第50話「大団円」

「困ったことになりました、少爺わかさま

 ほら来た。思いながらも珂惟かいは、神妙な顔をして前に座す仮母に驚いたような目を向ける。

 ここは仮母の部屋。必要最低限の調度品しか置かれていないが、どれも随分と高価そうである。

「困ったこと?」

「ええ、以前お話した、杏香の『一番客』になる話ですよ!」

 仮母は、そう言いながら、右手を何度も上下させる。叩かれたら痛そうだな……と思うくらいに勢いよく。

「と、いうと?」

 神妙な顔で身を乗り出す。頬がピクピクするのをどうにかこらえながら。仮母は眉を八の字にして、

「いえね。あの娘、あの器量でしょう? 少爺みたいに目をつけていた方が他にもみえたんですよ。その方が、いくら出してもいいから自分を一番客にしろ、とおっしゃるんですよ、ええ困ったことに。しかもすぐにでも笄礼を上げろとおっしゃってねえ……。そりゃあ私はね、少爺に一番客になって欲しいんですよ? でもそのお方は、親子二代でここをご贔屓にして下さってるお得意さまで、無下にはできないんです。本当に、困ったことでございます」

 よく回るなあ、口も悪知恵も……思わず感心してしまう珂惟だったが、見え透いたしばいにいつまでも付き合っていられるほど、暇を持て余しているわけではない。

 珂惟はおもむろに、ふところから折りたたんだ一枚の紙を取り出した。

「――何ですの、それ?」

 怪訝そうなその問いかけに、珂惟は居住まいを正すと、

「これは、洛陽の樂洋茶館より預かってきた借用書です」

 楽洋茶館は杏香の実家である。眼前で開かれた紙面に、たちまち顔色を失う仮母。その目の前で珂惟は持ってきた包みを解いて広げると、

「ここに二千文用意してある。その借用書通り、杏香を、ただ今を持ってお返しいただきます」

 二本の連銭がよほど衝撃だったのか、仮母はただ口をパクパクとさせていた。

 しかし、ほどなく白々しい咳払いを繰り返すと、ほほほと軽やかに笑い、

「まあ困りますわ突然。こう言ったものは、前もって持っていらっしゃるとご連絡いただかないと……。このような大金、おいそれと受け取ることはできませんでしょう? 本日はお引取りいただき、また明日改めて……」

「以前はご連絡差し上げたにもかかわらず、仮母様は身がお空きではなく、案内された旅館で盗難に逢いましたゆえ――このたびは用心に用心を重ねて、密かにお持ちいたしました」

「それはそちらのご都合でしょう? 困ります」

 いつしか柔らかな高音だった受け答えが、刺々しい低音に変わっている。

 しかし珂惟は、鼻で笑って見せると、

「その借用書のどこに、『返済の際は前もって連絡せよ』という文が? こちらはこの証文通りの金を用意したのです。仮母様がお持ちの借用書をお渡しいただこう」

「……」

 仮母は、あらぬ方向を向いて、無言。応じない、という姿勢を打ち出していた。

「では、仕方あるまい」

 珂惟はにわかに立ち上がった。そこで仮母が、ほんの一瞬だけ目を投げた箪笥に足を向け、大股で近づく。

「な、何をなさいますっ!」

 金切り声を上げた仮母が飛び掛るより早く、珂惟はとある引き出しを上げた。

「これは……」

 珂惟が、そこから朱の袋を取り出した。それを見た仮母は、

「ああっ」

 と絶句し、その場にへたり込んだ。

 珂惟は、その眼前に袋を突き出すと、

「この袋にあるのは、楽洋茶館の銘。やはりあなたが、金を盗み出したんですね」

 仮母は、「恐れ入ります……」と消え入るような声で、平伏する。

 やがてよたよたと立ち上がると、借用書を開いた引き出しの奥から取り出し、珂惟に差し出した。

 珂惟はそれを受け取ると、持ち込んできた包みから連銭を一本引き上げ、

「じゃあ、これは口止め料ってことで」

 軽やかにそう言って、証文と連銭一本一千文を手に、珂惟は仮母に背を向けた。

 そこで、

「あ、言い忘れた」

 その声に、仮母が力なく目を上げる。

 珂惟は振り返りざま、にっこりと笑って一言。

「俺、少爺じゃないから」



 部屋を出ると、目を潤ませた杏香きょうか、その後ろに小さな包み一つを持った琅惺ろうせい、それに茉莉まりが待っていた。

「術を磨きたいなんて、嘘ばっかり……私のために、危ない橋を渡ってきてたなんて……。私、どうやって返していったら……」

 絞り出された声が震えている。珂惟は大仰にため息をつくと首を振り、

「やめてくれ。お前が泣くのは、もう見たくない。さあ行くぞ。長居は無用だ」

 そう言って、琅惺と共に杏香の背を押して、ふと――振り返る。


 そこには、いつも以上に優しい、柔らかい笑みをたたえた茉莉の姿があった。


「茉莉さん、俺、明日敦煌に行くんです。修行して僧になるんです。だから、お別れです」

 茉莉は驚いたように目を見張り、しばし言葉を失う。しかし、やがて笑顔を見せて、

「そう、寂しくなるけれど――仕方ないわね。元気で。あなたの幸運をいつも祈ってるわ」

「茉莉さんも」

 二人は穏やかな笑顔で見つめ合っていた。

 杏香が静かに、珂惟の隣に並んだ。茉莉がその頬をそっと両手で包み込むと、こらえきれないように杏香の目から涙が溢れ出した。

「泣いちゃダメ。これから楽しい生活があるんですもの。今まで本当によく我慢して、頑張ってきたわ。京城に来る時には連絡してね。きっとよ」

女兄ねえさんも……お体に、気をつけて」

 珂惟と杏香は揃って茉莉を見上げると、深々と頭を下げた。

「今まで、本当にありがとうございました」

 


「さあって、どこでご馳走してもらおうかなー」

 春華楼を出てすぐ、珂惟は背伸びをしながら、朗らかに言った。

「私、一度でいいから振り売りの菜包が食べてみたかったんだよね」

 そう言うのは琅惺である。

「は? 振り売り? なんだお前もそういうの興味あったのかよ。いいねいいね。でもさ、菜包なんて言わないで、肉包にしようぜ」

「それが仏教徒の言葉か!」

「そんな格好してるヤツに言われたくない」

 二人のやり取りで、ようやく正気った杏香が慌てて、

「ご馳走する! 何でもする! でも私、どうやって二千文を返したら……」

 威勢のよかった言葉も最後には力を失い、杏香は胸を押さえたまま、ただ俯いた。

「あ、いいのいいの。千文は返してもらったから」

「というか、どうして残りも取り返してこなかったんだ! だって二千文の借金なんだろ? 何だって三千文も相手に置いてこなきゃなんだよ」

 琅惺が、納得いかない、とばかりに声を張り上げる。それに対し、珂惟はその目の先で何度も人差し指を振り、

「分かってないなあ。あのおばさん、杏香で一儲けしようと思ってたのを大損したんだぜ? 気の毒ってモンじゃないか。でもって、杏香の親父さんは、二千文を用意したときの借金が残ってるだろうし、俺も千文は損したし、ここは三者痛み分けってことで。まあ、置いてきた連銭は千文もないし。実は足りなくてさ、ごまかしたんだよね。でもって、これだって脛に傷持つ金持ちから巻き上げた、あぶく銭だしな」

「でも!」

「言っておくけど、今おごられるだけじゃ終わらないよ? これから一生、楽洋茶館では無銭飲食するから。俺が行ったら、一番いい茶と菓子を出せよ。一生な」

「珂惟……」

 やっと乾いた杏香の目が再び濡れていく。やがて杏香は泣きながら照れくさそうに笑い、

「よーし、今日はおごっちゃう! 菜包でも肉包でも、何でも来い!」

「おおっ、太っ腹」

「どこまでも、お荷物を持ってついていきます、小姐おじょうさま

 朗らかな笑い声を上げた三人は、やがて西市の雑踏に紛れていく。

 そして、大覚寺に匿名で千文もの喜捨が届けられるのは、後日のお話。



 翌早朝。


「二人とも道中気をつけて行くのだぞ」

「琅惺、あまり根を詰め過ぎぬようにな。珂惟、しっかり琅惺に仕えるのだぞ」

「はい、上座。皆々様もお元気で」

 上座・寺主をはじめとした寺の者たち多くに見送られ、二人は大覚寺をあとにした。

 錫杖を持ち、威儀を正して進んでいく琅惺の後ろに、荷物を持った珂惟が従っていく。二人は永安渠から船に乗って京城城外に抜けた後、水・陸路を使い、敦煌を目指す。

 角を曲がった。

 皆の姿が見えなくなる。途端、珂惟は琅惺に荷物を投げ付け、

「何で俺がお前の荷物を持ってんだよ!」

「仕方ないだろう。行者が沙弥の世話をするのは当然のことだ。嫌なら早く沙弥になれ」

 そう言うと、琅惺は荷物を放り投げて来た。そして、

「誰が見てるか分からないんだ。ここはおとなしくしといたほうがいいぞ」

 冷静に言い放たれ、珂惟は歯噛みする。だがもっともな言葉に反論もできず、結局は黙って荷物を抱え直した。


「――あれだ」


 どちらともなく立ち止まった。二人の眼前にあるのは、永安渠の船着き場である。柳並木から見える水面は、二人の背後から射し込む太陽に目映く輝いていた。

「いよいよだな」

「ああ」

 二人は力強く頷き合う。そして並んでその一歩を踏み出した。


(終わり)


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長安遊行記 天水しあ @si-a

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