第10話 21世紀中年

ポケベル。ルーズソックス。小室ファミリー。ドーハの悲劇。

たまごっち。PHS。Iモード。ウインドウズ95。香港返還。長野五輪。2000年問題。

ノストラダムスの大予言。


90年代、バブル経済崩壊後の日本人は何を思ったのか、なんとなくアジア的な脱力にこそ癒やしがあるんじゃねーの?という気分になりました。なんだかさー。アメリカンドリーム的な向上心ってしんどくない?必死でロックな立身出世より、ポップな自然体。

柔よく剛を制するような、良い意味での無気力。これからは、まったりと、ゆるくいこーぜ。


舞台衣裳を着てネクタイ締めて、台本通りにまくし立てる、いかにも漫才的な漫才よりも、普段着を着てアドリブでおしゃべりする、ダウンタウンのフリートークが一世を風靡。


そこらへんにいそうな兄ちゃんが、ヒッチハイクしてユーラシア大陸横断を試みたり、気だるげな女性デュオがだらだら歌う、『アジアの純真』とかいう曲が流行していたのもこの頃。


香港風の飲茶やら屋台村やらケバブ屋、アジアン雑貨屋が目立つようになり、

新宿歌舞伎町や新大久保あたりでは、多国籍の香ばしいカオスが醸成されつつありました。


世紀末の混沌と21世紀への期待と不安。

 そんな不確かな時代、オシャレな若者とは一体どんな人だったのか?

ごく端的に言いますと、「オシャレな映画のポスターを部屋に貼ってある人」こそが

オシャレな若者だったのです。わりとまじで。

ここでいう「オシャレな映画」というのは、いわゆる「ミニシアター系」の映画である。

「ミニシアター系」とは何ぞや?

大手の映画配給会社が全国的に上映している、メジャーなハリウッド映画ではなく、都会の片隅でひっそりと単館上映しているマイナーなアジア映画とか、観ていて眠たくなるような、アンニュイなフランス映画の事である。たぶん。

ところでここ最近は、駅などの公共の場所でポスターが盗まれる、という被害はとんと聞かなくなった気がする。みんなスマホでポスターを直接撮影するからかな、やっぱり。


東京だったら下北沢あたり、大阪だったら心斎橋あたりに棲息し、古着をわざとだらしなく着こなす、レゲエな兄ちゃん。チェゲバラの顔がプリントされてあるシャツを着て、ごついジッポのライターで、手巻きタバコを吸う。

道端でアクセサリーを売っているような、やさぐれた雰囲気。

もしかしたらジョニー・デップに似ているかもしれない。

いつかハーレーダビッドソンに乗りたいな。などと思いつつ、ベスパに乗っている。

同棲している彼女は、スレンダーな美人だが、ボーイッシュなおかっぱ頭。

わざと小さめのTシャツを着ておヘソを出し、ビンテージもんの、ぼろいジーンズを穿いて、エスニックな腰巻きを巻いている。サルンて言ったっけか?

彼女は一眼レフ片手に、タイとかインドに一人旅に行くのが好き。パクチーが好き。ヨガを習っている。モノクロのヌード写真を自分で撮ったこともある。

そんな90年代なカップルが住んでいる、1LDKのワンルームマンション。バニラのお香の甘ったるい匂いがしみついている部屋。

ビーズを編んだスダレ。

レトロなアメ車のナンバープレートのインテリア。アロマキャンドル。なぜかウクレレがあり、アフリカの謎の打楽器も鎮座ましましている。そしてそんな部屋になくてはならないもの。

それこそが、「ミニシアター系」の映画のポスターなのである。

どう?ビジョン見えた?

間違っても木彫りの熊やら、100万円貯まる貯金箱とか、東京タワーの三角ペナントとかは置いていないのである。

こういったミニシアター系の映画で最も代表的なのが、ダニー・ボイル監督の『トレインスポッティング』と言っても過言ではないだろう。

ちなみに、『ニューシネマパラダイス』、『LEON』、『アメリ』、 『バグダッドカフェ』、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星』もこの系統に属する。

こういった映画の特徴はなんというか、映像そのものがBGMなんだよね。

良い意味でダルい。ざらついた映像、スカした雰囲気。夢かウツツかよく分からん余韻。

絶対売れるサウンドトラック。


クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』や『レザボアドッグス』もアメリカ映画とはいえ、この部類に入れていいと思う。

これらの映画のポスターが部屋に貼ってあったら、その人は無条件でオシャレな人確定である。

逆に、たとえ部屋のレイアウトが前述の条件と全く同じでも、貼ってある映画のポスターが『タイタニック』とか『スターウォーズ』とか、どメジャーな商業映画のポスターであるならば、残念ながらその人は凡人確定である。

当時の私は、自分を非凡な人物だと信じて疑わない、めんどくさい凡人であった。

なぜ自分を非凡だと断言できるのか?

なぜなら、自分は大衆受けしていない、ややマイナーな映画を好む趣向があるから。という、実に貧弱なエビデンスにしがみついて自我を保っていたのであった。

ただの消費者でしかないのにおこがましいやっちゃ。

当時、インターネットが普及してなかったので、どうしても井の中の蛙になりやすい。ましてや高野山のど田舎にいるわけだし。

自分が密かに評価していたマイナーな映画や漫画や音楽が、数ヶ月から数年の時間差があって、日本の大衆の間でじわじわ流行してくる。

そのたびに「時代がようやく俺の感性に追い付いたか。」みたいな、こっぱずかしい錯覚を抱いていたのでやんす。 

アジアの歌姫、フェイウォン(王菲)のCDを集めている日本人なんて、俺を入れて10人もいないんじゃねーの?なんて事を平気で思い込んでいたし、その事に対して、謎の優越感を持っていました。 

フェイウォン(王菲)が98年にゲームの『ファイナルファンタジーⅧ』の主題歌を歌って、


日本でも有名になっちゃった時には正直、焦ったね。

「俺はお前ら一般大衆が知る何年も前から知ってたっちゅーねん!」と声を大にして言いたかった。 自分が買っている穴馬の馬券がみんなに買われて、オッズが下がっていくような焦燥感。

20年前のあの頃、「将来、アメリカと中国の2強が世界を引っ張る時代になると思うよ。今から中国語を勉強した方がいいよ。」などと周囲に言っては、「パンダとカンフーと自転車しかない、あの共産主義国家が?んなアホな。」などと鼻で笑われたもんでした。あの当時の中国は世界的に見て、まだまだ無印の穴馬でした。


さてこの度、20年ぶりに『トレインスポッティング』の続編が出たというので、

不毛きわまりないモラトリアム時代を共に過ごした友人と観に行ってきました。

一度しかない青春時代。部活や勉強、恋愛やアルバイト。

学生生活の苦楽を分かち合い、有意義な時間を共にした友人は人生の財産でしょうが、青春時代にこれといった努力をせず、共にダラダラしたりゴロゴロして、しょーもない時間を共に過ごした友人もまた、なかなかどうして、オツなものです。

高野山での学生時代、彼の下宿で何度となく『トレインスポッティング』のVHSのビデオを観たものです。


1996年のスコットランド。デカダンスっちゅーの?ろくでもない若者たちの退廃的な青春を描いた映画でしたが、続編の映画の劇中でも、ちゃんとそのまま20年の時が経っているのが嬉しい。

ユアン・マクレガー演じるレントンも、スパッドもベグビーもみんなちゃんと、ろくでもないオッサンになっている。

なんだか同窓会で悪友と再会したような、照れくさい気分になれます。


今にして思えば、私はああいう感じの映画が好きというよりむしろ、ああいう感じの映画が好きな自分の事が好きだったんじゃないかな。勤労意欲というものが絶望的に欠けていて、ADHD丸出し。

ここまで先天的に社会に不適合ってことは、逆に何らかの才能に恵まれているのにちげえねえ、それぐらいのリターンがないと、どうにも帳尻が合わねえ。などと壮大な勘違いをして、井筒和幸監督から映画作りを学んだあの一年間は、ちょっとした黒歴史。


あの頃の自分は青春をこじらせていたのだと思う。まったくどうかしてたぜ。

ともかく20年経った。そして20キロ太った。

20キロと言えば、体重が500キロ前後あるサラブレッドの世界でも、けっこうな数字である。馬体重が前走の時より20キロ増なら、「太め残り」、調整失敗と見なして馬券を買うのをためらう。そんな数字である。20キロ増えた私の体重こそ、20年の時の重みだ。

鼻毛を抜いた。白かった。じっと見つめる。魚の小骨のやうだった。

              (2017年4月)

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