ひととりゅう。
きー子
上
人間を殺していたのは最初の百年目までだった。
襲いかかってくる人間には事欠かなかった。どうやら私は、人間にとってかなり恐ろしい見た目らしい。
人間の身長ほどもある爪。一本一本がそれと変わらない牙。人間の武器では傷ついたこともない皮膚に、私の目と同じく真っ赤な鱗。体長は私が住んでいる山の頂きより少し小さく、背丈は山の半分くらい。翼は広げるとかなり大きそうだが、最後に広げたのはいつだったか――もう昔過ぎて覚えていない。
人間は、弱かった。見た目には色んな人間がいたけれど、私にはその違いがよくわからなかった。私が触れようとすると潰れてしまうことだけは確かだった。
最初のうちはただ何となく殺していた。剣で突かれたり、火で焼かれたりして、邪魔だったから。焼いた死体がとんでもない悪臭を発するのには辟易した――そう、私は火を吐くことができた。
もっとも、それもやっぱり昔のことだ。
もう、何十回目の百年目になるだろうか。
最初のころは、私に襲いかかってくる人間がたくさんいた。そしていつしかいなくなった。無駄だと分かったのかもしれない。
結果、私は暇になった。相手をしてくれる人間がいなくなってしまったから。
その時、私は初めて気づいた。
私にはやるべきことがなにも無かったのだ。
他の生き物を観察したかぎり、彼らの生活は単純だ。食べて、繁殖して、死ぬ。
私にはそのいずれも無い。
そのことに気づいて以来、私は人間を待ち遠しく思うようになった。人間はこの世界で唯一、私に会いに来てくれる隣人のようなものだったのだ。
だが全ては遅かった。私は何よりも愛すべき人間を、あまりにたくさん殺してしまっていた。
私に会いに来てくれる人間はいなくなった。その代わりか、稀にいくらかのお供え物が捧げられるようになった。誰かが置いているはずだと思うのだが、私はそれに気づけたことがない。どうやら私はかなり鈍いらしい。
もっとも、私の元を訪れる人間がいなくなったわけではない。問題は彼らの大半が頭の変な人間ということだ。無謀にも襲いかかっては勝手に逃げ出したり、世界を滅ぼしたまえだのと身勝手な要求をしたり。これなら来ないほうがよっぽどマシだ。
だから――まともな人間が私の元を訪れたのは、本当に久し振りのことだった。
「――
『誰だ?』
「……あぁ、そうか、古代語ですか。それもそうだ」
彼は、私のすぐ目の前にいた。
人間の男性。背は高いが線は細い。白に近い銀髪、理知の色を感じさせる碧眼。片眼鏡をかけ、赤茶けたローブの上から黒い肩掛けを羽織る。そして背中には大量の荷物を背負っていた。
学者肌、という奴だろう。私はあまり見たことがないタイプの人間だ。
「すいません、もう一度。――始祖竜よ、我が名は、」
『普通に話せぬのか』
私が言うと、彼の肩掛けがずるりと滑った。
しばらくむっつりと考えこんだあと、彼は私をじっと見上げて言う。
「……ええと、それでは、普通に。初めまして、始祖竜よ。私はエーリアス・ルスト。最寄りの村に住むしがない魔術師です。…今日は、私が個人的にうかがいたいことがあり、あなたの元にやってきたのです。……本当にこの調子で良いのですか?」
『うん』
私はゆっくりと首を振りながら、ひそかに感動を覚えていた――ちゃんと会話が成立するなんて! こんなことになるのは今日が初めてだった。
『始祖竜、とはなんだ?』
「あなたの呼び名です。私ども人間は古代、あなたをそう名付けました。より相応しい名前があると仰せられるのでしたら、私はそのようにお呼びしますが」
男――エーリアスも少し興奮気味にそう話す。顔が上気しているようにも見える。
彼の言葉に、私は正直なところ、困った。私の名前など考えたことがない。なにせ名前を呼ぶ人が誰もいないからだ。
『否、良い』
すぐに思いつくわけもなく、私は首を振った。そんなことよりも私は彼と話がしたかった。
『エーリアス。そなたの問いとは?』
「……あなたはなにものなのか、
然るに、とエーリアスは静かに……しかし熱っぽい口調で言葉を続ける。
「かくなる上は、いかなる禁忌に触れてでもあなたに謁見したい――その一心で、私はこの山々に臨みました。……傲慢な人間の考えることだと、笑わば笑っていただきたい。それでもどうか願わくば、私は答えを求めたい。あなたは一体なにものなのか……そして、いかなる理由でこの世界に君臨し続けているのか?」
エーリアスは顔を紅く染め、声を上擦らせながらまくし立てる。
その熱気に圧倒され、私はいよいよ困り果てた。
私がなにものなのか。私はどうしてここにいるのか。どうしてこの世界に生き続けているのか。
どれも私が知る由もない。知っているわけもない。そんなこと私が聞きたい、と言いたいくらいだった。
だが、もしそんなことを言ったら彼はどう思うか。
きっと死ぬほどがっかりするだろう。人間の短い生を賭けた一世一代の問い。それを無碍にしたとなれば、本当にショック死してしまうかもしれない。
するとどうなるか。私はまた一人ぼっちに逆戻りだ。どれだけ続くかも分からない時間の流れに身を投げることになる。
だが、いい加減なことを言うわけにもいかない。私はいよいよ考えあぐね、今ひねり出せる中で最上の答えを絞り出した。
『私は、私だ』
「……な……?」
『私はこの姿でこの世に産み落とされた。かつても、今も、そして未来も。私はただ私のままであり続けるだろう。世界ある限り、私もまたこの世界にある』
自分でも苦しい答えだった。
ありのままを答えたといえば聞こえはいいが、もっともらしい言葉で煙に巻いているだけとも言える。
エーリアスはその場で黙りこくり、口元に手を当てながらじっと考えこんでいる。
いつもは無為に過ぎていく時間。それがこんなにも待ち遠しく思えることは今までに一度もなかった。
「それは……つまり、あなたは、永劫不変のものであると」
『そうだ。おそらくは』
「この世界の一部。いわば自然のようなもの……」
エーリアスはうつむいたままぶつぶつとつぶやき、そして不意に顔を上げる。
「私たち人間は、あなたの望みに従って供物を捧げているのだと考えていた。……ですが、あなたが何かを望んでいるわけではない、ということなのでしょうか」
『……望み』
少なくともあのお供え物はいらない。私には飲食物も、家畜も、金銀財宝も、全て無用の長物でしかない。
でも、望むことはあった。
『人間』
「それは……生きた供物を、と?」
『否』
一瞬エーリアスの表情がひきつる。その顔に、どうしてか私は少なからず傷ついた。
私に人間を貪り食うような趣味はない。実際、人間を食べたことなんて一度もない。
『人間としての一生を生きることだ』
おそらく、それが。それこそが、私の一番の望みだ。
細々とした望みは結局のところ、その一点に集約される。
エーリアスは驚愕に目を見開く。膝から崩折れるように跪き、声もなく頭を垂れた。
「……感謝いたします、始祖竜よ。蒙を啓かれた心地です。私の追い求めてきたものなど瑣末なもの。私は私のあるがままに、なすべき役目を全うすることに邁進する所存です」
な、なにか知らないけれど感謝されている。
私の困惑をよそにエーリアスは何度も頭を下げ、慇懃なほど丁寧に礼を述べ、そして踵を返そうとする。答えは得たというように。
――――待って、と思った。
これでは結局のところ同じじゃないか。
彼をがっかりさせずに済んだのは良いが、私がひとりぼっちになるのには変わりがない。
私は彼を引き止める声をかけようとして――そして、気づいた。
火に焼かれたように真っ赤なエーリアスの顔。滝のような汗で肌は濡れ、足元からはもうもうと黒い煙が上がっている。
私は気づかなかった。今の今まで気づけなかった。
この場所は、この山は――人間の身では、留まるだけでも過酷な土地だったのだ。
「……さらばです。始祖竜よ」
エーリアスは別れの言葉を残して山を降りていく。
エーリアス・ルスト。彼の名は私の記憶に深く刻みこまれた。
私に一時の慰みを与えてくれた人間。
そして、より深い絶望を齎した人間。
◆
時が瞬く間に過ぎていく。
まるで微睡むような感覚。どれだけの時間が経ったかも分からない。
山頂から飛び立つことも一度は考えたが、やめた。私の羽ばたきはそれだけで大変な災害を引き起こし、周囲を巻き添えにしてしまう。
私が着陸できる土地だってどこにもない。
エーリアス・ルスト。彼は最寄りの村に住んでいると言っていた。彼のことを思うなら、なおさらここを動くわけにはいかなかった。
苦しむほどのことではない。全てが元通りになっただけ。
そう考えられればどれだけ楽だったろう。私にはできなかった。だから私は考えることを止めた。目をつむり、意識を閉ざし、世界との繋がりを絶った。
――――そのはずだったのに。
「ちょいと、邪魔をするよ。始祖竜さま」
人間の女性の声が聞こえた。
敬意など欠片ほども感じない軽薄な声。
私をここから解放できる人間なんていやしない。
そう思いながらも、私は一時の慰みのために瞼を上げる。
それは人間になぞらえるなら、砂漠のど真ん中で一滴の水を求めるにも似ていた。
どうせ無駄なのにと知りながら、それでも求めずにはいられない。
「なんだ、気乗りしない顔だね。せっかくいい報せを持ってきてあげたっていうのに」
私の目の前に立つ若い女性。あえて一言で表現するならば、彼女は、魔女だった。
黒い三角帽子に黒いローブ。長すぎる黒髪は目元までも覆い、その表情はほぼうかがえない。口元だけが笑みを浮かべるように三日月の形を描いている。
『そなたは、何者だ』
「何者? ――そうだね、"魔女"とでも呼んでおくんな」
彼女の名乗りは奇しくも私の印象と同じ。
黒き魔女は灼熱の渦中にありながら汗の一雫も垂らさない。
『ならば、魔女よ。そなたは何用でここまでやってきた?』
「言ったろう、始祖竜さま。私はいい報せを持ってきたのさ」
魔女は不敵に笑って帽子の丸鍔をかたむける。
狂人のたぐいかとも思うが、そのわりに口調などは明瞭だ。
私が疑問の声を上げるまでもなく、魔女は口元をにやりと歪めて言った。
「あなたの願いを、叶えてあげる」
『……嘘』
「ふふ、地が出たね?」
私は思わず低いうめき声を漏らす。
私の願い。その存在を果たしてどれだけの人間が知っているのか。そもそも彼女は、私の願いが何かを知っているというのか。
「嘘だと思うなら、ずばり当ててあげよう。あなたの願いは人間になること。人間として生きること。……違うかい?」
続いた言葉に、私はぐうの音も出なかった。
それを知っているのはあの人間――エーリアス・ルストだけのはず。となると、彼が広めたのだろうか。
「おっと、誤解しないでおくれ。彼はあなたの秘密を言いふらすような人間じゃない。私はあなたの願いを読み取っただけさ」
『なれば、そなたはなぜここに?』
私の頭の中を読んでいるのか。自ら魔女を名乗るだけのことはある。
しかし、わざわざこの場所を訪れたのにはまた別の理由があるはずだ。
「細かいことを気にするね。……そうだね、強いて言うなら、彼があなたの願いを知ったからさ。それが引き金になった。彼自身が言いふらしたわけではないが、彼がそれを知ることによって、私もあなたの願いを知ることができた。わかるかい?」
『……全く』
「正直でいい。けど、魔法というのはそういうものなんだ」
『そういう、ものか』
不条理で謎めいたもの。決して理解が届かないもの。――――魔法。
それを操るというのなら、やはり、彼女は正しく魔女なのだろう。
「……おっと、そんなことはどうだっていいんだ。話は単純だよ。私が何者かはわかったろう?」
『うん』
「ならばもう一度、私は問おう。あなたの願いを、叶えたくはないか?」
――――人間になりたくはないか?
『うん』
まさに核心を突く問いに、私は是非もなく頷いていた。
◆
「願いを叶えるにはね。誓約を守らないといけないんだ」
『誓約?』
「そう。願いを叶える代償のようなもの。守るべき秘密。決して触れられてはならない禁忌」
魔女は黒檀の杖を空高くかかげ、底冷えのする声で告げる。
それは私の巨躯をもってしても心胆を寒からしめるような声。
「誓約が破られた時、あなたにかけられた魔法は解ける。そして、二度とあなたの願いが叶うことはない」
『かけなおすことも、できない?』
「そう。あなたの願いを叶えるためには、それだけ重大な誓約が必要。それほどにあなたは圧倒的な存在なのだから」
なら、どうして私の願いなんか叶えてくれるのだろう。彼女には何の見返りもないだろうに。
『そなたは、何を求める?』
「笑顔」
『……なに?』
「誰かの幸せな笑顔だよ。私はとびっきりの幸せな結末が見たいのさ。だから私はいかにも不幸そうな顔をしたあなたの元にやってきた。わかるかい?」
『解せない』
「正直でいいね」
魔女はくつくつと喉を鳴らして笑い、「ただの趣味さ」と端的に言った。
とても胡散臭い。
まるで煙に巻かれたような気分だった。
『否、良い。それで誓約とは?』
「そうだ。その説明が要るね」
魔女はこほんと咳払い。髪の下から覗く黒い瞳が、私を真っ向から見つめる。
「私の魔法でも、あなたを完璧な人間にすることはできない。人間になるのは見た目だけだ。ほとんどの力は今のまま、死ぬことは決して無いし、いつでも今の姿に戻ることができる」
『かりそめの、人間の姿』
「そう。そして、次が重要なところだ。絶対にこの誓約を破っちゃいけない――『あなたが人間でいようとする限り、決して竜の姿を見られてはならない』」
魔女は重々しい声色で告げる。
――正直、私はその誓約に拍子抜けした。竜の姿になんて頼まれても戻らないだろう。人間の姿のまま力を使えるならなおさらだ。わざわざ戻ろうとする理由が全くない。
『それだけか』
「そう。それ以外なら……たとえば、あなたが始祖竜だってことを明かしてもいい。でも、絶対に姿を見られてはいけない。誰にもだよ」
『今までに私の姿を見たものは?』
「それは例外。人間の姿を手に入れてからのことさ。……良いね。絶対に破るんじゃあないよ?」
魔女の念押しに私はゆっくりと首を振る。
『ここに誓う。私が人間でいようとする限り、決して真の姿を見せはするまい』
「……よし。なら、話は決まりだ」
魔女は静かに頷き、かかげた杖先を私に突きつける。
黒檀の杖はまるで太陽のような光を発し、私の眼前をまばゆく照らしだした。
「始祖竜よ! 男の子か女の子、なるならどっちがいい!?」
『えっ』
そんな大事なことは先に聞いておいてほしい!
私はオスなのか、メスなのか。判断材料は何ひとつ存在しなかった――私はどちらとも扱われたことがないのだから。
『――わからない!』
「じゃあ女の子だね! 女の子にするよ! いいんだね!?」
『とにかく人間ならそれで良い!!』
魔女の剣幕に圧倒され、私は勢いのままに咆哮した。
光が視界を真っ白に染め上げる。ふわふわと優しくて柔らかな何かが私の皮膚を包みこむ。
一瞬、全てが無感覚になったあと、私は前のめりに倒れていた。
岩の裂け目から吹き上がる蒸気が皮膚に触れ、私は思わず飛び起きる。
「なっ……あ、わ……!?」
「よしよし。成功したようだね」
私は慣れない感覚に困惑する――こんなにも身体が軽いなんて!
自分の身体のような気がしない。けれど、これこそ今の私の身体なのだ。
私は二本足で立ち、足元を確かめるようにぐるぐると歩き回る。一歩の幅がとても狭い。伸ばした腕もすぐ近くにしか届かない。代わりに、近くの岩場を崩してしまうようなこともない。
「……これが、人間の体……?」
「そう。ついでに
言語。そうか。確かに私の言葉は彼のものとは違っていた覚えがある。
魔女は低く喉を鳴らして笑い、黒檀の杖をひゅんと一振りした。
私の目の前に光を反射する力場が浮かび上がる。私はそこに映りこんだ自分の姿をじっと見た。
背丈は魔女より少し低い。肉体年齢が低いのだろう。顔付きも少し子どもっぽいように思える。
髪色は透き通るような
そして何より慣れないのは、いつの間にか着させられていた服だった。魔女が着けているのと同じような黒ローブ。白くてやわな肌に触れる布の感触がわずらわしい。人間は気にならないのだろうか。
足にも同じく、魔女が履いているのと似たような皮靴を履かされていた。
「これは……?」
「事のついでというやつだよ。人里っていうのは何かと入用だからね。私の餞別だと思っておきな」
「……歩きづらい」
「慣れさ、慣れ。きちんと地で脚を踏む感覚も悪くないだろう?」
魔女の口元が鮮やかな三日月形の弧を描く。
私はしばらく体の感覚を慣らすために動き回り、
「……うん」
と、大いに納得した。
今すぐにでも山を降りたい気持ちになる。そして人間になるきっかけをくれた彼に会いに行くのだ。
いや、竜がいきなり人間になって現れたら迷惑がるだろうか。いずれにせよ会ってお礼を言いたい。それくらいならきっと許してくれるだろう。
「……今すぐ出発したいって顔をしてるね」
「ダメ?」
「ダメじゃないさ。でも、ひとつ大切なものを忘れてるよ」
大切なもの。
……というと、なんだろう。
取りあえず着るものはある。力が健在なら飲食物はいらないだろう。道は分からないが、空を飛んで上から見ればきっと分かるはず。
少なくとも彼の名前は知っているのだ。エーリアス・ルスト。この名を手がかりに旅をするのも悪くないように思う。
「名前だよ、名前。まさか人間になってまで『
「……あ」
そうだ。すっかり忘れていた。
そもそも、『名前は大切なもの』という意識が完全に抜け落ちていた。誰かに呼びかけることも、呼びかけられることも無かったのだから。
「私としても、始祖竜さま、なんて呼ぶのはそろそろ御免だね。なにか案は無いのかい?」
「……そう言われても……」
突然のことばかりで困り果てる。名付けの経験なんて今までに一度もない。
旅の道すがら考えようかと思ったが、なぜか思いつかない気がしてならなかった。
「魔女。あなたの名前は?」
「そこ、こだわるね。さっきも言ったろう? 私は"魔女"さ。幸せな笑顔と幸せな結末を糧にする、そう、強いて言うならば――"物語の魔女"ってところかい」
魔女はくつくつと喉を鳴らして笑う。煙に巻かれてしまうような感じ。
思えば、彼女が私を人間の姿にしてくれたのだ。それなら、彼女が私の産みの親といって差し支えない気もする。
「なら、魔女。あなたが私に名前をつけて」
「……そう来たかい。いや、来るかと思ったけどね」
魔女は困ったような素振りをしながら愉しげに口端を吊り上げる。
彼女はふんふんと鼻を鳴らし、懐から取り出した紙にペンを走らせ――そして、私に羊皮紙を突きつけた。
「アーシェ。今この時からあなたは始祖竜じゃない、人間のアーシェだ。これからはそう名乗ると良い」
「……アーシェ」
人間の女性らしい名前かはわからない。しかし違和感のようなものはなかった――むしろしっくり来るようにすら思えた。
「……なにか、名前に意味は、あるの?」
「『灰』さ。破壊と再生、永劫に続く始祖竜という存在の象徴。あなたが竜であることを止めて人間になるには、一度あなた自身が灰となるしかない。……そんなところかな」
物凄くもっともらしく語る魔女。
微妙に不吉だと思ったが、それはそれで私らしいかもしれない。人間の姿をしていようと、完璧な人間にはなれないのだから。
「……うん、ありがたく頂戴する。……アーシェ。私は、アーシェだ」
私は自ら確かめるように呟く。
うんうん、と魔女は満足気に頷いた。
「それでいい。それじゃ、私はここまでだ。私は、あなたの願いを叶えに来たんだからね」
役目を果たした後はただ去るのみ。
そう言わんばかりに魔女の影が少しずつ薄れていく。まるで風の中に掻き消える砂塵のように。全てが夢まぼろしであったかのように。
「もう、行くの?」
――どこへかは分からないけれど。
私は魔女に手を伸ばす。
まるでかすみにでも触れたような感触。
それでも魔女は私の手をそっと握り返した。信じられないくらい冷たい感触。しかし確かな存在感が伝わってくる。
――――触れるもの全てを壊した私の手。そうならなかったのは、これが初めてのこと。
もう、そんな心配をする必要は無くなったのだ。
「あぁ。――最後にもう一度言っておくけど、竜の姿を見せたら二度と人間には戻れないよ。肝に銘じておくんだね」
「わかってる。私の『誓約』。絶対に忘れない」
「…………それでいい」
魔女はふっと口元を歪めて微笑み、そして消えた。
◆
もう、この地に留まる理由はない。
私は心の中で魔女に礼を言い、まずは山を降りることにした。
山の地形は薄ぼんやりと覚えていた。随分前、気晴らしに山の周りをぐるぐる飛び回ったことがあったのだ。
私が飛び回るだけで大変な騒ぎになる、というのもその時に得た教訓だ。私みたいなデカブツが飛んだら目立ってしょうがないので、それ以来飛ぶことはなかったように思う。
――――今なら別にいいかな……?
でも、よく考えたら今の私は人間だ。とてもちいさい。空高くを飛んでたって鳥と見分けはつかないだろう。ならば構うことはない。
私は空を飛ぶことを意識する。翼があった時と同じように。
すると私の身体は天蓋の高みまで浮かび上がり、空を滑るように飛び始めた。
すぃー、と空を飛びながら目を凝らし、地上を見下ろす。
その時、私は初めて気づいた。
私の住処だった山の周りには、同じような標高の峰がいくつも連なっていた。
峻険な山岳と深い谷底、あちこちで無秩序に生い茂る森林――その他、明らかに人間の手が及んでいない未踏破地域。私の住処は、秘境の最奥とでも言うべき場所に存在していたのだ。
最寄りの村、なんて簡単に言える範囲内には、人里は見当たりそうにない。
――――彼はどうやってこんなところまで来たのだろう?
まさか私のように飛んできたわけでもないだろう。でなければあんなにたくさんの荷物は必要ない。普通に考えたら、何十日とかけて険しい道のりを進んできたことになる。
――――帰り道で倒れてたりしないかな。
少し不安。魔女の語ったことを振り返るに、おそらくその心配は無いだろうけど。
頬に触れる風、空気の冷たさ、太陽の暖かさ。全ての感覚を新鮮に思いながら、私は何日か飛び続ける。疲れたらどこかで降りるつもりだったが、肝心の疲れはどこかに行ってしまった。
道中、飛んでいる方向から真っ黒な分厚い雲が押し寄せてくる。
私はそれをいぶかしく思った――風に流されてきたという感じではない。まるで爆心地から同心円上に広がってきたような感じ。
私が雲の群れを払うように手を振ると、そいつらは初めから無かったように消え去った。
ますます奇妙な感じだった。雲を触ったら濡れるはずなのにそれも無い。
ひょっとしたらこれも魔法の産物なのかもしれない――魔女が私を人間にしたり、私が空を飛んだりするのと同じような力。
ますます分厚くなる雲を払いのけながらどんどん前に進む。
土砂降りの雨の中を突っ切り、吹きすさぶ強風を振り切り、ただ前へ。
これが人間の手によるものなら不可解の一言。だが、それはこの方向に人間がいるという目印にもなるはずだった。
◆
果たして、私の予想は的中していた。
細く入り組んだ山道から続いているのは人間たちの集落と思しきもの。広大な田園風景に山型の屋根がいくつも軒を連ね、曇り空が村全体に影を落としている。
私は濡れた髪を掻き上げながら地上を見下ろし、思わずぽつりとつぶやく。
「……これはひどい」
川や水路は大雨で氾濫し、強風で倒壊している建物もいくつかある。
どうして私が来た時に限ってこんなことになっているのか――来たのはこれが初めてだけれど。
――私はその場ですうっと息を吸い、咆吼の風圧を周囲に有りったけぶちまけた。
人間の可聴域を超えた音の波が過ぎたあと、先ほどまであった暗雲はすでに無い。
かすかな白い雲の切れ間から陽が覗き、地上を照らし始める。
「……ぐしょ濡れだ」
服を乾かしたい、と切に思いながら地上に降りる。力の使い過ぎで少し疲れたような気もする。
村のすぐ近くを流れる川は今も溢れていたが、たぶん何日かすれば元通りになるだろう。
私は気の赴くままにふらふらと村中を見て回る。村人たちは屋内に避難しているのか、人影は全くと言っていいほど見当たらなかった。
私が気がかりなのは田畑だった。ぐるっと見て回れば案の定、農作物と土が水害でほとんど死にかけてしまっている。
――――うまく行くかな。
どうせだめで元々だ。私は瀕死の田畑に手をかざし、自身の生命力を供与するよう意識する。
瞬間、麦穂の萎びた茎がにわかにピンと伸びる。まるで時間が巻き戻るよう。その光景が全ての田園で繰り広げられる。
どうせ使い切れもしない生命力。昔に何百人もの人間を殺したんだから、今度は助けるために使ったって良いはずだ。私の勝手な言い草だけれどバランスは取れている。
――その時、私はふと視線を感じた。
振り返ると、そこには村の中でも一、二を争うほど大きい建物があった。そこの窓から、何人かの村人たちが私を覗き見て叫ぶ。
「おい、あんた、こんな嵐の中で何やってんだ!」
声は少しくぐもっていたが、多分そう言ったのだと思う。
「雨なら、止みましたよ」
生命力を分け与える作業は終わったのでそう言うと、彼らは呆気に取られたように口をぽかんと開けた。
次の瞬間、屋内からどたばたと騒がしい音が聞こえる――叫び声にも似た歓声が響きわたる――村人たちが入り口から溢れ出るように殺到する。
「おおおぉぉ……!!」
「は、晴れだ! 陽が出てるぞっ!!」
「皆出てこい、もう大丈夫だ! 俺たち助かったんだ!!」
「皆にも伝えてこなきゃ……!」
老若男女の別なく歓喜を謳う村人たち。あるものは天を仰ぎ、あるものは遥か北方に向け、あるものは瞑目して祈るように唱える――――「始祖竜の御慈悲に感謝を」と。
私は一瞬ドキリとする――まさかばれたの? もう?
そう思ったが、違った。彼らの中で私を見ているものは一人もいなかった。彼らは私そのものではなく、想像上の始祖竜に祈りを捧げていた。
私はほっと一息つく。ばれても誓約を破ることにはならないが、せっかく人間になったのに人間として扱ってもらえないのは癪だから。
「……どうしてかしら。作物が傷んでない……?」
「本当だな、他の畑はどうだ?」
「こっちもだ、何ともないぞ!」
「これも始祖竜様のお恵みかしらね……」
知らないよ。私は一向に知らないよ。
私はそっぽを向き、さっきまで村人が立てこもっていた建物を観察する。
白い石壁を基調とした立派な建物。山型の屋根は血のように赤く、正面入口には赤い竜を象った紋章が刻まれている。
これは私なのだろうか。少し不思議な気持ちになる。
そういえば、彼が〈ドラゴン教団〉とか言ってたような気もする。つまりこれは私を崇める教会なのか。……そう思うとますます変な感じだった。
「なあ、そこのあんた」
――その時だった。
私の後ろから声がして、振り返る。
そこにいたのは村人の一人。多分三十代くらいの男性だ。
「私?」
「ああそうだ。ありがとうな、あのまま晴れたのにも気づかないところだったよ」
「……もう、何日降り続いてたの?」
「十日ほど前からだな。始祖竜様の姿が見えなくなってから……しかも、ずっとあんな雨脚でな」
私が、いなくなってから?
……そうか。私があの山を離れれば、いつもあそこにいた始祖竜は影も形もなくなる。当たり前の話なのだが、私はそのことに気が回っていなかった。
そして、もしかすればだが――さっきの嵐は、私が山から離れたせいで起こったのだろうか。
「それは、わ……始祖竜様がいなくなって、すぐ?」
「いや、いなくなったと司教様がお教えくださったのが一ヶ月ほど前のことだ。その少し後ってところか……」
そんなに日が経っていたのかと思う。私の時間感覚は相変わらずどうにも鈍いらしい。
すぐではない、となると、断定はできないだろう。私が離れたせいかもしれないし、特に関係はないかもしれない。少なくとも、今は何事も起こってはいない。
「それより、あんたもびしょ濡れじゃないか。良かったら中で火に当たっていくといい――」
と、村人さんが言いかけたその時。
バタン、と教会の扉が勢い良く開かれる。白いローブを身にまとう三人の男たちが中から現れ、迷いのない足取りでこちらに歩いてくる。
彼らの肩には教会の入口に刻まれたものと同じ、竜の紋章があしらわれていた。
「アルゴ。そちらの方は何者ですかな?」
「し、司教様。それは、今うかがおうとしたところで……」
三人のうち、真っ先に声を発したのは先頭を行く老年の男性。綺麗に剃り上げられた頭は聖職者の証だろう。
司教と呼ばれた彼は厳しい表情をして、にわかにすぅっと目を細める。
「左様で。では、あなたは?」
「……私は、アーシェです。旅の魔術師をしてます」
なんと言ったものか。私は一瞬考えあぐね、苦しまぎれにそう答える。
魔法っぽい力は使えるから嘘じゃない。決して嘘は言ってない。
「その若さで……魔術師、ですか。はて、どちらからいらっしゃられたので?」
「……山のほうから」
他に答えようもないので北のほうを指差しながら即答する。
私はいたって真剣だ。が、司教さんはそう思ってくれなかったようだ。
板挟みになった村人さんは目に見えてあたふたし始める。非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「……実に怪しげですね、ヨハネ司教。これは次なる異変の兆しでは?」
「嵐が止んだとはいえ、始祖竜様の怒りが収まったとも限りません。ここは万全を期すべきかと……」
両隣にいる白ローブの男たちが司教さんに進言する。
怒ってないよ、ぜんぜん怒ってないよ。
……などと言っても聞く耳を持ってはくれないだろう。私は始祖竜にはちっとも見えない。見えても困る。
司教さんはこほんと咳払いし、私をじっと見下ろして言った。
「アーシェ殿よ。あなたがいずこから参られたかは存じませんがな、我々の世界は今や存亡の危機に瀕しているのです。始祖竜様の御姿が最果ての山脈にお見えになられず、挙句の果てには先の災厄です。このような状況下であなたのように怪しげなものが、この聖地を訪れようとは……更なる始祖竜様の怒りを買わぬとも知れません。お分かりですかな?」
始祖竜は私だから違います。
――と言いたいところだが、絶対に信じてもらえないだろう。状況が悪化するのは目に見えている。かといって姿を見せるわけにはいかない。私には守るべき『誓約』があるのだから。
「……つまり、私はどうすればいいんです?」
「あなたの潔白が明らかになるまで拘束させていただきましょう。かの山から来たなどという明らかな虚言、それだけでも罪に値しますが……他にどのような罪を犯しているとも知れませんからな」
「私は、嘘なんかついてないです」
「黙れ、司教様に向かって不敬だぞ! かの山に出入りするものは教団によって厳重に管理されているのだ! アーシェなどという名のものを通した記録は残されていない!!」
司教の隣にいる男は唾を飛ばして断言する。
――そりゃあ確かに記録は無いだろうけど。山を出たのもこれが初めてだし。
「手を後ろに回しなさい」
そんなことを考えているうちに司教さんの命令が飛ぶ。
本当にどうしたものか。無理やり逃げちゃおうか。それだけなら人間の姿のままでも全く問題無いだろうし――――
「お待ちください、ヨハネ司教」
その時、私の後ろから若い男性の声がした。彼は「この場は私が預かりましょう」と声をかけ、堂々と私の前に立つ。黒いローブに覆われた背中がとても大きく見えた。
村人さんは彼に礼を言ってその場から立ち去る――彼は年齢の割に信頼されているらしい。
「……なにかね、魔術師殿。貴殿に我々の邪魔をする権限は無いはずだが?」
「その通りです。が、彼女はこの村に立ち寄ったというだけの旅の者でしょう。それだけで身柄を拘束するというのはいかにも根拠が薄弱ではありませんか?」
司教さんはいぶかしむように眉根を寄せる。魔術師殿、と呼ばれた若い男性はあくまでも落ち着いた抑揚で話す。
「我々のやり方に文句をつけるのか! 貴殿こそ、いかなる根拠があって司教様に楯突くか? 不敬であろう!!」
「今は少しでも人手が必要な時でしょう。お言葉ですが、拘束だの監視だのして何になるのです。奇跡的に作物への被害は軽微だったようですが、修理しなければならない建物はいくつもあるのです。あるかも分からない神の怒りを過剰に恐れていては、村人たちが脅えるばかりです。私達としてはむしろ、彼らに安心してもらうための言葉をかけるべきでは?」
隣の聖職者さんたちが食って掛かるも、彼はむしろ落ち着きを深めるように淡々と言葉を続ける。
「あ、あるかもわからない、だと!? よ、よもや始祖竜様を疑って――――」
「そんなわけが無いでしょう。私はあの山に登ったんですから」
彼は淡々と言って、そして私は気づいた。
もしかしてこの人は。いや、この人こそ――――
「落ち着きなさい、ニコラス」
「で、ですが……」
「良いのです。……では、魔術師殿。代わって彼女を見張って下さるというのですかな。いささか不審な点があるというのは否めないのでは?」
司教さんがそう言うのに、彼は頷いて私のほうを振り返る。ちょっと膝をかがめて、私と目線の高さを合わせる。
忘れもしない碧色の双眸。
「あなたは……ええと、申し訳ありません。名前はなんと?」
「……アーシェ、です。しがない、旅の魔術師、です」
彼の顔をじっと見ながらつっかえつっかえに言う。
やっぱり間違いなかった。彼は、彼こそは――
「アーシェさん、ですね。私はエーリアス・ルスト。この村で医者の真似事をやっている魔術師です。よろしければですが、しばらくの間、私と一緒にいて頂けませんか。警戒を解くのにも少し時間が必要なようですから」
エーリアス・ルスト。私の元を訪れて、初めて話しかけてくれた人間。
私がここにいる切っ掛けを与えてくれた人間。
「……うん。なんでしたら、皆さまのお手伝いでもしましょうか」
「旅の方を働かせるというのもいかがなものですが……いや、そうして下さるというのならばありがたい。私からもよろしくお願いいたします、アーシェさん」
エーリアスはそういって掌を差し出す。
私のそれよりもずっと大きな掌。私がその手を握り返せば、見た目よりずっと力強くごつごつとした感触が掌に伝わった。
「――というわけで、彼女は私の観察下に入るということで問題はありませんか、ヨハネ司教」
「……結構です。ですが、もし事が起きたときには貴殿が責任を問われること、重々ご承知おきなされ。後から知らぬ存ぜぬ、では通りませんからな」
「もちろん。心得ております」
眼鏡を指先でくいっと持ち上げて頷くエーリアス。
司教さんは深いため息をつき、「参りましょう」と聖職者たちを連れ立って教会の中へ戻る。
ニコラスと呼ばれた男性は忌々しげにエーリアスを一瞥し、一拍遅れて司教さんの後に付いて行った。
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