそらく年の差があり過ぎるでしょう。後に残して逝くのが分かりきっているではないですか」

「先生、そんなこといって本当に独身でいるつもり? もう若くないんだから、今のうちにこそ身を固めたっていいんじゃない? アーシェちゃんはどう?」

「えっ?」

「えっじゃなくて。アーシェちゃんから見て先生はどう?」


 どうと言われても。私は思わずまじまじとエーリアスを見る。

 あの山で会った時と比べたらどうだろう。私にはあまり違いが分からないけれど、表情は以前よりずっと落ち着いているようにも見える。年齢なりの落ち着き、とでも言うべきか。


「えー……うん……?」

「……アーシェさんを巻き込まないでください、困っておられるでしょう」

「ふふ、ごめんなさいね、老い先短いと言い方を選んでる余裕が無いったら」

「それだけ元気で何を仰ってるんです」


 エーリアスは呆れたように肩をすくめて集会所を見渡す。めぼしい席はあらかた埋まっていた。

 仕方ないので広間の隅っこ、要するには地べたに腰を下ろして食事をする。あまり行儀が良いものじゃないらしいけど、それだけ人が集まっているんだから仕方がない。

 彼は神妙そうな顔で口に含んだシチューを飲み込んだあと、不意に言った。


「申し訳ないですね。ずいぶん巻き込んでしまって。……それだけあなたにお世話になったし、感謝もしてるということでもあるんですが、どうにも」


 もう少し感謝の仕方があるだろうに、などとぶつくさ言うエーリアス。


「エーリアス、いなかったんだ」

「……何がです」

「つがい」


 彼は口に含みかけていたシチューを咄嗟のところで止めた。

 危ないところだった。もう少しで木のお椀がひっくり返るところだった。


「……いませんよ。いたら付きっきりでの監視なんかやれません」


 それもそうか。私は納得しながらシチューを塗りつけたパンを咀嚼する。

 それにしても、と思う。人間の食事とはかくも美味いものか!

 竜の図体と鈍い感覚では決して味わえなかったろう。私がやたらに食べてしまうせいか、日に日に皿の盛りも増えるようだった。正直、我ながら少し恥ずかしい。


 にしても、結婚は厳しいだろうなと思う。

 魔女が言うところによれば、私は死なない。死なない人間なんて明らかに不自然だ。私が同じ場所に留まれば、その不自然さは否応なく明らかになる。隠し通すことはできない。


「子どもをつくるのなら、いいかな」

「……ッッ!」


 エーリアスは愕然とするより早く周囲の反応をうかがう。そうか、彼の世間体というものがあった。

 幸い、私の声は周りに聞こえていなかったようだ。

 そもそもできるのかな、などと私は考える。きちんと人間の生殖能力はあるのだろうか。それなら、別れる前に彼との子どもをつくっても良いように思う。


「本気で何を考えているんですか、あなたは。……得体が知れなさ過ぎる」

「怪しいって、思う?」


 司教さんたちみたいに、と。

 私が言うと、エーリアスは声をちいさく潜めて言った。


「……始祖竜様のお怒り、という奴ですね。私はそもそもあれを信じていません。だから、あなたが関係しているはずもない。……このことは内密にお願いします」


 ちいさな声で、きっぱりと。

 私は大いに頷く。なぜなら、ここにいる私が怒っていないのだから当然だ。


 私が山を離れたから、という可能性もまず無いだろう。

 数日間、私がこの村に滞在している間、異変と呼べる出来事は何も起こらなかった。つまり、あの嵐は私と関係ないと考えるほうが自然だ。


「なんでそう思ったの?」

「理由は二つ。……ひとつ目は、あの嵐には人為的な作為が感じられたからです」


 エーリアスは細かい説明は抜きに端的に言う。だが、私はそれだけで察しがついた。

 あの日、私が真っ黒な雲に触れたときの違和感。私はあれが何らかの魔法の力、その産物だと直感した。

 エーリアスが言いたいのは、つまるところ、あの嵐が誰かの手によって引き起こされたということだろう。


「……もうひとつは?」

「もう一つは……ええと、これは理屈ではないので、笑わないでいただけるとありがたいのですが」

「うん」


 彼らしからぬ言葉。そのくせ表情はいつも以上に真剣そうだった。


「私は、始祖竜と実際に顔を合わせ、言葉を交わしたことがあるのです。……これも内密にお願いしますよ。もしバレたら私は教団から追われる身ですから」

「……そうなんだ」

「あまり驚かれないんですね」

「うん」


 エーリアスは思わずというように苦笑する。

 だって知ってたんだからしょうがない。教団とやらが私と会うことを禁じているのは初耳だったけれど。


「……私が彼、あるいは彼女と話したうえで感じたことですが――私には、あの御方がわけもなくあのような災害を引き起こすとは思えない。偉大なる始祖竜の内心を忖度するというのは、いささか不敬でしょうが……実際、私にはそう感じられた」


 彼はひそめた声でとつとつと語る。

 その時、私は思わず目をむいた――やけに面映ゆい気持ちがこみ上げてくる。

 そんな風に思ってくれるなんて。ほんの少しの間のこと、それも彼にしたら何年も前のことなのに、始祖竜わたしのことを信じてくれようとは。


 彼は一口、ゆっくりと匙を口元に運びながら言葉を続ける。


「だから、なおさら私には教団かれらのことを信じがたい。……とはいえ、実際に始祖竜様の姿がお隠れになったのは確かですから。何か、私には及びもつかないことが起きたのかもしれませんが」

「ううん」


 瞬間、私は思わず――彼の懸念を払拭してあげたいがために、ほとんど反射的に口走っていた。

 彼だけに聞こえるよう、ちいさな声で。


「それはない。――――私が始祖竜だから」

「…………え?」


 ころん、と。

 彼の取り落とした木の匙が虚しく床を転がった。



 ◆



 あのあと。

 私とエーリアスはなんとか無事に食事を終え、積もる話があるということで彼の家に行くことになった。私たちを送り出す中高年の村人たちの見守るような視線がやけに印象的だった。


「し、始祖竜よ! 我々は、いえ私は、よりにもよってあなたに働かせるというような無礼を!?」

「お、落ち着いて」


 家に入るなり、彼は人前で抑えつけていた気持ちを吐き出すように叫ぶ。

 気持ちは分からないでもないけれどなんとも言えなかった。なぜなら私は別に構わないから。


「これが落ち着いていられますか!?」

「落ち着いて」

「……は、はい」


 私の前だからか、彼は深呼吸したあと神妙に咳払いした。


「……申し訳ありません、お恥ずかしいところを。それで、先の話は……」

「本当。証拠は見せられないけど」

「……ですが、なぜ人間の姿に?」

「それが私の望みだったから。……あなたにもそう言ったはず」


 でしょう? というとエーリアスは静かに頷く。

 あの日、交わした言葉を知っているものは他にいない。それが彼にとっては何よりもの証拠なのかも知れなかった。


「今、あなたは人のお姿でここにいる。だから、もう最果ての山にはいない。……煎じ詰めればそれだけのことだった、というわけですか」

「うん。もう私はあそこに戻るつもりはない。あの姿に戻るつもりも、無い」

「……そう、ですか。あなたの姿は、存在するだけでも皆に平穏をもたらすものだったのですが」

「……そうなの?」

「月や太陽のようなものですよ。ただ在ることが当然だった、ということです」


 なるほど、と頷く。私にとっては堪ったものじゃないけれど、私が存在していることに少なくとも意味はあったわけだ。

 ……でも。私は首を横に振る。


「私はかつての姿にはならない。そうなったら、もう二度と、今の姿にはなれなくなるから」

「……なぜです?」

「そういう『誓約』だから」


 エーリアスはにわかに息を呑み、そしてゆっくりと頷く。

 全く異質なものに触れたというような表情。


「……わかりました。つきましては、始祖竜よ」

「アーシェでいいよ」


 私がそう言ったときの彼の煩悶の表情ったら無かった。

 教団とやらを疑っていても信仰心は人一倍以上らしい。変な人間。私は思わず笑ってしまった。


「あ、アーシェ、さん」

「うん」

「あなたが原因でないということは、やはり偶然か、人為的なものか……」


 悩ましげにするエーリアスに、私は自分の目で確かめたことを伝える。

 あの嵐は人為的なもの――おそらくは魔法の力の産物であったこと。

 するとエーリアスは思いつめたような表情をして、不意に私に向き直った。


「……この辺りで、私以外に魔術の心得がある人物など、彼らしか考えられない。これ以上、神の怒りを騙らせるのは明らかに間違っている。なんとか、彼らの注意を引ければ調査のしようもあるんですが」

「それなら、いい方法があるよ」


 私はその場で思いついたことを口にする。

「これ以上あなたを煩わせるのは……」とエーリアスはしぶったが、「私はただのアーシェだから」、というと最終的には言いくるめられてくれた。


 今までやったことは無いけれど、いかにもそれっぽく見えるもの。私が姿を表さずとも皆を安心させられる方法。

 ――――つまるところ、お触れを出せば良いのだ。私直々に。



 ◆



 やり方はとても簡単だ。

 今の私が言っても信じてくれる人はそう多くないだろう。だからあくまで文章としてお触れを出すことにした。


 幸い、村の中には邪魔な大岩やら巨木やらがある。ある程度の文字を刻むには申し分ない代物だ。

 何に書きつけるかと考え、私は最終的に大岩を選んだ。それが一番長く残り、人目に付きやすいという気がしたからだ。


 大岩の表面にお触れを直接刻みこみ、村の中でも一番目立つ――それでいて邪魔にならない――広場にどかんと置いておく。


 以上の作業を夜のうちに済ませ、そして朝。

 私が少し遅れて様子を見に行くと、大岩の前にはすでにちょっとした人だかりができていた。


「……すごい」


 集会所で見る人数よりもさらに多いような気がする。百人はざっと超えていそうな感じ。

 私はひっそり物陰にひそみ、村人たちの反応をうかがってみる。


「いつの間にこんなのができたんだ?」

「私は知らないねえ……」

「昨日までは無かったはずだけど」

「誰か読めないのか?」

「いや、さっぱりだ」


 …………しまった。

 始祖竜としてなら古代語だろう、という意識が先行して、誰も読めないなんて考えもしなかった。


「読めそうな人は……先生くらいか?」

「司教様も読めそうだが」

「こいつはきっと始祖竜様のお告げだぞ。今すぐ伝えに行かないと――」


 と、村人の一人が振り返ったその時。

 ヨハネ司教とそのお供二人が颯爽と大岩を目指すように歩いてくる。


「おおっ、司教様」

「司教様、どうかこちらへ」

「これは始祖竜様のお告げなのではございませんか?」


 村人たちがこぞって尋ねると、ヨハネ司教は曖昧に頷き「確かめてみましょう」と厳かに言う。

 その一言で村人たちの人波がふたつに割れる。ヨハネ司教は大岩の目の前まで歩み寄り、表面にそっと指を伝わせた。


 良かった、と安心する。これで無事に村人たちにも伝わるだろう。

 ヨハネ司教はゆっくりと岩肌に指先を滑らし、目線を動かし――そして、不意に指先をプルプルと震わせた。

 彼はすぅっと深く息を吸い、叫ぶ。


「こんなものが始祖竜様のお告げであるものかッ!!」


 それは、激昂と呼ぶに相応しい。

 彼は烈火のごとく怒りだし、大岩にふっと背を向ける。


「し、司教様?」

「一体何が書いてあるんです!?」

「――これに興味を持つことはならん! すぐにも打ち壊してしまえ! 始祖竜様を騙る何物かの仕業に他ならぬ!!」


 ――どうして。

 そう考えるよりも早く、私は物陰から飛び出していた。

 私は早足でお触れの岩に近づいていく。


「あ、アーシェちゃん?」

「どうしたんだい?」

「ちょっと、通して。私は読めるから」


 私がそう言うと村人たちが道を開けてくれる。

 一方で司教さんは慌てたように私のほうに振り返る。


「ま、待て、貴様ッ!! どういうつもりだッ!?」


 どういうつもりもへったくれもない――そっちがそのつもりなら私もやってやる。

 自分で書いた文章を読めないわけもない。私は岩肌を彫り刻むように書いた文面を一瞥し、ゆっくりと読み上げる。

 岩の前から引き剥がそうとしてくる白ローブの男を片手で投げ飛ばすように払い除けた。


「『人の子よ

 先の厄災は我が怒りにあらず

 我はこの世に未だ在り

 汝らもまたこの世に在れ

 いかな厄災とて

 汝らを挫くには叶うまい』」


 ――初めは名前でも刻もうかと思ったけど、やめた。少しばかり俗っぽすぎるように思ったから。


「……い、今の、本当か?」

「まさか」

「でも、意外と被害は少なかったからな」

「始祖竜様が守ってくれたってことか……?」


 ちいさく囁き合う声も、何十人分となればどよめきに変わる。


「で、デタラメだ!」

「現実に始祖竜様の姿はお隠れになったではないか!」

「偉大なる始祖竜様を失って何事もないなど、あり得るはずがない!!」


 教団の男たちは狂乱したように叫ぶが、多勢に無勢。

 彼らなりの考えがあったとしても、隠蔽しようとしたことが覆るわけではない。


「なぜ隠そうとしたのですか」


 私が言うと、ヨハネ司教の隣の男――ニコラスと呼ばれていた男は言葉を詰まらせる。

 代わって応じたのはヨハネ司教だった。


「言うまでもない。これが始祖竜様を騙ったものであることが明らかだからだ。人々を安心させるためだけに始祖竜様の権威を利用するなど言語道断。あなたもそれに加担した時点で同罪と言わざるを得ませんな」

「誰が、そんなことを?」

「……少なくとも、古代語を操れる以上、誰かは限られるでしょう。この村にそういったものは多くはない。私か、あなたか、そう――――エーリアス殿くらいになりましょうか?」


 かっと頭に血が上るような感覚。

 彼も同意してくれたけど、これは私がやったことだ。騙りなどではなく、正真正銘の始祖竜わたし自身がやったことだ。

 いっそこの場で張っ倒してしまおうか。それで事態は解決する気もする。他のところから派遣されてきたとは聞いたけれど、だからどうしたというのか――


 その時だった。


「――何やら騒がしいですね。私がどうかなさいましたか、ヨハネ司教」

「……ッ……エーリアス殿」


 いつの間に来ていたのか。彼は私とヨハネ司教の間に割って入り、彼我の間合いを遠ざける。

 落ち着いて、と目配せするエーリアス。私はこくりと頷くのみに留める。


「……このような偽りのお告げをこしらえたのは貴殿ではありますまいか。そう申し上げていたところですよ。なにせ古代語を使えるものはこの村にそう多くありませんのでな」

「その点で言えば、私とあなたについては似たような怪しさですが。そうでしょう?」

「貴様、またそのように不敬な――」


 と。隣の男が声を上げるのをエーリアスは睨めつけるように一瞥する。

 その視線の鋭さは以前の比ではない。彼、ニコラスはそれだけで竦み上がるように声をすぼませた。

 エーリアスはローブの懐からおもむろに羊皮紙の巻物を取り出す――ヨハネ司教はそれを見た途端に目を見開く。なぜそれを、とでも言うような。村人たちは彼らのやり取りをあくまで遠目に見守る。


 エーリアスは静かに声をひそめて言った。


「……始祖竜様を騙ったというのなら、あなたにも身に覚えがあるでしょう。違いますか」

「き……貴殿が、なぜそれをッ」


 ヨハネ司教の眼はエーリアスが持っている巻物に向いている。彼に覚えがあるものなのか。

 エーリアスは淡々と言葉を続ける。


「……村を騒がせることは望みません。アーシェさんを解放してください。でなければ、これの内容を皆に公表します。……あなた方"教団"もそれは望ましくないでしょう?」

「ぐ……」


 ヨハネ司教は苦々しげに表情を歪める。もはや言葉もないように。

「司教様、あれは証拠というには……」側近たちがたしなめるように言うが、ヨハネ司教は首をふる。「疑惑を生じさせることがすでに問題なのだ」と。

 彼はエーリアスに向き直って応じる。


「……やむを得ませんな。この場は、あなた方に従うといたしましょう、エーリアス殿」

「結構」


 エーリアスは巻物を懐に仕舞いこむ。それと入れ替わりのように教団の男たちはすごすごと退散した。


「……結局、何の話だったんだ?」

「いや、よく……」


 ヨハネ司教らの背が遠ざかったあと、村人たちはにわかにざわめきだす。

 エーリアスは私にちらりと目配せする。……収拾をつけるのは私の役、ということか。


 私は改めてお告げの岩の前に出て、宣言する。


「――――このお告げは真実、始祖竜様のものということ。司教さまも認めてくれたんだよ」


 その時、一瞬の空白が大気に満ちる。

 そして次の瞬間、弾けるように村人たちから歓声が上がった。


「つまり、始祖竜様が俺たちを認めて下さったってことか……!」

「もうあの時みたいな嵐は来ないってことなんだな!」


 拡散する安堵と穏やかな笑み。

 エーリアスは薄く微笑み、満足気に彼らを見守っている。

 私も実に満ち足りていた。ずいぶんな騒ぎにしてしまったけれど、こうやって少しでも平穏が戻ってくるのなら。


 ただひとつ、気がかりなのは――結局あの巻物はなんなのか、ということだった。



 ◆

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