第1話―5


「…………………………」


 ドアを、開ける。

 魔術師の姿を目の当たりにし、配達人の少年が身を震わせた。

 まるで悪魔か何かを目の当たりにしたような反応だが、まぁ無理もないかと、魔術師の男は他人事のように思う。


 あくまでも、魔術とは技術である。確かに極めるには才能や血統が左右する。しかし、その真髄は神秘の再現であり、詰まりはかつて誰かが為した奇跡を理論立てて解明する行為である。

 人が、人のままに出来る事の極限………それが、【魔術】。

 ………そこを踏み越えた、【魔法】という概念もあるにはあるし、そこには万人が到達できるわけもないのだが。


 まぁ、ともかく。

 当人にとっては単なる技術であるのだが、傍目には人間離れした化け物にしか見えないのだろう。そうした凡人の無理解には慣れっこだ。彼等は己の理解の及ばぬものを、全て同じ箱に投げ込んで蓋をしてしまうのだ。


 しかし今回は、それがプラスに働く。


「何か、用か、小僧」


 なるべく不機嫌な声を出す。幸いにもその演技は難しくはなかった。何せ今現在の機嫌は、お世辞にも良いとは言えない。


「あ、あの………」


 少年は口ごもり、二三歩後退った。その様子を見ながら、男は鼻を鳴らす。所詮は、ただの小僧だな。


「用がないなら、失せろ」


 言いつつ、男は地面に置かれた食事の籠に手を伸ばす。

 4分。

 少年が現れてから、それだけの時間しか経っていない。





「………………………」


 そのやり取りは、私の耳にも届いていた。ドアの開く音、男の不機嫌な声。


「おやおや、最悪な事態じゃねぇか?」


 バグの声の通り、まさに最悪だ。

 目の前には、いくつもの青い輝き、魔力線に囲まれた水晶玉がある。

 結界の基点。ここさえ壊せれば、この家の結界は全て無効化できるのだ。のだが………しかし。


 それにはあと、三十秒は掛かる。


 結界を避け、基点に仕掛けられた罠を避け、破壊に移るには、それだけの時間は掛かってしまう。それも、短く見積もって、だ。


「さて、さてさてどうするどうする?」


 解除したら殴る。そう心に決めつつ、私は解除に全力を注ぐ。逸る心を抑えつつ、しかし、急ぐ。

 急ぐが、しかし。無理なものは無理だ。

 ………結界の中での魔術師との決闘。ゾッとしない想像に、私の額に汗が一筋、流れた。





 焦っていたのは、少年も同じだった。

 約束の5分までは、あと1分ある。しかし、男はどう見ても、そこまで待つつもりはなさそうだ。


 どうする、どうする、どうする。


 男の細い腕は、今にも籠に届きそうだ。そして届き次第、男は部屋の中に引っ込んでしまう。


『五分間、男の気を引いて欲しい』


 あのラビの【お願い】を聞いて、自分は頷いた。簡単だと思ったし、事実そう言った。そう言って、金を受け取った。


 それを、全うすることは、今や困難だ。


 目の前には、怒れる魔術師。対して少年の手元には、武器の一つもない。

 どうすれば、いいのか。少年には、困難に過ぎるその問題。

 しかし、困難とは、不可能ではない。





「………ふん」


 男は籠を掴む。あとは、それを室内に持ち込むだけだ。

 やはり、大したことなかった。男はそれきり少年から注意を外し、室内に戻り、


「………うわあああああ?!」


 幼い叫び声。弾かれたように振り返ると、少年が、腕を振り上げていた。

 振り下ろす。その小さな掌には、握り拳大の石。それが勢いよく飛び、そして、


 窓ガラスに、突き刺さった。


 当然のように割れるガラス。

 呆然とし、男は口をポカンと開けていた。

 暮れかけた陽光を浴び、シャワーのように落ちてくるガラスの破片を眺めてしまう。


「………、はっ?!」


 一瞬の自失の後、男は我に帰り視線を少年に向ける。

 しかしもちろん。少年は走り去っていた。その背が小さくなっていく。


「………くそ………」


 追うか、諦めるか。

 暫し悩み、やがて、男は息を吐いた。もう、これはこれでいいとするしかないだろう。

 恐らく、幼い度胸試しに付き合わされたのだろう。少年は明日から仲間内で、【魔術師に石を投げた】と自慢することだろう。

 男は改めて振り返る。苛々と歩きながら室内に戻り、大きく音を立ててドアを閉じた。





「………………………?」


 玄関ホールに踏み込んで、男は眉を寄せる。点けていたはずの燭台は、蝋燭の一本も残らず消えていて、真っ暗だ。


 だが、それだけでは、ない。


 室内の空気が、おかしい。

 先程の石のせいか?しかし、それだけではこんなことには………、


「………いや、その通りだよ、魔術師」

「っ?!」


 突然の声。慌てて見回すが、暗い部屋ではなにも見えず、声は響いて音源がわからない。


「まさにそう。石のせいだ。あの、少年の投げた石の」

「誰だ、なんなんだ!!」


 叫ぶ。

 叫びつつ、周りを見回すが、やはりなにも見えない………いや。

 何か、転がってきた。


「………………………馬鹿な」


 それは、水晶玉だった。

 見覚えのある、水晶玉だった。

 大きなヒビが入った、水晶玉だった。

 己が結界の基点にした、大きな水晶玉だったのだ。


 何故、これが、ここに、壊れた、何で、結界は、誰が、何が?


 幾つもの疑問が渦巻く男の目の前まで転がった水晶玉は、役目を終えたかのようにそこで止まり、真っ二つに割れた。


「………三十秒」

「あ?」


 静かな声が、闇に響く。


「まさか、あそこまでしてくれるとは思わなかったよ、本当に。………銀貨等ではまるで足りない。彼の勇気に、いくら支払うべきか、全くわからない」

「彼?銀貨?なんだ、何を言っている?!」

「わからないか?」


 声と共に、闇からそいつは生まれ出た。

 茶色い毛色の長い耳に、血のような赤い赤い瞳。同じく茶色いスーツの腰元には、肩から下げた大きな鞄。古ぼけて開いたままのその口が、笑うように震えた気がした。


「なら教えてやる、魔術師。………ここはもう、お前の工房じゃあない」


 現れたラビ。その手には、鈍く光る一振りのナイフ。


「ここは、既に狩り場だ。魔術師を狩る、この私の狩り場。………そう、!!」


 言葉と共に、ナイフが飛ぶ。それが開幕のベルとなる。

 魔術師と暗殺者の、誰にも見られず聞かれることもない戦いが、今始まったのだ。

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