第2話 手紙 2
じっとりと蒸し暑いので、僕は目を覚ました。汗をかいている。
嫌な夢でも見たのだろうか。でも、僕は見た夢のことなんてひとつも憶えていなかった。
いつもそうだ。ついさっきまで見ていたのかもしれないのに、全く憶えていない。
だから、僕は夢なんて見ていないのかもなと思う。この話を同じ郵便飛行機乗り仲間のロランにすると
「ラシェットには悩みがないんだよ、きっと。いいなー、気楽で。俺もそうなりたいよ」
と嫌味を言われたことがある。
だから、もう誰にも言わないことにしている。
悩みがないなんて、そんなバカな話があるか。今回だって、命がけの仕事をして報酬は30万ペンスだぞ。そりゃ、一般の商人や地方公務官に比べたらすごい収入に見えるけど、飛行機のメンテナンスや燃料費を差し引くとトントンだ。それにこんな仕事いつまで、続けられるかわかったもんじゃないから、貯蓄もしなきゃならない。それじゃあ、好きに使える金なんてろくに残りゃしない。
って金の悩みばっかりだなと僕は思った。
起きてすぐ金のことなんて考えたくない。ましてや、仕事が終わったその日の夜なんてなおさらだ。
とにかく、今夜はたんまりと金があるのだ。
寝て少し疲れがとれたので、腹が減ってきた。でも、家の冷蔵庫の中身はいつも出発前に整理してしまうので、何も入っていない。
となれば行く所はひとつだ。
僕はすくっと起き上がると、引っ掛けてあったジャンバーを取り、サマルからの手紙をズボンのポケットにねじこんで、街に出た。
ボートライル大陸にある、世界屈指の軍事大国ボートバル帝国。その首都、セント・ボートバルは世界で一、二を争う大都会でもある。そんな大都会の巨大建造物や毒々しいネオンを遠くに臨む旧市街の場末た道を僕は歩く。
僕はあの遠くに見える摩天楼というやつが、なかなか好きになれない。田舎育ちの僻みではない。やっぱり僕はあの都会の風景というものが、健全ではない何かを常に含んでいる気がしてならないのだ。そして、僕も数年前まで軍人学校の生徒として、卒業後は一兵卒として、そのど真ん中で暮らしていた。すなわち、その健全ではない何かの一部になっていたのだ。
ふーっとひとつ大きく息を吐いた。
最初は軍で偉くなりたくて、出て来たのにな。わからないもんだよな。そう思いながら歩いていると、見慣れた看板の前までやって来ていた。
Jin's BAR
カランカランと地下の扉を開けて入ると、相変わらずタバコと景気のいい葉っぱの煙で前が霞むほど白かった。その煙に暖色の照明がよく映える。行き場のない暇な男達があちこちで喚き合い、この場に少ししかいない女を取り囲み必死に気を引こうとしている。その様子を静かな微笑みでカウンターの中から見守るジン。いつもの光景だった。
僕がカウンターの前まで来ると、ジンは気がついて
「おや、ご帰還ですね。では、今回も賭けは私の負けですか」
と言った。僕はニッと笑った。
「そういうこと。だから、いつものやつ頂戴。それと腹減ったからなんか適当に食わせて」
「はい。わかりました。ちょっと待っててください」
ジンはくすっと笑うと、磨いていたグラスを置き、見事な手つきで氷を削り始めた。
「これで、私の38連敗ですか」
「数えるなよ。そんなの。覚えてないよ」
僕は懐のポケットからタバコを出し、火をつけた。
「確か、12敗目くらいからでしたよ。ラシェット。君がタバコを吸い始めたのは」
「余計なこともよく覚えてるよ」
僕は素直に感心した。
「今回も長かったですねぇ。今回はどこまで行かれたんですか?」
「サンプトリアの奥地まで行ってきたよ」
本来こういった依頼内容と関わることは言ってはならないのだが、毎回ジンには話している。それはジンの口のかたさを知っていたからだった。
「へぇ。サンプトリアですか。いいですね。私も行ってみたいですが、私には一生縁のない土地なのでしょうね」
「何も無いところさ。縁がないのが普通なんだよ」
「そうかもしれませんね。しかし・・・」
そう言うとジンは丸く削り終えた氷をグラスに入れ、そこに波波とウイスキーを注いだ。
そして
「無事に帰ってきてなによりです」
と僕にウイスキーを手渡してくれた。
「ありがとう」
僕はそれをくいっと一口飲んだ。懐かしく、甘い香りがした。やっぱりここで飲むウイスキーは格別だった。
僕とジンは賭けをしている。それは僕が仕事を終えて無事に帰ってくるかどうかという、なかなか不謹慎なものだ。
もちろん僕は帰ってくる方に賭け、ジンは帰って来ない方に賭けている。
負けた方が酒を奢るという賭けなのだか、僕が負けた場合はすなわち任務の失敗を意味し、おそらく死も意味している。だから、賭けとして成立しているかどうかも怪しい。まあ、そういう賭けだ。
だから、これはきっとジンなりの照れ隠しなのである。無事を祝う酒を一杯奢るための口実がジンは欲しかったのに違いない。僕はそう解釈している。
ジンはサラダと、ハムとチーズのサンドイッチ、それにスモークチキンを出してくれた。
ひとりでこの店を切り盛りしているジンの手際はものすごくよい。だから、暇なときはジンをぼーっと眺めているだけで、かなり楽しめる。
ジンの手つきを見ていると、やっぱり職業の向き不向きというものはあるんだなと考えさせられる。
じゃあ、僕はどうなんだ?
最初は軍人になりたかった。それがこの世の中で、一番名誉ある仕事だと思っていたし、そう教えられてもいた。
しかし、実際のところは違っていた。
専制君主の悪政を挫き、クーデターにより民の為の国を作った、初代帝国国王の時代からはや500年余り。二代目、三代目と初代国王の志がまだ、色濃く残っていた頃の発展の上にあぐらをかき、その絶対的な権力をかさにきて、甘い汁を吸って生きているのが今の軍部であり、現14代国王ミハイル・ボートバルだと知ったのは軍に入ってからだった。
これに関して、ある友人はこう言っていた。
「なに、ガッカリしてるのよ。ラシェット。いいじゃない、その権力者とやらになれるのよ、私達。そのために、厳しい訓練も難しい試験も突破してきたんじゃない。何もしてこなかったわけじゃなくて、ちゃんと努力してきた結果なんだから。しかも、念願だった第1空団よ。もっと胸を張ってもいいと思うわ」
もっともな言葉だった。でも、その努力がその権力に見合っているとは僕にはどうしても思えなかった。
僕にだって、この世の中に真の公正なんてないことはわかっている。だから僕はラッキーだったといえる。
でも、自ら進んでその不平等の中枢に飛び込んで行くことはできなかった。おかげで、同期の皆にも多大な迷惑をかけた。それだけは本当に申し訳なかったと、今でも思っている。
ジンの作ってくれたサンドイッチを食べていると、いつも昔のことを考えてしまう。不思議なサンドイッチだ。
そのとき、僕はふとポケットの感覚を思い出して、サマルからの手紙を取り出してみた。
そういえば、これも過去から来たみたいな手紙だなと思いながら、カウンターに置いてあったナイフで手紙の封をあけた。
その様子をジンは横目で、ちらっと見た。
きっと興味があるのだろう。僕がここに手紙を持ってくるなんて初めてのことだから。
なかなか長い手紙のようだった。書き出しにはこう書いてあった。
〈やあ、久しぶりだね。ラシェット。僕の記憶が正しければ8年と5ヶ月ぶりだ〉
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