第2話

  二


 ごめんなさい、パパ。私は今日も猫を殺してしまいました。

 その日は梅雨の初めで、雨が降っていた。傘の尖った先端にはべっとりと血がこびりついていて、この細い五月雨の中では落ちそうにもなかった。だから私は猫といっしょに傘を公園のゴミ箱に捨てて、濡れながら帰る。脚の震えがようやく収まったことに安心しながらも、ついさっき聞いた猫の短い断末魔に胸を痛めた。

 今度は偶然ではなかった。明確な悪意が私の中にあったと思う。

 放課後、学校で知らない男の子に付き合ってくれと告白された。もちろん「ごめんなさい」と断ったが、それでも今日の相手は食い下がってきたのだ。一年生の頃からずっと好きでした、僕知ってるんです、白河さんは優しくて、社交的なのに控えめで時々見せる物憂げな表情が可愛くて、だとか。それが本当に褒め言葉かどうかは別として、そんなふうに思ってもらえることはとっても嬉しいしありがたいことだけど、私は相手の言葉を聞いているだけで脚の震えが止まらなくなっていた。違うの。私はそんな子じゃない。なんとか震えを隠しながら、もう一度振り絞った声で「ごめんなさい」と一言。必死に気持ちを訴え続ける彼もそれで立ち去っていった。

 中学にあがってからこれで三度目だ。彼らはみんないい人たちに見えたけど、私はその申し出をすべて断った。彼らが私の美点を挙げるたび、いつも私の呼吸は止まりそうになる。脚が震え、立てなくなってしまうのだ。私はみんなが思うようないい子じゃないんだよ。そんな言い訳が思考を満たして、私は本当の自分がいかに罪深いかを思い知らされる。

 私は悪い子。

 そのことを確かめるように、私は猫を殺す。犬もハトもスズメもカラスも殺した。手足をはさみで切り落としたり、口から裂くように切り開いたり、壁や地面に叩きつけたりもしたけど、傘で突き刺したのはこれが初めてだ。手についた血のぬめりに悪意の手触りを感じて、ようやく私の震えは消える。ごめんなさい。痛かったでしょう。本当にごめんなさい。そんなふうに後になって泣き出す私の傲慢さが、ひどくいびつだ。アスファルトですり潰されたそれらの死体にも似て。

 涙は雨に紛れる。私は坂をひた上り、周囲にはなんの建物も見えなくなっていく。人の気配も薄くなる。歩道のない一車線の道路を覆うように木々は鬱蒼と深く、葉の上で大粒になった雨が、すでに張り付いて透けた制服に落ちてくる。薄目を開けて見上げた空は驚くほど狭かった。この数年間でずいぶんこの景色が変わってしまったのも、この道を通る人があまりに少ないせいだろう。薄煙り色の空を背にしてあるのは、白い私とパパの家だけだ。

 錆びた鉄の門をくぐり、大きな玄関のドアを明ける。雨で湿気たせいだろう、少し膨張した木が軋んだ。濡れた格好のまま入り、じゅうたんも敷かれていない石の床が水浸しになるのをぼんやり見ていると、玄関ホールに別の足音が響く。

「や、愛子。帰っていたのか」

「あ……ただいま、パパ」

 この時間にパパが家にいるのは珍しい。だけど、ついさっき仕事が終わって帰ってきたというわけではなさそうだった。シャツの裾も出したまま、革のブリーフケースを小脇に抱えて小走りでやってくる。通り過ぎざまに、濡れた床に気付いた様子で立ち止まって言う。

「どうしたんだい、そんなに濡れて」

「これは……」

 雨に濡れて困っている人がいたので、その人に傘を譲ってしまいました。そんな嘘が口をついて出そうになる。そうすればきっと、またパパは私のことを褒めるだろう。でも、その褒められる私はいったい誰なのだろう? すべてが嘘で塗り固められた自分。嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。その繰り返しの中でどんどん私が私から遠ざかる。捨てた傘。先端に血。細い断末魔。皮を突き破る時の、柔い抵抗と滑る肉。本物の私が汚くて残酷で悪い子だということを確かめ続けるこんな生活が、いつまで続くのだろう。日に日に彩度を失ってゆく世界が、停滞した時間の流れが、いつか私をその中に完全に閉じ込めてしまうのではないかという不安が膨らんで、それをどんなものもせき止めてはくれない。永遠に降り続くかのような梅雨の空気、そぼ濡れる服の重みと冷たさにさえ、私はもう耐えられそうになかった。

「パパ、ごめんなさい。私、傘を……」

 喉の奥が震えた。言葉にしようとすればするほど、心臓が痛いくらいに脈打って、呼吸が荒れる。それでもパパは私の言葉に耳を傾けてくれていた。さっきまであれほど慌てていたにも関わらず。

「傘を、捨て、の、捨てたの、猫、殺し、血が、私……」

 それだけがなんとか言葉になって、あとは全てが嗚咽に溶けた。もうパパがこんな私を愛してくれないかもしれないことが何よりも怖い。でもパパに嘘をつき続けて、嘘で私を塗り固めていく人生も、同じくらい苦しいと思った。ごめんなさい、パパ。今までずっと心のなかでだけ吐き続けてきた懺悔の言葉が、ようやく声になってパパに届いて良かった。ようやく身の程の罰を受けられるのだと信じ、崩れ落ちそうになる私は、その寸前にしたたかな腕に抱きとめられた。

「愛子」

 しかしその声は怒りなどではなく、慈しみに満ちていた。こんなに優しく名前を呼ばれたのは初めてで背中が凍る。私の声は父の胸の中でくぐもって消えた。

「辛かったんだね……でも大丈夫。愛子は何も悪くない」

 私の頬を打ってくれるはずだった手は、私の頭をいつものように撫でる。だけど何も感じない。その手の大きさも暖かさも、触れられているという感覚すら不確かで、存在が希薄になってゆく。

「違う、違うのパパ。私はわざと殺したの、傘の先で」

「いいんだよ。わかってる」

 強く抱かれ、言葉が詰まり、この人に何を言っても私を見てはくれないのだと、今になってようやく悟った。この人が見ているのは「いい子な愛子」で、今ここで震えている私ではないのだと。何をしても絶対に叱らないパパは、私のことをいい子だと思い込んでいるだけなのだ。

 この人は異常だ、と。生まれて初めてそう感じた。

「寒かったろう。すぐにお風呂に入っておいで」

「うん、わかった。ありがとう、パパ」

 涙はとっくに枯れていた。私はそっと身体を離してから、頬に張り付いた濡れ髪をかきわけ、安心したような笑顔を作った。

「また仕事?」

「ああ。研究室から急に仕事が入って、いったん必要な書類を取りに戻ってきたんだ。少し長引くかもしれないけど、今夜中にはなんとか一度帰れるように打診してみるから」

「ううん、私なら一人でも大丈夫だから、気にしないで。急ぐんでしょ? お仕事、がんばって」

「わかったよ、ありがとう。まためどが立ったら連絡するから」

「はいはい。いってらっしゃい」

 見送った背中が大きな扉に閉ざされて、私は一人、この大きすぎる洋館に残る。玄関ドアの向こうからは遠ざかる車のエンジン音といつの間にか強くなった雨音が届き、私はそれを聞きながらぼんやりと立ち尽くしている。今日はあまりにも疲れすぎた。このまま一歩でも動けば崩れ落ちてしまいそうなほどに。

 だけどあの人のせいではないのだ。

 私のついた嘘が、そこから生まれた齟齬が、どんどん膨れ上がって止まらない。私はいい子を演じておきながら、そんなふうに見られることに耐えられない。それは私の罪であり、私が招いた結果だ。どこにも逃げ場なんてなくて、どこまでも孤独。誰も私を見ていない世界で私は透明で、それを濁らせる苦しみと悪意だけが噛んだ砂のように残り、それだけが本当の私をかすかに示す。

 私は悪い子。

 完全に消えてなくなればいいのかもしれない。だけど、それすらできない弱い私は、今もなおあの人に愛され続けることを望んでいるのだ。その対象がたとえ本当の私でなかったとしても構わない。私は生きて、いい子を演じ続けよう。それで私がどんなに壊れてもいい。

 私は悪い子。私は悪い子。私は悪い子。

 心のなかで何度も繰り返した言葉を、神に祈るように呟きながら、私はこの先どんな罪を作り続ければいいのだろうと考えていた。

 窓の外が一度瞬き、やがて雷鳴が轟く。嵐は遠い。

 熱いシャワーを浴びる間にも何度か地響きのような雷鳴が聞こえた。この梅雨入りの不安定な天気は一晩続きそうだった。ハンドルを回すと、キュッと小気味よい音を立ててお湯が止まる。滴る髪から水気を絞りながら、曇る鏡を手のひらで拭った。

 鏡に写る自分の顔はひどくやつれて見えた。頬は痩せ窪み、泣き腫らした瞼の下で眼光に生気はない。身体が浮腫んでいるような気もしたけれど、あちこちを手で触れて、特に変わりないことを確かめた。

 考えれば考えるほど、父は異常だ。どうして父は私のことを叱らないのだろう。今回だけのことではなく、私は今まで一度だって父に叱られたことがない。私は愛されすぎている……。そう思うと、父の言葉はまるで下手な演劇のセリフみたいにうわべだけに聞こえてしまう。この家のことだってそう。四人暮らしならまだしも、たったの二人だけで暮らすにはこの家はあまりに大きすぎる。それだけで十を数える部屋をそれぞれ備えた東館と西館が、中央の玄関ホールでつながる構造。実際、物置としてすら使っていない部屋もいくつかあるはずだ。私が入ったこともない部屋だっていくつもある。パパの部屋がある西館には立ち入らないこと――その言いつけを今までずっと守ってきたのだ。西館にはいったい何があるというのだろう? そして同時に思い至るのは失踪したという母のこと。母はいったいどこへ行ってしまったのか。父は何かを隠しているのではないかという疑念が胸の中を侵し、今の今までずっと母について考えもしなかった自分自身にも悔しさを覚えた。排水口に長い毛が吸い込まれるようにして流れ、どこか深いところへ落ちていくのを眺めた。

 とりとめのない思考に消耗しながら、それでも身体が温まったおかげで少しは元気を取り戻せた気がした。じんわりと指先に血が通う感覚。乾いたバスタオルで拭いてから、火照った身体をチュニックのパジャマに通す。

 まだ夕暮れからさほど時間は経っていないはずなのに、浴室を出た頃にはもう窓の外はすっかり暗くなっていた。家には私一人だけ、父の帰りはまだまだ先の話。チャンスは今しかない。私の足はそのまま、今まで立ち入ったことのない西館へと向かっていた。

 こんなことをして本当にいいのかと不安は絶えず足取りは重い。だけど同時に顔が綻び、にやつく頬を隠せなくなる。ちょうどいい機会だ、これでまた私は悪い子でいられるのだから。

 基本的なつくりは東館と同じはず。それなのに全く雰囲気が違って感じるのはこの埃っぽい空気だけのせいではない。照明はところどころ切れていて、廊下には影がきれぎれに落ちる。きしむ床に蜘蛛の巣。薄暗いなかをひた歩く。

 よくよく見ると、東館と西館はほとんど鏡写しのような構造になっていることに気付いた。館内の見取り図は何度も見たことがあったけど、実際にこうして歩いてみると妙な居心地の悪さを感じる。私が今までずっとこの廊下を知らずに過ごしてきたという事実が、今更ながら可笑しい。どうして私は父の言いつけを守ってきたのだろう。バレなければいいじゃないかと今では思う。

 一つ、二つと部屋を覗きながら進む。私が訪れた形跡がなるべく残らないように、細心の注意を払った。だけどどの部屋も中は空っぽで、もうずっと使われていないようだった。少しほっとしながらも疑念は残る。父の部屋というのは、いったいどの部屋なのだろう? 次に見えているあの部屋か、あるいはその向かい側、あるいは一番奥か。見つけてしまうだけで何かが終わってしまうのではないかという予感が灯る。父が私をここへ立ち入らせないようにしていたのはきっと仕事の邪魔だからではない。何か私に隠していることがあるはずだという確信。

 再び緊張感が手のひらに滲んだ。悪意の蕾がとろけるような甘い匂いを醸し、それに誘われるようにして、私は一番奥の部屋へと歩く。間にいくつかの扉の前を通ったが、どれも使われていないような気がしたのだ。もし奥に何もなければ、帰るときにでも確かめればいい。

 奥の扉の前にはかすかに水滴の跡。きっと父がさっき帰った時についたのだろう。だとすれば、やはりこの部屋で間違いなさそうだった。ここが、父の部屋。とたんに全身に汗が吹き出す。今ならまだ引き返せる。そう頭の片隅では感じながらも、私の手はもうノブに伸びていた。指紋がつかないようにパジャマの袖で掴んで回す。

「あ」

 鍵がかかっていた。試しに押したり引いたりしてみてもだめだった。そりゃそうか、とほっとする反面、鍵をかけるほど後ろめたいものが隠されているのではないかという疑念もまた膨らむ。特にこの二人しかいない家においては、それが「私に知られたくないもの」であることを意味するのだ。がちゃがちゃとむやみにドアを鳴らしながら、私は鍵穴からかすかに光が漏れているのに気づいた。さすが古い洋館、鍵穴が貫通しているタイプのもので助かった。そっと顔を寄せて、中を覗いた。

 まずは白い光。それから高く積まれた本の山が見えた。きっと研究のための資料か何かだろう。光に慣れて目を凝らすと、どうやら光源はパソコンのディスプレイらしいことがわかった。雨音に紛れているが、よく耳を澄ますとうなるような機械の音も聞こえる。画面にはいったいなにが映っているのだろう。鍵穴から見える範囲では像がはっきりせず、ただ一様に白い壁が映しだされているように見えた。さらに目を凝らそうとしたその時、視界が瞬く。爆発音のような雷鳴とほぼ同時に、明かりが消えた。白い光を放つディスプレイも同様に暗転し、ブツンとパソコンの切れる音が雷鳴の余韻に混ざる。

 思わず叫びそうになったけれど、声はかすれて出なかった。脈拍が早まり、意識がふっと軽くなる。壁に手をついて、倒れそうになる身体をすんでのところで支えた。荒い呼吸、まとまらない思考の中で、ただ「停電だ」とだけ認識していた。

 目の前は本当に真っ暗で、確かなものは手の感触だけ。私は罪を咎められたような気分になり、慌てて立ち上がる。伝う壁に沿って、逃げるように隣の部屋に駆け込んだ。

 閉めたドアにもたれて座り、まずは深呼吸。あの白いディスプレイはなんだったのだろう。そんなことを深く考える余裕もないまま、ただ落ち着くまでその場でじっとしていた。この部屋もさっき確認してきたいくつかの部屋と同じように、特に何があるわけでもない。ただ小さな棚が置いてあるだけで、中もどうやら空のようだし。いい加減疲れたし今日はもう帰ろう、と腰を上げて、奇妙な違和感に包まれた。そういえば、どうして私は部屋の様子がわかるんだ? 照明は落ち外は闇。ただ目が慣れたわけではないと、すぐに気付く。部屋の床、ちょうど本棚で下敷きになっているところからぼんやりと光が漏れていた。駆け寄って床に触れてみると、床板の隙間が筋になっている。この下に何かある。邪魔な本棚を動かすのにはそう苦労しなかった。床の隙間をたどると、半畳ほどの大きさの四角が象られた。ほとんど埃の溜まっていない床。それに、かすかに点々と水滴が落ちている。つまり父がここへ頻繁に訪れているどころか、ついさっきもここへ来たということか。探る手が冷たい金具をつかむ。ぞくりと背筋に悪寒が走り、もう引き返せないと思った。

 そのまま引き上げる。中の気圧による抵抗を軽く感じながら、その蓋を開けた。それが地獄の釜の蓋でないことを祈りつつ。

 薄明かりのなか、そこに階段が現れた。ゆるやかにねじれて奥まで続くそれは、その先にある何かに照らされて白く、どこかこの洋館とは似つかわしくない雰囲気を漂わせていた。

 父はいったい何を……?

 息を飲み、下へ降りていくまでの判断に、数秒も要しなかった。やけに足音が響く空間に囲まれる。その螺旋構造によるものか、あるいは少しずつ降りたせいだろうか。建物三階ぶんはありそうだと思うほど歩いてようやく、もう一つの扉が見えた。その覗き窓にはガラスが嵌められ、白い光はそこから出ているようだった。高い位置にあって私の身長では中が覗けなかったが、どうやらこの扉には鍵がかかっていない様子。重く分厚い扉を押し開けると、開けた景色に目が眩んだ。

 四方八方に白い壁、過剰な照明。まるで病院のような清潔感で満ちている。そしてすぐ目の前に感じた気配に、私は腰を抜かした。

 鉄格子に遮られたその向こうに、人がいた。部屋の隅、膝を抱えるようにして座り、腰まである長い髪を散らしている。生きているのか? それよりも、

「あなた、誰なの?」

 震えた声で、かろうじて尋ねた。びくんと跳ねる肩と同時に視線がこちらへ向けられた。女の子、に見えた。前髪に隠れて表情は伺えない。

「ぱ……ぱ……?」

「え」

 少女の声で、確かに「パパ」と呼ぶのを聞いた。やはり父だ。間違いなく、父はここへ来ている。しかし少女は私のことがよく見えていないのだろうか。

「私は……パパじゃない。よく見て、女だよ」

「うあ?」

 少女は首をかしげた。あまりにあどけない仕草に、考えたくないような可能性に思い至ってしまう。私の腕は震え、それを抑えようともう一方の震える腕で握った。立ち上がれない。力が入らなかった。すでに全身に透明の杭を打ち付けられていて、今やっとそのことに気付いたような恐怖。あまりに異常すぎる出来事が続いて、もう考えることをやめたかった。でもこの嫌な予感は螺旋のように、どこまでも落ちてゆく。もしかして、言葉が話せないのか。もしそれが本当で、病気に拠るものでもないのだとしたら、この少女はいったいいつからこの地下室に閉じ込められているのだろう? 誘拐、監禁……そんな言葉が真実味をもって迫る。

 私は這いつくばって少女の方へと進み、格子を掴んだ。もう一度問おう。

「あなたは誰なの?」

 ようやく少女は立ち上がる。長い髪がぱさりと落ちて、その白い肌が露わになった。細い腕と手足がシルクのようなロングのキャミソールから伸びる。ふらついた足取りで私に近づき、そして言った。

「わたし、あいこ」

 視線と視線が交わされる。空白の時間が流れ、穿たれたように私の目は彼女に釘付けになる。前髪の隙間からのぞいたあどけない表情は、私の顔と瓜二つだった。

 格子に触れる手と手が触れる。体温が、脈拍が、ゆるやかに同調して、私たちを遮るこの鉄格子だけが強く印象に残った。

 翌日、早朝に父が帰宅した。ちょうど起きて朝食の準備をしようとしていた私は二人分作ろうかと尋ねたが、またすぐ出るというのでトーストだけ二枚焼いた。できるだけなんでもないように振る舞った。声が震えないように必死に呼吸を落ち着かせながらキッチンに立つ。そうするしかなかったのだ。もし昨夜の侵犯がバレればどうなるか、想像もつかない。私も同じように地下室に閉じ込められてしまうのだろうか。あるいは……。

 どこかで母親がいるのではないかと期待していた私は少し複雑な心境だ。予想と違ったことにがっかりしたけど、よくよく考えると母を地下室で見つけるというのも相当奇妙な状況だ。比べられるようなものではないかもしれないけれど。

「愛子、もういいかな」

 オーブンのなかでトーストはすっかりきつね色に焼けていた。慌てて「熱っ!」と取り出し、皿にのせた。父はそれをひょいとつまんで折りたたみ、椅子に座りもせずに口に入れた。

「寝不足かい?」

 ぎょっとした。父の微笑みに裏を見てしまう。もしかしてすでに知られているのではないかと疑った。

「ううん。寝起きでぼーっとしてるだけ」

「しゃんとしなさい。それにしてもゆうべの雷はひどかったな。梅雨入りで少し不安定な天気になっているのかもしれないね。ちらほら停電も起きたと聞いたが、うちは大丈夫だったかい」

 カマをかけられているのだろうかと、身体が一瞬こわばる。でもきっと考えすぎだ、あくまで自然に振る舞わなければ。

「雷落ちたよ、どかーんって。そしたら停電もして。びっくりしたけど、落ち着いてブレーカーを上げたらまたちゃんと電気ついたから大丈夫」

「そうか。それは偉いなあ。もう一人で留守番してても安心して任せられるよ」

「小学生じゃないんだから、もう」

 父の手が伸びて、私の頭に近づいた。驚いてとっさに飛び退く。しまった、と思った時にはもう遅く、父が驚いた顔で私を見る。

「……パンくずついてる手でやめてよ。これから学校行くのに」

「ああ、そうか。ごめんごめん。それじゃパパ、また仕事だから。今日はいつもと同じで夕方には帰るけど」

「わかった。晩ごはんも用意しておくから」

「ありがとう」

 父が出て行き、窓から車が走り去るのを見送ってから、ようやく安堵の溜息が漏れた。

 学校に行くまでまだ時間がある。私はまたあの地下室へと足を運んだ。

「おはよう」

 眠り目をこする彼女がゆっくりと起き上がる。装いは昨日と変わらずキャミソール。自分とそっくりな顔でこんなふうに肌を露出されるのはなんだか居心地の悪さというか、くすぐったさを感じてしまう。しかしよく見ると身体にはいくつもの痣があった。長い髪に隠れて目立たないが、こんなふうに傷をつけたのが誰かは考えるまでもない。その理由が見えないだけで。

「ん。はよ。パパ」

 少女は立ち上がり、昨日と同じように近づいてくる。私の勝手な想像だけど、私のことをパパと呼ぶ彼女はひょっとして、パパ以外の人間を見たことがないのではないだろうか? そしてもう一つ思うのは、自分の姿さえよく分かっていないのではないだろうか、ということだ。あまりに突拍子もない考えだけど、ありえないと断ずることも難しい。だから私は、制服の上着の内ポケットから手鏡を取り出し、彼女の前に掲げた。

「これが、あなた」

 少女はそれを食い入るように見つめ、鏡の前で口を開けてみたり、瞬きをしたり、首や手を動かしたり、何度も確かめてからようやく鏡のなかの人物が自分自身であると気付いたようだった。私はそのまま鏡を少女の手に握らせる。少女はやっと目の前の人物が自分そっくりな顔をしていることを知ったのだろう、驚いたように私の顔をじっと見る。昨日はまだだったから、今度は私が挨拶する番だ。

「はじめまして。私の名前は愛子。白河愛子っていうの」

「あい……こ……」

「そう。愛子」

 首をかしげる少女に向かい、私は昏い笑みを浮かべた。

 監禁だとか傷だとか犯罪だとかこの際どうでもいい。むしろちょうどいいじゃないか。誰にも本当の私を見てもらえない私には、この子がいる。この子の前だけでは、いい子になれない私を見せよう。私はこの子の前では自分自身を嘘で塗り固めなくてもいい。自分で自分を苛む必要もない。私はこれからずっとここへ来る。そしてすべてをさらけ出し、作った罪のすべてを懺悔しようと思う。ああ、これでやっと私は自由だ。

「私、昨日、猫を殺したの」

 まずはその話からはじめよう。

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