第49話「後日譚」

 そうして。


 再び平和な日々が大覚寺に戻って来た――かに思われた。


 だが。


 騒動の数日後、珂惟の大音声が寺に響く。

「何で俺が京城ここを追放されなきゃなんねえんだよ!」

「落ち着け珂惟。ほとぼりがさめるまでの辛抱だ」

 苦渋の表情の上座の脇で、琅惺は複雑な顔をして控えている。


 ことの成り行きはこうである。


 五通観より戻った翌日、五通観から使者がやって来た。言うには、珂惟の力で観内の樹木殆どの枝が落ち、へし折られ、見る影もない、それが日が出たことで明らかになったというのである。

「向こうが言うには『やりすぎだろう』と」

「何だよ、野望を打ち砕かれた腹いせか?」

「全くその通りだが、確かにうちも全部木を折られたりしたら困るしなー」

「おい! どっちの味方なんだよ!」

「まあそれは冗談だが、あちらが下手に動いてお前の将来に傷がついても何だし、ここは一時追放という形を取って向こうの溜飲を下げてやった方が、後腐れがないだろうと。ま、建前としては留学、ということになるだろうな」

 上座は腕組みをし、何度も頷きながらそんなことを言う。

「大丈夫、度の前には呼び戻してやるから」

「追放って――一体、どこにやるつもりなんだよ」

 上座は天を仰ぎながら、

「追放ではない。留学と言え。考えてはいるんだが、さて、どこがいいか……」

 唸りながら真剣に考えている様子。珂惟は小さく舌打ちすると、

「もう好きにしろ」

 思いっきりふてくされて横を向いた。


「――和上」


 静かに二人のやり取りを見守っていた琅惺が、突然居住まいを正した。親子は揃って動きを止め、同じ表情をして、揃って琅惺に目をやった。


「お願いがございます」



                       ◆



「えーっ敦煌とんこう? 敦煌って国の果ての果てでしょお。そんなとこまで行っちゃうのー」

 声は、開け放たれた窓から煩いくらいに届く外の喧噪に負けないほど大きなものだった。

「そう、それというのもこいつが――」

 苦虫を噛み潰したような顔で、珂惟は隣の琅惺を一瞥し、

「『仏教隆盛地の敦煌で、仏教の在り方をもう一度考えてみたいのです』とか言っちゃって、『丁度いい、お前も行け』って上座が」

 戦火の絶えなかった京城や洛陽で、時代に揉まれて腐敗していく仏教に嫌気を感じた僧たちが、京城から直線距離でも数千里(里は約五百メートル)は離れたはるか西北の地、敦煌に集まった。そこでは今なお厳しい戒律の中で数多の僧が修行しているのだという。

「君を巻き込むつもりはなかったさ。でも行かなきゃならない事情を作ったのは君だろ?」

 琅惺は涼しい顔で茶を啜っている。全くその通りなので何も言い返せない珂惟は、悔しそうに茶を一気にあおった。

 という成り行きで、雨安居が明けたのを幸い、二人は明日京城を出ることになっていた。だから今日一日は京城の街の名後りを惜しんで行けという上座の心遣いで、自由な時間を与えられていた。だからこんな明るい昼間の内から杏香の元を堂々と(もちろん変装して)訪れているのである。

「もう二人に会えないなんて……。明日から、また侘しい生活だわ」

 早い時間なので杏香に化粧っ気もなかったが、長い睫に宿る滴が彼女を大人びて見せる。

「何言ってんだよ、上座がいるじゃん。それに、俺らはどんなに遠くにいたってお前の幸せを祈ってるって。言っとくけど、大覚寺の双璧がお前一人の為に祈るんだぜ? 効果てきめん、霊験あらたか」

「何かちょっとヘンだけど、その通り」

 琅惺は隣で何度も頷いている。

「まあ、帰って来たらまた顔見せるから、洛陽だってどこだって、行ってやるよ」

「大丈夫、二人が帰ってくる頃はまだ京城ここにいるわよ。安心して」

 杏香は潤んだ目でにっこり笑って見せる。

 すると珂惟は、窓の外に目を遣りながらぶっきらぼうに、

「ところで――おまえさあ、少しは貯めてんの?」

 その言葉に、杏香は指を広げて「これくらい」と、言いながら、

「少しは親に返さないとねって何、餞別要求してる訳?」

「違う、そんなんじゃないって」

 口を尖らす杏香の言葉を、慌てて否定したのは何故か琅惺。その横で、珂惟は何故か安堵の表情を浮かべながら、

「俺たちは国に認定されてる坊主だぜ、国から金が出るに決まってんだろ」

「珂惟は違うでしょ」

「そうだぞ」

 二人に即座に否定され、珂惟は大げさに肩を竦めて見せた。


 そこへ叩扉の音。


「すみませんねえ。忙しくて。お待たせしました」

 扉の向こうから声がかかった。

「やれやれ、やっとかよ。もったいつけやがって」

 珂惟は、杏香と琅惺にのみ聞こえる声でそう言うと、「今行きます」と、扉向こうに声を投げた。

 それを契機に、遠ざかる足音。珂惟が持ってきた包みを手に立ち上がるのを、杏香は戸惑いを隠さない目で見上げると、

「今の、仮母よね? 何なの?」

「詳しくは琅惺に聞け。一刻で戻ってくる。それまでに荷物まとめとけよ」

 珂惟はそう言い残すと、軽やかに部屋を後にする。

 いや、後にしかけて――ふと振り向く。

「後で顛末は教えてやるから。ちなみに、仮母の第一声は『困ったことになりました、少爺わかさま』で来るはず。じゃあ後で」

 そして踵を返すと、今度こそ本当に部屋を後にした。

「ちょ、ちょっと待ってよ。どういうことよ、珂惟!」

「まあ落ち着いて。今から説明するから」

 扉越し、杏香が困惑の叫びを上げるのを、琅惺が宥めている。

 それを聞いた珂惟は静かに笑いながら、急ぎ階下に下りていった。


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