悲劇の日③伊納夏樹の場合


 あの時、僕はどうしていたのだろうか。

 正直な話、よく覚えていない。

 バケモノのことも、四肢の散らばった死体も、亡骸も、弔われた腕や足や眼球でさえ、僕はよく覚えていない。

 確かに見ていたのに忘れている。


 それは、やはりあの子が目の前で喰われたからだろうか。

 だらしなく食い散らかすバケモノが、残骸をばら撒きながら彼女を大きな口に頬り込んだ。

 それを出入り口の近くで、ただ見ていることしかできず、僕は茫然としていた。


 彼女は僕の好きな人だった。

 確かに好きだった。

 そんなことぐらいは覚えている。

 僕は、彼女を一目見たときから、その屈託のない明るさに心を惹かれていたのだから。

 

 でも僕は弱虫で、ただ周りに合わせて笑っていることしかできず、彼女のことは会話の合間にちらちらと眺めることしかできなかった。

 彼女はクラスの委員長だった。責任感が強く、明るく元気な子。

 彼女の笑顔は、教室中の人を幸せにしてくれた。

 それなのに、彼女はその笑みのまま食べられた。死んでしまった。


 彼女は友達を庇ったのだ。友達に延ばされた鉤爪の前に、自ら踊りでて魔力を使おうとした。でも使い方もろくに知らず、僕たちは幼い頃から魔力を使うすべを封印されていたから、土壇場でどうにかなる問題ではなかった。

 彼女は魔力を発動することができずに、鉤爪に頭部を引っかかれて、顔は原形をとどめずにぐしゃぐしゃになった。残った体はのろのろとバケモノに向かって歩いていき、そのまま口の中に入り込んだ。


 それを遠くから、僕は見ていることしかできなかったんだ。

 彼女の友達は、親友のあまりにも無残な最期を見てしまい動くことができなくなっていた。

 長い黒髪の綺麗な彼女は、親友の名前を呼んで泣き叫ぶ。僕も叫んでいた。

 好きな人の名前を。


 次の瞬間、黒髪の少女は少年に手を掴まれる。彼は一人だけ強い瞳をして、出入り口に向かって駆けてきた。彼はもうひとり少女を連れている。


「そこで何やってんだ! 早く出ろ!」


 この状況で人の心配か?

 なんて偽善者だ。

 僕は少年を見た。彼の目を。強く光り輝く、日本人離れをした青い瞳を。

 少年は、僕が動かないことに怒ったのか、「くそっ」と叫ぶと思いっきりお腹にずっつきをしてきた。

 僕たちは外に出た。血まみれのダンジョンの中とは違い、綺麗で新鮮な空気の吸える外に。草以外なんにもない草原の真ん中で、僕たちは出入り口から離れると息を吐く。

 荒く吐く息は次第に弱まり、少年がみんなを気遣うような声を上げた。

 僕はそれに答えなかった。

 ただあの子のことだけを考えていた。

 今も、未だに。

 今からでも、今の状態を、彼女と代われないだろうか。

 あの子の親友の仮面のように張りついた満面の笑顔を見るのは、もう嫌だった。



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