ハードボイルド変身探偵(試作品・転と結のみ)
「ねえ……」
客が俺ともう一人を除いて全て帰ってしまい、明かりもほの暗く落とされたバーの中。ずっと数席離れて座っていたもう一人――赤い、胸元の開いた、扇情的なドレスを着た女だ――が、急にその距離を縮めてきた。
「一緒に飲まない?」
隣の席まで来て、しなだれかかる。手術したのが丸わかりのシリコン胸に、お決まりのセリフ。ひどく古典的な、悪どい色仕掛けの手口だ。
小僧っ子ならいざしらず、俺は何年も修羅場をくぐってきた。その程度で引っ掛かると思っているなら、おめでたい奴だ。
「俺は一人で
「つれないわねぇ」
女は言葉と裏腹に、隣の席へと深く座った。俺は心から毒を吐きたい気分に晒された。ブルシット。せっかくの情報源が、女一人で台無しにされる可能性がある。今回の件は本気で細い糸しかないから、ここでなんとかしたいんだが。
「……」
女から目を背け、酒をあおる。妙に苦味があるのは、俺が苛立っているからか? ともあれ、女が帰るまでは情報を聞けない。鍵の壊れたトイレに押し込められたような気分だ。やることもないので、酒にちびちび口をつけるほかない。くそったれ。
「マスター、もう一杯だ」
いかに少しずつでも、飲めば酒は消える。マスターにおかわりを促すと、次のグラスがよどみなく出された。視線に気づき、女と目を合わせる。その笑みには、どこか暗いものがあるように見えた。俺は無視して差し出されたグラスに口をつけ、飲み込み――
「うっぐ!?」
グラスをカウンターに置き、胸を押さえた。突然やって来た寒気に震え、おまけに視界がぐるぐるする。まさか、一服盛られたか? 視界の隅で、マスターとシリコンドレスがなにやらこちらを見ている。ニヤついている。ガッデム、コイツは……。
「よく効くようね。クスリとクスリの合わせ技」
「ヒヒヒ。いかに凄腕の探偵でも、これを飲んじまったらおしまいさ」
体を動かすのもままならず、気絶だけは必死に耐える俺に向け、悪党二人が本性を現した。
「なるほど、クスリを二段仕掛けかよ……」
「クスリだけだと思うかい?」
俺はギリギリで言葉を絞り出す。気を抜くと意識が落ちそうだが、落とすわけにはいかない。そのまま水底やゴミ捨て場、あるいは焼却場なんてのは真っ平だ。死に方としてもよろしくない。
「ハナっから仕組まれてたのよ。今回の件はアンタを葬り去る罠。アンタはやりすぎたのよ」
「っぐ……」
口の端を噛み、意識を必死に保つ。やりすぎたという意味はわからないが、どこかでなにかの尾を踏んだ。そういう心当たりだけは、嫌になるほどありふれていた。
「アンタにここを教えたのも、そもそもの依頼人も全部仕込みだ。さあて、観念してもらおうか!」
「っが!」
手の甲にアイスピックが突き刺さる。女が携帯電話を手に取った。こうして拷問しながら、黒幕のお出ましを待つ魂胆か。しかし黒幕を待つ余裕がない。今この危機を逃れなければ、俺に待つのは死あるのみだ。俺は覚悟を決め、奥歯を噛んだ。
ガチィ!
それは必殺の装置。意識が強制的に覚醒し、閃光が散る。同時に【ビースト】の力を解き放つ。奥歯に仕込まれたスイッチからベルトのバックルへと波長が飛び、体を覆う装甲が解き放たれる。一秒足らずで全てのプロセスが終了し、俺は戦士の姿へと変身した。アイスピックを投げ捨て、威圧的に宣告する。
「この姿を見たからには、もう帰さねえ」
「チイイッッッ!」
マスターが数歩下がる。女がその後ろに隠れ、直後、店の外へと駆け出した。
「くっ!」
俺は追おうとしたが、それを止めるものがあった。毛むくじゃらの豪腕が、力任せに俺を殴りつけてきた。バーの壁にぶつかった俺の身体は、なすすべなく崩れ落ちた。
「ゲホッ!」
背中が痛み、咳を吐き出す。視界に入ったのは、二メートルは優に越えるグリズリーだった。俺の目が光っているのを捉えたのか、グリズリーからの追い打ちはない。
「ま、そうなるよな。お前、マスターの成れの果てだろ?」
「成れの果てとは言ってくれるぜ、ご同類。装甲で上手く隠しちゃいるが、アンタも大方、【ビースト】だろう?」
「……チッ」
俺は小さく毒づいた。女は逃し、黒幕の影すら拝めず。だが、このグリズリーを生かしておけば、それ以上にリスクが生ずる。俺はゆっくりと腰を落とし、両手を広げた。ファイティングポーズ。
「来いよ。通信教育で習った、俺のカラテを食らわせてやる」
半分はハッタリ、半分は本気だ。こんなことになるなら、アイツの言う通りにしておけばよかったか。俺にしてはブルシットだ。
「ガアア!」
そんな逡巡をよそに、ヤツが動く。グリズリーな雄叫びを重ねて、大振りの右腕。重さの乗った、ヤバいヤツ。だが。
「ハイイイッ!!!」
俺だって【ビースト】だ。ついでに装甲のおかげで脆くもない。左腕一本で、あっさり単調な攻撃を弾き返す。踏ん張りを利かせた右足が床に沈むが、想像の範囲内だった。
「ガッ!?」
しかし俺の行動は、グリズリーの予想は越えていたらしい。まあそうだろう。大抵の素人はそう考える。自分のやることが、百パーセント通る図を描く。つまり――
「『成れの果て』などと抜かして悪かった」
「ガウッ!?」
床に沈んだ右足を、装甲に任せて強引に抜く。それだけで床板が飛び、グリズリーをひるませる。俺はその姿一つで、確信に至った。グリズリー――俺をハメたマスターは、荒事には素人だ。
「マスター、お前さんは……ただの『なりたて』だ」
「ガアアアッ!」
二歩目を強く踏み切り、グリズリーの頭部へ跳ぶ。右で眉間、左で鼻下を殴りつけ、最後に顎を蹴り上げた。俺はそのまま一回転し、床に降り立つ。グリズリーはカウンターの酒を巻き込んで倒れ、戦意喪失によりマスターの姿へと戻っていた。
***
「で、結局裏は取れなかったのね」
「そうなるな」
「そうなるな、って……。ずいぶん平然としてるじゃない。命を狙われたのに」
翌朝。コーヒーとトーストによって成り立つはずだった俺のエレガントな朝は、掃除機の音によって見事に粉砕されていた。トーストにはサラダとゆで卵が付き、コーヒーのカップはガキの趣味のような物に取り替えられていた。
「まだ頭が回ってねえ……」
強引に買い換えられた安楽椅子に身を預け、俺は半分マジの言い訳をする。だが、掃除機の主たる自称娘兼サポーターからは冷ややかな視線。ガッデム。これだから女ってのは。
「ってのはジョークでな。どうせああいう手合いはそのうちまた来る。その時はその時だ。それに……」
俺は女を見た。どう見ても俺の娘とは信じ難い。そばかすに、栗色のくせっ毛。俺の娘ってんなら、もうちょっとシティの色気があったっておかしかねえもんだが。
「俺がここを閉業して一日椅子で寝てたら、一日うるさく言われるからな。たまったもんじゃねえや」
いくつかの気取った物言いを頭の中で破棄して、俺は表へ向かう。掃除機に紛れてキーキー喚いてるのがいるが、それはさておき。
「休日不定に営業不定。今日も探偵稼業の始まりだ」
俺は表の札を、『営業中』へと切り替えた。
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