第1話―4
「………すみません、少しよろしいですか?」
涼やかな風を思わせる澄んだ声に呼び止められ、少年は足を止めた。
何事か、と振り返ると、そこには一人のラヴィが立っていた。茶を基調にした品のよいスーツを着ていて、ラヴィ族の特徴である長い耳の間にはハンチングを被っている。
ラヴィ族の人は、型に千差万別あるものの、その殆どが帽子を好む。あれほど長い耳が頭にあるのに、邪魔じゃないのかというのは少年の勤める酒場でも良く話題になる。
その馬鹿馬鹿しくも真剣な議論に答えが出ることはない。当人達に聞いてみるしか手はないだろう………彼らのもう一つの特徴である、強靭な脚力をその肌で味わうつもりがあるのなら、だが。
「………はぁ、なんか用ですか?」
少し悩んだが、この亜人は身なりも良いし、時刻も時刻である。この昼間から強盗もあり得ないだろうと、少年は取り敢えず返事をする。
ラヴィは少年の質問に答えず、懐から何かを引っ張り出した。
小さな革袋だ。握り拳程の大きさのそれから、ラビは何か取り出し、少年に放る。反射的に受け取ると、それは日の光を浴びてキラリと輝いた。
銀貨だ。
喜ぶより先に、少年は怖くなった。少年の日々の稼ぎは3ピロ………詰まりは銅貨3枚である。
対して、受け取ったのは1ピル銀貨。この1枚だけで、銅貨100枚分の価値があるのだ。そんな価値のもの、今まで見たことも無かった。
「差し上げよう。私の依頼を聞いてくれるなら、残りも」
そう言って、ラヴィは手にした袋を振る。中にどれだけ入っているのか、金属の擦れ合う硬質な音が不器用な歌を奏でている。
知らず知らず、少年は辺りを見回した。幸いなことに、人気はない。脇にそびえる家々も窓を閉ざしている。誰もいない。もし、誰かに見られたら………少年の帰り道は、些か物騒になる。それだけの価値が、あの革袋には詰まっている。
ゴクリ、と喉が鳴った。あの袋があれば、家族共々暫くいい暮らしが出来るだろう。妹を学校に通わせてもやれる。
歪な歌は続いている。まるで、話に聞いたセイレーンだ。華麗な歌で船乗りを惑わし、海に沈める。
「………何を、すればいいんすか?」
命さえ脅かすほどの危険を感じつつ、敢えて少年は内心の警鐘を飲み込んだ。革袋いっぱいの銀貨なら、自分の命さえ安上がりだ。
ラヴィは微笑む。端整な顔立ちに一瞬、少年は自らの危機感を忘れたほどだった。
「大したことじゃないですよ、坊や。但し、重要なことですが」
それから、ラビは【お願い】を口にした。その内容に、少年は思わず拍子抜けした。
「………それだけ?」
「えぇ、それだけです。やってくれますか?」
「いいよ、そのくらい楽勝さ!」
「ありがとう」
そう言って微笑むと、ラヴィは本当に革袋をくれた。その、重い中身ごと。
早速、中を見る。予想よりも多く詰まったその中身に思わず顔が綻ぶ。
「けど、なんでそんなこと………あれ?」
顔を上げると、既にそこには誰もいない。
脚が早いなぁ、と少年は無邪気に感心した。それから、周りに誰もいなくてよかったと胸を撫で下ろした。………そのラヴィが辺りに人気のないことを確認して声を掛けたとは思いもせず、ただただ、己が身に降って湧いた幸運を神に感謝した。
「………何を、してる………」
自宅の玄関ホールで、魔術師の男は苛立っていた。
木製のドアに全身で張り付き、覗き窓から外の様子を窺う様は有り体に言って不気味だったが、それを気にするような理性は男には既にない。
男の脳裏にはもう、ただ一つのことしかなかったのだ。ただただ、生物として何者でも持っている本能に従っているだけだった。
生きとし生ける全てのものが持つ最低限の目的………即ち、生存本能という名の呪いだ。
ただ、【生きる】というだけの意思。生きるためだけに生きているという、目的と手段の混同。
その呪いの導きに従って、男はこれまで、自らの自宅に籠城していたのだ。そして今のところ、その籠城は成功していた。自由を犠牲にした警戒は、何者の侵入をも許さなかったのだ。
このままなら、あの手紙も無駄になるだろう。そう考えていたその矢先に、
「なんなんだ………何してるんだ、あいつは………」
ぶつぶつと、外の様子を窺いながら文句を言う男。最初こそ小声だったその呟きは徐々に音量を上げていき、とうとう男は叫んだ。
「なんで帰らねぇんだあいつぅぅぅ!?」
覗き窓の向こうでは、食事を運んできたいつもの少年が居た。いつもなら置いて直ぐ帰る筈なのに、だ。
もしかして、襲撃だろうか。あの少年に何か、持たせたのかもしれない。
「………畜生………どうする………??」
何にせよ、このまま引き籠るしか手はないが、しかし………ドアを開けて「何か用か」と尋ねれば、それで済むような気もする。
ちらり、と男は懐中時計を見る。既に2分。2分もの時間を、無駄にしている。
どうするか………男は悩む。全神経を少年の挙動に向けながら、じりじりと神経を焼く内心の焦りに耐える。
………既に2分。自宅の監視を外されていることに気付かぬままに。
「まぁ、作戦成功だなぁ?」
軽薄なバグの声が、夕焼けに響く。反射的に、誰かに聞かれたらどうする、と言いたくなってしまう。………誰にも聞かれるはずもないと、わかっていても。
バグの【喋る】という能力は、そのシンプルな単語からは想像も出来ないほど多岐にわたる。誰にでも通じる統一言語は勿論、異国の言葉や妖精、精霊などの言葉、果ては動物とまで喋り、聞き取れる。
例えば、聴覚に優れたラヴィにしか聞き取れない音域で話すことも容易いことだ。
「あの坊やに時間稼ぎを頼んでおいて、こっちはさっさと潜入か。いやぁ、慣れてる。流石だねぇ!」
「………………………」
煩い、とは言えない。バグの声は私にしか聞こえないが、私の声は誰にでも聞こえるのだ。下手に喋って音声探知式の罠でも発動したら元も子もない。
ここは、魔術師の家の屋上だ。人間にとってはそれなりに高い場所であったろうが、私の脚にはさしたる障害ではない。一跳びとは行かないが、まぁ、庭の木を足場にしてなら簡単だ。
少年に任せた時間は、5分。その5分の内に、やらなければならないことがあるのだ。
「さて、時間は無いぜ!急げや急げ、時はけして待たない旅人だ!!」
言われるまでもない。私は懐から眼鏡を取り出し、掛ける。私の視力が悪いから、ではない。これは魔法道具なのだ。
【
青い、光の線が屋上に張り巡らされている。蜘蛛の巣のように広がっているその線は、そのまま室内に伸びている。
中か………。
魔術師の家という場所において、もっとも警戒するべきことは魔術的な罠だ。
【結界】と言う名で俗に呼ばれるその罠は、魔術師が魔術を仕掛けておくもので、詰まりは、彼らの操るあり得ない現象が襲い掛かってくるということである。冗談でもなんでもなく、死そのものが襲い掛かってくる。
それを解除しないことには、戦いにもならない。
「さて、行くか。時間は残り3分だぜ!ギャハハ!!」
………そうだ、急ぐとしよう。3分以内に結界を解除し、そして。
この煩い鞄を黙らせるとしよう。
「………………………」
男は、決断した。
外に出る。
どのみち、食事はドアから離れたところに置かれている。外に出なければ、取れないのだ。
出て、食事を取り、あの少年を追い払う。簡単なことだ。
何の気なしに、時計を見る。
悩み始めてから、3分が経っていた。
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