第6章 怪我と心の傷 

               複雑なこころ


「おはよう!」二時間目から出席した久美である。クラス中がざわざわした。多智花は、「ハッ」と、久美をチラ見したもののどうしていいか分からず茫然と立ち、目だけ彼女を追った。その顔は笑顔でなく複雑な陰があった。

「大丈夫な、の?」カンナは久美の顔に一瞬ドキッとして言葉が詰まった。久美の瞼は腫れ目は赤かった。

 昨日、階段から転落した久美は運悪く左の鎖骨を骨折したのである。その原因は上から急いで降りて来た多智花と考え事をしていた久美が思いがけず衝突し、多智花もろともバランスを崩し踊り場手前から廊下へ落下したのだけれど、彼は腕を軽く打撲した程度ですぐ起き上がった。ところが久美はそうでなかった。保健の先生の判断で担架に乗せられ病院行きだった。多智花は彼の母親と一緒に運ばれた病院へ向かったが、診察室から出た久美とは全く視線が合わなかった。久美はこの時ほど多智花を憎らしいと思ったことがなかった。なぜなら久美は次の試合へ計り知れない情熱をかけていたから。久美は何カ月も厳しい練習に耐えどんだけ日々を乗り越えただろうか。「出場できない」と、あっさり医師から言われた矢先に目の前が真っ白になった。当然であろう、大失楽し絶望したのである。

 事が起こる以前の久美は眩いばかりにキラキラ輝き、カンナは彼女の意気込みをよく分かってただけに、久美が骨折したと知らされれば他人事に思えず会うまでそわそわと落ち着かなかった。しかしながら会ったとして何と慰めればいいか。これまた悩んだ挙句に今、カンナは久美が地獄の底へ唐突に突き落された酷い悲しみの姿を目にして、やっとの思いであの言葉を呟いたのだった。

「昨日は先生を呼んでくれてありがとう。それと心配かけてごめんね」

 久美は無理やり笑った。


 あれから三週間が過ぎ、四週間経った。久美の怪我は日増しによくなり骨も大分くっ付いたようだが、医師の診断ではあと三週間はかかるとのことだ。そんな久美だが行動範囲が広がり事故当時よりずっと明るくなり、前向きな気持ちで部活動を見学してたのだけれど、一つだけある課題を残していた。それは多智花との関係だった。あの事故は彼だけの責任と言えないものの多智花の心の中は少なからず、ずっしりした重石となり底のない沼へ延々と落とし続けていた。クラスメイトは多智花の見えない気持ちを察したわけではないが、誰も責めてなかった。しかしながら、カンナだけは、「このままではうだつがあがらない」と、思っていた……

 多智花はくすんだ気持ちをぐっと押し込め何か用事を作っては、久美と接するために可能な笑顔でカンナへ話し掛けたのだけれど、残念ながらその度に久美は席を外した。

「毎日、いなくなっちゃうわ」カンナはぼそり呟いた。

「俺さ。どうしたらいいか分からないんだ」

 多智花は去っていく久美を眺め不意に尋ねた。

「たとえ謝っても過ぎた時は戻ってこない。分かってるけど謝りたいんだ」

 カンナは小さなため息をついた。

「久美さんは意地悪な人じゃないわ。だからいつか多智花君の気持ちを聞ける日が来るわ」

「そう思いたいよ。いやそうしたい」多智花は悲し気に久美の椅子を眺めた。

「きっとそうなるわ。その時は必ず来るはずよ。だから自分を責めないで」

「ありがとう。俺さ。ちょっとだけ心が軽くなったよ」

 多智花はカンナをチラッと見ると少し笑ってこう言った。

「親父を亡くした哀しみがなぜか込み上げてくるんだ。大事なものを失い、やり切れない気持ちなんだ……。カンナに言っても仕方ないか」

「仕方なくないよ」カンナが笑顔で答えると、授業開始のチャイムが鳴った。


 本日の授業は全て終了し部活動の時間になった。

「じゃあ、カンナ。私は部活動へ行くわ。腕が動かなくても口は達者でガンガン言えるし、後輩指導もガッチリする。最近はうるさい先輩の代名詞になったほどよ。いや、なりつつあるのかな」

 カンナは、「クスクスッ」と、笑い、久美の血色のいい顔を眺めこう呟いた。

「久美さんが元気になって本当に嬉しいわ」

 久美はカンナの瞳を一瞬眺めた。それから自分の手に視線をやり小さく頷いたが、茶色の瞳に少しばかり涙が浮かんでいた。

「くよくよしたって仕方ないもの。ただ……」

 久美は俯いたまま黙った。

「ただ、どうしたの?」カンナは幾分の悲しみで顔が曇った。

「実は多智花君のことなんだ。ちょっと問題が発生して余計にややこしくなって……」

 カンナは鞄を手に持ち椅子を机の中へ仕舞いながら、二人の仲が元通りになってほしいと心で祈り久美に静かに尋ねた。

「何が起こったの?」久美は窓から海を眺めた。

「怪我した当初は確かに彼の顔を見るのも嫌だったし、難いとも思った。だけど、本当は嫌いじゃなの。あの時のあの瞬間さえ起らなければ、こんなことにならなかった……」

「じゃぁ、多智花君のことは許してたのね」

「まあね。だから彼に気持ちを伝えなくっちゃって思ったんだけど。それが……」

 久美とカンナはゆっくり歩き教室を出た。教室は誰もいなくなった。

「数日前の話よ。伝え方を真剣に考えながら階段をゆっくり降りてたら、握ってたフェイスタオルが手からするりと抜け落ちたの」

 久美の話が途切れ、「はーっ」と、長いため息が漏れた。

「あの時のあの瞬間さえ起こらなければ……」久美はボソッと呟いた。

「拾おうとして、もう二段降りてから手を伸ばしたら多智花君がタオルを持って立っていた。私は透かさず『ありがとう』って素直に言うつもりが、『余計なことしないでっ!』と、この口が言ってしまったわけなの」

 カンナの鞄が肩からスッと外れ、久美を眺める瞳は大きく見開いた。

「ああ、カンナったらめっちゃ驚いた顔してる。もう、どうしよう……」

 久美は踊り場で肩を窄めつつ上目遣いでカンナを眺めた。その滑稽な仕草にカンナは俯きながら口に手を当て、「クスクスッ」と、笑ったのだけれど瞬時に顔をあげた。というのも三人の男子生徒が横並びにゲームの話をしながら階段を上がって来たからだ。二人は隅に避けたものの彼らは丸きり眼中になかった。

 カンナは再び階段を降り始めこう呟いた。

「久美さんのことだから、きっとうまくいくわ」?

「そう思える? 『余計なことしないでっ』て、いっちゃったのに?」

「思えるわ。久美さんと多智花君を信じてる」

「カンナに言われるとうまくいきそうな気がする。ところで部活動はあるの?」

 普段と何ら変わらない久美に、カンナは微笑んだ。

「今日はないの。だからゆっくり帰るわ」


「ブーッ、ブーッ……」

「ねえ、カンナの携帯が鳴ってるみたい」

 カンナは鞄のポケットに手を入れ何気に画面を眺め、久美を見た。

「そんな顔してどうしたの?」久美は、「プッ」と、噴き出した。

「だって……。これどうしたらいいの」

「どれどれ……。って、すぐに学校を出ないと間に合わないよ」

 カンナはコクリと頷いた。

「僕は今バスに乗っている。16時30分にカンナの学校前に着く。それに乗車できる?」

 神田からのメッセージだった。

 

 カンナは慌てて階段を降りた。すると久美は叫んだ。

「カンナ! 階段は気を付けてね。それと、彼に宜しく!」

「分かったわ。ありがとう!」カンナは一旦停止し、下から叫んだ。それから昇降口へ急ぎ靴を粗雑に置いて履きながら走った。カンナはただ会いたい一心でバス停へ向かった。





 





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ウエイブ モーション(メモリー) 菊田 禮 @kurimusontaiga-4018

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