厨房ロマンス

 厨房ちゅうぼうの隅でアンリは先行き不安になった。


「ダメよシュナ!指を伸ばしたままだとまた切るわよ!」


 ラステルが悲鳴に近い声を出した時、シュナが手に持つ包丁が彼女の細くて白い指を傷つけた。厨房のあちこちで息を飲む音がして、視線が集まる。


「っ痛」


 アンリは素早く消毒してガーゼを当てた。上から簡易的に包帯を巻いて縛る。指を切ろうとする寸前で止めようとも思うのだが、多少の痛みや失敗は教訓きょうくんだ。


「ありがとうアンリ」


「神の顔も三度まで、と言って三度目までは許すわ。ラステルのようにサクサクは無理。自分らしくゆっくりと忠告を噛み締めながら励みなさいシュナ」


 シュナが軽く唇を尖らせた。


「そうよ。私は小さい時からずっと料理をしてきたの。積み重ねよ。私が難しい本をいきなり読めないのと同じね」


 鼻高々というラステルにアンリは自然と笑みがこぼれた。何とも微笑ましい光景だ。シュナは悔しそうにうらめしそうに玉葱たまねぎを見つめている。


「本なら一度目を通せば頭に入るのに、体を動かすのは難しいわね」


 へえ、とアンリはシュナを見つめた。賢く記憶力が良いというのは知っていたが、それ程なのか。


「猫の手よ。それでゆっくりね」


 ラステルが手本を見せると、シュナが張り切って真似した。今度はゆっくりとした動作。みじん切りまで先は遠い。


「覚えることが沢山だわ。カールが帰ってきてくれて本当に良かった。身の回りのことは全部カールがしてくれていたの。私からあまり離れられなくて食事の用意までは手が回らなかったから、料理は私が先に覚えるのよ」


 玉葱たまねぎの刺激で涙目になりながら、シュナがゆっくりと包丁を動かしていく。もう大丈夫そう、とラステルがトントントンと軽やかに包丁を使い出すとシュナもつられた。


 包丁がシュナの手を、それも今度は手の甲を襲撃しゅうげきしそうになったのでアンリはシュナの腕を掴んだ。


「ゆっくりよ」


「ありがとうアンリ」


 にこりと笑ったシュナは女でも見惚みほれる程可愛かった。今までの陰鬱いんうつさが消えた上でこの容姿。美人のラステルがかすむ。胞子病とはあまりにも恐ろしい病気だが、空から降ってきた毒消しを分析すればいつか治療薬が開発されるだろう。そうすれば大勢の者がシュナのように救われる。


 シュナがまた玉葱たまねぎにらんだ。それからゆっくりと立ち向かい出した。


「殿方は胃袋掴めと申しますが、道のり険しいわ」


 このままではいつになっても朝食が完成しないと、ラステルがテキパキと他の料理を進めていく。厨房ちゅうぼうの料理人達が二人の姿でそわそわしているので、アンリは定期的に威圧する係。料理は得意だが、シュナに見せつけるようになるので気が引ける。


「セリムは泥スープでも喜んで飲むわ。セリムって変なの」


 ラステルのとんでもない発言にアンリは吹き出した。シュナがくすくすと笑い声を立てる。


「セリム様はラステルが大好きですものね」


「そうなの。だから変なのよ。とっても変だわ。泥スープを飲もうとしたら止めないといけないの。セリムは強情だから大変よ」


 ラステルが困ったというように顔をしかめた。好かれていることに対する揺るぎない自信。シュナがうらやましそうにラステルを見つめた。


「でもラステルは泥スープを作らないわ」


「そうよ。良かった。危うくセリムがお腹を壊して病気になってしまうところだったわ」


 アンリはシュナと顔を見合わせて肩を揺らした。


「あら、私、また変なこと言った?」


「いいえ。微笑ましくて可愛い惚気のろけを聞かされただけですよ」


 シュナの指摘で気がついたのか、ラステルが頬を赤らめた。


 その時、厨房ちゅうぼう中がざわついた。ピリッとした空気でアンリは即座に原因を探した。


「セリムに聞いたらここだと聞いてね」


 入り口に現れたのはアシタカだった。アンリは警戒けいかいを解いた。しかし、何をしに来たのだろう。


「あらアシタカ様、どうなさいました?」


 シュナの問いかけにアシタカが思いっきり顔をしかめた。


「その包帯こそどうしました?」


 シュナが包丁を置いて手を後ろに引っ込めた。気まずそうにうつむいたシュナを見て、ラステルがアシタカの前に進み出た。


「まだ慣れないから仕方ないのよ。台所は女の戦場です。アシタカさんはお仕事しててください」


 アシタカが厨房ちゅうぼうをぐるりと見渡した。料理人は男しかいない。


「僕の仕事にはシュナが必要だ」


 アシタカの態度と言葉にラステルがムッと唇を尖らせた。アシタカはラステルに微笑みかけてからシュナにも笑顔を投げた。この顔、やはり今まで見たことがない熱を帯びている。


「僕の仕事は何処でも出来る。だから僕が来た。提案して、議論し、優秀な右腕が記憶してくれる。帰国した姉を手料理でもてなしたいという気持ち、良く分かる。何を作っているんだい?」


 ラステルが顔を輝かせてアシタカの背中を押した。アンリは虚を突かれた。屁理屈こねてシュナの顔を見に来たとしか思えない。アシタカはこのような男では無かった。絶対に仕事が一番。集中するので他はおざなり。


「ミルクスープよ。アンリは護衛で料理を教えていられないというし、私も作りながら教えるのは大変だったんです。先生が増えたわ」


 シュナとアシタカが横に並んだ。アシタカが料理をする所など見たことがない。むしろ男は台所に立つものではない。そういう古い思考を持っている。ラステルがワクワクした顔でシュナとアシタカを見た。両手を祈るように握って体を左右に揺らす。ラステルは嬉しいとすぐこの仕草をする。


「僕も得意ではないよ。シュナ、君は続き。僕は他の野菜にしよう。用意してあるものを切ればよいのだろう」


 ラステルが差し出した包丁をアシタカが握った。洗って一枚、一枚、剥いてあるキャベツをまな板に移動させてゆっくりと切りはじめた。アンリは手慣れた手つきに驚いた。


「まあアシタカ様、料理までされるのですか?」


「偽りの庭では古い時代の生活が強いられていた。働かざる者食うべからず。しかし、料理とはどちらかというと女性の仕事。繊細せんさいで気配りがいる。掃除や裁縫さいほうなどもそうだ。苦痛というか気が乗らない」


 それで周りの女にやらせていたのかと合点がいった。もう十年近い付き合いなのに知らなかった。出来ないから頼む。嘘にまんまとだまされていた。アシタカを囲う女達は掌の上で転がされていた訳だ。恋人も、そうでない女も穏やかな笑顔と「出来ない」の言葉で身の回りの世話を焼かされていた。


 アシタカはアンリの批難など気づかずシュナを愛でるように見つめている。


「大丈夫です。ずっと机に向かって座っていると体が鈍るので、シュナが色々こなします。カールがいてくれるので一つづつ覚えます。料理もゼロースの妻マリアンヌが教えてくれるそうですし」


「頼もしい限りですね。姉上や妹達も教えてくれますよ」


 余所見をして手元が狂いそうになるシュナの手を止め、アシタカがニコリと笑った。恥ずかしそうにシュナがうつむくと、アシタカがぼーっとほうけた。ラステルがルンルンしながら料理を進めていく。


「あー、何の話?」


 アンリはラステルに耳打ちした。


「シュナはもうお姫様は辞めたから城から出るのよ。蛇一族が住んでる海沿いに家を建てるんですって。ゼロースさんもお家を作るの。地下の神殿?の代わりとか何だかそういうの。蛇一族とゼロースさん達と家族で仲良く安心しながら暮らすの。アシタカさんやルイさん達の職場はシュナの所よ。ティダ師匠がアンリにも話すって言っていたけどまだだったのね」


 そんな話になっていたとは知らなかった。神殿。廃れていたというドメキア王国の信仰を復活させるのだろうか。アンリは寄り添うようなアシタカとシュナをながめた。


ーー逃げても追いかけたい女性。心に留めておく。いつも僕が気づかない指摘をありがとうアンリ


 無自覚だがアシタカはついに見つけて手に入れた。シュナにとっても幸福なことだ。


 それにしても、これで無自覚。アンリの予想では女は逃げていくものと学習したアシタカはシュナを女として受け入れたくないのだろう。仕事の相棒ならば別れはない。男女の仲はすぐ壊れる。アシタカに積み重なった経験と本能。


 始まったばかりの二人の関係。本物ならば永劫えいごう続く。今は無自覚でもいつか気づく。それで良いだろう。


「アシタカさんって前よりトゲトゲが無くなったわ。苦手だったけど今のアシタカさんは好きよ」


 ラステルが鼻歌をはじめた。シュナがそれに合わせて小さく歌い出す。頬を赤らめてシュナを凝視しだしたアシタカが指を切りそうになった。アンリはアシタカの手を掴んで止めた。


 初恋の人のこのような姿、流石に複雑な気分だ。押しかけるような形だったが、一緒に暮らし始めた時、一生添い遂げるのだと感無量かんむりょうだった。ちっともこっちを見てくれないと、自信がなくて逃げ出した。逃げなくても手に入らなかったと、今のアシタカの姿を見れば一目瞭然いちもくりょうぜん


 切ないが嬉しくもある。とても良い男に恋をした。大切にしてもらった。本物ではなくても、アシタカの愛情は嘘だった訳ではない。だから今のアンリがいる。


「そうだ。おとりに使う」


「いくつか文を考えましたの。ティダが居るうちに推敲すいこうしましょう」


 ぼんやりしていたら、シュナとアシタカはヒソヒソと仕事の話をしていた。耳打ちし合う姿はどこからどう見ても恋人同士。


「スコール君は何を食べるのかしら?ヴィトニルさんと同じでお魚が好き?丸焼きかしら?」


 ラステルがいつの間にか足元の月狼スコールの背中をでていた。あらかた料理は仕込み終わっている。さばき終わって下味付けた魚はあとは焼くだけ、綺麗に盛り付けられたサラダ。付け合わせのソース。


〈肉だ。肉が食いたいアンリエッタ。しかし俺は自分で狩る〉


〈魚は?ラステル大張り切りしているわよ〉


〈魚の腹わたが嫌いだ。除く時も苦い〉


 アンリも屈んで月狼スコールの体に手を伸ばしたら噛みつきが飛んできた。ティダの手前無下にしないだけで、気に入られてはいないのだろう。


「まあスコール君。アンリは私の大親友よ。群れの私の大親友とは仲良くするものよ。ティダ師匠ならそう言うわ」


〈フェンリスの妻とじゃれただけだ。アンリエッタはこのくらいきちんとかわす。そして触るなアンリエッタ。フェンリスが俺に匂いが付いていると嫌がる。怖い〉


 ぶるっと身ぶるいした月狼スコールにアンリは微笑みかけた。会話出来ると誤解がなくて助かる。


「魚の腹わたをラステルが綺麗きれいに取って焼いてくれるなら食べるそうよ。それからティダが怖いから私には触られたくないって」


 ラステルが月狼スコールの目を覗き込んだ。


「ティダ師匠すぐかじるものね。セリムも苦いの嫌いなんですって。おおそろいね。大狼は意外に沢山食べないと聞いたわ。お魚は二匹で十分よね」


 月狼スコールが頭部を縦に振ってラステルの頬に顔を寄せた。任されて嬉しいというように満面の笑顔でラステルが立ち上がった。


 しかしすぐしゃがんだ。


「困ったわアンリ。お邪魔虫よ私達」


 完全に二人の世界という様子のアシタカとシュナをチラリと見上げて、アンリも顔をそららした。やはりティダにはきちんとつつしみを覚えてもらおう。あんな姿、人様に見せるのは恥辱ちじょくの極み。


「だから私もこうして屈んだのよ」


 ラステルが厨房ちゅうぼうを見渡した。


「ドメキア王国の料理を学んでくるわ。スコール君はアシタカさんとシュナの護衛。アンリは私の護衛。どうかしら?」


 月狼スコールの頭をラステルが撫でた。


〈逆だ逆。しかしこの部屋の人など気に食わないから惨劇さんげきになる。大人しくしていよう〉


〈気に入る、気に入らないって何が基準なの?〉


 ティダに何処を好かれたのか知れるかもとアンリは月狼スコールに問いかけた。


〈雰囲気で分かる。それに犬ころ見るような目で見やがって許せん。盟友シュナにてのひら返しする見る目がない奴ら。顔や匂いで覚えている。毒を入れてきたか見逃した連中だ。誇りや矜持がまるでない。グスタフの方が何十倍もマシだ〉


 意外な発言だった。


〈どういうこと?〉


〈この世は矜持と矜持のぶつかり合い。大狼は己の矜持を貫く。強くなければ何も成せない。群も守れない。頂点たる者、折れぬ矜持がなければならない。グスタフはフェンリスやヴァナルガンドにさえ折れなかった。更に大国を掌握しょうあくしていた。俺は敬意抱く。グスタフはあらゆる力と囲う群が弱かったから負けただけだ。蟲森破壊。人はあの森から病受けるし、蟲も語れぬ化物と認知されているので至極真っ当な考え也〉


 ティダの思考の一部を見た気がした。ラステルが勝手に移動し出したので話の続きが出来なかった。しかしこれから時間はたっぷりある。アンリがラステルの護衛のはずが、月狼スコールは結局ピタリとラステルに寄り添っている。


「こんにちは。台所を貸していただきありがとうございます。シュナののラステルです。何を作っているんですか?」


 ラステルがもう隣側で作業している料理人に話しかけていた。アンリはシュナとアシタカの護衛。出入り口は一箇所しかないし、シュナとアシタカの背後は分厚い壁。包丁飛んでは来ないだろうが、月狼スコールが移動した今、立つなら彼がいた料理人側かとアンリは移動した。


「大きさをそろえると火の通り方が一定になる」


 アシタカが人参を刻んでいた。半分はシュナのまな板の上。いつの間にか人参の皮がき終わっていた。シュナのまな板の上に厚めの皮が山になっているので、自分で頑張ったのだろう。


「得意ではないとは大嘘ですね。手際良く教え上手ですもの」


「不器用な僕でも出来るのだから誰でもこのくらいは出来るようになりますよ。しかし苦痛だと思っていた料理も仕事しながらなら楽しいですね」


 危なげなシュナの手つきを導くように、アシタカが手を添えた。


「アシタカ様がいらっしゃる時はいつも教えてもらいたいですわ」


「なら毎日ですね。息抜きがてら二人で上達しましょう。肺やら胃やら調子が悪いので外食は控えることに決めた。偽りの庭でも海辺でも、語り合いながらなら料理も面白く感じられるだろう」


 呑気そうに笑ったアシタカにアンリはげんなりした。シュナがいるから大満足というまりのない顔。息苦しいだの、胃がムカムカするだの、本当にアシタカは壊れたという程におかしくなった。


 


 仕事場で寝泊まり、家には滅多に帰ってこないか少し顔を出して無言で食事してまた外出。そんな男が、信じられない。アシタカを次々と捨てた女が如何にアシタカの中で存在が小さかったかと伝わってくる。


 少々、いやかなり傷つく。


 しかしお互い様か。アシタカはアシタカで捨てられ続けて、裏切られ続けてここまで妙になる程女や恋愛に悪評価をつけた。アンリの時よりも入れ込んで見えたモニカでさえ、シュナとは違うらしい。婚約破棄されて、相当落ち込んでいたが立ち直るのは意外に早かった。


 シュナの何がアシタカの心を掴んだのだろう。


「毎日?そうですね。シュナはそのくらいしないと覚えられそうもありません。一人ではとても難しいです。それに夜も中々寝付けなくて。夜更けとはどうも感傷的になりますもの」


 アシタカが嬉しそうに破顔した。


「安心して下さい。そのうち眠れぬ夜など無くなる。眠れなければ僕と仕事だ。没頭していれば眠気がおそってくる」


 アシタカがシュナにベタベタしながら人参を切り終わり、今度はキノコに移った。これで最後だ。後は煮込んで終わり。早くこの甘ったるい空間から逃げてしまいたい。見てて、聞いてて恥ずかしくてならない。


 シュナがキノコを手にとって眺めた。


「これはどうすれば良いでしょうか?」


 アシタカが生き生きとしたような顔をして、シュナにキノコの処理を披露した。そうだ、アシタカは人に奉仕する人間。頼られるのが大好きな人種。仕事ばかりするアシタカに集まるのは甲斐甲斐かいがいしく世話をする女。逆だ。逆だったのだ。


ーー激務に耐えてくれる人ではなくて、共に激務に飛び込んでくれる人がいつか現れると信じてみたい


 そしてあの言葉。


わたくし、こういう食事に関する知識は覚えてこなかったので覚えます。アシタカ様には健康でいてもらわないとなりません。アシタカ様はシュナの世話まで増えて今までより大変でしょうけれど色々お願いします。その分、仕事はわたくしがアシタカ様以上にこなしますね」


 アシタカが益々生き生きとしたような笑顔を見せた。


「シュナ、君はとても頼もしいよ。しかし僕は誰よりも働かないと死刑台。君よりも働くさ。まあ、趣味だから苦じゃない。毎日楽しく過ごせる」


「そうですね。毎日うんと色々考えましょう。助けてもらいたいのでご自愛下さいね」


 やる気に満ちたアシタカにシュナが敬意と恋慕こもった視線と微笑みを投げると、アシタカが照れたようにはにかんだ。


「ああ自らを大切にするのは至極当然しごくとうぜん。シュナ、君を支えないとならない。健康管理も仕事のうちだ」


 シュナが愉快ゆかいそうに笑うと、アシタカは益々やる気が出た様子になった。


 貴方がいないと困る、助けて欲しい。


 思う存分働け。私も働く。


 これだ。シュナがアシタカの胸の真ん中にはまった理由。しかもシュナはアシタカと同じ目的持ち、隣を堂々と歩く。アシタカが捕まえて離したくないのは当然だ。


ーー何もかも。流星落ちてきた夜、あの日限りの命となりたいとまで思いました。偽りの流星が降り、まだ病に苦しんでいた夜です。アシタカ様、貴方が駆けつけてわたくしの手を握ったあの瞬間だけでもう良いのです。他には何も望んでおりません


ーー何も望んでおりません。


 シュナと目が合った。シュナが愛らしくではなく妖艶ようえんな笑みを浮かべた。


ーー何も望んでおりません。


 違う。一生離すものかとシュナは策を労してアシタカに鎖をつけた。通信機器でアシタカと語り合った日にはもうアシタカの本質を見抜いただろう。アシタカがシュナの為だけにこの国に来た瞬間、シュナはアシタカに恋に落ちた。


 物腰柔らかな淑女しゅくじょになり、アシタカが居ないと生き辛いと示し、そしてさあ共に高みに登ろうと手を引いた。アシタカが大好きなものをばらいた。地位と権力振りかざして妻の座を得た。


 公私共に誰にも渡すものか。


 シュナの左手の薬指の紅薔薇ばらの指輪はそういう決意の表れ。


 しかし、アシタカがこの国に来たきっかけが分からない。シュナの本音が、本心がアシタカの心を動かした。先にシュナに飛び込んだのはアシタカだ。


 ああ、結局本能で惹かれ合っただけか。アンリがどうしようもなくティダに惹かれたように、アシタカもシュナに強く惹かれた。かなり前に終わった恋にあれこれ考察つけて、未練がましい。こんなの知ったらティダは大激怒だろう。逆もだからお互い様だ。


 アンリはティダの永遠の二番手。感傷に浸るくらい許してもらう。


「君も花嫁修行になるだろう。いつかの時の為になる」


 ブスリ。


 アシタカの言葉がシュナの心臓貫いた音が聞こえた気がした。


 シュナの顔が強張こわばった。


「いいえ。そんな時などいりません。苦しいだけですもの……」


 シュナがアンリにすがるような視線を投げた。どこからどう見てもアシタカはシュナに入れ込んでいるが、このような発言は自信を失くす。傷つく。これが毎日続くのはあまりにも可哀想。


「またそんなことを」


 シュナが思いっきり不機嫌そうな顔に変わった。


「そうです。アシタカ様と同じです。自分に出来ないことを押し付けないで下さい。シュナは見本がないとはげめない人間です」


 アシタカが困ったように軽く髪を掻いた。


「変わる努力をしよう。元々そのつもりはあった。和平交渉を成して、僕とシュナの関係性が必要無くなったら共に励もう。人は変われる。シュナ、君の前に僕が変わろう。きっと大丈夫だ」


 ブスリ。


 また刺した。


 シュナが作り笑いを浮かべた。


「この世には変わらぬものもあります。シュナはもう変わりません」


 ツンと顔を背けてるとシュナが一瞬泣きそうに顔を歪めた。それからサッと涼しい顔に戻った。


「あー、アシタカ。シュナに似合う人がいると思う?」


「僕が大陸中を探す。居ないなら作る。僕が育て上げる。足りなければティダにも蹴り上げさせる」


 胸を張ったアシタカにアンリは大きくため息を吐いた。その時厨房ちゅうぼうの扉が開いた。水を打ったように静まり返った。入室して来たのはカールだった。


「まあカール。寝ていないと」


 シュナが駆け寄るとカールが首を横に振った。背丈がかなり違うし、華奢きゃしゃなシュナに対してすらりとしながらもたくましいカール。並ぶと雰囲気から何から似て居ないが、口元と髪の色はそっくりだ。


「大丈夫です。むしろ体が鈍るので顔出しがてら騎士宿舎へ行きます。食事の用意をしていただいているのに、行方知らずだと困らせると思いまして」


「まあ。ダメよ」


「ゼロースにやりたい放題されては困ります。、大変で無ければ騎士宿舎へ食事を頼みたい。ゼロースに後で文句を言われるのは面倒です。騎士達もシュナの姿を見れば益々励むでしょう」


 カールがシュナではなくアシタカを見つめた。シュナが嬉しそうな顔になったのは、呼び捨てにされたからだろう。カールがシュナの肩を抱いてアシタカの前に立った。


「私などもう不必要だと安心したら、ティダのように女を道具にする男だってな。離れていたら益々とらわれの身。聖人君子気取りの恥知らず。シュナの慈悲と献身に感謝しろ。このカール、シュナが受け入れるものなら全て受け入れる。シュナを地獄に落としたらこのカールが首をねてやる。ティダを見抜けなかった間抜けなのでこのカール、貴方のことはしばし見定めよう」


 アシタカを見下すようにしながら、小声で告げるとカールはきびすを返して去っていった。アシタカが真っ青になった。


「アシタカ様、わたくしカールがいるので毎晩すやすやと眠れます。姉のように慕っていたら姉でした。ゼロース兄上もいますし家族が居ます」


 ブスリ。


 今度はシュナがアシタカの心臓に矢を刺した。


 アシタカが今にも倒れそうになっている。


わたくし、三兄弟でした。何でも三つそろえないとなりません。至宝を飾る紅の宝石。一つ足りませんね。きっとアシタカ様の真の伴侶です。探しましょうね」


 シュナがアシタカの両手を取って微笑みかけると、アシタカが怒りでわなわなと震え出した。


「何を言う!真の伴侶?そんな役に立たないものは要らん。僕には不必要。短い時間を全て与え、睡眠時間や効率無視して与えても足りないと満足しない。良い女でそれなのに、見る目が無くて変な女にも引っかかる。使わなくて余っているから金などくれてやるが、時間と労力の無駄だ。僕と君で十分だ」


 時間と労力の無駄。


「ちょっとアシタカ!私の前でその発言は流石にひどくないかしら?」


 アシタカがアンリを冷めた視線で見つめた。


「君は僕を大して好きではなかった。僕も同じく。向き合っているつもりで互いに背を向けていた。お互いに振り返って分かっただろう?君は無駄ではなかった。僕にとって何が必要で、ゆずれなくて、何が要らないのか知るきっかけになってくれた。感謝しかない」


 穏やかな笑顔に拒絶の視線。既視感きしかんを覚えた。アシタカはいつもこの目をしていた。だから耐えきれなくて逃げ出した。色々建前を並べているが、アンリは愛されていないという不安につぶれて逃げただけ。


「違うわ。あの時の私の気持ちは本物だった。単に貴方の心にはまれなかっただけ。少しずつ実感して逃げ出した。まあ逃げれるくらいだったのはその通りよ。でもアシタカとは根本的に違う。貴方が独りになったのは愛情を注がなかったからじゃない。そもそも相手に興味や関心が無かったからよ。このくらいしておけばいいだろう。そういう義務感。建前。偽り」


 アシタカは目を逸らさない。アンリも腹立たしいので絶対に目を逸らすかと見据えた。


「何を喧嘩けんかしているの?」


 いつの間にか戻ってきたラステルが呑気そうな声を出してアンリの隣に並んだ。


「シュナが三つそろえろという。僕とシュナ。あともう一つ。僕に真の伴侶だと言って聞かない」


 アンリは「は?」と素っ頓狂すっとんきょうな声を漏らした。アンリの抗議などまるで意に介していなかったらしい。目を見て話していたのに聞いていなかったのか?アシタカは悲しそうにシュナを見つめている。捨てられた犬みたいにしぼんでいた。


 馬鹿らしい。


 こんなのに付き合っていると、どんどん自尊心が傷つく。終わったことを蒸し返した自分が情けなくなった。


「三は素敵な数字だってセリムが言っていたわ。夫婦としては子供が生まれたら三だねって話をしたのよ。女の子も男の子も嬉しいから四人生まれたら大家族な上に三足す三で倍よ!セリムもお父様とお兄様二人にお姉様二人で六人。お揃いになれるわ!私も姉様あねさまとお父さんで三人。ドーラお義姉様ねえさまはクワトロお兄様とカイ君で三人。みんな三になるの。問題は私よ。お義姉様ねえさまがもう三人いるから私を入れると四になってしまうわ」


 心底困ったというようにラステルが腕を組んだ。真剣な顔付きに失笑がれそうになった。


「ああ、クワトロお兄様はあと二人奥さんがいるから六人だわ。揃ったわ。楽しみね、アシタカさん」


 嬉しそうなラステルに、話をふられたアシタカが目を丸めた。


「楽しみ?」


「そうよ。アンリが六人家族で、シュナが六人家族で、私が六人家族になったら三が六倍よ!六倍なのよ!素敵なのが六倍よ!絶対に楽しいわ!」


 ラステルが両手を握って体を左右に揺らした。アシタカが茫然ぼうぜんとしている。アンリも訳が分からなくてラステルを眺めた。この子の頭の中はどうなっているのだろう。


「あら素敵ねラステル。子供が三人、でも素敵よね。わたくし、地位も名誉もお金も何もかも手に入りそうですけれどそんなものに全く興味ありませんもの。母上のように誰よりも子を大切にするの。宝物になるわ」


 シュナがチラリとアシタカを見上げた。アシタカが真っ赤になった。それからラステルに微笑みかけた。


「そうよ。シュナは三兄弟だものね。あら、アシタカさんは七人兄弟だわ。シュナは私と同じでいきなり大家族ね。お義姉様おねえさまって優しいけれど怖いのよ。ティダ師匠が結婚式をするから崖の国に一度遊びに来るのでしょう?お義姉様ねえさま対策が必要よ。シュナは私以上にぺちゃんこにされてしまうわ。アシタカさんが爆発苔を投げられるわ。まあ、大変!ミルクスープを火にかけ過ぎよ!」


 ころころ、ころころと話題を変えたラステルが鍋の火を止めた。シュナがアシタカを見つめた。


わたくしが喉から手が出る程欲しいものはいつか手に入るのでしょうか?子はかすがいと申しまして、他人と他人を家族にして死ぬまで手を繋がせる尊い存在ですが……」


 切なそうなシュナの声でアシタカが無表情になった。シュナはアシタカの反応を確かめるのが怖いというように、もう離れている。ラステルと食事を運ぶ準備をはじめた。隣の料理人達が焼いた魚を皿に乗せていた。ラステルはいつの間にか月狼スコールの魚を準備していたらしい。


「アシタカ?」


 目の前で手をひらひらさせても反応無し。少し考えてからアンリはアシタカの顔の前で小さく三回手を叩いた。アンリが口を開く前にアシタカがハッと我に返った。


「子が欲しい?やはり恋をあきらめたなど嘘か。相手の為にすぐに嘘をつく。僕のせいだ。今のは本気だった。頼まれた。心に決めた方とは誰だ?まず、穏やかに紅茶を飲める者。酒は苦手。ティダとルイではない。他に何か言っていたか?どいつもこいつも指一本、触れさせられない男だ。むしろ喋るな。同じ空気を吸うな。大体なんだ。どいつもこいつも不埒ふらちな顔しかしない。育てる価値もない者ばかり。心に決めた?一度あきらめさせた方が良いかもしれない。強情者だからな……」


 アンリはぶつぶつ呟きだしたアシタカを殴りたくなった。


 壊れてる。


 アシタカはすっかり壊れている。


「アシタカ、貴方紅茶が大好きね。お酒は苦手」


「急に何だアンリ?僕は確かに紅茶はとても好きだ。酒は苦手というより酔うとタチが悪いから避けている。君は良く知っているじゃないか」


 心から不思議と言うようにアシタカが首をかしげた。


 こんなおかしくなった男を置いてこの地を去れない。まだ短いがシュナは大事な友人だ。そして目の前にいるのは、かつて純情踏みにじった男。優先するべきなのはどちらか。


 初恋はかてとなり栄養となったと思っていたが、逃げたせいで回り回って「時間と労力の無駄」と評された。


 あんまりだ。


 逃げたのは悪いが、あんまりだ。


 アシタカがシュナへの気持ちを自覚すれば昇華しょうかする。


 無駄ではなかったと言わせたい。


「良かったわね。こんなに手酷てひどいことばかり言われてもめげないなんてたくましいわ。きっと相当好きなのね。でも、だから、あんまりよ!もう一度傷つく気概きがいくらい持ちなさい!貴方にとって一番最高の女よ!」


 思いっきりアシタカの頬を引っ叩いた。シュナがアンリを止めにきたが、アンリはラステルに目配せした。ラステルが合点承知がってんしょうちと言わんばかりにシュナを後ろから羽交い締めにした。


「女に恥ずかしい事ばかり言わせるんじゃないわよ!男らしくないわ!どれだけ告白されれば気が済むのよ!どいつもこいつも不埒ふらちな顔?貴方が一番締まりないだらしない顔よ!」


 今度は反対側の頬を叩いた。アシタカは先にぶたれた右頬にてのひらを当てて固まっている。


 三回。もう一度アシタカを殴ろうと手を挙げた時にシュナが「止めて!」と叫んだ。


「良いのですアンリ。あれほど神聖なちかいを大衆に見せたのでティダ同様、ちかい破れるかはわたくしの気分次第。女は誰も近寄れない。この地位かざして蹴散らしてくれる。惚れてもない女と真のちかい立てた矜持無い男ならいつかだったと目が覚める。まあ屈辱ですので、代償に龍王と紅の宝石に飾って差し上げましょう。地位も名誉も食い尽くして名を歴史の闇にほおむってくれる。中身に似合うようになったこの姿ならば男など選び放題よ!」


 あはは、とシュナが軽やかに笑った。アシタカはどんな反応を示すのかと思ったら真っ赤だった。耳まで赤い。


「惚れた女と無自覚にでも真のちかい立てたならば何の問題もありません。そのうち気がつくでしょう。永劫えいごう、息の根止まった後も隣を誰にもゆずらない。どちらでも胸がすくわ。わたくし、策士です。この恋本物か分からないのでとりあえず掴まえました。お互いゆっくり向き合いましょうねアシタカ様。人生は長い。人は変わる。変わらないものもある。わたくし達がどうなるかは死ぬ時に分かるのです」


 シュナがアシタカに近寄った。アシタカの胸倉掴んで引っ張ると背伸びした。シュナがアシタカの両頬に優しくキスした。最後に額。アシタカは硬直して動かない。


 アンリの心配など無用だった。シュナはさすが荒波にまれて生きてきた女。ティダさえ心配しているのに、か弱い振りをしているだけでしたたか。


「惜しからざりし命さへ。長くもがなと思いぬるかな。昔、異国の本で読んだのですがシュナの気持ちです。しかしわたくし、一番あこがれていたのはラステルやアンリのような者と語らうことです。血生臭いこの城で、阿呆の振りしている間、侍女達や貴族娘達などがうらやましくてならなかった。一つ失恋したらさかなが増えますわ」


 シュナがアンリに抱きついた。シュナが今度はラステルを抱きしめた。


「真の愛にならなかった恋は捨てるもの。友からそう教わりました。今度の恋はどうでしょう?まだ誰にも分かりませんね。常に死におびえるのではなく、こんなことで一喜一憂出来るなど幸せです。楽しいわ。こんなの初めてよ。毎日が新鮮なの」


 またシュナが軽やかに笑った。まぶしい笑顔。屈託無く、自由だ、そういう歓喜の叫びが届いてくるような笑み。


「シュナが僕を?」


 口をパクパクさせているアシタカを無視してシュナが料理を運びはじめた。ラステルがアシタカの真ん前にきてからジッとアシタカの顔をのぞき込んだ。


「シュナ、もうルイさんやハルベルさんに熱烈にアプローチされているから大変ねアシタカさん。きっと他にもうんと沢山いるわ。大陸和平となるとあらゆる国から現れる。選ぶのはシュナよ。選ばれているうちにガッツリつかまえないとポポの種みたいにふわふわ飛んでいくわ」


 ラステルが悪戯いたずらっぽく歯を見せて笑った。ポポの種?蟲森は胞子植物が多いと聞くので、胞子の一種だろう。


 アシタカが大口開けた。


 シュナが運びきれないから手伝って欲しいと料理人達に笑顔を振りまく。ラステルが真似した。二人とも愛嬌あいきょうたっぷりな仕草だった。

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風詠と蟲姫 あやぺん @crowdear32

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