ep3/9「潜航妖精・アイ」

 毎日毎朝、ブルが起きてからの行動パターンは決まり切っていた。


 狭い部屋の電気も付けぬままにむくりと起き上がり、やや慎重な足取りでベッド兼リクライニングチェアから立ち上がる。そして、手近な机に放り投げてあった黒い眼帯を手に取り、慣れた手つきで左目へと被せる。そのまま、彼は狭苦しい廊下をのそのそと歩いて行き、突き当りのトイレで朝一番の用を足した。キレの悪さを自覚するようになってから、もう軽く20年以上は経っているはずだった。今となっては、朝に立っていたものさえ立たない。


「もう年だな」


 そういう独り言さえ、いちいち言葉に出すのが面倒くさくなってくる。そういう年だ。

 ブルは、78という年齢を自覚するには充分過ぎるくらいに重い足取りで、少々埃っぽい廊下を進んで行く。地球基準で2G以上という木星の重力は、老体にはいささか重過ぎる。関節部にパワーアシスト繊維が織り込まれた作業着を着ていなければ、少しの距離を歩くのも辛いくらいだ。

 10mも進まない内に突き当りへと辿り着いた彼は、分厚い鉄扉が自動でスライドしていくに任せた。


 扉の向こうに広がっていたのは、雑多な計器類に埋め尽くされた横長の空間だ。そこには2つのシートがちょうど横並びに設置されており、それぞれのシート前にはU字型のハンドルが設置されている。前方と左右の壁一面には、濃淡の強い緑色に染まるモニターが張り付いていた。巨大なガラス張りの窓こそ無いものの、そこは紛れも無く操船室やコックピットと呼ばれて然るべき空間だった。

 そう、ブルが日々を過ごすこの空間は船内なのだ。彼は意味も無く両手を擦り合わせると、二つ並んでいるシートのうち荷物で塞がっていない方にゆっくりと腰を掛けた。


「よし、今日も始めるとするか」


 軍を退役してから約半世紀。定期連絡船の船長としての一日は、決まって航路チェックから始まる。

 薄っぺらいサンドイッチを手にした彼は、薄い合成コーヒーを一口啜っては息を吐く。老眼鏡越しに見るモニターの数字は、年々見え辛くなって来て仕方がない。聴覚と五感とを連動させる処置によって、右目の視神経にもガタが来ているようだった。せめて、そろそろ上のコロニーにでも出て、ひどく古風な老眼鏡を買い替えなければならない。


「次に停泊できるのは、いつ頃だろうな」


 今回の輸送依頼はいつ終わるのか。手元のモニターで航行日程を確認しつつ、ブルはついつい独り言を漏らしていた。


『報告、本日の航路上空に、高気圧性の乱流発生の兆し無し。極めて順調な航海が予想されます。繰り返します――――』


 ひたすら手元のモニターと格闘していたブルの鼓膜を、どこか幼げな声が震わせる。この耳とて、ダイバーの拡張システムが無ければ日常レベルの音を聞き取れるに過ぎない。それでも、未だに小さな物音も聞き逃す事が無いのは、彼にとっての細やかな自慢だった。78という年の割に衰えを知らぬ聴覚は、今や彼の身体の中で唯一敏感に働いてくれる感覚だ。


 しかし、ブルの様子はどこか苦々しげだ。やってしまった、とでも言いたげな表情を浮かべる彼の視線は、サブモニターの一つに向けられていた。先ほどまで沈黙を守っていたモニターには、今や15才程度を思わせる少女の姿が描画されている。


 非常に精巧な――それでも数世代遅れの――CGイラストで表された、無垢のワンピースを身に纏う一人の少女。肩の辺りにまで伸ばされた髪は微かに揺れ、その穏やかな顔には見る者の警戒心を解くような微笑が浮かんでいる。まるで穏やかな春風を浴びているように、そしてうららかな日差しの下で目を細めているように、計算し尽くされた微笑みには非の打ち所が見当らない。しかし、彼女は目立った動きを見せる事が無い。

 何十年前に開発されたとも知れない物理エンジンで動作する少女には、たったそれだけの画面しか用意されていなかった。多様なポーズを取ることも無ければ、こちらからの操作に応じて変化することも無い。もし、今時の子供が見れば、何もかもが時代遅れだと笑うような代物だ。


 ブルにとってはもう何十年と向き合って来た顔だったが、彼女は未だに若い。だからこそ、未だに慣れない。この船内で何十年も一緒に過ごして来たというのに、ブルは自分の中でアイをどう位置付けて良いかが分からなかった。


「浅海は凪いでいる、か……予定通りに行くと言いたいのか?」

『そのような応答パターンは用意されていません。もう一度、質問の意図を明確にしてお聞きください。繰り返します――――』

「分かった、分かったから、もう良い」

『はい』


 またこれだ。やってしまった。

 一見、穏やかな笑顔を浮かべてモニターに立つ彼女は、いつだって決まり切った応答しかしない。『はい』と『いいえ』、そして簡単な挨拶の他には、5種類程度の応答パターンしか用意されていないのだ。

 この連絡艇に乗り込むようになってから30年以上、その機械的なやり取りは全てを把握し切っているつもりだった。


 とはいえ、この子供騙しの対話機能しか持たないはずのAIは、妙に察しが良い。ブルは時々、このAIに自分の意思が通じているのではないか、と思う事さえある。でも、そんな事は有り得ない。すぐに疑問を打ち消しつつも、彼はAI(アイ)に問い掛けずにはいられない時があった。


「アイ、お前は誰だ?」

『はい。私は、形式番号SCRP-ai-95040-003、航行支援を目的として設計されたAIシステムです。繰り返します――――』


 こんなことを聞いたところで、何になるというのか。


 肩に届こうかというアイの髪は、相変わらず穏やかに揺れている。定型パターンでしか応えない彼女に軽い失望を抱きつつ、ブルは未だにこの無意味な会話に縋る自分を嗤う。この狭い船内に一人のジジイが乗り込んでいれば、話し掛ける相手も欲しくなるというもの。精神衛生上、話し相手はいるに越した事はない。だからこそ、ブルはアイに無意味な会話を持ち掛ける度に、15才程度の少女、などというアイコンが選ばれている理由を思い知らされるような気がするのだ。


 アイに話しかけてしまえば、「自分に子供は合わない」という感想を新たにするしか無いというのに。本来ならばただのCGイラストに過ぎないはずのアイは、ブルにとって特別な意味合いを持つ存在となっていた。

 もし、自分に孫が居たらこんな年だったのかも知れない――――自らにそんな資格は無いと知りつつも、寂莫せきばくたる思いが脳裏を過るのだ。

 やはり、子供は苦手だ。

 そう思っていれば、自分の心からも目を逸らしていられる。いつしか、孤独な老兵はそんな誤魔化し方にも慣れ切っていた。


「仕事だ、仕事」


 ブルの仕事は、主に確認作業の連続だった。この連絡艇の操船はほぼ自動化されており、基本的には無人でも問題無く航行できる。この連絡船は妖精が動かしている、という些かメルヘンチックな言い回しもあながち間違いとは言えない。

 しかし、いくらAIが高度化されようとも、人間がいれば防げるような単純ミスが起こる可能性は否定できない。AIがエラーを起こした時にそれを訂正するサブ系統、それが唯一の乗組員にして船長でもあるブルの役割だ。結局のところ、高度化した航行支援AIを補助する為のバックアップに過ぎないのだから、ブルのすべき仕事もそう多くは無い。


 現在、潜航艇は深度1万km、液体金属では無いただの液体水素層を潜航していた。


 木星周回軌道上にはとかくデブリが多い事で知られており、未だにこういった船への需要は根強いものがある。元から木星に存在する60個以上の衛星、微細な塵からなる環、そして過去の大戦期で大量に発生した兵器の残骸。大戦では木星近傍が戦場となった為に、その量は地球軌道上や火星軌道上よりも遥かに多いという。

 木星の分厚い大気を抜ければ、ゴミばかりが漂う宇宙に出るという訳だ。


 なにせ、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、かつて四つあったガリレオ衛星の内、ガニメデなどは粉砕されて木星の環となってしまったくらいなのだ。その影響で衛星の軌道も滅茶苦茶になってしまい、たかだか50年程度では公転周期さえも安定していないと来ている。だからこそ、下手に軌道上から荷を投下したり、不安定極まりない大気層を通過したりするよりは、こうして浅海を潜って行った方が安全かつ確実な輸送手段だった。


 そして、今回の輸送業務では、木星大気上層に浮かぶとある浮遊コロニーへと荷を届けなければならない。連絡船の船長として過ごすブルの日々は、こうしてコロニーとコロニーの間を渡り歩くことに費やされる。これは今日も、明日も、何十年にも亘って変わらない日々の営みだ。


 ブルは億劫そうに最後のサンドイッチを飲み込むと、今度は懐から小さな銀箱を取り出した。銀箱を何回か振った末に出て来たのは、白い三粒の錠剤。それは、ブルの身を蝕む複合重金属中毒の進行抑制剤だった。

 ブルを始めとするダイバーのパイロットには、必ず体内に金属の種が埋め込まれている。移植処置後、体内で神経系と癒着した金属種子は、数ヶ月もしない内にパイロットの身体へと根付く。そして、金属海うみにおける戦闘には不可欠な共感覚能力と共に、パイロットへ命の期限タイムリミットを与えるのだ。

 金属種子はやがて芽を出し、葉を付け、その花を咲かせると共にパイロットの命をも奪う。まるで宿主を間違えた寄生虫のように。だからこそ、ダイバーのパイロットは、金属種子を育てる為のプランターなどと揶揄されるのだ。実際、そういう見方は正しい。

 現在では、進行抑制剤が開発されたおかげで、プランター処置を受けた者の平均寿命はかなり伸びている。とはいえ、進行抑制剤の効力にも限界があった。


「俺は、長く生き過ぎたかな」


 もうじき、ブルの体内では金属種子が花開く。神経系と癒着しているおかげで痛みを感じないのは幸いだが、これはもう逃れ得ぬ現実だった。もう半年も生きれば、確実にその時は来るのだ。


 自分は半年もすれば確実に死ぬ。

 恐怖は無い。

 虚しさも――――無い、多分。


 家族を知らず、持たず、天涯孤独のままに金属種子の花に命を喰われて死ぬ。元エースパイロットとして数多の敵を沈めてきた老人には、全く相応しい最期が待ってくれているのだ。そんな末路に感謝こそすれ、恐れる気持ちなど抱くはずもない。


 それに、金属花に喰われて死ぬ者の最期は、まるで眠るような穏やかさだと言う。痛みも無ければ、断末魔の苦しみも無い、至れり尽くせりの有り難い話ではないか。いっそ、こんな進行抑制剤など飲まない方が良いのではないか。そう思ったのも一度や二度の話では無い。


「こんなもので楽になれるなら、な。どんなに良い事やら」


 ブルは手のひらに転がる三粒の錠剤をしばらく眺めていると、諦めたように口に放り込む。

 結局のところ、ブルは死にたい訳では無かった。これまで金属海うみの底へと沈めて来た者たちを思う度に、どうしようもなく生きるのが嫌になるだけだ。戦場で生き残ったというのに、何も為せなかった自分が、ただこうして朽ち果てようとしている。彼の心にへばりつく後悔は、自らの終わりを思うほどに色濃くなっていた。


 果たして自分には、敵を沈めてまで生き残る価値があったのか。

 半世紀以上に亘って燻り続けていた疑問。遂には、その答えを得られそうも無いところにまで来てしまった。あと半年で答えは出せるのか? ――――否、とブルは結論する。


 そんな果て無き逡巡に身を任せていた彼は、何気なく見ていたメインモニターにギョッとさせられた。

 メインモニター端に表示される俯瞰図には、予定航路が赤い線で示されている。それが、予定深度よりも遥かに深い地点へと伸びているのだ。このままではコロニーへ向かう予定航路を外れるどころか、金属海うみの中でも最下層にあたる〈超深海層〉へと向かいかねない。そこは木星の岩石核コア一歩手前の地獄、数千万気圧、数万℃の液体金属水素に満たされた極限環境だ。

 本来、〈地獄への潜航者ヘルダイバー〉以外が、足を踏み入れて良い場所では無い。


「このままだと超深海層に潜ることになるぞ。……何を考えているんだ、アイ」


 ブルの静かな問い掛けに、アイは黙して答えない。

 それからブルは、すぐさま航路の再計算を始めた。こんな形で生身の乗組員バックアップが役に立つとは思わなかったが、実際、気付いていなければ大変な事態になっていた。眠っている間に地獄行きの列車が発車していたなど、いくら彼でも願い下げだ。


 十分後、ブルはコンソールパネルを操作していた手を止め、深く息を吐いた。

 飲みかけの冷めたコーヒーを啜ると、もう一度大きく息を吐く。航路の再計算を実行したところ、今回の輸送期日内までには問題無く目的地に到着しそうだった。まだ充分に修正は可能な段階だ。結果的には、この連絡船のコンテナに積まれている荷物を無事に届けられる。

 とはいえ、アイがこんなミスをする場面など、ブルはこれまで一度も見た事が無かった。


「アイ、お前らしくも無い」

『そのような応答パターンは用意されていません。もう一度、質問の意図を明確にしてお聞きください。繰り返します――――』


 何の変哲も無い、いつも通りの機械的な返答。だが、今回ばかりは、アイがとぼけているように聞こえて来るのだから不思議な話だ。無垢のワンピースに身を包むあどけない少女は、その微笑で以て人を惑わす小悪魔なのか。はたまた、不具合が生じた航行支援用AIのアイコンに過ぎないのか。

 いずれにしても、アイに何かしらの異変が起こっているのは間違いない。ブルはカップの下に溜まった粉っぽい部分だけを残し、冷めたコーヒーをようやく飲み切った。彼の中では既に、目的地に着いた後に向かうべき場所は定まっていた。


「こりゃあ、あのクソジジイに会わなきゃならんかな」


 自分もまた、充分過ぎるほどにジジイであることは敢えて考えない。その直後、ブルが吐いたため息はことさらに深いものだった。


 * * *


 数日後、ブルが乗り込む連絡船は、木星大気上層に浮かぶコロニーへと辿り着いていた。全長約80km、まるで漏斗のようなシルエットを持つ浮遊型コロニーは、ちょうど下に鋭く尖った部分が長大なエレベーターになっている。連絡船は、漏斗の最下層にある港から入港し、積載物を届けたのだ。

 そして、輸送を終えたブルは、連絡船を出てコロニー最下層の港町へと足を運ぶ。

 彼は、かつての戦友、チャックが営んでいるサルベージ屋へと向かおうとしていた。

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