檻の外から連れ出して

素以エチカ

第1話

  一


 坂の上の洋館に住んでいて、そのことをみんなが羨ましいという。一周するだけで軽く犬の散歩になりそうな広い敷地に、童話みたいな白亜の洋館、おまけに庭園。こうしてみると確かに聞こえはいいけれど、私はあの古びた木造建築に特有のかびくさい臭いがあまり好きではないし、好き放題に草むした庭や、もう何年も掃除していないホコリまみれの部屋には立ち入らないようにしているくらいだ。敷地がすぐに荒れてしまうのは手入れや掃除をする人手が足りないせいなのだけど、そもそもパパと私のたったふたりで暮らしていること自体が分不相応なのだ。お金はあるんだし人を雇えばいいのに、といつも不満を漏らしつつ結局掃除するのは私で、まったく気にも留めない様子のパパは「愛子がやってくれるからいい」だなんてコーヒーを飲みながら笑う。「愛子は本当にいい子だね」と頭をなでられただけで掃除でも草むしりでもなんだってやれそうなくらい嬉しくなってしまう単純な私も私だけど。だから掃除するといっても私の手の届く範囲、立ち入り禁止の西館を除いて、よく使ういくつかの部屋だけ。それ以外はもう手のつけようがないし、手の施しようもない。私に言わせれば、ほとんどお化け屋敷かその類。古くてでかいだけの洋館なんて、みんなが思っているほどきらびやかでロマンチックなものではないし、そんなどうでもいいことよりも私が自慢したいのはパパで、私はパパを愛している。

 幼稚園にいた頃、母の日に似顔絵を描いてみようという日があって、そこで私はパパの絵を描いた。下手っぴだけど、パパのまるいメガネも灰色の髪もちゃんと描けた力作だ。でも当然まわりの子たちは自分たちのお母さんを描いていて、私の絵を見て笑うのだ。

「愛子ちゃんのお母さんはお父さんなの?」

 よくわからない。お母さんは昔からずっといないし、どこかへ行ったまま帰ってこないらしい。もちろん会ったこともない。お母さんとかお父さんとか、そういう役割みたいなものにどんな意味があるのかわからない。だから私は笑われても怒らなかった。私にはパパがいて、それだけで十分なのだ。いつも仕事で忙しいパパは家事をほとんどやらないけど、それくらいは私が頑張ればいい。

 あいさつはきちんとすること。夕方五時までには帰ること。嘘をつかないこと。たくさん本を読むこと。本だけじゃなくて、たくさん身体で学んで、よく考えること。人を傷つけないこと。人の喜ぶことをすること。パパの部屋がある西館には立ち入らないこと。その他にもたくさんの言いつけを、私はできるだけ守った。そうすればパパは私を「いい子」だとほめてくれる。優しく頭をなでるその手はごつごつして大きく、とても温かい。それだけで私はすぐに胸がいっぱいになるのだ。だから困っているおばあさんがいれば迷わず助け、私よりも小さな泣いている子がいれば泣き止むまでなだめてあげた。私は優しくて思いやりのある人間になりたかった。あまりに幼すぎた私にとって、それだけが生きがいだった。

「ごちそうさま。いってきます!」

 ばたばたと駆け出して、朝日のさす坂道を下る。まだ少し肌寒い朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、白い息を吐き出した。小学校までのほんの少しの道のりが待ち遠しい。生き物係だった私はその日、学校で飼っている鶏小屋の掃除をすることになっていた。小屋にはおんどりとめんどり、合わせて三羽。たまに巣に卵を見つけたら先生に伝えて手渡すのも仕事のうちだ。曜日ごとに各クラスの生き物係が担当することになっていて、今日は月曜日だから私のクラス。べつに朝早くにする必要はないのだけれど、朝のニワトリの鳴き声を浴びたかったのだ。まだ生徒が一人もいない学校に、つうと伸びる大きな鳴き声。コケコッコー。小学校へあがるまでニワトリが本当にそんなふうに鳴くなんて知らなかった。コケコッコー。鳥小屋に着いて、目を合わせるなり鳴きだす三羽。自然と私の口元もほころぶ。

「まってて、いまごはんあげるからね」

 エサをアルミの皿にあけ、獣臭い鳥小屋のなかへと入る。ニワトリたちがそちらに気をとられている間に、古いエサ皿を片付けて、散らばったフンやくずを掃き集めていく。ずいぶん慣れたものよと我ながら感心だ。首をくいくい動かしながらエサをついばむ可愛いニワトリたち。人間でなくとも、嬉しそうにしている様子を見るのは気持ちがいい。初めて私が鳥小屋へ来た時には警戒されるどころか激しい威嚇まで浴びたものだけど、ニワトリたちももう私には馴れたのだろう。今日まで過ごしてきた時間とか愛情とか信頼とか、そういうものの存在はなかなか大きいものだなと考えさせられるけれど、それらは一瞬ですべて壊れてしまうのだということも、すぐに私は思い知る。

 くちゃり、と足の下で音。

 何かが潰れた音だ、ということは反射的にわかった。思わず手から離したホウキが倒れると、ニワトリたちは相変わらずとぼけた顔でばさばさと羽を鳴らし、抜けた羽、ちりくずや敷かれたわらが舞い上がるなか、私は一歩も動けない。悲鳴も出ない。それよりも吐き気が勝った。おそるおそる踵を持ち上げ、離した足の下には影。

 そこには割れた卵があった。割れて、中から溢れ出す透明の粘液が糸を引く。そこには微かに血の色も混じる。殻の中、潰れひしゃげているのは赤黒い肉の塊で、割れた隙間からは手足、くちばしのようなものまで見えた。透けた血管に包まれた曖昧な肉。弱々しく脈打つ命の名残も次第に薄れ、やがて消えた。孵化する前の、未完成の雛だった。

 後ずさる軌跡に、薄く血の跡が残る。こぼれた肉片には白く濁った目玉がついていて、目が合ったような気がした。慌てて鳥小屋を飛び出し、そこで私はしきりに嘔吐した。胃が空っぽになるまで吐いてから、瞼を閉じる。浮かぶのはパパの顔。その微笑みに、後ろめたさを覚えた。

 ごめんなさい、パパ。私は今日、ニワトリの雛を、生まれもしないうちに殺しちゃったの。私はいい子なんかじゃないんだよ。

 ニワトリたちはまだエサをつつきながらのんきに鳴いていた。私はもうその鳴き声を聞きたくなくて、それから二度と鳥小屋へ近づくことをやめた。

 先生にその日あったことを打ち明けると「仕方がないことだから気にしなくてもいいんだよ」だとか「白河は優しいんだね」だとか、いろんな言葉をかけられて、でもそれが私にはどうしても受け容れられなかった。本当に大丈夫かい、と聞かれて、とっさに微笑みをつくると先生も満足そうに笑い、その話は終わった。ニワトリの雛を殺してしまったことは、他の誰にも言わなかった。パパにさえ。

「どうしたんだい、愛子」

 銀のスプーンがカチリと皿に触れた。長いテーブルには夕食が並び、すでに湯気は立たなくなっていた。見上げると、正面に座ったパパが手を止めて私に微笑みかけている。

「ううん。なんでもないの」

 目の前の皿には、ケチャップで味付けされたスクランブルエッグ。不精のパパがよく作る料理だった。脳裏に浮かぶ雛の死体を振り払い、私はかき込むようにしてそれを飲み込んだ。

「今日、学校の先生から電話があったが。何かあったのかい」

 また、手が止まりそうになる。それでも私は笑顔で応え、

「ううん。今日はちょっと早起きしすぎちゃって、寝不足ぎみだったせいかな。別に何でもないよ。それよりパパ、これおいしい!」

「そうか、そうか。でも愛子、早起きするのもいいけど、今度からはしっかり寝るんだぞ」

「はあい」

 その日、生まれて初めて私はパパに嘘をついた。

 坂の上の家での日々は、それからもずっと変わらなかった。少なくとも表面上は。私はパパの言いつけを守り、パパの喜ぶように振る舞った。

「愛子は本当にいい子だね」

 相変わらずパパはそう言って私の頭を撫でるけど、私はもう前みたいに素直には笑えない。こんなふうにほめられるたび、引きつる頬に奥歯を噛みしめ、心のなかではあの雛を踏み潰した瞬間のねばつく感触、吐き気の味を思い出している。

 それでも私はパパに愛されなくなることのほうがずっと怖い。ずっとふたりで生きてきて、パパは私にとっての全てだ。だから、いい子になれない私は、せめてパパの前ではいい子として振る舞おう。この振る舞いが嘘だという自覚も違和感も、すべて抱えて生きていこうと思った。

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