第2話
車内に戻ってきたクロウからは硝煙と血の臭いがした。
その臭いを気にしないほど、チトセも鈍感ではない。
チトセはその臭いに憤りと罪悪感を覚えた。
何も言えない自分にも腹立たしさがあった。
もし、自分がクロウに忠告していれば、相手を再起不能にする程度で済んだかもしれない。
どんなに悪人だと分かっていても、人の命は尊重しなければならない。
彼女は常にそう思っている。
そしてそれがこの世界ではどれだけ綺麗事であるかも彼女には理解できていた。
戦争が終結を迎えて五年が経過した現在においても、利己的な感情が他者の命を貪り続けている。そうしなければ生きていけないほどに世界は衰えてしまっている。
それが現実だ。
それでもなお、彼女は命を重んじるべきであると感じている。
現実はそんな彼女には優しくなかった。
窓から覗く光景はこの世界の現実を端的に表現していた。
無慈悲で残酷で当たり前の現実だった。死が直ぐ側を横切って行くのを感じる。
寒気がした。鎌を喉元にかけられたかのように、体は恐怖で縮こまることしか出来なかった。
哀れな自分。そんな自分に憤りを感じてしまうのも無理はなかった。
クロウ自身は何事もなかったかのように、輸送車のエンジンをかけ、アクセルを踏む。
すぐに車体はまた揺れ始めた。
暫しの静寂が彼らの間に訪れる。
「……大丈夫でしたか?」
ようやく絞り出したそれは、答えなど分かりきっているものであった。
それでも、沈黙と罪悪感から逃れたく問う。
そうでなければ窒息死してしまいそうだった。
「大した連中じゃなかった。少し傷が痛んだがな」腹部をさすりながら、ハンドルを握るクロウ。
「まだ治ってなかったんですか……永久の樹に行った時からですよね?」
クロウは人間とは体の構造がまるで違う。
どれだけ重症を負っても二、三日には回復する。実際、彼が自身の負傷した目をほじくり返し、その傷からまるでトカゲの尻尾のように、すぐさま再生が始まるという光景をチトセは目の当たりにしている。しかし、前回の仕事で受けた傷は既に一週間以上が経過したにもかかわらず治ってはいなかった。それは彼の受けた傷が、並みの傷ではないという証拠でもあった。
「少し急ぐぞ」
クロウはその傷について深くは語りたがらない。
話題を無理やり終わらせようとトラックのスピードを速める。
チトセは無言で頷きながら助手席の窓を開ける。
吹き抜ける風が、彼女の黒く美しい髪を揺らす。
車内の硝煙と血の臭いはすぐに風の優しい匂いに変わっていく。
次第に落ち着き、思考が正常になっていくにつれて、チトセはある違和感に気がつく。
それは、クロウが敵と相対する瞬間に感じたものと同じ違和感であった。
だが、彼女はそれを口にすることはなかった。
疲労がそれを阻害した。
たまらず目蓋を閉じる。この残酷な世界が夢であればいいのに。
彼女は心からそう願った。
クロウらが去ってしばらくの後、辺りはすっかり日が沈み暗闇に染まりだしていた。
辺りに残る微かな血の臭い。
此処には、無惨にも四つの死体が転がっていた。
一体は頭部だけが綺麗に無く、二体は肉片が散らばり、最後の一体は喉を綺麗に裂かれていた。
「酷いことするもんだ。神様だって真っ赤になって怒っちまうよ」
そんな光景を笑いながらも静かに冷め切った目で見つめる男がいた。
銀色の短い髪。左目は赤く、右目は青い。そして腰元には尖った唇が特徴的な鷺の仮面。
隣にはボディが真っ黒に染まったバイクが置いてあり、エンジンはまだ温かく、先まで稼働していたのが分かる。
彼の名はシラサギ。
ヤタガラスの一人である。
ヤタガラスは通常、『カラス』を模した仮面をつけて行動する。『カラス』とは唯一無二のシンボルであり、同時に彼らにとって『ただ一人の存在』を指す言葉である。
それ以外はカラスの両翼に敷き詰められた羽の一枚にすぎない。それがヤタガラスという組織である。だが、そんな有象無象の中で強者として存在する者たちには、唯一の個としてカラスとは違った鳥を模した仮面をつけている。それは強者であるからこそのもの。強者であるからカラスへの敵対心を持つ。カラスという強者から認められた自分自身の強さの象徴である。そして、その強さも彼の前では役に立たない。絶対的な力への畏怖でもある。だから仮面は彼らを離さない。
シラサギもそれは例外ではなかった。
空虚な目がそこにはあった。
映り込むただの肉塊。口では哀れみながらも、実際のところは何の感情も抱かない。
彼の興味はそこには無かった。
トラックの轍が続く先を静かに見つめる。
「ご丁寧に餌を引きずって……誘ってるとしか思えないよな」
この惨状を演出した者に対しての強い好奇心は確かにあった。
単独輸送の大型輸送車の強襲。そして、間抜けにも返り討ち。簡単にまとめれば、バカバカしいほど間抜けな死に様であるが、同時にその間抜けさは仲間の死という大層な口実となる。このまま、この先にいる何者かを追っても誰も咎めることはないだろう。
そう、それは何もかもが上手く出来たシナリオだった。
彼もここに転がる四つの死体も偶然、ここにあるわけではない。
近々、行われるヤタガラスの『大仕事』に向けての招集。
招集場所はウォータービレイをさらに東に越え、サーマシバル国境沿いの小都市デアニール。彼らもシラサギもその道中にあった。
後ろめたい者ほど目立つルートを避ける。そうして外れた道を進み、件の輩とかち合う原因となる。結果として今に至り、その惨状をシラサギが目撃する。それは、あまりに出来過ぎていた。
「まあ、退屈しのぎにはなるかもな」
罠の可能性は十分にある。それでもシラサギにとっては遊戯と変わらない。
彼は知っている。自分は強者である。そして、ヤタガラスなのである。だから悩むことに意味は無い。ただ目の前の快楽をむさぼり食うだけでいい。それがヤタガラスなのだから。
シラサギは表情に浮かび上がる邪悪な笑みを仮面を覆い、乗ってきたバイクに跨る。
けたたましい音をなびかせ、轍にそって走っていく。
夜は段々と深くなりつつあり、やがて闇の中に消えていった。
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