第5話 不吉な影 1

僕はどこか遠くにあるはずの、暗く冷たい洞穴の奥に、いつ間にか入り込んでしまったような気分がした。

その少し先からはクックックッと耳障りなかん高い声で、見知らぬ動物が鳴く。

その動物は不用意に入り込んでしまった僕を捕食しようと、物影に潜んでじっとその時を待っているのにも関わらず、彼はそれが嬉しくて堪らないのか鳴き声を漏らすのを止められないのだ。

僕は先に進むのも、後ろに引き返すのも躊躇われた。

僕はこんなところに用はないはずだった。

しかし、僕はまるで寝ているうちにボートで流されてしまったかのように、気がついたらこんな場所まで来ていたのだ。


この背高帽の小男を見ていると、そんな錯覚に襲われる。


決して、僕みたいな男には縁のない存在だったであろうこの男が、なぜ今僕の目の前に現れたのか。僕は頭の回転を速め必死に考えていた。が、どうもうまくいかない。

それは僕が一体、どんなボートに乗ってしまったがために、こんな珍獣に出会ってしまったのかがわからない事に起因していた。


どんな推量をするのにも、材料というものが必要だ。だが、僕にはそんなものすら何もないと思われた。僕は、少しでも情報が欲しかった。

「依頼人だって?」

苦し紛れだが、話を合わせてみることにした。すると、小男はにやっと口を開け、先ほどより随分と雰囲気を和らげた。

「はい。ラシェット・クロードさん。私はあなたにお願いしたいことがございまして、失礼ながらこちらでお帰りを待たせていただいたんです」

それでも不気味な声だった。かん高い声なのだが、まるで本当に洞穴の奥から聞こえてくるような、くぐもった声だ。

「ずっと待っていらっしゃったのですか?」

「いえいえ、ずっとと言う程でもありません。ほんの2、3時間ですよ。本当はお出掛け先にお伺いしようかとも思ったのですが、前の仕事が終わったばかりですし、気の毒かと思いましてねぇ。クックックッ」

まるで僕がどこで、何をしていたか全て知っているかのような口ぶりだった。

「そうですか。それはお気を遣わせてしまい、申し訳ありませんでしたね。しかし、せっかくお待ちいただいて恐縮なのですが、ご存知の通り僕は今日、前の仕事を終えたばかりでして、ひどく疲れているんです。ですので、大変申し訳ありませんが今日のところはもうお帰りいただき、また明日の昼過ぎにでもいらっしゃってください」

僕は神経を使い、なるべく丁寧にそう言った。

こんな真夜中に依頼を持ってきた人は今までいなかったが、いつもなら話だけでも聞いていただろう。しかし、僕は今ここで、この背高帽の小男と本当かどうかもわからない依頼話をするのは得策ではないと判断した。


それを聞くと、小男は少し怪訝そうな顔をして僕を見つめ、黙った。

だから、僕も小男の顔を黙って見ていた。


よく見ると顔もなかなか不気味だった。吊り上がった薄い目の横には笑い皺が長年の癖のようにくっきりとあるのだが、よーく瞳を見るとそこには何の感情も浮かんでいないように思われた。ただのくすんだ濃い茶色のビー玉をとりあえず入れてますと言った感じだ。

鼻はすらりと真っ直ぐ通っているのだが、左右が少しアシンメトリーに見える。はじめは気のせいかと思ったが、ずっと見ているうちにだんだん不安な気持ちになってきたので見るのを止めた。

口は相変わらずにやにやとして、口角をあげている。いつもこうなのであれば、疲れて頬が攣ってしまわないのかと心配になった。ただ、唯一の救いは口の間から僅かに見える歯が白く綺麗で、並びも整っているということだろうか。

まあ、いずれにしても見ているだけで憂鬱になる、あまり愉快な顔ではなかった。


どのくらいの時間が経っただろうか。

小男はまた張り巡らせていた緊張の糸をふっと解き、コツコツと僕の方へ歩み寄ってきた。小男は少し不服そうな色を滲ませていたが、僕は今度は身構えることなく、その様子を見ていることができた。

「そうですか……わかりました。では、本日の13時に待ち合わせというのはどうでしょうか?場所はクラヴィッツホテル本店の一階のカフェです。私が先に行って待っていますから、どうぞゆっくりいらっしゃってください。入れば、この見た目ですからすぐにわかるでしょう。依頼内容の方もそこでお話しいたしましょう。……それで、いかがですかな?」

「ええ。もちろんそれで、構いません。お気遣い感謝します」

非常識にも真夜中に、押しかけてきた依頼人に今さら気遣いも何もないとは思ったが、早くこの小男と離れたかったので、そう言った。

「クックッ。では、また本日お目にかかりましょう」

小男は僕のすぐ横をすれ違うようにして去っていく。

思っていたよりもあっさりと帰るつもりになった小男に僕はホッとしたが、それだけに何かが引っかかった。引っかかったが、それよりも僕には考える時間が欲しかった。

サマルからの手紙とその内容。それと、あの小男との間にどんな関係があるのか、ないのか。

小男から依頼内容を聞けばもっとはっきりとわかるかもしれないが、そうするにしても今はベストな状態じゃない。それは本当だった。


自宅に入り、照明をつけた。

とくに変わった様子はなかった。僕は靴だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。

天井を見上げる。酔いはもうすっかり覚めてしまっていた。

こうして何も起こらずに小男をやり過ごし、ベッドに横になってみると、先ほどまでの不吉な感じは僕の思い過ごしだったのかなと思えてくるから不思議だ。


仮に思い過ごしだったとしたら、どういうことになるのだろうかと考えてみた。

例えば、彼は本当に僕に頼みたい仕事があってここに来た。が、僕は留守だった。しかし、急ぎの依頼だったため帰ってくるまで待つことにした。

そして、僕が帰ってきた。

でも、帰ってきた僕は背高帽をかぶり、タキシードを着た不気味な顔の小人の男のを見たことがなかったから勝手な偏見を抱いてしまった。よって不信感からか邪険に扱われ、帰されてしまった。

という可能性はあるな。


…………いや


僕はあの男を何もそんな偏見だけで怪しんだんじゃない。

強いていうならば気配だ。

いくら僕が油断していたからといって、普通あそこまで接近してから気がつくなんてことはない。

あの男の気配の消し方はかなりものだった。そしてそれは、あの男が特殊な訓練を受け身につけたその技術を、長年の実地経験の中で磨いてきたという証左に違いなかった。

だとしたら、

一体、どこの組織の人間だ?


しばらく考えたが当然答えは見つからない。

はーっと、僕はため息をついた。

まあいい、とにかく帰ったんだ。

明日会う約束もしてしまったが、そっちの出方も、また寝てから考えればいい。

そう思い、僕はもう一度シャワーを浴びようとベッドから起き上がった。


その時だ。


僕は目の前の景色に若干の違和感を感じた。目に飛び込んできたのは、部屋の隅に備え付けられた書棚だった。はじめ部屋に入ってきた時には気がつけなかったが、よく見ると微妙に本と本の隙間の幅が、僕が出掛ける前と違っていた。

本の並び方は合っていた。置いてある位置も大体合っている。しかし、大体だった。「バルス版世界地図」の位置は右に1センチずれていたし、「七つの歌声 イプセン詩集」は左に0.8センチほど、「ボートバル軍事法令書 第5版」もやはり右に1センチずれている。

僕は急いでキッチンの食器棚にも行ってみた。そこも同じような具合だった。うまくカムフラージュしたつもりだろうが、ほんの少しずつ皿の位置が違っている。

もう、間違いなかった。


誰かがここに入り、何かを探したのだ。


ただの空き巣がこんな手の込んだことをするはずはない。きっと、あの背高帽の小男だ。

しかし、何を探していたんだ?

そこまで考えたとき、僕は初めてあの男が僕の帰りを待っていた理由がわかった気がした。

手紙か!

それくらいしか思いつかない。僕はそれ以上に重要そうなものを何も持っていない。しかし、ではなぜやつは僕を殺して手紙を奪ってしまわなかったんだ。やつにかかれば容易いことだったはず……


しかし。

やるなら今しかない。

まだ疑問は多く残っていたが、そう思いたつと僕は、リビングテーブルに置いてあったライターと灰皿を取り、手紙を出した。そして、手紙を灰皿の上に掲げると端からライターで火をつけた。


内容はもう完璧に覚えている。ならばこの手紙は誰かの手に渡る前に処分してしまった方がいい。まだ、この手紙にどんな重要性があるのかわからないが、それを知るのが、奪われた後になったらダメな気がする。


僕は必死にライターで燃やし続けた。

今こうしているうちにも、またあの男の仲間がやって来ないとも限らない。早く、早く燃えてくれ。と思いながら手紙を見つめた。


そこで、またもや異変を感じた。


「ば、馬鹿な、な、なんで」

思わず声が、漏れてしまった。

なぜなら、手に持っている手紙が一向に燃えないばかりか、焦げひとつ付いていないのである。

僕は思い切り手紙を、引き裂こうとした。しかし、あまりの強度に引き裂くことはできなかった。僕はキッチンからナイフを持ってきた。そしてそれをテーブルの上に置いた手紙に思い切り突き立てた。しかし、手紙には傷ひとつなく、手紙の下のテーブルにも傷はついていなかった。そして、ナイフの刃先は少し欠けている。


「な、なんなんだ、この手紙は!」


二度目の声が漏れた。


つい10分程前までの楽観はもう僕の中からは消えていた。


その代わりに、薄れたと思っていた不吉な予感が僕の胸の中をまた暗く覆っていた。

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