第2話 真言宗系インチキ坊主の見分け方 

よく、一般の信徒さんや在家の友人から

「テレビでよく見るあのお坊さんって本物?」とか、

「あるお坊さんに除霊してもらったんだけど、あの人って本物のお坊さん?」とか、質問されることがあります。


僧侶というのは、本来は職業ではなく、いわばヒッピー的な生き様であったわけで、存在そのものがけっこうあやふやだっただけに、今日でも、うさんくさいパチモンは多数存在しています。

特に真言密教ともなりますと、加持祈祷とかもしますし、もともとが呪術的な、オカルトチックな側面も持ち合わせております。

なにが立派な本物で、なにがうさんくさい偽物かというのはとても定義が難しいのですが、自分なりに、「グレーゾーンのお坊さん」の見分け方を備忘録として、記しておきたいと思います。


①前世がどうとか、水子の祟りがどうとか、霊がどうとか、

オカルトめいた脅迫をして法外な布施を巻き上げようとする。


実のところ弘法大師空海は死後や霊魂について、まるで語ったことがありません。

本宗寺院でも供養料や祈祷料をいただきますが、あくまでも信者様のご随意であり、規定の金額があります。


②自分が「阿闍梨」であることをやたら強調する。


真言宗の場合、入門から一年もしないで阿闍梨になれます。

高野山では毎年、百人以上の阿闍梨を量産しています。

宗務的に言うと、いわば自動車の仮免許程度にすぎないのに、さも高僧であるように吹聴する人は、まず大したお坊さんではありません。

単なる阿闍梨だと、僧侶としての戸籍すら持っていない可能性もあります。

阿闍梨が必ずしも、僧侶としての戸籍のある、本宗教師だとは限りません。


③首に念珠をネックレスのように掛けている。

本宗では念珠を左手に掛けるのが常識です。


④滝に打たれる修行を強調する。

真言宗の修行と滝は関係がありません。滝に打たれながら読経する滝行を個人的に好む諸大徳はおられますが、弘法大師空海が滝行しなさい、と説いた教えはありません。滝に打たれる事は、こう言ってはなんですが、個人の趣味の範囲を出ません。


⑤手で印を結び「臨兵闘者 皆陣列在前」と唱える。

高野山真言宗の僧侶も印を結び、真言を唱えますが、漫画『孔雀王』でもおなじみ「臨兵闘者 皆陣列在前」の九字は、修験道しゅげんどうと深い関係があるかと推察しますが、高野山真言宗の教えとは関係がありません。『孔雀王』はあくまで、架空の『裏高野』の僧侶です。

⑥横と縦の関係がない。

通常、どの宗派でもそうだと思いますが、お坊さんになるにあたって、お師僧さんがいます。お師僧のお師僧のお師僧、と遡っていきますと、真言宗の場合はお大師さまへとたどり着き、もっと遡れば、原点の大日如来まで遡ります。こういった法脈は宗派を問わず、誰もが受け継いでいるはずです。共に修行した同門の兄弟子や弟弟子なども当然いるはずです。しかし、うさんくさい新興宗教の教祖は何の脈絡もなく、ある時、突然に教祖になるのです。




本宗の高僧と呼ばれる諸大徳は、僧侶というより、大寺院の経営者であったり、仏教や密教の学者先生であったりします。「君子、怪力乱神を語らず」の言葉通り、法力や神通力など、非科学的なことをセールスポイントにはしません。儀式的に法要を厳修しますが、あくまで法務の一環であります。もし、ご自身のお身体の具合がすぐれない場合、壇を祀り加持祈祷で病気平癒を祈願するのではなく、やはり普通に病院に行きます。


ここで難しいのが、「拝み屋さん」と呼ばれる、お大師さん信仰を草の根から支えてきた方々の存在です。

お坊さんっぽいけれどお坊さんではない、まさに現代の高野聖こうやひじりと言うべき方々なのですが、人によっては、ちょっとした霊感があったり、予知能力があったり、手かざしで病気を治すような神通力がある人もいます。

性格的には細木数子的な、口は悪いけど包容力のある年配の女性が多いという印象で、そこらへんの高僧以上にカリスマ性と貫禄があります。

こういう拝み屋さんは、全国各地に広く生息しており、大勢のお弟子さんを連れてきて定期的に高野山にお参りにきてくれます。

あじろ笠をかぶり、白装束の背中に「南無大師遍照金剛」と書いてある、遍路姿の団体さんの中には、こういった「拝み屋さん」のお弟子さんもいます。拝み屋さんグループの女性幹部には、工藤静香似の、元ヤン風のきれいなお姉さんがなぜか多い気がします。遍路の白装束が特攻服にしか見えない時もあります。

拝み屋さんはお寺も持っていませんし、真言宗の正式な修行をしたこともないのですが、かと言って、高野山を支えてきた貢献の大きさを思えば、まさか「偽物」とは言えません。しかしこういった拝み屋さんがエスカレートして、「教祖様」になってしまい、えげつない搾取をしたり、凄惨な暴力事件などの犯罪に発展してしまうケースがあるのもまた事実です。


正式な修行を満了し、宗務的に必要な手続きを済まし、本山に「宗費」という名の税金を納め、僧侶の戸籍がある本宗教師であれば、とりあえず書類上では「正式なお坊さん」ですが、信徒様からお預かりした浄財で資産運用をしたり、パパに買ってもらった高級車を乗り回したり、繁華街の飲食店で夜な夜な派手に散財したりするお坊さんたちが「本物のお坊さん」なのかと言えば、答えはやっぱりノーなのであります。


ごくひと握りですが、ちゃんと戒律を守って、飲酒はもちろん、肉食妻帯もしない、ストイックな日本人のお坊さんもいます。戒律を守るお坊さんを「律僧りっそう」と呼びます。こういった人たちこそ「本物のお坊さん」と呼ぶのでしょうが、こういう律僧の方の中には厭世的であったり、性格的にややこしい、社会性に乏しい、めんどくさい人間が多いのです。被害妄想かもしれませんが、こういった律僧は、なんとなく私のような生臭坊主を見下して、優越感に浸っているような気がしないでもないのです。喩えていうなれば、「禁煙成功者が喫煙者に抱く優越感」的なものを感じます。彼らは煩悩から解脱したかのように見えますが、

煩悩から足を洗った優越感からは解脱できていない方が多い気がします。


仏教でいう中道、儒教でいう中庸、というのが肝心です。

私のように、犯罪にならない程度に人様に迷惑をかけ、

そこそこいい加減なお坊さんが一人くらいいても、いいのではないでしょうか。

お金にも、食べ物にも、女性にも、そこそこ意地汚い自信があります。

そのくせ怠惰で、なるべく楽に、苦労をしないで生きたいなあ、などと思っています。不摂生が祟って完全にメタボ体型になってますが、

出来るだけ楽に痩せたいなあ、腹筋がシックスパックのマッチョになって、婦女子の方々からキャーキャー言われてみたいなあ、などとたわけたことを考えています。しかし、欲望や煩悩こそ苦しみの根源だとするならば、

「人の痛みが分かる」ということは、

すなわち「人の欲望を理解する」ことに他なりません。

喉の渇きを覚えたことのない人間が、渇きに苦しむ人の心が分かりますでしょうか。

禁煙外来の医者の先生は、タバコを吸ったことがない人より、元ヘビースモーカーの方が説得力あるような気がします。

人の欲望が分かることによって、人の痛みが分かる。

今回は、我ながら良い話だな、と一瞬思いましたが、

覚せい剤中毒者を治療する先生は、一度、覚せい剤中毒にならないといかんという理屈になってしまうので、あえなくロジック破綻。

                      

                          合掌

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