PANDEMIC 感染爆発

暁人

PANDEMIC (すべての人々へ)

「なぁ、お父さんと一緒に戻らないか?」


 私はなるべく冷静な声を出すよう心がけ、優しく語りかける。


「いきなり飛び出して行って、一人暮らしするなんて……」


 瞼の裏にヘソを曲げた意固地そうな顔がちらつく。反抗的な目に知らず知らずのうちに感情が昂っていく。


「私は、お前が……恵美が心配なんだ!」


 最初に心がけていた優しくはものの数分と持たず怒気に変わっていた。


「ダメダメですな。ここで興奮することは逆効果になってしまいますよ」


 横から諌めるように口が挟まれる。


「なにも知らないくせに知ったような口をきくな!」


 彼は私の感情的な言葉にやれやれといった感じで肩を竦める。


「落ち着いてください。確かに私は彼女のことは知りません。でもこういう職業柄、多少なりとも女心については理解しているつもりですよ」


 諭すような口調でそう言い切る彼の主張は癪に障るが、一度心を落ち着かせるために、彼の言葉に耳を貸すことにする。


「いいですか? 本番では機嫌よく話をするのです。決して彼女を責めてはいけません」


 彼はタクシーの荷台から私の旅行カバンを取り出し、私に渡した。


「いきなり上機嫌で娘の家に現れろと?」


「いきなりは拙いですね。まずは電話をすると良いでしょう」


 そう言われてなんの考えもなしで娘のマンション前まで来てしまった私は、慌てて携帯電話を取り出す。


「では、もう一回予行演習をしておきましょうか?」


 彼はトランクを閉め、にこやかに微笑みながら振り返った。私も彼のような顔ができたなら娘は家出など馬鹿なことを考えなかったのだろうか。


「いや結構。とてもタメになった」


「そうですか、では娘さんの説得、頑張って下さい」


 彼はそう言ってタクシーの運転席に戻る。


「車、どうもありがとう」


「とんでもない、これが私の仕事ですから。ではまた何かご用の際にはうちのタクシーをどうぞ御贔屓に」


 そう言い残し彼が車を出すと、一人になった私はポケットの中の携帯を弄びながら、娘が住んでいるマンションへと歩き出した。


「――――!!」


 突然、人の声ではない絶叫が聞こえた。


 思わず立ち止まり、周囲を確認する。しかし、すぐに止んでしまったのであまり深く考えることをせずに娘の部屋へと足を進めた。


 娘のマンションは四角の棟で庭を囲むように出来ていて、子どもたちが遊べるように規模はかなり小さいが遊具が設置してあった。子どもが好きな娘が好んでこのマンションを選んだのだと思う。階段は団地を思わせる無機質な灰色であったが、娘の部屋の前には花の鉢が置いてあり何か植える予定があるのだろう。私はほんの少しだけ笑みを浮かべていた。


「恵美、私だ。父さんだ」


 コンコンとドアをノックする。返事がない。ドアノブを回してみると建付けが悪いらしくギィっと耳障りな音をたててドアが開いた。


「不用心だな。ったく」


 娘の部屋は電気を付けていないらしく、薄暗く、引っ越し後の整理がまだ終わっていなくて、所々に段ボールが積み重なっていた。しかし、奥の方で何かをしている音がするので誰かしらいるのだろうと私は奥へと進んだ。


 そこに居たのは中年の作業服を着た男性だった。パッと見た感じ、クーラーの取り付け工事に赴いてきたのだろう、プラスドライバーを持ったままうろうろと部屋を徘徊していた。


「すいません、私はここの、遊佐の父なのですが、娘は何処に? 留守なのでしょうか?」


 男はこちらの問い掛けに答えるどころか今度はクーラーを接続部分にプラスドライバーを振り下ろしていた。


「ちょっと……」


 普通ではない行動に気になった私は、男に近づき、肩に触れられるぐらいまで寄ってから大きな声で声を掛けた。すると男は振り返り、うがあああああっと大きな声を上げてプラスドライバーを使い、梃子の原理でクーラーを外そうとしているように見えた。専門的なことは分からないし、難しい作業で声を掛けて欲しくなかったのでないかと思えてきたので私はそのままその部屋を離れて、手元で弄っていた携帯を思い出した。


 タクシーの男が言っていた通りに電話を掛けてみることにしたが、電話は留守番電話だったので私が来ていると言うことだけを吹き込んで電話を切った。


「恵美?」


 娘が部屋に帰ってきたと思ったら、今度は青年が入ってきた。彼も作業着を着ている所を見ていると工事にきているのだろう。


「君、ここの家主を知らないかね?」


 彼は両手で持っていた工具を床に置いてから自分の方を向いて答えてくれた。


「彼女ならちょっと、と言って出て行きましたよ」


「そうか、ありがとう」


「いえ、では作業に戻りますね」


 彼はあの男の後輩なのだろうが、奴よりかは使える男になるだろうなと思った。


 私は手持無沙汰になり、このまま娘の部屋のリビングで待っていたら作業の邪魔になりそうな気もしていたし、一刻も早く娘と話をしたかったので、玄関で娘の帰りを待っていた。するとリビングの方から先ほど会った若者の絶叫が聞こえてきた。


「止めてくださいっ! 先輩っ!!」


 私はリビングの方へと目を向けると、青年が今まさに作業着の男に襲われていた。


「おい、止めなさいっ!」


 青年は必死に男の肩を押さえて、これ以上自分に詰め寄ってこないように防いでいたが、思いのほか男の力が強いようで、だんだん押されていっているようにしか見えなかったので、男の注意をこっちに引くように大きな声を出した。


 男が声に反応してこっちを見つめる。私も男を見つめ返す。その間に出来た隙に青年は渾身の力で男を跳ね退かした。男は後ろの壁に頭を打ち、鈍い音がした。


「君、彼は……大丈夫か?」


 頭をぶつけた状態のまま、私を見つめたままの恰好で動かない男の身が心配になり、襲われていた青年に男の安否を聞いてしまっていた。


 次の瞬間、何の影響もないかのように男は壁から弾かれたように私に走ってきた。私は反射的に玄関を飛び出て、目の前にある階段の方に逃げる。しかし、数段上がる前に男に背中にあるリュックサックを掴まれて背中から階段を落ちてしまった。その時に手に持っていた携帯電話を落してしまう。


「止めろっ!」


 リビングで襲われていた青年が私のリュックサックを掴んでいる男にタックルをかまして、男を階段に突き落とした。男はすぐに立ち上がって、奇声を上げながら私たちの方に向って階段を駆け上がる。携帯電話を拾おうとしていた私に今度は青年が襟首を持って部屋へと強引に連れ込まれた。


「おい、私の携帯が……」


 文句を言おうとしたらドアの向こうで強く叩き、奇声を上げる男が覗き穴から見えた。急いでドアのカギを閉め、靴箱をドアのノブの前に噛ませる様に置き、ドアが開かないようにした。


「彼はいったいどうしたんだ? まず、警察を呼ぼう」


 私は上がってしまった息を整えながら提案した。


「仕事中はケータイを持ってないんです」


「ダメか…。しかし、本当に彼はどうしてしまったのだ?」


 私の二度目の問い掛けに彼はドンドンと叩かれるドアを足で押えながら頭を振って分からないと答えた。


 遠くの方でサイレンが聞こえた。だんだんとこちらに近づいてくる。私は青年と一緒に広場が見えるリビングの窓の方へと移動した。


 そこはさながら映画の世界であった。


 人が走り逃げ回り、重装備の警察が奇声を上げて突進してくる人を透明な盾で身を守りながら、警棒で頭を殴っている。


「奴に近づくな。逃げろ。逃げるんだっ!」


 警察関係者にもこの奇声を発する人間がいるらしく、指揮官らしき警官が部下と市民に呼びかけている。私と青年は上からただ眺めていることしか出来なかった。マンションの中庭を利用して作られた広場はそんなに広くない。だんだん逃げ場を追い詰められて、一人、また一人と警官らが市民の盾となって倒れて逝く。音を聞いてか、奇声が気になってかは分からないがマンションの住人らが窓を開けて恐る恐るとこの地獄のような光景を眺めていた。


「助けてっ!」


 若い人妻であろう女性が警官だった化け物に手首を押えられ、首筋に噛まれそうになりながら叫んでいた。


「麗子っ!」


 一階下の窓から彼女を呼ぶ声。見ると若く、精悍な体をした男性が彼女に手を伸ばしながら動揺している。


「た、助けに来て……ガ……」


 ついに警官に首に噛みつかれ、血を噴き出しながらなおも助けを求める麗子と呼ばれた女性。一階下に彼女の夫と思われる男性は若い娘の制止を振り切って玄関の方へと走って行った。ふと視線を感じて見上げた先の同階のベランダにはタンクトップで筋骨隆々な男性が何故か腕を庇いながら下を見つめながら鼻で笑っている。


 そして動いているのが奇声を上げている人しかいなくなった。私たちを認識したのか、私たちの住人の姿が見えている窓の真下に集まり、壁を叩き出した。青年の背中で庇いながら窓を閉めて青年の方へと振り返った。


「恵美は何て言っていた?」


「誰だって?」


「この部屋の住人だ。何て言っていた?」


「ちょっとと言って出て行きましたよ」


「何分前に?」


「貴方が来るほんの直前です」


「上着は持って行ったか?」


「持っていなかったと思いますけど」


「じゃゴミ捨てかな。ゴミ袋を持っていなかったか?」


「僕は仕事をしていたのでそこまで見ていませんよ」


 私は彼の言葉を信じていたが、何もしないということは苦痛でうろうろとリビングと廊下を行ったり来たりしていた。その時に玄関の外の方で携帯電話が鳴る音が聞こえた。私は娘から電話が来たのだと確信していた。ドアに噛ませていた靴箱を退かそうとしていた所を青年に肩を掴まれて引き離された。


「恵美の、娘からの電話だ」


 青年の目は私の目をしっかりと見つめてから首を振り、無理ですと言った。玄関の外からは携帯電話の典型的な着信音であるピロピロピロという音と奇声を発する人間だった化け物がドアを叩くドンドンという音が響いていた。


「あれは絶対に娘からの着信だった」


 リビングのソファーに座り、青年に聞こえるように愚痴を言う私を尻目に、青年はテレビが映りませんね? と軽く聞き流しながらテレビのリモコンを弄っていた。


 私は深く溜息をつき、コンセントが抜けていることを指摘してやると彼が小さくあ、と間の抜けた声を上げてコンセントを刺した。


 テレビのモニターから臨時ニュースという文字が浮び上がった。


「私は遊佐。遊佐信司だ」


「僕は孝之です」


 彼は私の方を見て軽く頭を下げ、私はテレビのモニターから目を離さなかった。


 アナウンサーが伝えていることで確かなのは日本でこの暴動が各地で起こっていること。死者が少なからず出ていることということだった。


「……それでは政府からの発表を中継です。報道官、これはテロなのでしょうか?」


「憶測の質問には答えられません。それよりも被害を防ぐことが先決です。市民の皆さんは自宅から出ないようにしてください」


「暴動での負傷者は噛まれたような傷があるそうですね? それについで政府はどのようにお考えなのでしょうか?」


 孝之がぼそっと噛むってなんだよと言った。


「日本政府と警察は速やかに事態の収拾に努めます。厳重に戸締りをして警察の対応をお待ち下さい。例え、友人、家族の安否が心配でも家に居てください。安全第一でお互いに協力をお願いします」


「以上、中継でした。新しい情報が入り次第流しますのでテレビの電源を消さないようにして下さい……」


 これ以上臨時ニュースの文字が浮かび続けるモニターを眺めていてもしょうがないので孝之にコーヒーでも飲むかと提案したが彼は首を振り続けるばかりで一生懸命に臨時ニュースしか映していないモニターを眺め続けた。



 私は孝之のくしゃみで目が覚めた。部屋は暗く、テレビのモニターには砂嵐のノイズが吹きあられ、玄関の方で散々聞こえていたドアの叩く音は聞こえなくなっていた。昼間に見た広場の風景は化け物が壁を叩き、襲われた人たちが地面に転がって動かなくなっていたのに、今見ると、壁を叩いていた化け物も転がっていた被害者の姿も減っていた。窓の前を立ち去る前に同階の筋骨隆々の男が気になり、見てみたらやはり彼は腕を庇いながらずっと下の広場を見つめていた。


「おい……恵美、お前は今どこにいるんだ……」


 私のつぶやきは誰にも届かずポツンと消えた。


 ピ――――――――


 朝一番のテレビモニターが映し出すのは七色。孝之はリモコンで次々とチャンネルを変えてはいるが映るのはほとんどが七色の棒だけだ。


「おはよう」


「おはようございます。テレビ、映んなくなっちゃいましたね」


「寝室にラジオがあったから取ってこよう」


 私が寝室からラジオを取ってリビングに帰ってきたら孝之が困ったような顔をしながら窓の方を見ていた。私も見てみると左の最上階で壮年の男がこちらに向かって何か言っているようだった。


「おい、マンションの入り口の門を閉めなければ」


 余りにも大きな声で叫んでいるので、一階下の若い娘も窓を開けて壮年の男を見ていた。


「建物の門を閉めよう」


 男は私に提案するように言った。どう考えても正気じゃない。


「自分でやればいい」


 男はムッとした顔をして、私たちの方を見なくなり、彼女の方を見て言った。


「君の部屋の上は誰だ?」


「確か……斉藤、さん」


「よし、ならば斉藤に門を閉めさせよう。君からも声を掛けてくれ」


 男はいかにも名案が思い付いたかのような口調で喋り続ける。私は男の話を聞き流したままラジオのチューニングを合わせていた。その間に彼女が上の部屋の主である斉藤をぼそぼそと小さな声で呼び続けていた。雑音だけだったラジオのチューニングが合って来たようで、雑音混じりだったが人の声が聞こえ始めていた。


「静かに」


 彼女は一回こちらを見てきたのでラジオを見えるように窓から突き出すと納得したのか頷いて斉藤を呼ぶのを止めた。だが、それにしびれを切らしたのか、昨日の精悍な男性が窓に出て来て俺が行くと言って窓から姿を消した。姿は見えないが彼女が制止している声だけが聞こえてくる。


「行ったのか?」


 仕切りたがり屋の男は満足そうに鼻を膨らませながら聞いてくる。一階下の窓に今度は慌てた様子で彼女が顔を出す。


「兄さん、降りてきた?」


 彼女の兄は本当に出て行ったらしい。階段を駆け降りる音が響いている。この行動はいけない。化け物どもを刺激してしまうだろう。


「お兄ちゃんっ!」


 彼女が堪らず男を大声で呼んでしまう。すると門の方からの空気が変わった。何かが蠢いている。


「大声はいけない」


「そうだ! もうちょっと、そのまま、そのまま…そう、門を閉めろっ!」


 私の声をかき消して、最上階の男の声が響き渡る。その声と男が広場に着いたのを合図に化け物どもが一斉に門の方から湧き出した。男は棒で何体かの化け物の頭を叩きながら門へ目指していったが、甲高い悲鳴が聞こえてそのまま門の向こう側から帰ってこなかった。彼女の泣き声がこだまし、壮年の男は何事もなかったかのようにそっと窓を閉じて部屋の中へ行ってしまった。男が降りてきた階段の方へ何匹かの化け物が消えていったが、他の化け物どもはそのまま門の方へと帰っていった。


「……日本政府は自衛軍の出動を承認しました。これは総理の国家非常事態宣言によるものです」


 ラジオから流れ出る声を聞きながら私は窓から他の住民たちの様子を窺っていた。


「この暴動は状況から判断しまして、狂犬病のウィルスが突然変異による感染症の感染者たちが起こしているようです。病原菌の感染ルートは傷口から液体を介して侵入するようで、ウィルスは個人差もありますが数分から数時間で体内に拡散します。ただし……」


 右側の部屋にさっきには顔を見せなかった若い夫婦が電話を使っているのが見えた。私はカレンダーを一枚だけ千切り、マジックペンで娘の電話番号を書いて窓に押し付けた。


「感染だけでは発症はしないようです。極度の緊張状態が続いたらつまり、アドレナリンが大量分泌されて初めて発症します。感染の疑いがある人には注意が必要です。たとえ感染しても発病さえしなければ既存の狂犬病のワクチンで克服することが可能です」


 電話を使っていた夫婦の窓には『電話 不通』と書かれた紙が掲げられていた。


「感染者が出た場合は近づかないで下さい。それが家族や友人であったとしても注意を引いてはいけません。住宅密集地にいる場合などでも家を出ないで下さい」


 一階下の彼女はまだ窓を開いたままに兄が消えていった門の方を眺めて泣いていた。視線を戻し、同階のタンクトップの男はベランダにイスを出して腕を摩りながらラジオを聴いていた。


「交通網は遮断されており、自衛軍は水路による避難を準備しているようです。ドアにバリケードなどを築いて強化し、常にラジオを付けていて下さい。ラジオをお聴きの皆様、日本政府は……」


「繰り返しか……」


 録音でしょうと答えた孝之は箒の柄の部分に包丁をガムテープで固定しようと悪戦苦闘していた。


「放送局も避難するものかね?」


「電話さえも不通だそうだからそうなのでしょうね……」


 孝之の投げやりな返事が癪に触った私は孝之が作ろうとしている不格好な槍に不満が込み上げてきた。


「それはなんだ?」


「こんな見た目ですが、槍のつもりです」


「包丁で?」


「矛の替わりですね」


「これは私の娘の包丁だぞ」


 私は怒りを隠さずに孝之に詰め寄る。


「また買えばいいじゃないですか」


「娘が帰って来たら怒るぞ」


「……本当ですか? この非情事態に、たかだか包丁ぐらいで?」


 彼にも不満が溜まってきているようで孝之は立ち上がり、私の目を見ながら向こうも強い口調で言ってくる。


「ああ、絶対に怒る。娘は料理が好きだからだな」


 私も喧嘩腰で孝之を睨め付けながら言い返した。


 その時に外に落してしまった携帯電話がピロピロと着信が入った。私と孝之は音のする玄関の方を向いて固まってしまった。


「電話が復旧したみたいですね。それとも初めから向こうの棟は停電でもしていたんでしょうかね?」


 最初に沈黙を破ったのは孝之だった。


「このままだと電池が切れてしまう」


 私は腕を組んだままリビングの端から端へと歩き回っていた。そして、孝之が作りかけていた槍に注目する。


「その槍もどきで何をするつもりだった?」


 やっと聞いてくれたかと言う感じで孝之はすらすらと使用用途について語り出した。


「これで顔面を狙います。できるなら目を。あとは頸動脈でもいい。そこは人体の急所で人間が鍛えられない場所でもあり、簡単に戦意を奪えますから」


「よせ、相手は人間なんだぞ。まだ感染しただけで発症していない人だっているかもしれないじゃないか」


「……僕は医大生ですから言いますが、ラジオで既存の狂犬病で感染者を治癒できるって言っていましたけど、人類は未だに狂犬病を克服できていません。この政府の発表を鵜呑みにするのは危険すぎだと僕は思います」


 私は覚悟を決めて孝之に言った。


「……携帯を取りたい」


 私はノブを固定していた靴箱を退かし、そっとドアを開いた。


 感染者の姿は見えず、携帯電話は私が落とした場所に変わらずにあった。私が大きくドアを押し開けて、後ろで槍を持って構えていた孝之が飛び出して周囲を警戒する。


「上にも下にも居なさそうです。急いで」


 私はもし襲われてもすぐに皮膚まで噛まれないように、噛み切られないようにゴム手袋を二重にし、音を立てないように一歩、一歩を慎重に階段を下りて行く。


 ピロピロピロと携帯電話が、鳴った。


 その音が化け物どもの呼び鈴になったらしく、上からも下からも奇声が聞こえ、多くの足音が階段に響いてくる。私は急いで携帯電話がある段まで飛び下りて携帯に手を伸ばす。良かれと思って二重にしたゴム手袋のせいで指の関節がうまく動いてくれない。やっとの思いで携帯電話を手にした時にはすぐ目の前に化け物がいた。


「早くっ!」


 孝之が繰り出した槍は私の目の前にいた感染者の鎖骨部分の当たりを貫いていた。しかし、孝之が作った槍もどきは箒の柄の先端に包丁をガムテープで巻き付けただけの急造品でその一発で包丁が感染者の体に刺さったまますっぽりと抜けてしまった。が、私がドア近くまで逃げる時間は十分に稼いてくれた。

 私と孝之が玄関のドアに駆け込み、と同時に閉じようとした時、ドアに差し込まれる複数の腕。思いっきり引いても腕は引く気配がない。感染者の進入はもうどう考えても防げそうにない。


「寝室の方にバリケードを用意してくれ!」


 私の玄関とリビングの破棄宣言を聞くか聞かないかの間に孝之は駆け出した。腕は次々と差し込まれていき、しまいには頭まで突っ込まれた。頭は首を強く挟み込まれているのにも関わらず、私の方を見て歯をカチカチと鳴らしていた。もう一刻の猶予もない。


「遊佐さん! 籠城の準備できました!」


 孝之からの合図を聞くと私はドアに押されるように駆け出した。

 すぐに寝室に入りドアを閉め、衝撃に備えて二人でノブを引く。大半は未だ同じ話を繰り返したれ流し続けているラジオを音に引き付けられたらしく、思ったよりも感染者がこちらに来なかったので、タンスとベッドをうまく使い、寝室を完全に開けられないようにした。


 始めは寝室のドアを叩く音がしていたが、それも静かになり、やっと私と孝之は腰を下ろすことができた。


 ピロピ……


「恵美っ!」


 娘からの電話だと確信し、ワンコール終わらないうちに電話に出た。


「信司か?」


「…………伊丹か?」


「いやぁ、無事だったか。今どこにいる?」


 電話の相手は私の友達で家族とも付き合いがある伊丹だった。恵美でないことが少し悔しかった。


「安全な所いる。すまん、恵美からの連絡はあったか?」


「いやないな。お前、彼女を連れ戻しに行ったのだろう? 合流出来てないのか?」


「まあな、そっちの様子はどうだ?」


「そっちはってことはこの状況はどこでも一緒ってことか。ああ、頭のイカれた奴らでいっぱいだ」


「信司。こっちに早くこっちに戻ってこい」


「それは名案だな……」


「こっちは家族みんなで学校に避難しているからさ……」


「あー、悪いな一旦切るよ」


 電話の向こうでおい、切るな、話を聞けと言う声が聞こえてきたが、私は無視をして切った。すぐに着信履歴を調べて娘からの連絡がないか調べてみた。しかし、着信を入れて来ていたのは伊丹やその他の同僚らで恵美からの連絡はなかった。


「電話、借りてもいいですか?」


 気がつくと孝之は私の隣に立ち、手を伸ばして待っていた。私は何も言わずに携帯電話を孝之に渡し、放心した状態でベッドに体を投げ出した。


「母さん?」


 孝之が電話に問いかける。しかし、漏れ聞こえてきたのは只今、電話に出られませんと言う機械の女性の声だった。


「もしもし、俺だよ。俺は大丈夫。みんな、頼むから元気でいてくれよ」


 孝之は私に携帯電話を投げて返し、力なく床に腰を下ろしてぼーっと窓から見える空を眺めていた。


「ションベンする場所がなくなってしまったな。こうなってしまっては窓からするしかないなぁ……」


「じゃあ大きい方はどこでするんです?」


 孝之は苦笑しながら話に乗ってきた。


「食べる物がないから出ないさ」


「そんなことはないですよ」


 ボ―――――


 外から聞こえてくるこんな住宅街では聞くことのない音。


「なんだ」


「もしかして、汽笛ですかね?」


「船か?」


「ええ、港が遠くない所にありますからね」


 立ち上がり、窓の方に駆け寄って音源を捜す。マンションの住人たちがみな、窓から身を乗り出して音を聴いていた。


「聞いてくれ。大事な話だ。妻が発熱した」


 電話の不通を教えてくれた若夫婦の旦那がいきなり窓を開き、目を充血させ興奮気味に叫ぶ。


「静かに!」


 左の壮年の男が気に障る声で言う。


「解熱剤がない。誰か持っていないか?」


 薬はあったとしてもリビングの方だろう。回りの住人を見回して見ても首を振るばかりだった。


「一人なら心当たりがある」


 壮年の男の発言にみんなが期待して見つめる。彼は私たちに指を指しながら言った。


「君たちのお隣さんだっ……」


 窓からの会話に反応したのか感染者らが徘徊する音が大きく響いて、話かけていた壮年の男は話すのを止める。音が静まるのを待ってから蚊がなくようなか細い声で続ける。


「山田の婆さんだ。彼女は昔から病気がちでね。このようになる前に話した時は熱が下がらないと言っていた。そう、たしか昨日の話だったと思う」


「隣に行けそうか?」


 夫は身を乗り出して私に尋ねる。私は孝之と顔を合わせたが、孝之も首を振る。


「無理だ」


「そこをなんとか頼む」


 寝室から出るとそこはもう感染者に侵入されているのだから行きたくとも行けない。沈黙が続く。


「腹は減っていないか? 食糧は足りてあるのか?」


 男は唐突にそんなことを聞いてきた。私たちの沈黙を是と判断した夫は矢次早に続ける。


「薬と交換だ。いくらでも分けてやる」


 彼は私たちの答えも聞かずに窓を閉めてしまった。

 夜になり、切れかかった電灯が薄暗く辺りを照らす。中庭には徘徊する感染者、住民たちは息を潜めて朝を待っていた。しかし、同階の男の行動はなにか変だった。自室の上ばかり見て歩き回っている。しばらくそうしていると私が見ていたことに気がついたのか、歩き回るのを止め、窓側で仁王立ちになり、私のことをじっと見つめていた。私は彼の視線を避けるようにしてカーテンを閉めて、孝之が寝ているベッドの横に寝転んだ。


 朝の強烈な冷え込みで早々に目を覚ました私は、今までの習慣通りに窓のカーテンを一気に開いた。そして、目の前の部屋の男が首を電気コードで括り、筋肉の付いた立派な身体が振り子のように宙に浮いているのを見た。


 私は振り子をジッと眺めて考えていた。


「どうかしました?」


 私は部屋の写真が下げてある壁を見て言った。


「腹、減ったよな?」


 手始めに、写真を飾ってあった額縁を外し、その裏にあるフックタイプのネジをネジ山が潰れないように慎重に抜き、それを天井に再び固定した。そしてベッドを分解し、鉄パイプと木材に別け、鉄パイプは先端部分をハンマーで叩き潰し、なるべく尖らせる。先端を尖らせたパイプを前の方に置き、木材でその物体に重さを足した。それらを纏めて布団を細かく引き裂いてロープの替わりにしたものやカーテンを使って括りつけ、天井に固定したフックに取り付けた。簡易的な攻城兵器である破城槌が完成した。


「こうゆうの、好きなんだ」


 私はまるで子供のように笑っていたと思う。この顔に孝之が驚いたらしく、何を思ったのか恵美が愛用していたデジタルカメラ拾い、レンズを私の方へと向けてきた。私はなんだか照れくさかったが自然と破城槌に寄り掛かり、ポーズを取っていた。


 二人で破城槌の後方部分を持ち、できるだけ大きく上げて、離す。振り子の力で威力の増した槌が壁に当たり、向こうの部屋が覗けるぐらい穴を穿つ。孝之は思いのほかに出た音が気になったのか窓の方へと駆け寄る。そして慌てて戻ってきた所を見ると感染者の化け物どもの耳にも届いたらしい。


 それよりも私の心配は破城槌にあった。天井に固定してあるフックは額縁用で重たい物に耐えられない。破城槌の重さに負け初めてフックがだんだんと広がっていっているように見えるし、そもそも、槌部分を浮かせているのは布団やカーテンを引き裂いてつくった簡易的な紐なのですぐにダメになりそうな気がする。


「急ごう」


 二人で槌を持ち上げては振り落としを繰り返し、人が一人通れるぐらいの穴が開いた。


 私は先に孝之を押し込みながら私は寝室のドアの方を見た。そこはかつて聞いたとのないぐらいに叩かれていて、タンスも揺れていた。私が穴に入ろうとした時にタンスは倒され、感染者どもが我先にと寝室へと入ってくる。私は焦り、強引に穴を通ろうとした時に左腕に熱い何かを押し付けられたような気がした。


 穴を通過した先には恵美の部屋とは違う意匠のリビングだった。とりあえず、重いテレビ台ごと穴の前に置いて、感染者らが通れないようにした。

 やっと一息吐くことができる。そして初めて奥の部屋から物音がしていたことに気がついた。


「どうも、山田さん。あの、壁を壊してしまってすいません。でも、これには深い訳がありまして……」


 山田の婆さんは焦点があっていない目で私たちのことを眺めていた。無言が続き、私と孝之は無意識に少しずつ後ずさりしていた。


「ひっ、ヒャアアアアアアアアアア!!」


 婆さんはいきなり頭を激しく振り、どうみても腰が曲がって走ることなんてできない体をしているのにも関わらず、滅茶苦茶に手足を動かして襲いかかってきた。


 逃げようとした私の背中に婆さんは飛びかかり、驚いた私は背中を壁に強く打ちつける。衝撃で私の肩を掴んでいた手を放したので、渾身の力で婆さんを放り投げた。


 婆さんが倒れている間に彼女が出てきた部屋に立て篭もる。相手は老婆の姿をした化け物一人だったので孝之はドアを抑えるのを止め、テーブルを動かしてつっかえにした。今までとは違い、あまり力のない化け物だったのでそれだけでドアを封じることが出来た。


 この部屋には立派なリラックスチェアーがあり、ここが山田の婆さんの居場所だと感じ、目に付く引き出しを見て回り、旦那が欲しがっていた解熱剤を探す。


「あったあった」


 孝之はテーブルの上に置かれていた薬入れを取り上げて嬉しそうに言う。私は薬入れから解熱剤だけ取り出してポケットに突っ込んだ。


 老婆の金切り声が化け物の軍隊に号令をかけたかのように、大きくて重い物が落ちて、ガラスが割れる音が聞こえた。穴から感染者が這い出てくる音だ。


 この部屋のドアはガラスがはめ込んであって、老婆が叫んでいるのがアップで見えていたが、後ろから屈強な男に跳ね飛ばされて、老婆が消えた代わりに男たちが次々にドアを叩き始める。私は何かないかと周囲を探し、孝之は必死にテーブルを押し込んでいた。


 上を見るとちょっとした屋根裏のスペースに一人ぐらい隠れられる場所があることに気付いた私は孝之に登らせる。その時に偶然にも感染者の叩いていた手がガラスを突き破った。押す人手が減り、相手の方が増えると負けるのは明白だ。私はテーブルから手を放し、逃げ道がないか探し、窓の外に伸びる梯子を見つけた。


 夢中で走り、梯子を手にとって振り返ると感染者たちはドアを完全に破壊し、さっきまで立て篭もっていた部屋には奴らが溢れ返っていた。


 梯子を登り切ると屋上へと繋がっていた。化け物どもは追ってこない。私は寝ころんで、荒くなっている息を落ち着けた。そしてその視界が反転した世界でテントを見つけた。しかもそこから覗いている顔に見覚えがあった。テントから出て、私の方へと一歩一歩と近づいてくる。


「……お父さん?」


「え、恵美?」


 恵美が駆け寄ってくる。私は安心してしまって、また頭を地面につけていた。


「どうしてここにいるの?」


「お前を家に連れ戻すために」


 自然と思ったことが口から出てくる。あれほどうまくいかなかった予行演習が嘘のことのように思える。


「家に……?」


「そうだ。あと会って話もしたかった。迷惑か?」


 恵美は目に涙を溜めながらそんなことない、と首を振った。


「でも、部屋を滅茶苦茶にしてしまった」


「お父さんが無事ならそれでいい……」


 そして視界の端に若い男がテントから出てくるのが見えた。娘をここに保護してもらったのだ。父親ならば礼を言わなければならない。


「離れろ、ケガをしている」


 男の放ったその一言で恵美の顔から笑顔が消えた。そして立ち上がり、後ずさりしながら私から距離を取っていく。慌てて私は立ち上がった。


「噛まれた傷なの?」


 腕を見る。穴を無理に通った時に感じた熱さは何かで引っかけた時に皮膚が裂けた痛みの熱さみたいだった。


「いや……これは、引っかき傷だろう」


「感染者にやられたの?」


「だから、部屋から部屋へと移動しようとした時にできた傷だよ」


 娘の方に一歩近づくたびに男は恵美を背中で庇い、一歩下がっていく。なにかこの行為に怒りを感じて恵美に尋ねる。


「彼は誰だ?」


「山田さんよ。梯子があった部屋の御孫さん。私は彼のお婆さんの様子を見ていたら急変されて、ここに避難したの」


 ずっと近くにいたのだ。隣の部屋に……。


「なぜ電話に出なかった?」


「落ち着いて」


「なぜだっ!」


「だからっ! ……落ち着いて」


「下りろ」


 気がつけば男は私にスコップを突き付けていた。


「恵美」


「早く下へ行け」


 焦った声で男は私をスコップで脅しながら迫ってくる。恵美は彼の肩を触り、制止を促していたがそれを振り払い、声を荒げていった。


「行けよっ!」


「やめてっ!」


 恵美の制止の声で私を突くスコップは止まり、私も彼も恵美を見ていた。


「せめて反対の方から降りて」


 私は絶望を感じた。いや絶望しか感じられなかった。私は梯子を山田の婆さんの部屋から移動させる手を休めて恵美の方を振り返って言った。


「恵美、別れたくない。考え直してくれ」


「……行って」


 恵美の言葉と男が力強くスコップを押し出してくる目に見える拒絶に、私はのろのろと反対側に下の階のベランダに梯子を下ろして降りていく。


 私がベランダに下りたことを確認すると、男は梯子を上へと回収していった。ここの部屋はベランダから見るに感染者に侵入されていないようだ。このベランダから見る景色は恵美の部屋からでは見ることができなかった外の世界の姿を始めて見えた。


 空はどんよりと曇り、車の音は一切聞こえない。所々に煙が立ち上り、遠くの方で人の悲鳴が微かに聞こえた。私は手にいれた薬を強く握り閉めて回りを見回す。少し向こうで川があり、そこにボートがあるのが見えた。


 私は柵の上に立ち、ゴム手袋を外して、外へと投げ捨てた。すると何故か恵美への未練も消え、新しく考えが纏まっていくのを感じた。


 私は部屋に入るため、窓ガラスを割る準備をする。ガラスを割るときに音が出ないようにと素手を傷めないように上着を脱いで、丸めてガラスに押し付けて思いっきり殴りつけた。鈍くガラスが振動しただけでなかなか割れない。なので、さっき会った男の顔を思い出しながら拳を窓ガラスに叩きつけた。するとガラスは割れ、大きく砕ける音がした。ガラスは割る時よりも割れて下に落ちて砕け散る時の音の方が大きいようだ。


 最初の予定ではロック部分だけ割って窓から侵入する予定だったのだが、窓ガラス全体が割れてしまったので普通に入ることにした。大きな音を立ててしまったので辺りが静かになるまでは引っかけた傷の治療と無人の部屋に水と置いてあったバナナを頂き、二日ぶりの食事を摂る。今までバナナはあまり好きではなかったが、この時のバナナは特別うまいと感じた。


 暫くした後、玄関のドアを軋まないように両手で持ち、そっと押し開けて外を覗き見る。廊下には化け物どもの姿はない。慎重に部屋を出て、廊下を歩く。皮靴の出すコツコツという高い音が冷たい廊下に吸い込まれていく。流石にこれはまずいと思い、私は靴を脱ぎ、靴下で廊下を歩いた。


 階段に辿り着き、そこには四階と書かれていた。恵美の部屋や孝之を置いてきた部屋は三階にある。下の方に何かが動く音が聞こえてくる。今、廊下を移動するのは感染者の化け物どもと自分しかいないはずだ。そんな中で孝之を助けにいくのは危険だろう。ひとまず、この階で薬を待っている夫妻に薬を渡すことが、私に出来る最善の行動だ。


 夫妻のいる部屋の近くにある階段で下に二人の化け物が突っ立ったままで踊り場に固まっていた。夫妻のドアをノックする音だけで反応するかもしれない。私は窓ガラスを割って侵入した部屋から大きめのガラス片を持って来ていた。先ほど身を持って知った教訓をここで活かす。音を立てないように数段階段を降り、手すりから身を乗り出す。化け物どもは動かず固まっていた。私は化け物どもが下に行くように階段と手すりの隙間を狙い、ガラス片を投げ込んだ。


 ガシャーン


 音に釣られるように化け物たちが、奇声を上げて踊り場をグルグルと二人して回り出す。音源を捜しているようで、下から聞こえてきた奇声にも反応したのか、二人は互いに引っ掛かりながら階段を転がり下りるように消えていった。

 私はしばらくこの場所で待ち、化け物どもが戻ってこないことを確認した。戻ってくる様子は無かったが、慎重に一歩一歩と階段を上り、若夫妻の部屋へ音を立てないように細心の注意を払いながら目指す。


 若夫妻の部屋が見えてきて、音を立てないようにすることを忘れ、軽く走って目指す。ドアの前に立ち、僅かに聞こえるようにノックする。


 反応がない。


「奥さんの解熱剤を持ってきた。薬だぞ」


 ギリギリ中に聞こえるぐらいの声で話しかけるが、反応がない。


「開けてくれ、薬を持ってきた」


 ノックと声掛けの両方で試してみるがやはり反応がない。ノックと声が知らず大きくなっていたのか、先ほどガラス片を投げ込んだ階段の方から奇声が近付いてくるように感じる。


「早くっ!」


 気のせいでは無く、後ろから階段で響いてくるのは奇声と足音。前からは人の長く伸びた影がチラチラと見えている。部屋の夫妻はやっと気づいたのか玄関の方で何かを動かす音が聞こえる。


「開けろっ!」


 ドアを開けるのにもたつく夫妻にいらつき思わず私は怒鳴った。もう化け物どもには発見されていて、後ろの方はもう音が響いていない。階段を抜けてすぐそこまで来ているだろう。前には化け物どもの顔がしっかりと見える距離まで近づいていた。


 ドアがゴルフクラブを使って押し開けられた瞬間に体を滑り込ませ、ドアを引いて閉める。ゴルフクラブを持っていた男は私が開けられないようにドアを必死に引いている間、ノロノロと後から付け足されている頑丈そうなカギを閉めていった。恵美の部屋のドアとは違い、叩かれる音は聞こえてもドア自体は全く軋んでいなかった。少しの間、私と男はドアを見つめていた。


 夫妻の旦那は振り返り、無言で手のひらを私の前に出す。私はポケットに押し込んでいた解熱剤を取り出すし、その手のひらに置いた。彼の目は薬を確認し、また私の目を見つめる。私も見つめ返し、これだけしか持ち出せなかったことを告げた。旦那は私の肩に手を乗せ、ありがとうと言ってから急いで妻が待っている部屋に向かった。


 夫妻の部屋は恵美の部屋の間取りとまるっきり違っていた。玄関から廊下が無くてリビングになっており、広く部屋が作られている。置いてある家具も高価な物が多いようで、大きなソファーに煙突付き暖炉を模様した暖房器具、独特なデザインをしたスピーカーなどがあった。


「仁美、起きられるかい?」


 奥さんの様子が気になり、奥で開かれたままの部屋を覗き見る。そこには顔色が青白いを通り越して土気色の顔をした奥さんが横たわり、旦那が優しい声で甲斐甲斐しく世話をしていた。


「あなた、先に包帯を換えて」


「まず、仁美が薬を飲んでからだ」


「あの音は何の音かしら?」


 奥さんはナーバスになっているらしく、化け物がドアを叩く音や奇声に敏感なぐらいに反応していた。


「なんでもないよ。ほら、薬を飲もう」


 旦那は覗いていた私に気づいたのか首を振り、見ないように指示をしてきた。私は再びリビングに戻り、ここまで来る間に開いてしまった傷をテーブルに置いてあったテイッシュを借りて止血した。


「薬、まだ残っていたの?」


「ああ、探していたらまだ出てきた」


 夫婦の会話を横で聞きながら、窓の方へと近づき、孝之を残してきた部屋を眺める。その時に小さく聞こえたカメラのシャッター音と逢魔時の藍色が広がる空間を切り裂くフラッシュが部屋で瞬いた。その出来事が孝之の行動で起こっているかと思うと居てもたってもいられず、窓を開け、体を乗り出して次に起こる事を待った。


 次の出来事もフラッシュだった。しかし、光は部屋ではなく階段で輝き、そのまま連続して光が階段を下りていった。奇声は今まで私たちを威嚇のように聞こえていたのが、フラッシュの瞬いた後からではまるで怯えているようにも聞こえた。


 強い光に焙り出された化け物どもは顔を両手で隠し、我先にと門の方へと消えていく。そして広場にはデジタルカメラを胸の前に突き出して被写体を確認もせずにシャッターを切りまくる孝之の姿が見えた。


 彼はデジタルカメラを構えたままで門の方へと近づき時折、フラッシュを焚きながら門を閉めた。そして彼は私に気付かないまま、走って階段へと消えた。しばらくして、玄関のドアをノックする音がした。



 遊佐さんが僕を屋根裏に押し上げた時にガラスを割られ、遊佐さんは窓の方へと逃げていく。僕は感染者らが出す奇声が恐ろしく、感染者はところ構わず壁を叩く。土下座みたいな格好のまま体を動かすことなく息を殺して固まっていた。


 しばらくすると壁を叩いていた感染者の数は減り、窓の方に向っていった感染者も帰ってきたが、遊佐さんが戻ってくることはなかった。僕はポケットに入れていたデジタルカメラを思い出した。これは周囲の確認に使えると思って撮影モードにし、壊れたドアの向こうを写るようにして手を伸ばした。


 その時、ドアの隅に倒れていた老婆の感染者が起き上がって腕を伸ばしてきた。僕は焦って腕を引っ込める前にシャッターボタンを押してしまっていた。


 ピピッ


 薄暗い部屋の中でフラッシュが眩しく光る。そして、響く感染者の絶叫。


 ピピッピピッ


 そのままの勢いでシャッターを連続で切る。光が瞬くたびに感染者は目を押えて悶絶すし、しまいにはどこかへと走り去っていった。感染者が去った後、宙に置いたままにしていた手を急いで戻し、デジタルカメラのモニターを確認してみるとアップで映った感染者の顔があった。


 僕は老婆の顔写真を眺めながら、狂犬病について思い出していた。狂犬病に感染した患者は前駆期に発熱、全身虚弱を起こし、急性期に視覚過敏、恐風症状や恐水症状、精神は興奮状態になり錯乱、狂暴になり、犬の遠吠えに似たうなり声を出す。また恐水症状のせいと唾液の分泌増加により、よだれを垂れ流すようになる。まるでブルドックみたいに……。そして最終的に全身に痙攣を起こし、昏睡期に入る。昏睡期は呼吸困難、血圧低下を起こし、そのままほぼ確実に死亡する。


 そして記録で残っている生存者はわずか六名であり、そのうち五名は発症前にワクチン接種を受けており、ワクチン接種なしで回復した唯一の一名が施された治療法も未だ研究途上だ。我が国では狂犬病が撲滅されており、ワクチン接種をしている人なんて発展途上国に行く用事がある人たちだけだ。


 手元にあるデジタルカメラのモニターをよく見てみると、老婆の口元はだらしなく開いており、唾液のようなものが垂れ流れて、フラッシュの光に反射していた。この感染者らは本当に狂犬病の亜種だとするならば、今のように歩き回っているのは皆、急性期の症状が出ていることになる。


 感染者らが出す奇声も犬の遠吠えだとしたら狂犬病の亜種だというのがまんざらウソでもないような気がする。先ほどのカメラフラッシュでまぐれながらでも撃退できたのは視覚過敏によってだったとしたら?


 まだ試していないし、時間も無いが水や風に怖れて逃げていくかも知れない。そしていつの日かもしかしたら感染者らは昏睡期に入り、自滅していくかもしれない。


 僕はカメラのフラッシュが運でも感染者の気まぐれだったことじゃないと思える理由を仮説に立て、この仮説を証明するために別の感染者に試すことにした。しかし、この屋根裏から狙える所に感染者は見当たらない。慎重にテーブルに足を置いて、滅茶苦茶になった部屋に降りる。


 部屋には老婆の感染者しか残っていなかったのか、軽く見回しても感染者を発見出来なかった。しかし、僕と遊佐さんで開けた穴しか感染者の進入ルートがないハズなので、テレビ台が倒れ、テレビのブラウン管が粉々に砕け散って散乱しているリビングに戻ってきて穴に向かい、シャッターを切った。悲鳴が聞こえ、バタバタと慌てて走り去る音が聞こえた。


 仮説が当たったみたいだ。感染者らは少なくとも視覚過敏であり、強い光に対して恐怖を覚えているみたいだ。僕の手の中にある、ちいさなデジタルカメラは記録を残すための物ではなく、感染者に対しての強力な武器として覚醒したように感じた。


 そこから僕は銃を手にしたゾンビ映画の主人公になったような気分でフラッシュを焚いた。フラッシュで感染者が死ぬことはないが、自分一人が一度フラッシュを焚くと周りにいる感染者らが壁に押されるように光った範囲から離れていく様子はまるで魔法だ。


 階段では感染者の後ずさりで前に固まっていた感染者が押し出され、玉突き事故のように、ドミノ倒しのように倒れていく。将棋倒しで倒れ、フラッシュから逃げる感染者たちに踏まれ、生命活動を停止した感染者をも発見し、映画のゾンビとは違って頭を完全に破壊しないとダメだという訳ではなく、人体に深刻なダメージを与えることで死ぬということが分かった。


 感染者を発見するとシャッターを切り、階段の下へと追い詰めて、中庭へと誘導していく。四方を囲むようにして棟が建っているこのマンションの中庭では、恐風症状の有無を確認するのは難しそうだったが、僕が中庭に出た時、光を恐れて逃げて来た感染者だけで開いている門の方から感染者が入ってきた様子がないため、風が首筋を撫ぜるだけで神経症状が出ると言われている恐風症状も出ていると推測できた。


 あとは水を怖がるかどうかだったが、今すぐに実験できるのはこのぐらいで、このマンションの安全を確保するために門を閉めることが優先だ。


 適度な間隔でシャッターを切り、フラッシュを焚きながら、感染者をけん制し、鉄門を一気に閉じた。映画のように襲いかかってくることもなく、光に怯みながら逃げていく感染者に少し物足りない感を感じながら、若い夫妻のことを思い出した。


 遊佐さんと合流しないといけないが、今は彼がどこで、無事にいるか分からない。だったら目的であった若夫婦の部屋で待っている方が合流できる可能性が高そうだ。


 そう考えた僕は階段へと戻り、感染者がいないか警戒しながら若夫妻の部屋を目指し、彼らの部屋の前の安全を確認してからノックをした。



 私は部屋の厳重な鍵を外すと、ドアを背にしてカメラを構えていた孝之を部屋に入れた。


「無事でしたかっ!」


「それはこちらのセリフだ」


 私たちは握手をしながらお互いの無事を祝った。私の問いに孝之はデジタルカメラを得意げに掲げて言う。


「遊佐さんのお嬢さんのカメラのおかげです。これで感染者の弱点も分かりました。まぁ最初はまぐれだったんですけどね……」


「うるさいっ!」


 私たちの会話を遮った声は優しく奥さんを看病していた旦那の声だった。孝之はむすっとした顔をしていたが、私ははしゃぎ過ぎたと思い、謝ろうとした。その時にガラスが砕ける音がし、そして奥さんがベッドから飛び出してきた。


 私たちが振り返り、奥さんが飛び出してきた寝室を見る。そこには頭を抱えて苦しむ旦那の姿が見えた。


「あの人、あの人はきっと私の薬を探すために感染者に噛まれたんだわ。腕に包帯を巻いていたもの……昨日までそんなのしてなかったもの……」


 私はテーブルに置いてあった花瓶を取り上げて棍棒のように高く構えた。孝之はカメラを構える。奥さんは私たちの行動を見て、寝室の前に立ちふさがる。


「離れなさい」


 私の問いかけを首が取れるんじゃないかと思うぐらいに振って否定を示す奥さん。


「私が、化け物になったら仁美を守ってくれ。この部屋にあるものは全部君たちが好きに使っていい。お願いだ。どうか。仁美だけ……」


 頭を押さえながら旦那は私たちにお願いしながらベッドの上を転げ回る。


「やめてっ、やめてくださいっ!」


 奥さんは私の振り上げた腕に縋りついてきながら懇願してくる。旦那のうめき声が大きくなると奥さんは私たちが見ている中、開かれたままになっている窓の方に行き、そこで泣き崩れてしまった。


 私は奥さんの方に駆け寄り、肩を掴んで窓から遠ざけた。このまま奥さんが窓から身を投げ出すように思えてしまったからだ。寝室の方では『ハッハッハッ』と苦しそうな呼吸がだんだん弱くなり、ベッドを転げ回る音もしなくなった。私は奥さんの肩から手を離して、寝室の方へと駆け寄った。


 ピピッ


 感染者らが発する特有の奇声が聞こえる前に孝之のデジタルカメラのシャッター音が聞こえて、嫌がる唸り声が聞こえた。私は振り返り、寝室の方を見る。発症してすぐにはカメラのフラッシュは効果があまり無いみたいで、私たちの方を見て旦那だった感染者が突っ立っていた。


 私が一歩下がると感染者が一歩詰めてくる。後ずさりしていたらソファーにぶつかって、その柔らかく座り心地のいいソファーに倒れこんだ。旦那だった感染者は口から唾液をダラダラ流しながら、動けない私にまた一歩と近寄ってくる。孝之は必至にシャッターを切りながら私に迫りくる感染者をけん制していたが、まるで効果がない。


「あなたっ!」


 私の窮地を救ったのは奥さんだった。彼女が感染者に声をかけたことで感染者が私ではなく奥さんの方を見て動きが止まった。


「こっちよっ!」


 感染者は特有の奇声を上げて奥さんの方へと走り出す。奥さんは両手を拡げ、まるで愛おしい子どもが胸に飛び込んでくるのを抱きかかえるようにして待ち構えていた。


「ありがとうございました……!」


 彼女は窓の方へと移動していたようで、感染者の勢いに任せたタックルで二人とも黒い夜へと吸い込まれていき、少し遅れて、肉を打つ鈍い音が中庭から響いた。


 私はノロノロとソファーから起き上がり、窓の方へと近づき、下を覗いた。旦那と奥さんは互いにしっかりと抱き合ったまま地面に激突したらしく、仲のいい夫婦が静かに寝入っているようにも見えた。後ろから孝之が同じように窓から覗きこもうとしたが、体中から流れ出る赤い水たまりがどんどん広がっていくのが見えたので、孝之が覗く前に窓を閉めて、カーテンを強く引いた。


 彼女が最期に言った『ありがとうございました』は私たちに言ったのか、最期まで頑張ってくれた旦那に言ったのか分からなかったが、多分、夫に言ったのだと私は直感で感じていた。



 私たちは若夫妻の部屋で簡単な食事を摂った。その時に孝之の考察を元にした仮説を聞き、感染者に効きそうな物や生活に必要な道具、それと食糧をできるだけ集めて部屋を出た。このマンションの生き残りは私たちだけじゃないはずだ。屋上にいた恵美と若い男、恵美の部屋で会話をすることが出来た少女や他の住人などまだ感染していない人がいるだろう。特に自分は行動しないで他人を使おうとしたあの姑息な壮年の男は絶対に生きている。自ら危険を冒すことなんてしないだろう。まず、私たちは彼らたちと合流することにした。


 孝之がカメラを使ってこの部屋までの感染者を追い払ってくれていたが、このマンションから全ての感染者を追い払ったとはとても思えない。私も夫婦が愛用していたと思われる大きなフラッシュ機能が付いたフィルムカメラと写真フィルムを手に持ち、荷物を大きなボストンバック二つに孝之と分けて背負い、部屋を出ようとした。するとキッチンに居た孝之から静止の声がかかった。


「すいません、ちょっと待って下さい。もうちょっとでペットボトルに水を入れて終りますから」


「その水をどうする気なのだ?」


「言い忘れていましたが、狂犬病患者なら恐水症状が出ているはずなので、これも武器になるかもしれないんです。まだ確証は無いのですけど」


 そう言って、玄関に現れた孝之の手には2リットルのペットボトルが二つも握られていた。孝之は水も感染者らに有効な武器になると強く考えているのが分かった。


 私たちは感染者を撃退しながらこのマンションを脱出するためにまず最上階へと向かった。感染者たちは孝之の行動時に出た音に釣られたらしく、ほとんど姿を見つけることが出来なかったが、年老いた感染者らが階段や廊下に座り込んでいた。孝之はペットボトルのキャップを開け、私はカメラを構えて待機する。近いところの廊下に横になっていた老人の感染者に水がかかるようにしてペットボトルを投げつけ、私はカメラのファインダーを覗き、老人の顔にピントを合わせた。


 孝之が投げつけたペットボトルは水を周囲にまき散らしながら老人の形をした感染者の体中を濡らした。その途端に感染者は大声で奇声を発し、廊下を転げ回りながら慌てて水で濡れた場所から離れようとした。私はファインダー越しから感染者をじっくりと観察した。そして思い出したのは孝之が狂犬病の感染患者に起こりえる症状について話してくれた恐水症状のことだった。急性期に入ると、神経系が侵されて、いろいろな神経が過敏になる。その過程で弱点だと確認できている視覚過敏や触覚過敏も神経が侵されているからだそうだ。その状態で水を見ると、水面で反射された程度の光でも視覚を刺激して、そこから痙攣を起こし、それがまるで水を怖がっているように見えるからついた症状名だそうだ。


 ファインダー越しから見る感染者の様子はまるで聖水を振りかけられた悪魔のようであった。感染者は両手で自分の首を押えながら、目からは涙、口からは唾液を垂れ流し、水に濡れた付近から体を痙攣させながら引きずるように遠ざかっていく。


「……これは水が乾くまでの間は結界のようにして使えますね」


 ペットボトルを投擲した後に、効果が無いかった時に備えてデジタルカメラを構えていたのであろう孝之がなんだががっかりしたように言う。


「なにか結果に不満があったのか?」


「いえ、恐水症状は喉の、嚥下筋が激しく痙攣を起こし、その際にとても強い痛みが生じるそうなんです。なので、殺しはしないものの行動不能にしてその場に止めるぐらいには出来ると期待していたんですけどね……あてが外れました」


「しかし、これで感染者の奴らは水辺に近寄れないということがわかった。ほら、ラジオで言っていた自衛軍の救助は成功する確率が高くなるということだ。つまり、私たちも救助される可能性が高まるということだ。これはこの地獄が始まって以来の良いニュースだろう?」


 孝之はしばらくポカンとした顔をしていたが、次第に思い出してきたらしく、顔に笑みが戻ってきた。私たちはそのままあの気に喰わない壮年の男の部屋へと急いだ。


 壮年の男の部屋の近くにはまったく感染者の姿はなかった。私と一緒で感染者の奴らも彼が苦手だと見える。


「すいません、私は若い夫婦に薬を届けた者ですが、このマンションから避難するための方法が思いついたので一緒に行動しませんか?」


 自分自身が気のりしないのだが返事がない。彼の部屋がある階の階段に水を使って結界を張っているので私たちに感染者たちが近づくことができないはずだ。ノックを強め、声を大きくしても感染者の奇声がこちらの方へと近づいてくることは無い。遠慮なくドアを叩き、彼を呼ぶ。


「うるさいっ! 化け物どもが寄ってくるだろうが! そんなことも分からないのか?」


 ノックに根負けしたのか彼が顔を真っ赤にしながらゴルフクラブのアイアンを振り上げながらドアを開いた。


「今、ここの階は安全です。水で結界を作って入れないようにしていますから」


「お前、何を言っている?」


「遊佐さん。さすがにその説明では誰も分かりませんよ。あのですね、僕たちは新種の狂犬病患者の弱点を探って水と強い光に弱いことが分かったんです。ですから一緒に感染者のいるこのマンションから脱出しませんか? と言うお誘いなんですが……どうですか?」


 孝之の説明を聞いても納得できないらしく、彼は首を振った。


「脱出する意味が分からん。このままマンションに立てこもって救助を待てばいいじゃないか。何故危険を冒してまで脱出しないと行けないのだ?」


「そうですか、分かりました。ならばこのまま立てこもっていて下さい。私たちは脱出しますので」


「なにも行かんとは言っていないだろうが。全くこれだから早とちりする者は……私は自分の意見を述べたまでだ。話は最後まで聞きなさい。まったく」


 彼が最初に声をかけてきた時とまったく同じ印象でずる賢くていけ好かない人物だ。


 壮年の男と合流した後も、彼は私たちに自己紹介もなく、ずんずんとマンションを進んでいく。このマンションの住人は大半が感染者となってしまったか、外出していてパンデミックに巻き込まれたのかこの階のほとんど部屋がチャイムやノック、声かけをしても反応が無かった。


 壮年の男の部屋のある階から一階降りて、私たちと窓から会話をした少女の部屋へと目指した。しかし、その道中でも男は喚いた。


「人をそんなに多くの住人を集めて脱出で感染者の化け物どもをおびき寄せる結果になったらどうする? どう考えても危険だろう。まず、我々だけで脱出を試みて、救助を連れてこのマンションに戻ってくるんだ。これが最善の策だと思うのだがな。君たちはどう思う?」


「次があるか分からない以上は生き残っている住民の皆さんで救助地点まで行くべきだと私は思いますがね」


「僕も遊佐さんと同じ意見です。自衛軍が救助に必ず来てくれるとは限らないので……」


「まったく、目上の人間を立てると言うことを知らない若造どもはこれだから……。もう少し大人の生き方を覚えた方がいいぞ」


 男は自分の意見が採用されないことをブツブツとずっと呟いていたが、それも少女の部屋の前に来るまでであった。


「お嬢さん、いるかね? 窓で会話したおじさんだよ。感染者の化け物どもはいないからドアを開けて出てきておくれ」


 ゆっくりと開けられたドアから覗く二つの目は赤く腫れていて、見るからに怯えていた。壮年の男は開けられたドアの間にゆっくりと自分の足を突っ込み、ドアを閉じないようして話を続けた。


「可哀そうに、君は今までずっと一人で居たのだね。目が真っ赤だ。君のお兄さんは勇敢だった。私たちみんなの命を救おうとして死んでしまったのだ。だから私たちは協力して生き残らねばならない。死んで逝った人たちの分までね。だから私たちはこのマンションを脱出して救助してくれるところまで行こうと思っているのだ」


 さっきまでぶうたれていた男が発言する言葉とはとてもじゃないが思えない。この娘をたらし込んで自分の味方にしようとする魂胆が丸見えだ。彼女は多分兄のことを思い出したのだろう、肩を震わせて声を抑えて泣き出した。それを見ていた孝之は壮年の男を押し退けて、ドアを開いて彼女を外に連れ出し、背中を撫ぜて彼女を慰めていた。私が男の方を見たら、肩を竦めてやれやれとジェスチャーをしていた。



 僕たちは彼女を加え、住民の生存確認を続けたがドアを叩く音が虚しく響くのみで生存者を発見することができなかった。おっさんの提案で彼が雇われ管理人をしているという管理人室に案内されるがままに集まっていた。おっさんが言うにはここが一階で窓が多く、一階の廊下側と中庭側の二か所の出入り口があるため戦うにしても逃げるにしてもうってつけの場所というので僕と遊佐さんはボストンバックを下ろし、しばしの休憩をすることにした。


「あいつ、言い張ったほどの食糧はないな。まったく死んだ者に文句を言うつもりはないが、嘘を吐かれるのはたまったものじゃないな」


 僕が廊下側のドアノブにクローゼットから拝借したハンガーを分解し、針金のようにして巻いてドアの補強をしている時に若い旦那を馬鹿にする声が響いた。振り返って見てみるとおっさんが勝手に荷物を開けてあれこれと物色している。


「その量で足りるのか?」


 遊佐さんは窓の補強具合を確かめながら、しかし苛立っていることをとてもじゃないが隠しきれていない声で訪ねた。


「足りないというわけではないが……あの言いまわしだと食糧に期待するのはおかしな話じゃないと思うが?」


「でも助かります。でしょう?」


 僕はこの話を終わらせるために強引にドアの補強したハンガーも話題も断ち切った。そして遊佐さんがプッツンしないように彼の背中に手を当てた。遊佐さんは僕を見て軽く頭を下げてくれた。


「あの……ありがとう」


 緊張していたのか肺にたまった空気を吐き出した時にドアの隣にある壁を背もたれにしていた彼女からか細い声でお礼を言われた。ちゃんと顔を見て話しかけられたのは初めてだったので動揺してしまい、首をコクコクと頷き返すことしかできなかった。そしてその動揺を隠すために口を手で覆い、息を吐きかけて擦り合わせて暖を取る振りをしてしまった。


「……寒い、の?」


 彼女はぶかぶかのダッフルコートの中に隠れていたマフラーを抜き出して僕の方に向かって差し出してくる。その行動をじっと見つめていて、自分の目の前にマフラーを差し出された時に慌てて今度は首を横にブンブンと振った。どうゆう訳かやっぱり緊張していて言葉が出てこない。


「……どうぞ」


 ブンブン振っていた首に暖かい物が絡みついていて、気が付くと僕の首には真紅のマフラーが巻かれていた。さすがにここまでされたらお礼を言わなきゃならない。


「あ、ありがひょ……」


 そして、噛んだ。僕はそのまま彼女から回れ右をして荷物の方にいる遊佐さんとおっさんたちに向かって步き出した。後ろからクスクスと小声で笑うのが聞こえて、耳まで真っ赤になっている自覚があったが、あえて気にしないで早足で逃げた。


 遊佐さんが荷物を漁ったことでおっさんと揉めているのかと思ったが、実際には遊佐さんは窓の外を見つめていて、おっさんは見たくなかった物を見てしまったかのように苦い顔をして窓から背を向けていた。僕はどうしたんですか? と声をかける前に窓の外に広がる赤い海とそこに横たわる二つの躯を見つけた。


「どうするのだ?」


「君、ベッドからシーツをはぎ取ってきてくれないか?」


 遊佐さんは遺体から目を離さない。シーツを取ってくるように頼んだのは多分だが彼女に若い夫婦の遺体を見ることが無いようにと、シーツで二人の遺体を覆い隠すつもりなんだろう。僕も遊佐さんも奥さんが居なければ今ごろ感染者の仲間入りをしていたかもしれないと思うと胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。


「持ってきました……」


「ありがとう。しばらく、こっちの窓を見ないようにしてくれないか?」


 遊佐さんの問いかけにさっきの僕みたいに首をコクコクと頷かせる彼女。シーツを手に取り、中庭側のドアを開けて夫婦の方へと向かっていく遊佐さんの後を追いかけてシーツの端を持ち、一つのシートでシッカリと抱き合ったままの二人の遺体を覆いかぶさるようにシーツを広げ、そのまま覆い隠した。純白の真っ白なシーツが頭の方から、周りに広がった赤い湖から赤を吸い上げていき、本当にこの若い夫婦は死んでしまったのだなと思った。


 僕も遊佐さんも何も喋らず、管理人室に戻ってそのまま僕はろうか側を補強した余りのハンガーを使ってドアノブを封印した。コツコツと足音を響かせて僕の後ろにちょこんと立ち止まったのは彼女だった。彼女は何も声をかけて来なかったが瞳が『大丈夫?』と語りかけてくれていた。


「脱出前に腹ごしらえをしましょうか」


 おっさんは正気か? と訝しげな顔をして僕を睨みつけて付けてくる。背中には僕の袖を握りしめたままの彼女が一回だけコクンと頷いた。遊佐さんもやっと夫婦から目を外し、そうだなと言ってくれた。


「ここでか!? ありえんっ!!」


 その様子を見ておっさんはふんっと鼻息を荒くして、両手にボストンバックを持ち、重たさにかよろけながら夫婦の死体が見えない部屋に消えていった。


 若い夫婦の用意した食糧品の中に酒があったらしく、おっさんはご飯も食べずに呑んでばっかりいて、遊佐さんは夫婦の部屋から住民を探す途中で見つけたものを物色しながらスティックパンを咥えていた。食事しようと提案したのは自分なんだが、ミネラルウォーターのペットボトルの封を切っただけで食事に手がつかずに座り込んでいたら、真横にストン勢いよく腰を下ろして座る彼女。大きな菓子パンを手でちいさく千切ってはこれまたちいさな口に投げ込んで食べるみたいなことを何回も繰り返し、半分ぐらいになった時にやっと僕が見ていることに気付いたのか、彼女は目で『食べる?』と訴えながらパンを差し出してきた。


「こいつを見てくれ。これは眩しいぞ」


 遊佐さんはボストンバックからキャンプなどで使う野外を照らす大きい照明器具を出しながら僕を元気付けるように言う。


「……そう言えば、なぜフラッシュが有効だと分かったのだ?」


 酒瓶を口に付ける作業を止めて、遊佐さんの手元にある大型ライトをしげしげと眺めながら質問をしてくる。遊佐さんは僕を見た後、そのまま作業を始めた。僕は手で彼女の菓子パンを断わりながら立ち上がり、感染者に対する仮説の話をした。


「フラッシュが有効だと気づいたのはたまたまなんですが、そこからとラジオで言っていた狂犬病の亜種と言うことを仮定にして、狂犬病患者の病状と照らし合わせて納得できる根拠を見つけました」


「化け物どもの弱点は光と……水の結界だったか? それだけなのか?」


「弱点は強い光、水そして風ですね。狂犬病には症状として視覚過敏、恐水症状と恐風症状と言うのがありまして、視覚過敏は強い光に過敏に反応してしまう字の通りなんですが、恐水症状も恐風症状もようは神経が過敏に反応してしまうためなんです。感染者らは昼間、中庭をうろつかないでどこかに隠れていたのも風が直接当たる場所に居たくなかったのではないかと考えています。そして、まだ確認が出来ていないんですが、本来の狂犬病感染者はほぼ百パーセント、確実に呼吸困難になって死亡します。ここまで病状が一緒なら感染者たちも自滅し始めるかもしれません」


「…光で勝てる、の?」


 菓子パンを差し出したままの格好で質問をする彼女。


「ああ、今のところ一番有効なのが強い光で感染者を近づけさせないことだね」

 安心したのかまた菓子パンを口に運ぶ作業が始まる。


「なぜ、そのことを政府は発表しないのだ?」


「そればっかりは……」


 その時、山田の婆さんの部屋で襲われた時に遊佐さんはあの後どうやって生き延びたのかを聞いていないことを思い出した。


「そういえば、遊佐さんよく無事でしたね。どうやって脱出したんですか?」


 遊佐さんは一瞬動きを止めて僕をちらっと見た後また作業を続けながらポツポツと話し出した。


「あー、ベランダに梯子が立て掛けてあったので夢中でそれを上り、感染者たちが登ってこないように梯子を持ち上げた。そこは屋上だったので今度は反対側に梯子を降ろして若い夫婦の部屋へと向かった」


 あまりその話をして欲しくないと言う空気がバンバンに発せられていたのでこの話はこれでおしまいにして、彼女の隣にまた腰かけた。


「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったね。僕は孝之」


「……双葉」


 耳を赤くしながら俯いて名前を言う双葉を見て可愛いと思ってしまった。


 ボ――――――――


 唐突に響き渡る汽笛の音。僕も双葉もおっさんも動きを止めて耳を澄ませる中、遊佐さんだけは作業の手を休めてボストンバックの周りを歩き始める。なにか考え事がある時は毎回している行為なので僕は慣れていたが、他の二人が変な人を見る目で見ていた。


「無事に脱出出来る手段がある」


 遊佐さんの発言に、酒を呑むことを止めて、食パンにピーナッツバターを塗りたくっていたおっさんがゆっくりと遊佐さんの方へと振り返る。


「このマンションの裏にボートが止めてあった。それで救助船と合流するんだ」


 そう言うとボストンバックから油性ペンを取り出して、白いテーブルにそのまま図を書き出した。僕たちは立ち上がってテーブルの近くで遊佐さんの計画図を見ているとおっさんがいきなりパンをぶん投げて怒った。


「おい、それはネットオークションの競売にかける予定のテーブルだぞ。私に一言断ってから行動しろ。どうしてくれる?」


 僕たちはおっさんをじっと睨んでいたが、遊佐さんは全く聞いておらず、何か悩むように目を閉じて腕を組み、唸っていたが、再びペンが動き出した時にはおっさんももう何も言わずにテーブルを眺めていた。


 テーブルに描き出されたのはこのマンションを出てすぐの所にある小さな川の図で橋を描き、少し道を書きった所で大きくマルを書いてペンを置いた。


「屋上から見てこの大丸のところにボートを見つけた。距離は……おそらく五百メートルぐらいと言ったところだろうか。そこまでフラッシュや水で自衛しながらボートまで辿りつくことが出来れば安全に救助船まで向かえる」


 遊佐さんはさっきまで弄くり回していた大型のフラッシュライトを手に取り、一つは僕に持たせて、もう一つは自分で持ち、僕の背中に合わせるように立った。


「このように前後でこの強いフラッシュを浴びせる。残りの二人は水を浴びせたり、カメラのフラッシュで感染者を寄せつけないようにしてみんなで行動すれば大丈夫だ。あとはみんなでボートに乗りさえすれば感染者に襲われる可能性は無くなる」


「彼らは……泳げない、の?」


「孝之君の仮説通りなら感染者たちは水を怖がっている。絶対に大丈夫だ」

 遊佐さんの力強い頷きに安心したのか双葉ちゃんの顔に笑みが戻ってくる。僕もこの計画通りに実行できれば生き残れると確信した。


「で、どのような形のボートなのだ?」


 おっさんは酒を呷りながら僕も疑問に思っていたことを尋ねた。遊佐さんは黙ってしまった。


「……小型の…多分だが二人乗りだと思う」


 ガシャーンと瓶が割れる音がした。おっさんが手から酒瓶を滑らせたからだ。酒を呑み過ぎで顔が赤くなっているのか、それとも怒りのあまり真っ赤になっているのか僕は区別がつかなかった。


「なんだと? ふざけているのか?」


「交代で泳いでいくしかないだろう」


「泳ぐ? この真冬の川を? 私が泳いだら凍死するわっ! それか溺れて死ぬぞ。そ、そうだこうしよう。くじ引きだ。くじ引きにしよう」


「くじ引き? 泳ぐ順番か?」


「何をばかなことを……。もちろん、ボートに乗れる二人を決めるのだ。あとの二人は大人しくここで救助を待つ。どうだ? これが一番の我々が安全で生き残れる確立が高い方法だ。ほかに意見があるのならば教えて欲しい」


「バカな、逃げるならここにいるみんな一緒じゃないとダメだ」


「全員死んでしまうぞ! 生き残る価値がある人物が生き残らなければならない。これは君たちでも分かるだろう。今がその時なのだ。理解しろっ!」

 その声に合わせるかのように、電気が切れた。


「な、なんだ! なにが起こっているのだっ!」


「冷静に」


 いきなり消えた明かりとおっさんの悲鳴、遊佐さんの冷静な声にびっくりしたのか双葉ちゃんは僕の腕に張り付いて離れない。双葉ちゃんが僕を頼ってくれたので戸惑う余裕がなかったが、もし自分一人だけならばおっさんぐらいには焦っていた自信がある。


「電気はどうしたっ!」


「大丈夫か?」


「僕も双葉ちゃんも大丈夫です」


「明かりを早くっ! 懐中電灯は無いのかっ!」


 おっさんが喚き散らす中、ボストンバックに手を突っ込んで三つの懐中電灯を見つけて、僕はそのうちの一つにスイッチを入れて双葉ちゃんに渡した。そしたら双葉ちゃんはその懐中電灯をそのまま遊佐さんに渡してしまったので、おっさんに一つを投げ渡し、もう一つを僕が双葉ちゃんの足元を照らすようにした。


「みんなで、脱出しよ?」


「僕も双葉ちゃんの意見がいいと思います」


「これで三対一ですが……この議論を続けますか?」


「……くそっ。このままではまずい。仕方あるまい、明日の早朝に全員で脱出するしかあるまいな……」


「初めて意見が一致しましたね」


「ああ」


 僕たち全員でおっさんの答えを待っていたらキョロキョロと僕らを見回して、懐中電灯を付けないままこの部屋から出て行った。このまま電気が復旧するか分からないので僕の手に持っている懐中電灯を消して、遊佐さんのライトで灯りを取った。


「明日は朝一にここを脱出するから早く寝なさい」



 真っ暗の部屋の中で幽かに音をしたような気がした。感染者がマンションの外にわんさかいるのになぜ幽かな音がそんなに気になるのは、音が小さすぎるからだ。感染者たちは奇声などで音を立てないと言うことを知らない。そう、泥棒が細心の注意を払って寝込みに付け入るような……。


 バタン――――


 それでも明日にはこのマンションから脱出しなければならないから無理矢理意識から離して眠るように強く目を閉じた。すると横にいた双葉ちゃんが力強く僕の体を揺すった。


「あの…おじさんが居ない、の」


 その声で飛び起きたのは僕だけじゃなく、遊佐さんはボストンバックと大きなフラッシュ機能が付いているフィルムカメラを置いてあるテーブルに走っていた。僕は双葉ちゃんを落ちつかせるために両肩に手を置いて座らせた。


「カメラが……あのクソ親父、逃げやがったっ!」


 僕も慌てて立ち上がり、遊佐さんの後を追って中庭に通じるドアがある部屋へ飛び込んだ。そこに居たのはボストンバックを肩から斜めがけにして首には大きなカメラを吊下げているおっさんがドアノブに巻いたハンガーを必死に解いている姿が見えた。


「おい、待て」


 遊佐さんが大声を上げておっさんに飛びかかる。


 バシャッ


 暗闇に馴れきっていた目には強すぎるフラッシュが突然瞬き、視界が真っ白に焼けついた。僕よりもおっさんに近かった遊佐さんはモロに光を見てしまったのか、人が倒れる音がする。視界が白いまま、音だけが鮮明に聞こえてくる。もう一人で逃げることがバレてしまったからか、大きな音を立てながらドアノブをガチャガチャする音が響いて、勢い良くドアが開けられる音が響いた。


 僕の視界から色が戻ってきた時にはまた遊佐さんは立ち上がり、おっさんの後を追って中庭に飛び出して行っていた。慌てて遊佐さんの後に付いて行こうとすると背中に軽い衝撃が走り、振り返ってみると双葉ちゃんが僕の背中に抱き付いていた。


「いかないで」


 それでも僕は振り解いて遊佐さんの援護にと思っていたら、腕を掴んだまま前に回られて足に抱きつかれ動けなくなった。


 遊佐さんとおっさんが消えた門の向こう側からは強いフラッシュが何回も瞬き、感染者たち奇声がどんどん大きくなっていく。カメラや水のない今の状態じゃ行っても感染者の餌食になるだけだ。


 僕は力の入らない手で双葉ちゃんの手を振り解きながら、門の向こうが少しでも見えるところに近づこうとしていた。その時に双葉ちゃんは僕から手を離して門の方へとかけよっていった。慌てて彼女を止めようとしたところ、向こう側から遊佐さんがボストンバックを握りしめながらこっちに走ってくるのが見えた。


 僕と双葉ちゃんは鉄門の両端に立ち、遊佐さんがマンション内に入ったと同時に門を閉め、双葉ちゃんを背中で庇う。最初は勢い良く鉄門を揺する音が響いていたが、それでも一人で逃げていったおっさんの悲鳴に釣られていったのか、あっさりと僕らのことを諦めて感染者たちは去って行った。


 僕たちがほっと後ろで荷物を取り戻してくれた遊佐さんにお礼を言おうとして振り向くと遊佐さんはマンションに駆け込んだままの格好でボストンバックを雑に投げ出し、息を荒くして呼吸を整えていた。


「バックは奪い返してきたが、カメラはダメだった」


「あ、ありがとう、です」


「触るなっ!」


 遊佐さんの様子が少しおかしいことに気が付かなかったらしい双葉ちゃんは遊佐さんの腕を労わるように触った瞬間に遊佐さんが怒鳴った。それにびっくりしたらしい双葉ちゃんは思わず後ずさり、遊佐さんもゆっくりと僕らの方に振り返って……。


 僕は目を逸らした。そして、近くにあったゴミ箱を思いっきり蹴飛ばした。


「クソっ!」


 振り返った遊佐さんは前から怪我をしていた。そのことは知っていたが今、遊佐さんが血を流していたのは包帯を巻いていた左腕ではなく、右腕からだった。そしてその傷は引っ掻き傷ではなく明らかに歯型がついている傷だった。遊佐さんは大きく深呼吸をして急ごう、とだけ言ってボストンバックを拾い直して管理人室へと向かって行った。僕たちはその場から動けなかった。


 その後、遊佐さんはもう一つのボストンバックを管理人室から引っ張り出し、ほかにもアルミホイルを持ち出して駐輪場に置いてあった三輪車にいろいろと弄っていた。僕の隣で双葉ちゃんが引っ付いたまま泣いていた。目の前で感染者になってしまった遊佐さんに色々思う所があるのだろう。僕もホントは泣きたかった。


 夜が明けて、空が瑠璃色に変化した頃、遊佐さんが疲れ切っているが清々しそうな顔で僕たちを呼んだ。


 「私が作ったんだ」


 そういう顔は二人で作った破城槌の時に見た顔そっくりだった。大人、いや老人が安定して自転車に乗れるように車輪が三つ付いている三輪車の後ろにある荷台籠の両端部分に鏡が不格好だが取り付けてあり、後部には管理人室で見つけたと言っていた大型のフラッシュライトが固定してあってその電球部分にアルミホイルで作った漏斗を逆さまにしたようなのがくっついていた。僕が渋い顔をしているとアルミホイルを指差して用途の説明を始めた。


「これは余計なところに光が行かないように反射させてフラッシュを強くさせる役割があるんだ。そして前には娘のカメラを設置して、おっと、アルミには触れるなよ? さっきと同じ効果がある。こいつはコマドリモードに指定してあるんだ。シャッターを押している間は断続的にフラッシュが続くはずだ。それと……」


 そして籠に置いてあったもう一つのフラッシュライトを取り出して双葉ちゃんに渡した。


 そのフラッシュライトにもゴテゴテとアルミホイルが巻かれていた。


「こいつは両手で持って感染者の顔面を狙ってスイッチを押すんだ。そうすれば感染者どもをやっつけられる」


 そう言って双葉ちゃんの肩を叩いた。そしてまた僕に向き返ってじっと見つめられた。この三輪車は僕が漕いで双葉ちゃんが荷台に立つように作られていた。遊佐さんは一緒にこないつもりだ。僕は多分なんとも言えない顔をしていたと思う。でも、遊佐さんは何も言ってくれなかった。


「さぁ、行け」


 短く遊佐さんが言った。僕たちは動けない。


「急ぐんだ。さあ」


 そう言って三輪車から離れる遊佐さん。僕は動けないままだったが、双葉ちゃんはフラッシュライトを荷台に置いて、遊佐さんに抱きついた。二人がなにか喋っているように見えたが僕まで声が届かなかった。しばらくして双葉ちゃんが遊佐さんから離れた後、また遊佐さんが僕の目を見て強く頷いた。そして鉄門の方へと歩いていった。


 門の前はおっさんが一人で逃げた時には門の向こうが見えないほど感染者で溢れていたのに今では人の影さえ見えない。音を立てないように慎重に三輪車に跨り、双葉ちゃんを荷台籠に立たせる。遊佐さんは荷台部分を押してゆっくりと三輪車が加速していく。


 ――――――――――!!


 誰もいないと思っていた大通りに響きく絶叫。車の影に隠れていたのか壮年の男っぽい感染者が躍り出たが、双葉ちゃんが向けたフラッシュライトで悲鳴に変わり、尻もち着きながら下がって行く。ヤツの悲鳴に惹かれて出てきた感染者はもう数えきれない。


「ボートだっ! 奴はボートまで辿り着いていない。孝之君、頑張ってボートを目指すんだっ!」


 僕たちの三輪車を目指して殺到していた感染者の何割かが僕らを無視して遊佐さんの声がした方へと走り抜けて行く。もう僕には後ろを見て遊佐さんの安否の確認する余裕も無かった。前も右も左も感染者の洪水だ。恐らく後ろにもヤツらはついて来ているに違いない。双葉ちゃんが振り回すライトが目の端を白くする。フラッシュをくらって倒れた感染者を踏み倒しながらさらに後ろから迫ってくる感染者の群れ。前に付けて貰ったカメラのシャッターを点けっ放しにしてただひたすらに三輪車を漕いだ。遊佐さんが託してくれた生き残る希望のため、熱い涙が頬を濡らしているがボートまで絶対に足を止めない。僕と双葉ちゃんが生き残る。それだけがここまで頑張ってくれた遊佐さんに報いるただ一つの方法なのだから……。



 双葉は最後の最後で助けてくれてありがとうと言った。私はなぜか孝之君をよろしくと言っていた。この地獄が始まってからずっと一緒だったのだ、情が湧いたのかもしれない。彼女は奴らが現れる最後まで私のことを見ていた。そして奴らが出てきてからは絶えずフラッシュが煌いている。彼らの背中に私の託した希望も一緒に行っているようでとても綺麗に見えた。しかし徐々にだが綺麗だと思っているはずの光が怖く感じ初めているのも感じていた。それが堪らなく怖かった。


 あのクソ野郎をぶん殴って、孝之と双葉をこの地獄から逃がし、自分がここでやろうと思っていたことは全てやった。もう心残りは無い。そう思っていたのだが、何かが引っかかる。私は無意識に足を進めていた。階段を上るごとに足が躓く。大変な思いをして着いたのは――の部屋。最初に孝之と出会った部屋だった。なぜ私がこの部屋に来たのかは分からないが、何故か気分が良い、がしかし疲れた。少しこのイスに座って休もう。


 隣から響く悲鳴。少し気になったので――の部屋を出て隣の部屋をノックする。ドアを押しあけて慌てて飛び出たのは若い男と老婆だった。老婆は奇声を上げて、男は謝りながら老婆から逃げて行く。


「お父さん……」


 恵美だ。


「え、えみ」


「私、噛まれちゃった……追い出しちゃったりして、ごめんなさい」


 娘だ。全て思い出した。そうだ、私は娘に会いにここまで来たのだ。


「一緒に帰ろう」


 私は娘を抱き締めてベランダに出た。下には感染者たちがまた侵入していた。近いうちにまた化け物で溢れかえるだろう。

 そして赤黒く変色したシーツが目に入り、脳裏に昨日墜落した若夫婦の姿が蘇る。彼らはこんな気持ちだったのだろうか。死ぬことに抵抗がないわけではない。むしろ怖い。だがそれ以上に愛する娘と離れ離れになる方がよっぽど私は怖かった。


 それに遅かれ早かれ私は下で呻いている化け物と変わらなくなる。だから私が私であるうちに、他人にこれ以上迷惑をかけないよう生涯を終えたい。それが最後の私の我侭だ。唯一救いがあるとすれば、死ぬ時も私の隣に愛する娘がいてくれるということだろうか。


 私たちは柵の上に立ち、強く目を閉じた。次に目を開ける時にはどうかこの悪夢が終わっているように。

 そんなことを思いながら私たちは重力に身を任せ――

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PANDEMIC 感染爆発 暁人 @akihitosan

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