潜水
はしかわ
潜水
ベッドから垂れさがる彼女の脚。
床いちめんに張った水は、ほとんど広がらない波紋とかすかな音で、それをうけいれた。踝のなかばまで浸かる。ほぼ室温の水のとろりとした感触を、彼女が好きになったのは最近のことだ。ゆっくり立ちあがる。
この部屋は白くて、広くて、ものが少ない。西側の角にベッド、対角に鉄のバケツ、部屋の中心にキャビネット。窓はひとつだけ。東側の壁、おおきな嵌め殺しのガラス窓。鋭く流れこむ朝陽が、白い壁に橙の平行四辺形を貼りつける。そのなかで、壁に書かれた十本の線が照らされていた。インクや絵の具ではなく、刃物で壁に直接つけた傷だ。
彼女が床を歩きだす。それにしたがって波がいくつも生まれたけれど、彼女の足がキャビネットの前で止まるときには、どれもおさまっていた。
キャビネットは木製。足の長さは辛うじて水位にまさり、内容物が水に浸かることをふせいでいる。だから黒く湿った足以外は、ところどころひび割れも見えるほど乾いていた。深さのおなじ引き出しが三段あるうちの、一段目を引く。
そこに入っているのは、つるりと磨かれた整った形の小ぶりな林檎がふたつ。それだけ。いつでもふたつと決まっている。そんなにいらないと、彼女はいつも思う。どうせひとつしか食べない。
いつもどおり、左の林檎を置きざりにした。
二段目と三段目にはじっと見ていると目のちかちかするくらい、いろんな色と大きさの本がぎっちりとつまっている。けれどそのほとんどは彼女の知らないことばで書かれたものだ。だから、そのなかで彼女に読みとおせるのは数えるほどしかない。そのうちの一冊を、二段目から探し当てて引き抜いた。緑色の背表紙に金色の印字。重たくて、小難しくて、黄ばんでいる。
ベッドへ戻る彼女。その脚を水音が追いかけようとして、諦めた順に、ちゃぷ、ちゃぷ、と部屋に響いていった。本をシーツのうえに投げる。脚は床についたまま腰かけると、肩から上だけが日なたに入って、すこし眩しい。枕元をさぐり、果物ナイフを手に取る。プラスチックの柄に描かれた幼稚なタッチの猫のイラストは、ほぼ消えかけている。
彼女は林檎を、まず縦に真っ二つに切る。彼女の左手に残ったのは半分になった林檎の片方だけ。もう片方は重力に従って落ちて、音を立てて水に潜った。それが水面に浮かんでくるより前に、林檎の四分の一が降ってくる。続いて、八分の一。みっつ続けて水が鳴る。どぶん、どぶん、どぶん、と、なにかを諦めたような、重いのに気の抜けた音だ。
彼女の手に残ったのは、林檎の、八分の一だけ。その芯をとって皮を剥く。慣れているけれど危うい手つきだ。まだ皮がついたままの林檎の断片が、あいかわらず足もとにぷかぷか浮かんでいる。出たゴミはベッドのうえに放っておいた。
ナイフは右手に持ったままで、林檎を口に運ぶ。しゃり。頭にひびく。
甘さと酸っぱさと、歯が果肉に埋まる冷えた感触。おいしいのか、そうではないのか、彼女にはわからない。ただ、林檎だった。いつもそうだ。
すこしずつ口に運んで、ゆっくり、噛む。飲みこむ。そうしながら窓の外をぼんやり眺める。彼女にとって、それらはすべて単調な作業でしかない。
交差点、行き交うひとと車と、近くのビルと遠くのビル、彼女に見えたのはそれで全部だ。街の空はきっぱりと晴れていて、雨が降る気配なんてなかったのに、こうもり傘を持って歩くひとが十数人いた。気になることといえば、それくらい。手にあったものを食べおわって、彼女がもうひとつの「八分の一」を拾いあげる、ベッドのうえに皮と芯とがまた加わる。水の温度でぬるくなったせいか、しゃり、という音もいくらか濁ってしまったように思える。
外では烏がなにか鳴いていたけれど、その声は彼女に聞こえない。聞こえた街の人たちも、それを気にしていないらしかった。
街はつねに動きつづけている。行き交うひとの動作と、機械の駆動と、風の複雑さ、草や鳥の不規則性に満ち満ちている。けれど、そのなかのどれひとつとして、街に変化をもたらさない。うごめいているのに固まったままの、それはひどく退屈な風景だったけれど、彼女は飽きもせず、それをじっと見つづけていた。
陽が完全に昇って部屋から日なたが消えるころ、剥いた林檎の最後のひとくちを食べ忘れていることに気づいて、それでやっと窓の外を見るのをやめた。指の熱で黒ずんだ、ぬるい林檎。彼女はそれをベッドの上の皮や芯と一緒に両の掌の上に乗せて、ベッドを立ち、部屋の隅のバケツにむかう。使い古されて凹みも目立つそのバケツの、水も入っていないからっぽに、ごみを放りこんだ。ついでにトイレも済ませた。
ベッドに戻るついでに林檎の四分の一をひろいあげて、皮も剥かないでそのまま齧りながら、さっきキャビネットから出して来た本を開けば、古くなった糊のにおいがする。
本は四百ページ以上ある。遠くの国の首都の歴史について、建築学的な説明が長々と続いている。知らない用語がたくさん並んで、何度読んでも、彼女にはよくわからない。彼女の読める本のなかでは、いちばん退屈だ。
けれど、ときどき挟まれる図版は、彼女をいつも楽しませた。歴史的な四角い建築物。町の遠景と石畳の広場、二等辺三角形と菱型だけで組まれた真新しいビル。写真はどれもモノクロで、彼女はその色を空想して楽しむ。そのたび、都市は赤くなったり青くなったりする。
半分も読まないうちにもっていた分の林檎を食べおわってしまった。手に残った芯と、水に浮かぶ真っ二つの林檎と、入れ替えて、またそのまま食べはじめる。
途中で本の内容から意識が離れ、目は文字を追っているのに、行間の白さやページの感触、自分の手のあたたかさが気になりだす。気まぐれに林檎をかじってみる。
そうしたら今度は、果実を噛むたび頭に響く音のせいで、耳のほうに意識が向いた。彼女が口の中のものをすべてのみ込んでしまうと、いよいよ部屋のどこにも音はなくなる。
空気の音もしない、不自然なしずけさ。耳がむずむずするようだ。彼女は本をそっと閉じる。ベッドから足をおろして、また水にひたす。
泳ぐ練習みたいに規則的にうごきはじめる彼女の足。水滴がはねる、水面がたわむ、その音で静けさは、そっと息をひそめる。
窓のそとは、全体が西からの光で赤く染まっている。まるで泣きはらしたようだ。彼女は視線を動かさないまま、部屋のなかの光を手繰りよせるように目をこらす。
部屋はいよいよ暗い。朝、水に溶け、青色に成りすましていた闇が牙をむいている。その支配のもと押し黙る、空気の冷ややかさ。そろそろかな、と彼女は思う。
部屋が狭くなったみたいに感じられる。彼女はあらためて本をひらいた。林檎はまだ手の中に残っていたけれど、飽きたので捨てた。それが水面をゆらゆら彷徨って、キャビネットにぶつかって止まるのを見た。彼女の指がページをめくる。護岸工事で直線になった川の図版。複雑なグラフ。長い説明は何行か一気に読み飛ばして、また次のページへ、ふいにその右下あたり、「計」の字の下半分と「が」の字の上半分を飲みこんで、ぽつりと灰色の、ちいさくて円いしみが現れる。
来た。彼女は本を閉じて、天井をはっと見あげる。手の甲、鼻のさき、膝、うなじ、身体のいろんなところに連続して、ぽつ、という感触。つめたくて細い指で、つつかれたような。それはどんどん増えていく。走っていく子供の足音のように水面が鳴る。だれがなにを投げたわけでもないのに、波紋が、波紋が、ひとりでにいくつも現れる。波が複雑性を増していく。天井に映る不定形の影がそれに追随してさわぎだす。ああ、と。消え入りそうな沈黙に、とどめを刺すように彼女は声を漏らした。
夕立だ。
天井からそれは降ってくる。雨足は強まり、強まり、しだいに彼女は目が開けられなくなる。機関銃を撃ち放すような音はきっと、バケツの底にぶつかった水滴の悲鳴。ベッドに戻って本を抱えたまま頭まで布団をかぶった。部屋に満ちているのとは別種の闇がからだを包んだ。それでも目は、興奮に見開かれたまま。
彼女が見守らなくてももちろん雨は降る。どんどん多く、どんどん速くなる。水面を慌てさせ、うかぶ林檎を躍らせて、バケツに水を溜め、クローゼットを黒く湿らせて、布団までが、たたたたたた、とにぶい音を鳴らしている。部屋のなにもかもが楽器になって、雨が指揮をとる、動かないパレードだ。
固く閉じた部屋は反響さえ、ただのひとつも逃がさない。生まれた音は何度も何度も跳ね返る。音のひとつひとつが、輪郭をなくしていく。さわがしさにみっちりとみたされた
彼女は布団のなかでちぢこまり、本をぎゅっと抱えてよろこんだ。さっきまでの退屈は、まるきり忘れてしまった。
窓の外はあいかわらず雨の気配もなく晴れていて、沈んでいく太陽をうかがいながらおそるおそる出てきた月も、何にも遮られないで輝きはじめていた。
ただ、この部屋だけがどしゃ降りだ。空もない。雲もない。ただ雨だけが降っている。
彼女はぎゅっと目を瞑っていたけれど、たしかにそれを聴いていた。よろこびのなかで聴きつづけていた。やがて瞼をおろしても闇のなかで、眠りが訪れても夢のなかで。降りはじめたのとおなじ早さで、雨が去ってしまうまで。
***
彼女の瞼が、ゆっくりと持ちあがる。
のろのろした動作で、布団を体からどかした。彼女はまず果物ナイフをさぐりあてて、ベッドのそばの壁にまた一本、線を刻みつける。十一本目。あの夕立がはじまってからは毎日やっていることだ。
床に脚を垂らす。足首より下は完全に水に浸かった。彼女のふくらはぎの一部も飲みこむところまで、水面はせりあがっている。昨夜の雨のぶんだけ。
足を、ゆらゆらと振る。水はそれに合わせて動きながらも、申し訳程度の抵抗をしめした。とろりとした感触。彼女はそれを、昨日よりも好きになる。
昨晩抱いていた本はベッドの上になくて、たぶんキャビネットの中に戻っている。きのう水に捨てた林檎の食べ残しも見当たらない。布団もまるで濡れていない、昨日の朝かと同じだ。確認するまでもない、バケツもどうせ、またからっぽなんだろう。けれど、雨水だけはどこに戻ることもなく溜まっていく。水位はたしかに上昇している。ゆっくりと、上へ、上へ。
キャビネットは、三段目がもう四分の一ほど水に浸かっていて、それ以外はいつも通り、ひび割れのみえるほど乾いている。一段目の引き出しには、やっぱり林檎がふたつ。また右のほうを取る。二段目を開けて、昨日とは別の本を出す。
慣れているけれど危うい手つきで、きょうの林檎の皮を剥いた。ひとかけをかじりながら、むこうの壁を見る。水位は天井までの距離の、十五分の一くらいまで来ているだろうか。それで十一日かかっているなら、何日後に。
十四かける、十一は。待ち遠しい気もちで、彼女は慣れない計算をはじめる。
潜水 はしかわ @Hashikawa119
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