第3話

  三


 長かった三年が過ぎ、高校生になった私は、今日も父の外出の隙にアイコのいる地下室へと足を運んでいた。終業のチャイムと同時に教室から消えるのがもはや日課となり、別の高校に恋人がいるだとか援助交際だとまで噂が立ったこともあるけど、あながち遠からずといったところなのがまた悩ましい。三年に及ぶ逢瀬のなかで私たちは親友とも呼べるような関係になっていた。互いに同じ名前で呼び合う関係はいささかこそばゆいけど、それで困るようなこともない。

「ただいま、アイコ」

「おかえり愛子。今日は遅かったじゃないの」

「バカ。誰のせいだっての」

 アイコは相変わらずロングのキャミソールという装いで、あぐらをかいたまま読書にふけっていた。今も痣は絶えないらしく、それについて一度アイコに訪ねてみたけど、露骨に避けられたので以後は触れないようにしている。毒々しい色の肌にはもう慣れたし、特に視線のやり場に困るということもない。私は鞄の中から二〇冊におよぶ図書館の本を取り出して、鉄格子越しに渡す。

「おお、あったんだこれ……これもだ。いやー、ありがとう」

「本当、探すの大変だったんだから」

「別に今日じゃなくてもよかったのに。急いでとは言わなかったはずだよ?」

「でもどうせ前の本も読み終わる頃だと思って」

「さすが。ご明察」

 アイコは部屋の奥の死角から、またも同じくらいの高さの本の山を抱えて戻ってくる。これは先週私がアイコのために借りてきた本だ。結局またずっしりと重くなる鞄だけど、これももう習慣になっていて、どうということはない。

「父にはバレてないでしょうね」

「ないない。本は見えないように部屋の隅に隠してあるし、私も昔のままずっと話せないフリしてるし。んう、あー」

 そうならいいけど、と心配げに眉を寄せる私に、アイコはけらけらと笑う。

「にしても愛子は尽くすタイプですなあ。その性格を活かして友達でも恋人でも作ればいいのに」

「ほっといてよ、もう」

 出会ってすぐの頃、言葉がほとんど喋れなかったアイコの勉強のために、私の古い絵本を持ってきたのが始まりだった。それが終わると次は教科書。驚くような速度であらゆる分野の知識を吸収していくアイコのために、私はまた教科書だけではなく別のたくさんの本を持ってくるようになった。次から次へと湧いてくる要望に応え、古今東西あらゆる小説に辞書、哲学書、歴史書などの学術書、社会学や心理学の研究論文、情報技術や工学などの技術書、漫画のコミックスや雑誌にいたるまで、様々なものを用意した。「たくさん本を読むこと」という父の言いつけを守っていたこともあり、もともと私もそれなりの読書家を自負していたのだが、アイコにはあっという間に追い抜かされてしまった。

「いつの間にかアイコのほうがすっかり読書家だ」

「そんなことないよ。私は単純に興味っていうか、読書くらいしかすることがないから」

「ううん、アイコはすごいよ。だって私はもう全然興味なんて沸かないし、そもそも最初からそうだったのかもしれない。父が褒めてくれるからそれになんとなく従ってただけで、今はすごく苦痛だもん。このごろずっと学校の成績も伸びないし、ああもう。こんなことなら進学校なんて選ばなきゃよかった」

「ええー。でもその制服可愛いじゃん。似合ってる」

「はぐらかさないでよ」

 だんだん落ちこぼれていく私を父はやはり叱らなくて、むしろ優しくいたわるような振る舞いをする。何をしても愛されたままでいられる私は、もはや何に対してもすっかり興味を失ってしまっていた。親子の愛情といってもそこまで無条件に愛情を抱けるものなのだろうか? いまだ父の愛に執着する私は、同時に恐怖をも抱いていた。地下室にひとりの人間を閉じ込めておいて、どうしてあんな風に笑えるのだろう。父の微笑みの不透明に、私への愛が本物かどうかも分からなくなってしまう。ああ、でも、私だって同じか。

「愛してるよ」

 鉄格子の向こう側から、細い腕が伸びた。か細い力で抱き寄せられ、私の唇が体温を知った。螺旋に落ちていた思考が呼び戻されて、目の前にはアイコだけが映る。ああ、そうだ。私は何に対しても無関心になったわけではないのだ。ただ唯一、アイコだけが私を導く光。共犯関係にも似た、溶けるような口づけのあと、ゆっくりと唇を離してアイコは繰り返す。

「愛してる。私だけが、本当に愛子を」

 舌をなめずり、甘い罪の味。父からの愛に執着する私を、アイコはいつもこの言葉で引きはがそうとするのだ。白い繭に包まれたような頭で、私もアイコの耳に囁きを返す。

「私も愛してる。私にはもう、アイコしかいないの」

 だけど、そんなアイコが本当は社会的には存在していないはずの人物であることを、私は知っている。中学時代の終わり頃、受験のための手続きのなかで戸籍謄本というものの存在を知り、その写しを取り寄せることになった。しかしそこに記載されていたのはただ父と母と子が一人、そのどこにもアイコの存在を示す証拠はなかった。おかしいと思って出生記録を調べてみても、自宅出産だったことしか分からない。そこでも、ただ一人の女の子だけが生まれたということになっている。それでもきっと私たちは双子だ。DNA鑑定にかけるまでもなく、それは間違いないと思う。でなければあまりに似すぎている。アイコのほうがやや痩せ気味で背も低いけど、それはきっとこの地下室での生活によるものだろう。それ以外の身体の造り、骨格や声の質、手の形までそっくりで、これが双子でなければいったい何だというのか。

 浮かぶのはひとつのストーリー。母が私たちをこの家で産んだとき、父は双子の片割れを地下室へと閉じ込め、もう片方をただ一人の娘として出生届を提出、何事もなかったかのように育てた、というものだ。私とアイコはただ選ばれたか選ばれなかったかというだけの違いで、今この鉄格子を隔てて生きている。ひょっとするとこの白い部屋のなかにいるのは私だったかもしれないのだ。

 白い部屋。しかしここには生活に必要なものが一通り用意されているようだった。部屋の奥にはトイレやシャワーもついていて、空調設備も完備。おそらく電力は独立電源から供給されているのだろう。地上のぼろ洋館よりもよっぽど綺麗で衛生的な空間だ。食事や着る服はその都度父が持ってくるのだという。そしてこの鉄格子。

「ねえアイコ。本当にここから出たいと思わないの?」

「ああ、もう。だから何度も言ってるじゃん。出たくないんじゃなくて、出られないんだって」

 アイコが鉄格子の端に取り付けられたカード錠を示す。確かに、カード型の鍵がなければ、ピッキングしてこじ開けることもできない。でも鍵さえ手に入れてしまえばいいのだ。アイコの話では、カードキーはいつも父が懐に持っているという。そこまで分かっているのだから、何かとやりようはあるはずだ。

「私はアイコの気持ちが聞きたいの」

「うーん、よくわかんない」

 アイコはそのまま床にごろんと寝転び、間延びしたあくびを漏らした。私が真剣に話すといつもこう。飄々と躱されるようでもどかしい。そんな私の気苦労も知らないで、アイコは続けて言う。

「たぶん杭につながれた象みたいな感じなんだろうと思う。象使いがどうやって像を手なずけるのか知ってる? 子供の頃に杭につながれた象はいくら暴れても逃げられないことを悟ると、大きくなって杭なんて簡単に引っこ抜けるような力がついてもなお、自分が杭から逃げようとは思わなくなる。杭は抜けないものだって思い込んじゃうんだろうね」

「でも、アイコは象じゃない。私、アイコのためならなんだってするよ。父のところからカードキーを盗めば、すぐにだって」

「うん、まあ。確かに私は象とは違う。私には愛子がいるから」

 アイコはむくりと腰を起こし、私を見上げる。急に向けられた鋭い視線に思わずたじろいでしまうけど、さらに追い打ちをかけるようにアイコは語気を強めて、

「でもそれはリスクが高すぎる。愛子が傷つくかもしれないようなことを、私は望めない」

 ああ、そうだ。アイコはこういう子だった。自分のことよりもいつも私のことを気にかける、優しい子。父が望んだ「いい子」はきっと私なんかじゃなくてアイコのほうだと思う。けれど、もうこの話は終わりだとでもいうように、そっぽを向いて新しい本のページをめくり始めるアイコ。私は彼女の背中に、乾いた言葉を投げつける。

「いいよ、べつに。私はいくら傷ついてもいい。それくらいの罪は犯してきたから」

「……ああ、今日も懺悔かい? いいよ、話してみな」

 ぱたん、と本が閉じられる。それを合図に私はまた自分の罪をさらけ出す。今日はクラスの佐々木さんが担任の先生の不倫相手だという噂を立てたよ。おとなしい子で、先生くらいしか話し相手がいなかったのに、かわいそうだね。

 私は本当にひどいことをした。

 しばらくして佐々木さんと担任の先生が同時に学校からいなくなり、私は泣く。彼らがその後どうなったのか知る由もないが、聞いた話では先生と佐々木さんの間には本当にそういった関係があったらしい。だけど噂は噂。私の流した噂だって作り話のつもりだったのだから、本当のところはわからない。ふたりが去った跡に、私の苦しみと悲しみだけが残る。

 ただどこからか噂を流した犯人が私だと伝わったのだろう、すぐに校長先生から呼び出しを受けた。厳しい追及はなく、ただ叱られた。しかしそれはきっと添え物の建前に過ぎなくて、本当は口封じをしたかったのだと思う。この学校でこういう事件があったことはむやみに人に話してはいけません、もちろん今後も似たようなことが起こった場合はまず学校に報告すること。あなたみたいな真面目な子がねえ、とも言われたがなんとも思わない。今日親御さんに連絡するから、ちゃんと話し合って反省しなさい、と言われてようやく後悔の念が湧いた。

「愛子は悪くない。そうだろう?」

 父の前で私は俯き、何も言えなくなってしまう。口を開けばそのまま胃の中身がひっくり返りそうだった。私の全てを肯定する父の言葉が本当に愛情によるものか分からない。ただ思うのは、これが本当に愛情によるものであれば、それこそ救いがない、ということだけ。

 これまでずっと父の愛を求めて止まなかった私だけど、いつの間にかその気持ちも擦り切れていたのかもしれない。あるいは、ずっと前からなんとなくは感じてもいたのだろう。ようやく私は、父の私に対する愛が嘘なのではないかという疑念を胸に確かに抱いた。アイコの言うとおり、私を本当に愛してくれるのはアイコだけなのかもしれない。

「先生とその生徒はきっと本当に罰せられるようなことをしたんだろう。それが露見して制裁を受けるのは当然のことだ。逆に愛子を責める理由はどこにもないと、パパは思う」

 けれどこれは私だって同じこと。私もまた同じように、父を欺いてきたのだから。私は小さく頷いて、

「うん……そうだよね。ありがとうパパ」

 蝋燭の炎のように、終わるときは一瞬だ。このとき父と交わしたほんの少しの会話だけで、世界は静かに反転した。父の愛に支えられてきた過去の自分がすっぽりと抜け落ち、そこにあったはずの存在を保証するものがどこにもなくなった。父の言いつけを守り、守るふりをしてきた過去はいったいなんだったのだろう。私を縛り苦しめた愛が嘘だったのなら、その残りかすをどんなふうに私は肯定してやればいいのだろう。私は今までずっと、何のために罪を作り続けてきたのだろう?

 その夜は眠れず、朝を迎えても学校には行く気になれなかった。父が出かけるのを見送って、私はまたアイコに会いに行く。もう私は父に対してこれまでのように振る舞えそうになかった。いい子を演じる理由も失った。私はこれからどうすればいいのかわからなくて、それ以上にただぬくもりが欲しかったのかもしれない。アイコはすぐに鉄格子越しに私を抱きしめて、ただ撫でてくれた。アイコが双子の姉だったらいいのにと、このとき初めて思った。今はとにかく甘えていたかった。

「ほら、やっぱり。パパの愛情は本当の愛情なんかじゃない。本当に愛子を愛せるのは私だけだ。パパの知らない愛子を私はぜんぶ知ってるんだから」

「うん、うん」

 私はただひたすらアイコの言葉に頷いた。アイコだけが正しくて、私はそれに縋るだけ。アイコは私のすべてを抱きとめてくれる。かつてどんな罪を打ち明けられても、それをただ一様に肯定も否定もしなかった。どんなときでもアイコは正当に私を見てくれた。本当の私を見てくれた。

「もう、いいんだよ。そのままの愛子でいい。いい子になんてなれなくてもいいんだ」

 そして愛子がゆっくりと私の身体を離し、肩を掴んだまま私と目を合わせて言う。

「だから愛子、パパに話すんだ」

「え?」

「今までの罪も嘘も、全部パパに打ち明けるんだ。もちろんここで私と会っていることも。もう自分を苦しめる必要はないんだ。ちゃんと話せば、きっと分かってくれるよ」

「いや、でも」

 突然の言葉に戸惑いを隠せない。それよりも私はアイコとふたりでここから逃げ出したかった。どこか遠くの知らない街で、ふたりで暮らす物語を夢想した。だけど、同時に信じるしかないとも思う。今の私にできるのはただアイコの言葉に頷くことだけだった。

「うん、わかった。全部話すよ」

 手をつなぎ、背中合わせに座る。触れる鉄格子の冷たさも気にならなかった。不安も恐怖も、すべて手のひらのぬくもりが溶かし、勇気だけが残る。私たちはたくさんのことを話しながら時が過ぎるのを待ち、あっという間に夜だ。熱を帯びた頭も次第に冷めて、私は何度も考えてきた疑問を、ようやくアイコへとぶつけた。

「ねえ、アイコはどう思う? 父がどうしてこんなことをするのか」

 本当は心のどこかで考えないようにしてきたのかもしれない。アイコはきっと何か知っているという思いが、むしろ私を真実から遠ざけていた。結ぶ指に、自然と力が込もる。少し考えてから、アイコもまた私の指を強く握り返した。

「私は、これが何かの実験なんだと思う」

「実験?」

「同じ姿形の双子をまったく別の環境に置くことで、その変化と原因を探る。似たような実験は過去にもいろんなところで例があって、それ自体はそう珍しいものではないと思う」

 直截的な言い回しを避けているものの、私はアイコの言葉に確信に近い響きを感じ取っていた。アイコはきっと何か核心となる事柄について知っている。あるいは私が重大な何かを見落としているのか。もったいぶるようなアイコの表現がもどかしく、私は急かすような早口で尋ねる。

「もしそうだとして、それじゃあこれは何の実験なの?」

 さざなみ立つ私の言葉。その語気、荒れた呼吸をなだめるかのように、碇泊する船のような穏やかさでアイコは微笑む。

「愛の実験」

 ゆっくりと移ろう意識がその時確かにとらえたのは、初めて見るアイコの悪戯にも似た悪意の笑みと、もう一つ。地上から響いて聞こえる車のエンジン音だった。入り口の分厚いドアを開けておいたおかげで、車が停まる音もここまで届く。父が、帰ってきた。

「それじゃあ、私、話してくる」

 立ち上がり、結んだ指がほどける寸前、

「うん。健闘を祈るよ」

 アイコは初めて会った時のようなあどけなさで、歯を見せて笑った。

 私は広い玄関ロビーに立ち、父が扉を開けるのを待つ。この建物のこの広さも、本来なら四人で住むはずだったもの。父と母と私とアイコ、四人の家族。失踪した母が今もどこかで生きているのだとしたら、そんな生活も全くありえない話ではないはずだ。何よりも私はこの先もずっとアイコと一緒にいたい。取り戻そう、と胸に誓った。

 きしむ扉。夕空を背後に、父の姿が現れた。きれいな折り目のついたスラックスに、白いワイシャツが目にまぶしい。

「ただいま。……おや」

 その視線がすぐに私を捉えた。穏やかな、欺瞞に満ちた目。

「今日、学校を休んだそうだが。調子のほうは」

「パパ。話があるの」

 父の言葉を遮り、切り出した。笑みを浮かべず、睨みをきかせず。ただ毅然とした態度で、平然と立つ。一方で父はいつものように穏やかに応えて、

「ふむ。話とは」

「私の罪について」

 しかしそこでようやく父の表情が、かすかに色づく。かつて何度か見た顔だ。私の懺悔を拒否し、いい子でいさせようとする時に見せるそれ。だけど、今度こそ逃さない。

「……どうしたんだい。話してごらん」

「立ち話でいいのなら、今ここでもいいけど。長くなるからソファにでも座れば? 空いてる客室、たまには使わないとね」

「……いいだろう」

 客室は東館、玄関から出てすぐの部屋。骨董品とがらくたが一緒くたにされ壁に沿って並ぶ、物置代わりの飾り棚。スイッチを入れるとぼんやりオレンジ色の明かりがついた。薄く積もった埃を払い、ソファに父を促す。

「ああ」

 父の腰が深く沈む。その様子を見下ろして、立ったままで私は口を開く。

「まず私がパパに言っておかなきゃいけないことがある」

 深く息を吸った。

「私はパパが望んだようないい子なんかじゃない。私は、悪い子なの」

 やっと言えた。

 私がついてきた嘘、守らなかった言いつけの数々。作ってきた罪の話。言葉を用意したわけではなかった。それでも湧き上がるように、黒く汚れた記憶は呼び覚まされていく。小学生の頃、産まれる前の雛を殺した罪が、それを隠すように初めて嘘をついた罪につながったように、嘘は嘘を塗り固め、罪は罪へと連鎖する。脈々と広がる網の目の一つ一つが私の罪で、毛細血管のような密度で私を象る。私の存在がこうして編みあがったものだと、しつこいくらいに繰り返す。いい子になれない私は悪い子。ただそれだけを伝えたかった。

 父はどんな反応も示さないままそこに座っている。ぴくりともせずただ微笑みを作り、凍ったようなまなざしで私を見ている。ああ、この人はやっぱり、心の底では本当に笑ってはいないのだ。昔からずっと、父はほんとうの意味で私に微笑みを投げてくれたことはなかったのだ。だから愛も、私たちの関係も、全て嘘。でも今は私の話を聞いてくれている。

 そして私は私の愛について語る。地下室での密かな逢瀬、過ごした時間。初めて会った日のことから今日のことまで、私たち姉妹がどんなことを語り合い、秘密を育んできたのか。ただ一人私のことをそのまま受け止めてくれたアイコ。優しくて賢い彼女は私よりもずっといい子で、憧れだった。いつでも私の懺悔を聞いてくれた。私にとっての母であり姉であり親友だったアイコ。今の私にとってのすべて、まどろみのような甘い思い出について。その長い話を終えた時、私の視界が白く飛んだ。

「え?」

 身体が浮いて、背中が叩きつけられるような感覚があった。何が起こったのか判然としないまま、次いで脳が左右に揺れる。水中にいるかのように、くぐもった鈍い音が何度も遠くに聞こえた。殴られている、と気付いたのはしばらくしてからで、頬と腹部に浮かび上がるように鈍痛が走る。遠くだった音は耳の中から聞こえるみたいに響く耳鳴りに変わる。獣のような呼吸。それが自分のものかどうかも判らない。次第に視界は戻り、しかしどういうわけか真っ赤に染まっている。ぶつかった飾り棚が倒れ、崩れ落ちる装飾品が辺りに散らばっているのが見える。そして目の前には父が笑いながら今まさに私の足を逆向きに折るのが見え、

「ずっと前から知ってたよ。お前が悪い子だって」

 叫び声を上げるよりも先に、意識が途絶えた。

 アイコ。助けて。

 薄靄がかった頭で、ずっとその名を呼んでいた。アイコが私の全てで、救いだ。だから祈る。だけど同時に、ぼんやりと思うのだ。その思考がどういう意味をもつのか自分でも理解しないまま、考えている。アイコが私の全てなら、アイコこそが愛子なのではないかと。私はどこにいる?

 背中に焦げるような痛みを覚えた。まだ赤い視界は下から上へと流れ去る。引き摺られたまま階段を降り、ゆるやかに螺旋を描いて落ちていく感覚。意識が戻り、まだ自分が生きているのだと実感するまでにしばらくかかった。曲がった足を父に掴まれ、私は西館の地下、隠し階段のなかにいた。

「パパ……なんで、こんな」

 かすれた声を絞り出す。それから血を吐いて咽る私を見て、父は楽しそうに笑う。

「あは、目が醒めたか」

 言いながら、歩くペースは変わらない。私の重い頭が階段をひとつずつ落ちていく、ゆっくりとしたテンポと合わせて、父は言う。

「なぜか。それはお前が私の実験をめちゃくちゃにしたからだ」

 ああ。確かアイコも言っていた。なんだっけ。よく思い出せない。

「知っていた。知っていたとも。地下室は常にカメラで監視している。初めてお前が地下室を見つけた日の録画データを見て、私は本当に驚いたよ。いや絶望したといったほうが近い」

 父は笑う。絶望という言葉が心の底から可笑しいとでもいうように。

「このときすでに私の実験は失敗したと悟ったよ。だが少し考えて、私は閃いた。このことが実験に与える影響は、別の要素によって相殺できるのだとね」

 もはや父は私に向かって話していない。口調は昂ぶり、語りに没する。思い出し笑いを噛み殺そうとする子供のような純真さが、声色に浮かぶ。

「それは、憎しみだ」

 父はいったい何の話をしているのだろう。

「あえてお前たちの会合を見過ごし、何度も接触させることで、愛子はお前に対する憎しみを育む。それにより、お前が愛子に与える愛は相殺される。完璧だ。それで実験はうまくいくはずだった。……だが、今度こそ終わりだ。お前が全てを終わらせた。秘密を私に打ち明けてしまった。ああ知っていた、知っていたとも。だが私はもう見過ごせなくなってしまったのだ。お前は私の愛を疑い、秘密の逢瀬はもはや秘密ではなくなった。すべてを嘘として決定づけたのは私ではない。お前だ」

 私には理解することができなかった。もう何も考えられそうになかった。ただ言葉に宿る憎しみの矛先が私に向かっていることと、事態の責任が私にあるということだけはなんとなくわかる。

 三半規管がうまく機能していないけど、いつの間にかどうやら階段が終わって平たい床の上を引き摺られているらしい。この目に映る床と壁と天井にはなんだか見覚えがある。ああ、そうか。全部真っ赤だから判らなかった。もう、ここは地下室だ。

 鉄格子の前、投げ捨てられた私はアイコの姿を確かめた。さっきまで助けてくれと願ってばかりいたのに、そんな気持ちがしぼんで今は後悔に変わる。ごめん。ごめんねアイコ。私、うまくできなかったよ。私のせいでアイコまで傷ついてしまうかもしれないと思うと、どんな痛みよりも辛い。私はいつも取り返しのつかない間違いを、後になって気づくのだ。どうしようもない後悔は不毛だ。それなのに私はまた間違えてしまった。

 アイコが駆けてくる。勢いで鉄格子にぶつかり、がしゃんと音が鳴る。しがみつき、隙間から手を伸ばし、何度も私の名を呼んだ。届かない距離。私もアイコの指先に触れたくて、必死に手を伸ばした。力が入らない腕を、鞭打つように動かす。

「おっと」

 寸前で肩を蹴りつけられ、私の腕は力なく床に伸びる。

「愛子!」

 声も出ない私に代わり、悲痛な叫びが部屋に響いた。アイコは抜け殻のように鉄格子にしがみついたまま、力なくうなだれる。

 電子音。父が懐から取り出したキーを錠に通し、格子の一部が扉になって開いた。

「お前も。愛子と同じように罰を受けなさい」

 再び掴まれ、引き摺られる身体。父が先に扉を通り、続けてゆっくりと私の身体が鉄格子を横切る。あれほど強固に私とアイコを遮っていた境界が、床に残る私の血と交差する。部屋の中央までゆっくりと運ばれながら、それと同時に流れる視界に、私はアイコの肢体がナイフのように鋭く光るのを捉えた。

 速い。腰を落としたまま、床を滑るように駆けるアイコが、あっという間に父の背中に回りこむ。見惚れるほどのしなやかな身のこなし。揺れるキャミソールから伸びる太腿には、ただこれだけのために鍛えられたかのような筋肉で無駄はなく。そして父がアイコの動きに気づくのは私よりほんの一拍遅かった。それがきっと命取りになったのだろう。

 アイコが腕を横に引くと同時に、父の首が浅く裂けた。

「ああああああああああああああああああ!」

 裏返ったような叫び声、それから噴水のように吹き出す鮮血がこの白い部屋を侵す。父は尻もちをついて、首筋を押さえるその手の隙間から血がさらに溢れている。

「パパ!」

 私はもう感覚もない腕を必死に動かして、父のもとへと這った。だけど、それよりも早くアイコが父の胸に跳びかかり、父は仰向けに倒れた。アイコが父にまたがる。そしてまた、アイコの腕が父の胸の上を滑る。父はくふう、くふうと呼吸を漏らして、耐えるように身をよじる。その様子を味わうかのように、アイコはその手で父の身体に傷を増やし続けた。

「アイコ! もうやめて! どうしてここまでするの……こんなこと。ねえパパ! 死なないで、お願い……!」

 叫ぶ私の言葉で、アイコの動きがぴたりと止まった。這いつくばる私の指先が、ようやく父の頬に触れる。私の顔を見て、どういうわけか父は笑った。

「は、はは。お前はやはり私を愛しているのだな。だがそれも当然だ。なぜなら人間は自分を愛する相手を愛したがる生き物であり、そして私がお前のことを愛したからだ。ふ、ふふ。私がお前を愛したのはなぜだかわかるか? 親子だからだ」

「違う。そんなものは愛とは呼ばない」

 アイコが温度のない声で言う。

「そう、そうだ。それは本当の愛ではない。本当の愛とは無条件の愛だ」

 私はやっと思い出していた。アイコが今日話していたこと。父は「愛の実験」を行っていたのだと。

「偽物ではない、本物の、無条件の愛だ。それは家族だからとか恋人だからとか、そんな条件に縛られない純粋なものだ。身も蓋もない言い方をすれば、すなわち根拠のない愛。私は……愛されたかったんだ。だからお前たちを利用した」

 父は言葉の合間合間に何度も血を吐きながら語る。そのあまりの真剣さに、思わず吹き出してしまいそうだった。陳腐な言葉。脆弱な思想。そのどれもがあまりにも幼く、歪んでいる。

「誰からも愛されない人間が、果たして誰かを愛することができるのか? それを確かめるのが私の実験の核となる問題だった。そう、だから私は自分の娘が産まれると知った時、娘を決して愛さないと決めたのだ。愛さず、ひたすらに痛みを植え付け、苦しみを与えた娘にもし愛されることができれば、そこで初めて私は愛を知ることができると信じたのだ。それがお前だ、愛子」

 父の呼ぶ「愛子」は、今まさにその父にまたがるか細い少女のことを指していた。植え付けられた痛みと苦しみ。それがつまり、アイコの身体に絶えなかった痣のこと。今更になってやっと、すべてが繋がり始めていた。アイコこそが本当の愛子。父が本当に愛されたかった相手。だったら私はどこにいる? 私には何の意味があるのだろう?

「産まれた娘は双子だった。片方は愛子。もう片方はサンプルに過ぎない。比較対象物としての、遺伝的に近しい個体。それがお前だ。だがサンプルにも当然意味がないわけではない。本物の愛を検討するためには、偽物の愛だって必要だろう?」

 あまりにも笑えない冗談。私はそんなもののために利用されてきたのか。

「愛されるために、愛さない。それが私の愛の実験の方法だ」

 あまりにも愚かで哀れな父の言葉に、虚脱感におそわれる。こんなことには何の意味もない。きっとこの人には何もないのだろう。誰からも愛されず、上手く他人を愛することもできず、最後までこうして一人で死んでいくのだ。だけど、そんな父に弄ばれた私だって同じくらい愚かだ。

 アイコは父の言葉を最後まで聞いていた。血だまりのうえで倒れる父の頬を撫でながら、囁くように、

「でも失敗した」

 無力な父を、無様な父を、まるで味わうかのような甘美な笑みで、言葉を継ぐ。

「パパは間違えたんだよ」

 アイコのこんな姿を、今まで一度だって見たことがなかった。あまりにも冷たく憎悪に駆られたその瞳に、今は私の姿は映らない。

「ねえ、パパ。いいことを教えてあげる」

 アイコの口元から涎が垂れた。その雫が父の目元に落ちて、父はとっさに目を閉じる。その瞼の真上にかざされた白い手先に、血に塗れた何かの破片が握られていた。ああ、私はそれが何か知っている。

「愛されるためにはね、愛されるための努力と嘘が必要なんだよ」

 ゆっくりと、その破片の先が沈む。狂ったような叫びが部屋を満たしてこだまする。吹き出すのは透明な液体。次第にそこに血の色が混ざり、父の左の眼球は音もなく潰れた。アイコはぬるりと破片を抜き取り、父の身体から離れた。汚れた破片をもう一度手に握り直し、そして今度は私を見下ろす。

「私は象じゃない。私には、愛子がいた」

「え?」

「パパの言うとおり、これは愛子のせいなんだよ」

 うつ伏せの私の背中にアイコがまたがり、私の首を持ち上げる。逆さまに映るアイコの顔に、いつものような笑みはない。

「私は物心ついた頃にはもう、ここで暮らしてた。でもね、それで不満なんてなかったんだ。私にはこの世界しかなかった。それ以外には何も知らなかった。それでよかったんだ。なのに愛子は私と出会ってしまった。たくさんの本を読ませてくれた。外の世界を教えてくれた。……そう、だから私が象じゃなくなったのは、その時だ。私はここから出たいと願うようになったんだ。でもそんな私の苦しみも知らず、愛子はいつも懺悔懺悔懺悔って。外の世界でいろんな酷いことをしておきながら、ただ自分が楽になりたいがために、私に全てをさらけ出して……さぞかし気持ちがいいことでしょうよ。私はもうずっと気が狂いそうだった。その一方でパパからはひたすら暴力の連続で。たとえ嘘でも褒められたことなんて一度もない。愛子には心の底から嫉妬したよ。ねえ、そんな私が本当に愛子のことを愛していられると思う?」

 視界が滲んだ。私には何も応えられない。ただ自分の犯した本当の罪にようやく気付いた。私にとって都合のいいだけの思い出が塗り替わる。私がアイコに対してどんな仕打ちをしてきたか、思い返した記憶が私の瞳を濡らし続けた。

「パパからこの実験について聞いたのは、その時だった。パパは本当に愛されるために私を愛さないんだと言った。その一方で愛子はサンプルのために、何があっても愛するのだと。双子のどちらを選ぶか、そこに作為はなかったと。つまり偶然。この部屋へ閉じ込められているのが私であることに、何の意味もないのだと。私はこの時初めて知ったんだ」

 話しているアイコの表情を見て、きっと今は私も同じ顔をしているのだろうと思った。

 アイコの手が私の頭を掴み、もう片方の手が、私の逸らされた首に当てられた。首筋に冷たい感覚。アイコの手に握られた破片の切っ先。

 死を悟った。私はアイコに殺されなければならない。でなければアイコは救われない。ごめんなさいと謝罪することすら自分勝手な暴力だ。私はこれ以上、自分を楽にさせてはいけない。私はそっと息を吐き、瞼を閉じて、最後にただ一つだけ、

「ありがとう。その手鏡、ずっと持っていてくれたんだね」

 初めて出会った日のことを、今でもはっきりと覚えている。言葉もろくに話せなかったアイコ。私のことをパパと呼び、他人の顔の区別がつかないどころか、自分の顔まで知らなかったアイコ。私はその日初めて、アイコに自我を与えたんだ。私の持っていた、その手鏡で。

 今、その破片が私の喉につきつけられている。もしもこの日の思い出に殺されるなら、本望とは言わないまでも、仕方がないと諦めもつく。私は息を止め、殺されるのを待つ。鼓動が最期の時を刻むように懸命に動き、その数をひたすら数えた。けれどいつまで経ってもその時は訪れない。

 首筋から、ゆっくりと鏡の破片が離される。

「やめた」

 私の背中から重みが消え、目を開けるとアイコは転がっているカードキーを拾い上げていた。

「殺さ、なかった。のか。まさか。愛子が! あはは、ははは!」

 細い呼吸も絶え絶えに、父が声を上げて笑った。まだ生きていたのか。すでに体温も下がりきっているだろうに。そんな父には一瞥もくれず、アイコは扉を通って出て行く。

「愛子たちはここに閉じ込めることにするよ」

 アイコが錠にキーを通すと、無機質な電子音とともにロックがかかる音が冷たく響いた。

「ばいばい」

 それだけ言って、アイコは階段を上っていく。その背中を見送りながら、私の手にいつの間にか鏡の破片が握らされていることに気付いた。長い地上への階段の音が少しずつ遠ざかり、やがて消える。アイコにとって初めての外の世界。今はもう夜も更けているだろうし、あの格好のままではきっと寒いだろうけど、それもまたアイコが少しずつ取り戻していかなければならない感覚だ。

 だから、これでよかったのだろう。

「実験は、成功、したのか……。は、はは! 愛子が、まさか、サンプルを、な」

 父はようやく息絶える。私は父の懐から携帯電話を取り出し、一一〇番にコールをかけた。住所と簡単な現状だけ伝えて一方的に切った。この事件についての詳しい説明は少しずつ、後でゆっくりすればいい。結局私は死ねないまま、生きることになりそうだった。

 携帯電話を血の海に投げ捨てた。私は壁にもたれながら、点々と赤く染まったこの部屋の惨状をぼんやりと見渡して、この床の血がゆっくりと流れていることに気がついた。どうやらこの部屋全体がゆるやかに傾斜しているらしい。この部屋の奥にはシャワーやトイレまでついていて、だからきっとこの傾斜は排水口にでも向かっているのだろう。

 いつもアイコはその奥の死角から本を取り出し私に返したものだった。そういえば図書館から借りてきた本は、ちゃんと返却しなければ。警察が来る前に、せめてそこにある本が血で汚れないようにしたいと思った。こんな状況のなかで冷静にものごとを考えている自分が少し可笑しい。

 ずいぶん疲れて呼吸が苦しい。救急車もついでに呼べばよかったなと思うけど、後の祭りだ。それでも私は這うようにしてこの部屋の奥の角を覗き込む。

 ああ、あった。ちゃんと二〇冊きっかり揃っているし、ここまでは血も飛ばなかったようだ。綺麗とまではいかないが、元々こんなものだったろう。だけど、そこにあったのは本だけではなかった。

 見ただけで、それが一人分あるとすぐにわかった。乱雑に、ちんまりと積まれた骨と骨。見るからに軽そうで、吹けばからからと崩れてしまいそうなそれが、積まれた本の向こうに散らばっていた。その隅に、ぽつんと頭蓋骨がひとつ。

 きっと疲れすぎたせいだろう。これを見てもさほど感情は動かななくて、ただ納得がいったことが一つある。それは、まさに今この状況が元々あるべき姿だったのだということだ。今日よりもずっと前から、檻の中に囚われていたのはきっとアイコではなく私の方。そして同じようにまた父も、ずっと昔からこの檻に囚われていたのだと思う。

 けれど私はここを出て、この先もずっと生きていく。私が死ぬべき理由は、アイコが持ったままどこかへ去ってしまった。それが当面の私の生きる理由になるだろう。やはりアイコは私にとっての全てで、私はアイコのことを愛している。あんなにややこしいだけの無意味な父に比べれば、それくらいシンプルな結論でもいいだろう?

 さて、それでは初めましての挨拶だ。私はこの骨の山に向かって精一杯の微笑みを作り、愛を込めて言う。

 私はいい子になれない悪い子で、名前はアイコ。産んでくれてありがとう、ママ。

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檻の外から連れ出して 素以エチカ @motoietchika

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