第四話 勇気の森


「見えた!」

 彼らの目前に現れたのは、小さな島だった。

 灰色の世界に差した一本の川。それが環状に広がり細い堀になっている。

 その堀に囲まれた、小島。

「これは……」

 島は、正に異色だった。

 モノクロに変わった想区。しかし、そこにはどうしても相容れない、緑色の大地。

 そこはさながら、砂漠の中のオアシス。

 そこだけは別世界だと疑う。そこだけ見えない結界で覆われているんだろうか。時間が止まり、あるいはついさっき生まれた空間で、誰も寄せ付けない聖域だと錯覚させるように。

 その空間は存在していた。

「あれ、エーデルじゃないか?」

 空間の中心に横たわる影。それは紛れもないエーデル、彼女自身。

 しかし、そこに先ほどまで溌剌はつらつとしていた彼女の色はない。

憔悴しょうすいしてる……!?」

 レイナは誰よりも速く駆け出した。

 外堀の水たまりは浅く、レイナの膝程度の水深だ。彼女は水をかき分けエーデルの下へ走る。

「エーデル……大丈夫?」

「う……ん……レイナ、なの?」

 エーデルの息は浅い。服は水が染み込み、彼女を支えるレイナの腕にこれまで以上の重みが加わる。

「すごい熱……」

 か細い腕の肌に触れる手が熱い。レイナの脳裏に、今日一日の体験が横切る。これは明らかに川に流されて受けただけの疲労ではない。たくさんの――今までの疲れが積り、積み重なり、積り果て、瓦解がかいした。その結果が目の前の惨状さんじょうなのだ。

 疲れが見えた時点で彼女を落ち着けていたら……。

 エーデルを守ると宣言したレイナに、強い後悔が。

「とにかく応急処置だ! シェイン、任せる」

「了解です」

「坊主。俺たちは周りの警備だ」

「そうだね。ちょっと厳しいかもしれないけど、頑張ろう」

 すると、三度影は島を囲むように現れる。

 その数は、今までの比にならない。

「ファミリーは、このタオ様が守ってやる!」

 『導きの栞』の光を受けると、彼は鬨の声を掲げ大槌を振りかざす。それに続くようにして藍髪らんはつの少年も英雄ヒーローに代わると、いよいよヴィランが襲いかかってくる。

「絶対に島には入れるなよ!」

「わかってるさ!」

 答える声は戦況に似合わずひどく可愛らしい。それにタオは苦笑いし、自分も『導きの栞』を挟む。

 エクスは俊敏な動きで堀の円周を駆け回る。ショートソードの控えめな振りはしかし、ひと振りで何体もの小型ヴィランを吹き飛ばす。痛みに喘ぐ声もなく、影は月夜に消える。勢いは衰えることを知らず、あっという間に敵を片付けていく。

 一方、大型のヴィランを相手するタオはいつにも増して豪勢に大槌を振るう。取り巻きを小虫を払うように軽く圧する。活路が開けた隙をつき、一気に突っ切る。メガ・ゴーレムの前に出ると、その大槌で無遠慮にアッパーを繰り出すと巨体は宙に舞い消え去る。

「さあ! 次はどいつだあ!」

 言いながら今度はアーチャーに変身する。矢は一見デタラメに飛ばされるが、その軌道の終着は例外なくヴィランの身体になっている。光の矢の軌跡は暗闇に美しく映える。

「うおっ」

 突然タオの目の前をメガ・シャドウの魔弾が掠める。

「へっ! 不意打ちは卑怯だぜ。こっちだ!」

 タオは戦線を離れるように走る。流れ弾がエーデルたちに及ばないための判断だ。一糸乱れぬ遠距離線が幕を開ける。

「あちゃー。タオ行っちゃったか」

 前線から離れたタオの穴を埋めるべく、エクスは更にスピードを上げる。彼に追いつけるヴィランはもはやいない。それでも追いかけてくるヴィランに対しては、それを振り払い、今度は正面からアプローチをかける。小型を殲滅せんめつすれば、役柄的にはあまり得意ではない大型との戦いになる。

 再び現れるメガ・ドラゴン、メガ・ハーピィ。ハーピィが一度腕を振れば竜巻が発生し、ドラゴンが呻けば爆炎を上げる。光に小柄な英雄ヒーローを見た彼はその猛攻に圧倒されるかと思われたが、それさえもろともせず突っ込んでいく。竜巻に飲み込まれそうになる腕を強引に逸らし、爆炎を飛び越えハーピィの背後を取る。一撃を加え怯ませると、今度はドラゴンと正面切っての攻防になる。先ほどのようにはいかない。剣を斜めに振り下ろし、空を切る。守る者の重さが彼を奮い立たせる。

「行くぞ!」

 一瞬のうちにドラゴンの胸元に飛び込むと刃は硬い皮膚を削る。軽い。この程度では巨躯きょくは怯まない。一撃の軽さは手数で補う。英雄ヒーローの本領を発揮し、無数の刃が黒龍を襲う。それを振り払うように龍は爪を立て、牙を剥く。

 鋭爪を寸前で躱し大牙を――いつの間にか変わっていた――大剣で受け止める。よく見れば先よりも、より華奢になった身体だが、見た目などお構いなしに軽々と大剣は彼の腕を踊る。

 大剣を突きつけ挑発する少年に、激昂するドラゴン。赤眼は確固とした殺意を宿している。厳かな口には炎を据えて、照準は確実に少年を捉えている。

 この至近距離で爆撃を放たれれば爆風だけで吹き飛ばされしまう。ここからは時間との戦いだ。

 非力に見えるその足で大地を蹴ると、二回戦が始まる。どうやらこの間にハーピィも戦線復帰したらしい。望むところだ。

 二体に挟まれた彼は、逃げ場を求めるためにドラゴンの背後に出る。ドラゴンはそれをいびつな尻尾で太刀打ちする。一撃が勝敗を左右する中で、けれども少年は流れるように攻撃を繰り出す。背中と剛翼ごうよくに一撃ずつ喰らわせると、たまらず龍は体ごと後ろを向く。それを先読みし、背中を踏み台にエクスは再び背後を取る。しかし、行動を読んでいたのはエクスだけではない。先ほどまで黙っていたハーピィが羽を折りたたみ、少年の着地点目掛けて飛び降りるように突撃する。

 エクスは着地すると同時に横方向に体を捻らせ攻撃を避ける。炭に足が突き刺さると、ハーピィは数秒の間動きが麻痺する。ちょうど敵の背後に立ち上がった彼は勢いよく大剣をハーピィの横腹にめり込ませ、一体目を消し飛ばした。

 タイムリミットはあと数秒。

「こうなりゃ……!」

 再び突っ込んでいくエクス。それを追うように再度方向転換するドラゴン。その巨体故の鈍足が、勝敗を分けるのだった。

「吹き飛べえええええええ!!」

 雄叫びと同時にロングソードを狂った時計の針のように下から上に振り回す。

 ――一撃。それは屈強な体躯を刻む。

 ――追撃。それはドラゴンの体勢を大きく崩す。

 ――終劇。遠心力を存分に使った最後の攻撃は巨体を持ち上げ吹き飛ばした。

 黒煙が霧散し、少年はふーっと大きく息をついた。

 時を同じくして、タオの方も戦いも終わり、二人は合流した。


*


 ――二人の戦闘がちょうど終わったとき、島ではある異変が起こっていた。

 エーデルの体調は改善の様子を見せず、このままでは本当に想区が崩壊してしまう。

 そんなときだった。

「う……ウ……ググガ……」

「エー……デル?」

 仰向けになって手当を受けるエーデルが、突然苦しみ始めた。歯を食いしばりもがいている。

「エーデル! 大丈夫!?」

「グガガ……オ、オカア……」

 エーデルは固く閉ざしていた両目をうっすらと開いた。そこに映し出されたのは自分を仲間だと言った女性の姿。エーデルは彼女に今やどこかへ消えてしまった母の面影を見た。

「しっかりして! 私がついてるから」

 なるべく穏やかに、冷静に囁きかけるレイナだったが、その声はエーデルの中で微かなノイズ程度にしか響かなかった。

 彼女の容態は急激に悪くなる。

「ヴヴ……グアアア」

 今、彼女の心に『カオステラー』の悪夢が入り込もうとしている。それに対しエーデルは必死に抗おうと叫ぶ。

 『与えられた自らの運命に不意識に不満を抱えている者』。カオステラーはそれらに漬け込み、憑依し、を無理やり書き換えるのだ。

 ――エーデルの葛藤。

 それは語るに及ばないだろう。

 救いもなく、救われることもなく、ただ物語の終焉に向かって走り続けるだけの運命。

 彼女が森を再生するところまでが想区の物語であり、彼女の物語の最後なのだ。

 次の世代のために生涯を賭ける。

 次の住民たちのために。

 次の……。

 次?

 だったら、この私の運命はどうなる?

 それに、結局私が頑張ったところで、誰も助からないじゃないか!

「イヤ゙ダアアアア! グガアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 生まれながらにしての絶望。

 終わりから終わりにかけてのエピソード。

 さりとて終わることのないシナリオ。

 ――それをどうして生き続けられる?

 宵闇よいやみ穿うがつ甲高い叫び。

 彼女は今葛藤の淵にいる。

「レイナ! 今のは!?」

 戦線を制した二人が合流する。二人の姿はひどく汚れているが、たいした怪我はない。だが、それに安堵している暇はない。

「エーデルが、急に……」

「カオステラーか……」

 エーデルがカオステラーに漬け込まれたのに説明は要らない。この想区の運命そのものが彼女の負担になりストレスになり、絶望になっているのだ。

「エーデル! 私の声が聞こえない?」

「ダメです姉御! 離れてください」

 小さな身体を漆黒の影が覆うと、その姿かたちが徐々に歪んでいく。

 うめき声は彼らの心の奥底に鳴り響き、島の周りにヴィランを発生させていく。

 手遅れだった。

 彼女は既にカオステラーと化してしまった。

 容姿は――あの愛らしく優しい表情は変貌し、皺の刷り込まれた老人のような面相を表している。絶望と冷淡と冷血を堕ちた瞳にはかつての希望に煌めく光はない。透明な髪はこの大地のように濃く染まり逆立つ。さらには背丈も常人よりもはるかに高く、四人は彼女を見上げるように首を傾ける。

 カオステラーは不敵に笑い、『空白の書』の持ち主を見下す。

「フフフ。この想区を、終わらせてあげる」

 言うやいなや、彼女の手元には先ほどとは違う黒い魔道書が開かれる。おそらくそこにはもう仲間を回復するための呪文は記されていない。

「エー……」

「お嬢しっかりしろ! あれはもう今までのちびっこじゃねえ! ただのカオステラーだ」

「こいつを倒さないとエーデルは帰ってこない」

「少し心苦しいですが、やるしかないですよ」

「でも!」

 『導きの栞』を構え変身する三人だが、レイナだけは踏み出せない。その瞳にはじんわり涙が浮かぶ。それを見かねた少年がレイナに向き直り、肩をもつ。

「レイナ。これは君の戦いだよ」

 え、と掠れる声で聞き返すレイナ。彼女はこんなに弱い人じゃないはずだ。

「エーデルの悲しみを救ってあげられるのはレイナ、君だけなんだよ」

「私は……戦えない」

 愕然と肩を落としてしまう彼女だが、少年はそれを諦めさせない。

 語気を強めて迫る。

「君はエーデルを守るって言ったよね。今、エーデルは助けてくれる人を欲してる」

「姉御、さっきちびっこさんはあなたをお母さんだと言いました。多分、彼女の母親はもうこの世にはいません。だから、ちびっこさんを救えるのは姉御しかいないんです」

 エーデルは魔法の力でめちゃくちゃに火柱を立てる。

 ――それは、彼女があの日見た紅い景色なのだろうか。

 カオステラーを野放しにしておけばこの島の緑が燃え落ち、世界を元通りにできなくなる。それどころか、この想区そのものが消滅してしまう。

 その姿を見てレイナは葛藤する。

 初めから答えは出ている。答案を知っている。けれど、どうしても彼女の面影が映ってしまう。

 時間が刻一刻と過ぎていく。

 時間はない。

 悩む必要も、苦しむ必要も、苦しませる必要もない。

 どうせやらないといけないと分かっていても、『導きの栞』を空白のページに挟めない。

 思いあぐねている最中、思考の内に今まで歩いてきた道のりを思い出した。

 灰色の大地。燃え尽きた世界。闇の想区。

 俯いた時に見えた、暗闇の中でもよくわかる美しい草の青。

 あの間隙に映った荘厳な森。

 エーデル……あなたの愛した世界は、どんな世界だったの?

 こんな姿になってしまった悪夢の前に、どんな夢を見たの?

 私も……あなたが見た、そんな世界が見たい……!

「私が……」

 時間を無為にしてしまった。タオは何も言わず敵にぶつかりに行った。

 いつも私がリーダーだ。なんて言っているのに、こんなんじゃだめだ。

 私がリーダーなんだから、私が動かなくちゃ。

「私がエーデルを止める。だからみんな、任せていい?」

 答えは決まっていた。

「ガッテン、しょうちです」


*


 勇者の勇姿。

 それは

 ――例えば、ガラスの靴を履いた少女であり。

 ――それは、祖母と暮らす心優しい女の子であり。

 ――反して、大海原を行く冒険者であり。

 ――いつか、たくさんの人から信頼される自信家の騎士であり。

 ――あるいは、熱く、優しい心をもった少年少女であり。

 ――無謀にも、自分の力を信じて道を開いた少年であり。

 ――結局は、紛れもない英雄ヒーローたちである。

「取り巻きは三人がなんとかしてくれる」

「お前が相手か……この世界諸共燃やし尽くしてくれる! アハハ!」

 美しくも冷酷。凍てつくような視線を突き刺す炎の女王。黒く染まったドレスをはためかし、自分にとってちっぽけな存在でしかない少女を高らかに嘲る。しかし、今のレイナは怖気付かない。

「エーデルは……そんなことを言わない」

 彼女は幼く、未熟で、だけれどまっすぐで、誠実で、一途で。

 ――何より、何にも屈しない『勇気』をもっている。

「『絶望』に染まりきったあなたになんて負けない!」

 『導きの栞』を運命の書に挟む。途端に眩い光が少女を包んだ。女王カオスエーデルはそれを忌々しく睨めつける。

 ――レイナの心に接続した英雄ヒーローの声が木霊する。

 レイナ……私たちの力で、あの子を必ずや助けましょう。

 彼女はその言葉に答えることはしない。それに返す言葉は決まりきっているのだから――。

 目を焼くほどの激しい光が炸裂し、レイナの姿が顕になる。

 英雄ヒーローの姿は――百戦錬磨の女騎士。

 華奢な腕にも関わらず、それに見合わぬ大剣を軽々と弄ぶ少女。

 くるくると振り回した剣を、今度はカオスエーデルに突き立てる。

「さあ! どこからでもかかってきなさい!」

「貴様も、この大地の塵にしてやろう!」

 叫ぶような哄笑こうしょうと共にカオスエーデルは火柱を次々に突出させる。

 レイナはそれに足を奪われないよう、軽やかな動きで回避していく。

 紅の柱は一瞬にしてその島を赤く染めた。レイナにとって、その光景はまさに炎の迷路。これをくぐり抜けた先に宿敵が鎮座している。

 彼女はそれに触れないよう身を翻しながら迷路の終点を目指し駆ける。

 その程度のことは、かの英雄ヒーローにとって造作もないことだった。

 広く空いていた二人の間合いはあっという間に埋められ、ゴールはもはや目と鼻の先である。

 攻撃職アタッカー回復職ヒーラーの対決ならば、先に一撃を決めたものが勝敗を握ると言っても過言ではない。まさしく先手必勝の戦い。

『一気にカタをつけるわよ!』

 少女と英雄ヒーローの声が共鳴すると、握っている剣に名も知れぬ重みが加わる。

 ゴールは女王の背後。火柱が敵の障壁と化し、無数にそびえ立つがゆえにガラ空きとなったその背中。

 その背中にありったけの一撃を振り下ろす。

『たああああああああああああああああ!!』

 刃が一閃。

 それは火柱を真っ二つに切り裂いた。

 カオス・エーデルの身体を一瞬歪ませるほどの大ぶり。

「グガギャアアアアアアアアアアアア」

 雷鳴にも似た轟音を発し、もがく女王。

 その有様を嘲笑うように連撃を繰り出すレイナは完全無欠な勝利を確信していた。

 ――が、それは明らかな油断だった。

 大技で畳み掛けるレイナの視界に――ほんの一瞬、わずかな間隙に見えた、影の女王の暗い笑い。

 それに気づいたときには遅かった。

 攻撃の隙さえ与えずに決着を付けようとしていたレイナの目前に、唐突に炎の壁が噴出した。

 連撃をキャンセルし、寸前で体を仰け反り避けるレイナ。だが、それで終わりではない。

「クタバレエエエエエエエエエエエ」

 禍々しい慟哭と同時にレイナの背後から爆炎が上がる。

 ――まずい!

 火柱に挟まれた彼女はさらに上体を逸らし背中の熱から逃げる。身体を翻した際に大剣は島から投げ出されてしまった。

 体を捻させたまま地面に接触し、受身も取れぬまま投げ出される。そこを敵は見逃さない。

 長い腕を伸ばしレイナの脚を豪快に攫う。

「アハハハハハハハ! 捕マエタアアアアアアアアアア!!」

 歓喜に発狂する暗闇。

 レイナはその手によって宙吊りにされ、抵抗の余地さえ与えられない。

「くっ! 離して!」

「ダメダ! オマエハココデ灰ニナレ!」

 最期の一言を遺す暇もなく、カオス・エーデルはレイナを無慈悲に叩きつけ、地面を擦る。そのうち彼女は元のクリーム色の髪の少女に戻っていた。

「う……」

 ここまでなのか……。

 霞む視界の下、地から溢れてきた紅蓮の炎が自分に向かってせり上がってくる。

 脚は握り潰され、腕もさっきの衝撃で折れているかもしれない。口は鉄の味がし、頭からは液体が滴り落ちているようだ。頭が痛み、体中が痛み、内蔵も痛い。自分がどういう姿になっているか、知るのもおぞましい。

 もはや抵抗する気概さえ損失していた。

 いっそこのまま……。

 ――瞬間。

 彼女の持っていた『導きの栞』が輝き始めた。

 その光にカオス・エーデルがわずかに怯む。

「……!」

 レイナは彼女を掴んでいた腕を蹴り上げ拘束から抜け出した。

 ずたずたの身体が投げ出され、思わずうめき声が上がる。

 体勢を立て直し、『導きの栞』を取り出す。

 『導きの栞』の裏面、そこに記された見たこともない英雄ヒーロー

「これ、もしかして……」

 慌てて栞の裏面を運命の書に挟み込んだ。すると、レイナの心に接続コネクトした英雄ヒーローの声が木霊する。

 ――未だ試したことのない新しい力。

 自分の足元が判然としないほどの深い闇に差した一滴の光。

 虚空から這い出ることを教えてくれた道標。

 絶望の淵から一歩踏み出す勇気を与えてくれた英雄ヒーローの心!

 少女の名はエーデル。残酷な運命から逃げることなく、ただ一心母との約束を果たすために大地を踏みしめ続けた、一輪の花。

『エーデル、私に力を貸してくるの?』

『レイナは仲間! レイナが困ってたら、エーデルは助けるの!』

『……ありがとう』

 また助けられてしまった。ほんと……情けないお姉ちゃんよね。

 光はレイナの身体に癒しを与える。傷がみるみるうちに治癒されていき、それに伴って英気も回復していく。

 だからこそ――私がエーデルの運命にケリをつける!

 白光に抱かれていたレイナの身体がぐんぐんと縮んでいく。

(あなたは……こんなにも小さな身体で戦ってたのね……)

 変身が終わった頃には、カオスエーデルとレイナの間の体格差は三倍ほどになっていた。

 『主役』であるエーデルを媒体にしたカオステラーは通常よりも遥かに強力な魔力を有す……。その性質そのまま、黒の女王からは魔力がにじみ出ているのを、レイナは肌で感じた。

 それに比べてこのエーデルの魔力は、実際雀の涙ほどしかない。例え『主役』であってもまだほんの幼い子供なのだと改めて実感する。

 ――けれども。

 けれども、一切の恐れを感じない。そのような感情を、感覚を、動揺を、エーデルの魂がさせてくれない。

『今度はこっちの番よ! カオステラー!』

 レイナの腕に魔道書が現出する。回復職ヒーラーの攻撃は光柱を突き上げる魔擊。それは護身用程度にしかならない微弱な技だ。

 だが、今の二人レイナとエーデルは違う。『主役』と接続コネクトしたレイナの魔力は目の前のカオステラーと同等、否、それを上回る威力を発揮する。

『行くのおおおおおおおおおおおおおおお!!』

 レイナは両腕を天に掲げ、魔術を発動する。光の輪がカオス・エーデルの足元に繰り広げられる。

 それは最初、女王が生み出す火柱よりも遥かに小さかった。しかし、光の領域は徐々に広がり、やがて島のほとんどを埋め尽くすスポットライトと化した。その光はさながら、頭上に燦然と輝く満月を写す鏡のような。そう形容するに値する輝きを得た。

『この常識はずれの魔術! 避け切れるもんなら避けてみなさい! カオステラー!』

「コノ程度デエエエエエエエエエ」

 抗い叫ぶカオステラーをよそ目に、今度はレイナが、容赦なく攻撃を放つ。

「はあああああああああああああああああ!!」

 光の爆撃。

 もはや嘆きも、叫びも、懇願も、命乞いさえもかき消す終焉の光。

 その煌きは影を焼き尽くし、黒の煉獄をかき消した。


*


 光が閉じたころには、島の真ん中には朽ち果てた影の女王の姿が無様に残されていた。

「私は……まだ……」

 カオステラーは蚊の羽音ほどの声でそう言った。悪役の常套句じょうとうく。敵役の名台詞。

 それを口にした時点で、お前は敗北を認めたも同然だ。

 レイナはもとの姿に戻ると、今度は『箱庭の王国』を取り出した。

 その分厚い本の中には『調律の巫女』たるレイナのみが扱える世界がある。

「混沌の渦に呑まれし語り部よ――」

 エーデルの母。彼女の運命の書には――彼女の運命の書のみならず、想区すべての人々の運命の書には――火事が起こり、命が果てることが記されていた。そして、エーデルを生かすためにその身をもって尽くせと。そう書かれていたのだ。

 それは、この想区を生きながらえさせるために必要なこと……だから、人々はどれだけ不条理でもその運命を受け入れたのだ。

 もしかしたら、その怨霊があの無数のヴィランを生み出したのかもしれない。

 そしてあの母も――。

 彼女はエーデルを産み落としてすぐ親愛の夫を亡くした。そして、『主役』である我が子の成長を見ずして命が果てることを知った。

 その記述は、夫を尊い、我が子を誰よりも愛した一人の母にとって冷酷無慈悲な宣言と呼ぶ以外に他ならない。

 けれどもそれを受け入れることで廻り続ける想区。

 そんなある時、歯車は狂った。

 母は自身の運命に嘆き、耐えかね、狂った。

 ――私からすべてを奪う世界など、燃え尽きてしまえ。

 今、レイナの前で倒れ臥したカオステラーは、彼女の母の怨嗟と彼女の苦しみを力に変え生み出されたものだ。

 想像を絶するほどに深い闇は、この想区が存続する限り途絶えることはない。

 ならば。

 それならば、森の民の死はやはり悲痛で、悲壮で、悲観的でしかないのだろうか?

 答えは否だ。

 なぜならば。


 ――混沌の渦に呑まれし、語り部よ。

 我の言の葉によりて、ここに調律を開始せし――


 彼らの死は悲しいものなどではない。

 彼らの死は善人悪人問わず平等に恵みを与える太陽如く慈悲に富み、数万の軍勢をたった一人で相手した戦士如く勇ましい。

 彼らの死は神聖なる絶対不可侵の運命。

 そして彼らの死は、我々の進むべき道をまっすぐに照らす一筋の道標なのだから。


*


 気がつけば夜は明けていた。

 太陽はほんの少しだけ顔を出し、想区を薄らと照らしている。

 早朝の濁りない空気は視界をぼかし、匂いを消し、すべてを零にした。

 薄霧の中、四人は少女の目覚めを待つ。

 エーデルを抱えるレイナを、三人は静かに見守る。それはひどく絵画じみていて、見る者がいなくなった世界で異質な空間を作り出している。

 灰色に囲まれた緑の大地。朝の光がその鮮緑をこれでもかと引き立てる。それの隣で流れる川は、どこへ繋がっているのか、静かに波を立てている。

 その中心で、彼女は目覚めた。

「……うう……」

「エーデル!」

 もう何度その名を呼んだことか。レイナの声はかすれ、しかし確かにエーデルにその音は届いていた。

「レ……ナ」

 少女の小さな瞳に涙が浮かぶ。その線は果たして決壊し、大粒の涙が溢れ出してくる。

「レイナああああああ」

 エーデルは涙を流しながらレイナの胸に抱きついた。お互いに緊張の糸が切れ、安堵からその流れを止めることはできない。

 一同もまた肩の荷が下りたというように破顔した。

 タオはやれやれと言った風に肩をすくめる。シェインはそれを横目に笑い。少年も静かに頷いた。

 彼らは一時の安息を得た――しかしそれで終わるわけにはいかない。

 感動の再会の中で、最初に開口したのはエクスだった。

「エーデル……君が言っていた大地の中心って、ここのことなんじゃないかな?」

 遠慮がちに言った言葉に、レイナの表情が固まる。

 エーデルはレイナの腕を解き、ちょこんと二本の足で立ち上がった。彼女は四人に向き直り言った。

「そうなの」

 小島の中心。先の戦闘でところどころが燃えてしまい、白く変色している草もある。植物が抜け落ち、土が見えている部分もあるが、そこは確かに、かつて存在した緑の大地の片鱗を見せている。

 エーデルはどこからか小さな種子を取り出した。白く、種なのに光沢のような艶があり、真珠のように美しい。彼女は両手でそれを大切に抱え、足で地面を掘った。そして、屈んでその粒を穴に落とす。

「大きくなあれ。大きくなあれ」

 エーデルは種に囁きながら穴を埋める。

 そこに、彼女よりも少し大きな手が重なるように差し出される。

「大きくなあれ。大きくなあれ」

 エーデルが顔を上げるとレイナも彼女にならい、土を被せた。

 穏やかな空気が流れ、再び三人は彼女らを見守る。そこに水を指すのは野暮だと察した。それはまるで、母と娘のように見えて。

「……よし!」

「ありがとうなの!」

 エーデルは万歳して礼を言う。それを皆は慈愛の眼差しで見つめる。

 これが、最後の仕事。

 ほんの短い旅のようで、えらく長い旅だった。

 さて、次はどうするかと一同がその場を発とうとした。

 ――その時。

 エーデルの肢体を光の粒子が纏う。淡い光の欠片が飛び散り、彼女の姿を覆い尽くそうとしている。そして、それに伴い彼女の傷や服のほつれが再生していく。

「これは……」

 彼女はついにはシルエットでしか存在を確認できなくなっている。そして、そのシルエットの背丈はどんどん伸びていく。それはレイナの身長を超え、タオと同じくらいまでになる。およそ成人女性のような輪郭。光に飲み込まれてもわかるスラっとした姿。一同は息を飲んだ。

「……エーデル……なの?」

「姉御、喋りかた移ってますよ」

「そ、そうじゃないわよ!」

 突っ込みをいれるレイナだが、先まで接続していたエーデルと意思が混線していないとも断言できなかった。

 そんな二人のやりとりに彼女は上品に笑った。

「フフ……皆さん、ここまでありがとうございました」

 光のシルエットが小さくお辞儀する。おそらくエーデルなのだろうが、あまりのギャップにイマイチ信用ができない。

 それより、この変化は一体……。

「……まさか」

 そのまさかだった。

 彼らの足元からはぐんぐん草木が生長し、それは彼らを中心に広がるように恐るべくスピードで大地を緑に染めていった。

 草原は彼らの小島を離れ、地平線の彼方まで伸びていく。

 さらに視線を戻せば、エーデルが種を植えた部分から草の芽が出、茎が伸び、幹がそれに代わり、枝が広がり、新緑が生まれ、気が付けば樹木の様態を見せ、それは大樹と化す。

 ――時の加速。

 『根源の種子』によってもたらされる草木の生長。その種子はその命尽きるまで想区中の植物という植物をその身一つで育て続ける。

 奇跡の種。

 その奇跡を目の当たりにし、彼らの開いた口はふさがらない。それを見かねたエーデルの声がする。

「あなたたちには……特にレイナさん。あなたには本当に感謝しています……でも、これでさようならです」

 言うと彼女の光は天へと昇り、散り散りになってだんだんと消えていく。

 その最中、ただあの溌剌とした声だけが聞こえた。

「ありがとう……なの!」

 続いてレイナの叫びを耳にしたときには彼らの意識は朝日に吸い込まれた。


*


 気づいたときには、僕らはふかふかの芝生の上に寝ていた。

 若草の青臭さが鼻先をくすぐる。日の暖かさが心地よくて、下手なベッドよりも草木の質感の方が心地いい。このままずっと寝ていたいと思ってしまう。

 しかし、何やら僕を呼ぶ声がする。ていうか、タオだ。あとシェインの声も……レイナもだ。

「おい、坊主! 起きろ!」

 ゲシゲシと横っ腹を小突かれる。いたい、いたい。それでもなお寝たふりを続けようとすると、それは益々威力を上げられていく。まずい、このままだとそのうち蹴り上げられる。さすがに起きようか。

「新人さーん。起きてくださーい。蹴り上げますよー」

「本当に蹴り上げるつもりなの!?」

 左右双方から、小突かれて、ならレイナは頭でも小突いてくるんだろうかと、どうしようもないことを考えながら起き上がる。

「なんだよ、起きてんじゃねーか」

「寝たふりなんて、めんどくさいことをしますね」

 そこまで言うなら初めから蹴り上げてよ……いや、それはそれで嫌なんだけどさ?

 と、そこで気づいた。


 ――視界が緑で埋め尽くされていた。


 別世界だと思った。

 さっきまでのことが夢だと思った。

 もう次の想区に来てしまったのかとも思った。

 しかし、目の前に映ったそれらは紛れもなく、疑いもなく、先ほどまでの想区……エーデルの想区の景色だった。

 想区中にびっしりと広がる草木。そのキャンバスに添えられる花々。花の色は曇りなく、汚れなく、純粋に美しい色を作り出している。淡い朱色の花は蔓の隙間に優しく添えられ、青藍の花は池を静かに見守り、山吹色の花は太陽の光を浴び、風に色を与える。木陰の下を、木の根を漂いながら小動物が駆け回る。木陰の上では鳥が舞い、景気よく高い声で鳴いている。その声が耳に心地いい。

 背中を傾け大地に手をつく。首を傾げて見ると、川は本当にそこにあるのかというほど透き通ていて見ているだけで心を奪われる。目を奪われる。

 顔を上げると木漏れ日が目に刺さる。一瞬色彩が反転した。しかし、次に目を開いたときには、眼前にレイナの姿があたった。

「ほら、立って。もう出発するよ」

 差し出された手をぎゅっと掴み立ち上がる。逆光でその表情は容易には掴めない。

 ――ただ一つわかることがある。

「うん。行こう」

 深緑の大地。

 そこに咲いた一輪の白い花。

 踏み出す一歩は確かに今までとは違う一歩になっている。

 決して進むべき道が見えているわけではない。

 終着点を教えられているわけでもない。

 何も見えなくても、何もなくても。

 何かを見出すための『勇気』を、僕たちはちゃんと握り締めている。


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グリムノーツ 勇気の森~エーデルの想区~ 嶋本元成 @shi__________ma

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