水なす

洞貝 渉

水なす

×××



 カシャンと小さな音がして、我に返った。

 振り返り、視線をさまよわせるが、暗くて何も見えない。一瞬、ここがどこで今まで何をしていたのかわからなくなりかける。

 夜の神社は静かでひやりとした空気に満ちていた。それは神聖、というよりもむしろ不気味といった感じ。

 コンビニへ行く途中だった。

 眠れない夜はいつもこの近道である神社を通り、コンビニへ行く。別段何か欲しいものはないけれど、いつでも変わらずにこうこうと明るいので、行くとなんだかホッとした。

 じゃりじゃりと音を立てて慣れた道を進む。もうすぐ出口、というところでサンダルに砂利以外の何かが当たった。しゃがみ込んで拾い上げる。

 手の中にすっぽり収まるそれを見て、私は固まってしまった。

 小さな黒い花がいくつも連なり、帯状になってそれにくっついている。振ると、それらがぶつかり合い軽やかに音を立てた。

 私はひとつに束ねていた髪をほどき、手の中に収まるそれを使ってトップでまとめなおす。

 うなじに生ぬるい空気が当たり、ほんの少しだけ暑さがやわらいだ。

 どこかへ行く途中だったような気がする。

 でも、どこへ?

 辺りを見回すと、浮かれた表情で出店や灯籠を眺めて歩く人の波。どこかでお囃子が鳴っている。

 誘われるように私は出口に背を向け、砂利道を下駄で踏みしめた。



×××



 のどがかわいていた。

 どこを見ても派手な浴衣ばかりで、やかましいお囃子よりもさらにうるさい人々のざわめきが、私の頭の中をカラッポにする。

 いつからここにいたのだろうか。私はゆるりと周囲を見渡してみる。人と人との間から、明るく照らしだされる出店や灯籠、小さなお社に暗く沈み込む木々がちらほらと……。

 一歩踏み出すと足下からじゃり、と音がした。その時になって初めて、私自身も浴衣を着ていることに気が付く。

 白地に黒い花が一本、静かに咲いているデザインのそれに、私は見覚えがなかった。

「どうしたの?」

 隣にいる誰かが、言う。

「ううん。何でもない」

 私はなぜだか笑って、誰かに答えた。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

「うん」

 人にぶつかる。押される。

 私はのどがかわいていた。

 風が、ざらざらと首筋をなぜる。そのまま木々をざわめかせ、灯籠の火を揺らす。

 のどがかわいたの。飲み物はどこにある? 言葉はざわめきにかき消された。

 人の波は途切れない。

 音も、光も、消えない。

 胸の奥がすかすかしてくる。

 そよりと水の匂いが鼻先をかすめ、私は思わず立ち止まった。

「どうしたの?」

 隣の誰かが、また言う。

「水が……」

「水?」

 視線をめぐらせると、屋台の一つに目が止まった。なすやきゅうりが割りばしに刺され、売られている。

「出店が気になるの? 寄っていく?」

 こっくん、誰かの声にうなずく。

 私たちはそろりそろりと人波に逆らって屋台に向かった。

 途中、何かに私の髪飾りが引っ掛かる。

 カチャンという小さな音がしたけれど、どこに落ちてしまったのだろうか。見渡す限り、大勢の人、ひと、ヒト――。

「どうしたの?」

 前を行く誰かが、言う。

「ううん。何でもない」

 私はなぜだか笑って、誰かに答えた。

 アップにしてあった私の髪は、パラパラと肩口で舞っている。

「そう。じゃあ、行こうか」

「うん」

 屋台に着くと誰かがきゅうりを手に取った。私は水なすに手を伸ばす。

 ネジリハチマキをしたおじさんは、代金を受け取りながら私たちにからかいの言葉を投げ掛けてきた。きゅうりを手に持つ誰かが、嬉しそうに返事をする。

 ぼんやりしながら水なすをかじった。途端、じわじわと水があふれ出て口の中に広がる。

 のどがかわいていた。

 気付くと私は夢中になって水なすをかじっている。

 隣の誰かが笑った。そしてたしなめるように何か言った。

 水なすのさっぱりとした甘味が鼻を抜けていく。ごくりと、最後の一口を飲み込んだ。誰かは笑い声を上げ、ようやくきゅうりを食べ始める。

 

 ひどく疲れていた。

 どこを見ても派手な浴衣ばかりで、やかましいお囃子よりもさらにうるさい人々のざわめきが、私の頭の中をカラッポにする。

 いつからここにいたのだろうか。

 手の中にある割りばしをなんとはなしに噛んでみると、ほのかに水の匂いが広がった。

「どうしたの?」

 きゅうりを食べる誰かが、言う。

 私は笑おうとしたけれど上手くいかない。かわりに持っていた割りばしを押しつけた。

 ひどく疲れていたから。

 だから帰ろうと思った。

 私はじゃりじゃり音を立てて出口へ向かう。



×××



 境内から出た途端、目の前に暗闇が広がった。

 コンビニへ寄って、それから帰ろう。ぼんやりとした頭でつらつらと考える。

 ふと神社を振り返ってみた。

 真っ暗な空間にかろうじて木々の輪郭が見える。そこにあるのは、いつも通り、不気味に静まり返った夜の神社だ。

 さわわと風が吹く。

 私は早く神社を離れ、二十四時間明かるいコンビニへと向かいたかった。

 なのに、くるりと目の前が真っ白になって何もわからなくなる。


 カシャンと小さな音がして、我に返った。

 振り返り、視線をさまよわせるが、暗くて何も見えない。一瞬、ここがどこで今まで何をしていたのかわからなくなりかける。

 夜の神社は静かでひやりとした空気に満ちていた。それは神聖、というよりもむしろ不気味といった感じ。


 コンビニへ行く途中だった。

 そう、コンビニへ行く途中だったんだ。

 そうだ、そうだった……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水なす 洞貝 渉 @horagai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ