第8話 コスチュームとコスプレイヤー
目の前の理解しがたい事態に対して脳みそがフリーズしてしまった。それは向こうも同じだったようで、口を半開きにしたまま、ハトが豆鉄砲食らった表情で固まっていた。俺たちは暗闇で鉢合わせてしまった二頭の獣のように、お互い身動きがとれずにいた。
先に動いたのはアケミの方だった。まずカメラを机に置くと、「ハァ」と短くも深いため息をつき、椅子を引いて座った。その姿は妙に堂々としていて、およそ猫耳ハウスワーカーが取るべき態度ではなかった。それからしばらくアケミはじぃっとこちらを睨み続けた。どう対応していいかおれがおどおどしていると、ようやくアケミが口を開いた。
「何で黙っているのよ!いつもみたいに笑うなり馬鹿にするなりしなさいよ!」
言われてはっと気が付いた。そうそう、こういう時いつも俺はアケミを茶化していたじゃないか。それがなぜ今回に限ってできないのだろう。アケミがそう望むのなら、いつも通り対応しなければ。
「ハ、ハハ。なんだよそのカッコウは。ちゃむ…ちゃっちゃんちゃららおかしわ」
あれ、茶化すってこんな感じだったっけ?先ほどの脳震盪のような衝撃から立ち直れず、頭がまだ混乱している。
いつもだったら、俺にからかわれたアケミはムキになって言い返してくるはずなんだが、この時はアケミも普通じゃない様子だった。俺にこんなことを言われただけでズーンと重たい雰囲気を発しながら顔を机に伏せた。
「そうよね。ちゃんちゃらおかしいわよね。私がこんな格好したところで、似合うはずないものね…」
再び場を沈黙が支配した。アケミはがくりと首を折ったままピクリとも動かない。
一方俺は、アケミが黙っている間に状況を整理することができた。アケミは俺たちが帰った後に、隠れて猫耳ハウスワーカーの衣装を着ていて、それにたまたま俺が鉢合わせてしまったと、事実関係としてはそういうことだな。よし、だんだんと頭の中の靄が晴れてきたぞ。
それじゃあ、彼女はどうしてあんなものを着ていたのだろう。アケミの言葉から察すれば、似合うかに合わないかが彼女にとって重要な問題であることは確かだ。もしかして…もしかしてだけれど、ミヤコさんの神々しい御姿を見て、自分にも似合うか試してみたくなったとか、そういう理由なのだろうか。すると、写真を撮っていたのは、後で自分の姿を確認するためと考えるのが自然そうだ。
だとしたら、俺がするべきこととは何なのだろう。「似合う似合う」と褒め称えててやることだろうか。いや、多分それは違うだろう。ここは、そっとしておくことが正解だと思う。隠れてこそこそやっていた趣味が暴かれるってことほど屈辱的なことはあるまい。
俺は机の上で頭を抱えているアケミの後ろを素通りして、従来の目的である忘れ物を回収する。これで従来の目的は果たした。あとはさっさと部室を後にするだけだ。
「それじゃ」と部室のドアに手をかける。すると「待って!」とアケミに呼び止められた。ドアから手を離してアケミと向かい合う。アケミが俯いたまま絞り出すような声で言った。
「お願いだからこのことは誰にも言わないでほしい…私ができることならなんだってするから、どうかこのことを誰かに漏らすのだけは…」
放課後の誰もいない部室で何でもするからと懇願される。このシチュエーションでやましいことを考えない方がおかしいだろう。何でもする?何でもするだと!?軽々しくそんななこと言って良いのか?本当になんでもしちゃうぞ?
もちろん彼女の言葉には「※ただし常識の範囲内に限る」というただし書きが括弧つきで隠れているのは分かる。しかし、今のアケミには、それを分かっていても良からぬことを頼み込みたくなるようなオーラを纏っていた。それは他でもない、アケミが今着ている猫耳ハウスワーカーの衣装によるものだった。
頭が冷静になってきて気が付いたのだが、アケミのやつ、案外この衣装が似合っているのだ。ミヤコさんのような気高さはないし、ユニフォームのサイズも合っていないんだけれど、代わりに男の愛玩欲求をかきたてるような雰囲気があって、何と言うかその…ふ、普通に可愛い。
うん。ここは斜に構えず認めてしまおう。猫耳ハウスワーカーのユニフォームを身に纏ったアケミは可愛かった。(しかし、全く別のタイプの二人の魅力を引き出すとは、この服の懐の深さには恐れ入る。こんなユニフォームを着たハウスワーカーが家にいたら気が散ってしょうがないんじゃないかと思うが、前史の雇い主たちは大丈夫だったのだろうか)
そんなアケミがしおらしく「何でもするから…」なんて頼み込むんだから、妙な気持ちになっても仕方があるまい。
もちろん俺は紳士的な男だからやましいことなんかしたりせず、彼女の提案を丁重にお断りし、アケミがここで衣装をこっそり来ていたことを口外しないことを約束した。俺の名誉のために言っておくがこれは決して俺がヘタレたからではない。こういう貸しはもっと大事な時に返してもらうものだろう。言わなコレは「攻めの断り」だ
あまりに俺の聞き訳がいいことを怪しんでか、アケミは訝しむような顔をしながら、何度も念を押してきた。
「いい、絶対に誰にも言ってはダメよ。これはフリでも何でもないからね。こんな恥ずかしいことがバレたら私生きていけなくなるんだから」
「バラさないって、そんなことして俺に何の得があるんだよ。神に誓って良い。俺から漏れることはまず、ない」
「もしバレたらあんんたを殺して私も死ぬつもりだから。そのつもりでね」
ひぇ~、殺す!そいつぁ大きく出たなあ。でもこれくらい元気があった方がアケミらしくてよろしい。この様子なら少しくらいデリケートな部分に切り込んでいっても大丈夫かな?
「そういえばさ、写真はもういいのか?」
「ええ?」
「いや、備品のカメラで自分の写真撮ろうとしていたじゃん。あれはもういいの?」
「あれはその…えっと…」
言葉の歯切れが急に悪くなった。目線を下に落としてもじもじとしている。
「自分で自分の写真を撮るのって、ファインダーが覗けないから難しだろう。良かったら俺が撮ってやろうか」
「はあ?」
アケミは眉を寄せて怪訝な表情をした。何か裏に意図があるのではないかと疑う顔で十数秒逡巡した後で、ようやく口を開いた。
「いや、やっぱり止めておくわ。私みたいなちんちくりんが着たって、ミヤコさんみたいに似合うはずないもの」
「いや、そんなことないよ。あれはお前が馬鹿にしろっていうから反射的に出てしまった言葉で。本心は全く違うんだ。その衣装、本当は似合っているなって、始めっから思っていたんだ」
実際、この気持ちは本心である。嘘も方便が俺の信条だけれど、これに関しては嘘でも何でもない。
「え、ええ?そうなの?本当に似合っている?」
「似合ってるって。俺はお世辞を言わない人間だからな」
「え、ええ~、そんなこと言って、また何か裏があるんでしょう?」
「いやいや、本心から言っているんだよ。ミヤコさんとはまた別の魅力があっていい感じだ」
アケミの顔が急に緩んできた。「そ、そうかな~」なんて言葉の上では疑いつつも、褒められていい気分になっているのは間違いない。そうそうコイツって案外ちょろいんだよ。そのうち悪い男にひっかかるんじゃないかと心配になるくらいだ。
「ア、アンタがそこまで言うのなら…やってもらおうかしらね。ここまで知られたら、もはや隠すことなんてないし」
よしっ、アケミが折れたぞ!俺は心の中で静かにガッツポーズをする。
「でも絶っっ対に写真は外部に流出させないことね!売り飛ばしたりしたらそれこそ心中確定だから」
「そんなことしないって。単純な親切心からさ」
もちろん俺は写真を部外者に曝す気など毛頭ない。たが単純な親切心からというのは嘘だ。もう少しの間でいいからこの格好のアケミを眺めていたかったからというのが正直な理由だった。そくらい猫耳ハウスワーカーのアケミはか…可愛いと思う。
早速机の上言置いてあったカメラを手に取ってファインダーからアケミを覗く。アケミはそれに呼応して、椅子から立ち上がった。レンズの向こうには、ニヤニヤした顔のまんまのアケミがいる。彼女のテンションが高いうちに撮影をすましてしまわないといけない。
正面、サイド、あらゆるアングルから撮った。地べたにぺたんと座らせたり、手をこまねいて猫の真似をさせたりと、色々なポーズを撮った。
アケミは俺の注文を嬉しそうに聞き入れてくれた。「いいよいいよー」「似合っているよー」みたいなことを言いながらシャッターを切っていく。褒めれば褒めるほどアケミは自信をつけていって、終盤の方にはプロ意識さえ感じるほどの熱意を感じた。自然な笑顔と輝く瞳は、雑誌で見るような女の子と何ら遜色ない。
ロッカーから取り出した箒を持たせて掃除のポーズをしてもらったところで、今日の撮影は終了となった。思いつくポーズは全て撮り切って、妙な達成感が湧き上がってきた。アケミも似たような感情を抱いているのか、どこか晴れ晴れとした表情をしている。
「いや、撮っているうちに夢中になってしまった。まさかこんなにはまるとは」
撮った枚数は合計三十枚ほどだろうか。フィールドワークの時でもこんなにフィルムは使わない。あとでこっそり補充しておかねばいけないな。
「うん、私もちょっとはしゃぎすぎたかも。後で見返したら絶対後悔するヤツだ…」
「いやいや、そんなことないって。もっと自信を持てばいいよ、ホントに。少しうぬぼれてもいいくらい可愛かったから」
この瞬間俺は「あっ」と口走りそうになった。今までアケミを褒める時あえて「可愛い」と言ってこなかった。「似合っているよ~」とか、「良いよ~」みたいな言葉でずっと濁してきた。「可愛い」なんて言葉をアケミに面と向かって言うなんて気恥ずかしかっただから。しかし撮影が終わって気が緩んだのだろうか、思わず本音が出てしまった。顔がカアっと熱くなる。きっと今俺は顔を真っ赤にしているに違いない。
俺の顔の赤さにアケミもただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう、彼女も耳の先まで林檎のような色になった。余りの動揺に、舌が上手く回らないのだろう。口をパクパクさせてはいるが言葉が発声できていない。数秒間のクチパクを経てやっと口にしたのが、
「な、え?か、可愛いって、そ、それはどういう…」
という言葉だった。
「可愛い」。それはどういうことか。これに関しては自分自身でもよく分かっていない。分かっているのは、今のアケミは間違いなく可愛いということ、ただそれだけ。でも可愛いという言葉にはいくつか種類があって、例えば動物を愛でる時に言う「可愛い」と恋人に言う「可愛い」は全く別物だろう。
「か、可愛いってのはな…それは、つまり」
俺にはここから先を言うことができなかった。自分の思っている「可愛い」がどういうニュアンスの「可愛い」なのか分からなかった。多分よくよく自己分析してみれば分かるんだろうけれど、それをするのが怖かった。
アケミの質問に答えられそうにもない俺がとった行動は逃避だった。とりあえず今はこの場を離れていったん落ち着きたかった。「三十四(三十三だっけかな?)計逃げるに如かず」と昔のことわざにもあったはずだ。俺は猫耳ハウスワーカーの姿をしたアケミを残して部室からダッシュで脱出した。
チャリ置き場まで走ってから、さらに自転車を全速で二十分漕いだ。家に帰って飯を食って風呂に入って髪を乾かして布団に入ってようやく落ち着いたところで、逃避という行動はあの状況で一番やってはいけないことだったと気が付いた。あんなことをしては次に会うのが辛くなるだけだ。
困難は後に回せば回すほど辛くなる。翌月曜日の部活、どうやって顔を合わせればいいのか、悶々とした夜を俺は過ごした。
目が覚めた。寝起きの気怠い体を引きずってダイニングの方へ向かう。洗面所の向こうからはドライヤーの音がしている。蛇口をひねってコップに水を汲むと、洗面所の方から声が聞こえてきた。
「あれ、珍しいじゃんこんな時間に起きてくるなんて。あ、もしかしてドライヤーの音うるさかった?」
――いや、そんなことはない。朝の光でフツーに目が覚めた。
「あ、そう。なら良いんだけれど。アンタって意外とそういうところ繊細だからさ。ねえ、ソファーの上にスウェットあるでしょう?ちょっとこっちに放ってくれない?」
グレーのスウェット上下一式が脱ぎっぱなしにしてある。それを半分開いている洗面所の扉めがけて投げ込んだ。スウェットは洗面所の中の人物によってずるりと引きずられて、扉の影へと消えていった。
「あんがと。今日スウェットで良いよね。どうせどこにも行かないっしょ。あ、別に催促してるわけじゃないから」
――そう?今日俺特段やることないんだけれど
ドライヤーの音が止んで、代わりに衣づれの音がかすかに扉の隙間から聞こえてきた。
「私ちょっとやることあるんだよねえ。来月の発表の調べものしないと。午前中、コンピュータ占領するけれどいいよね」
――ふーん。まあ良いけど。俺は図書館でも行ってようかな
「あ、じゃあさ、帰りプリンターのインク買ってきてよ。マゼンタ」
――マゼンタ?この前変えたばっかりなのになあ
「あれ、青ってマゼンタじゃなかったっけ」
――青はシアン。マゼンタは赤色だ
「じゃ、シアンだった。お願いしていいよね?て言うか買ってきて。昼には帰ってくるでしょ」
――多分ね
扉の陰でごそごそしている気配が消えた。着替えが終わったようだ。
「昼ご飯は?」
――多分。いる
「多分ってなによ。はっきりして」
――いるいる。昼前には帰ってくるよ
扉が全開になった。洗面所から現れたのは、アケミだった。風呂上がりで顔を上気させたアケミがスウェット姿でこちらに近づいてくる。嗅いだことのないシャンプーの匂いが微かに漂ってきた。
「じゃあ、テキトーに作って待っているから。コーヒー淹れるけどアンタも飲む?」
「ぎゃあ!」という叫び声と共に目が覚めた。額に汗が浮き出ている。鼻孔の奥には未だにシャンプーの匂いがくすぶっていた。
妙に生生しい夢だった。俺とアケミが共同生活しているんだんて。しかも会話を聞く限り二人はどうも夫婦かそれに準ずる関係っぽかった(まさか兄妹ではあるまい)。
夢なんて今まで見てきたものの継ぎはぎでしかないのだし、あまり深く考えても仕方がないのだが、昨日の今日だけに引っかかるものがある。夢には隠れた欲望を反映するという説もあるし…。いやいやそれはないだろう! 俺がアケミと恋仲になることを望んでいるのか!?たしかに猫耳ハウスワーカーの衣装は可愛かったかもだけれど、普段のアケミはただの口うるさい小童だろう?
くそ、朝っぱらからアケミの顔なんて拝んでしまったせいで胸がわなわなして気持ち悪いぞ。こうなったらミヤコさんの夢を見て中和させよう。ミヤコさんが俺のためにコーヒーを淹れてくれる。なんて優雅な朝の時間だろう。よし、そうと決まれば二度寝をしないと。俺はもう一度布団を頭からかぶった。闇の世界が再び訪れる。
つら…つら…。
うと…うと…。
・・・・・・・・・・。
「あ、ソネくん、角砂糖は一個で良かったですよね?」
「なんでそこでイマムラなんだ!なおさら気持ち悪いわ!」
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