第8話「水の底」

 何もかも忘れて思い切って飛び降りると、アッと言う間に水面がグングン近づいて来た。

 ドボン、ブクブクブク――と境界をかぶって水の世界へ突入すると、真昼の陽光に照らされて、様々な水中風景が見えて来る。

 穴だらけのこぶのような岩場や川のようにサラサラした砂地、珊瑚さんごはカラフルに染まり、真っ赤な星形のヒトデの横を青いウミウシが優雅に進む。縞柄しまがらや水玉の小魚が愛らしく泳ぎ、大小のいかつい甲殻類こうかくるいが細長い脚や触覚を機敏きびんに動かしていた。

 その他諸々の良く分からない物体たちも、新参者の私を優しく出迎えてくれているような気がする。

 ――いや、きっとそうなのだ。

 絶対、そうに違いない。

 この海は温かい。

 この海は優しい。

(はて、ここは海だったかしら?)

 彼ら海の先住者たちが、私を快く受け入れてくれている証拠に、みんなが私に手を振ってくれているではないか。

 みんな陽気に笑っているではないか。

 何てみんな朗らかで優しい笑顔なんだろう。

 ゴツゴツした無骨な岩だって、くぼみという窪みから腕を突き出し、私に手を振っている。砂地から突き出した無数の腕も手招きをする。ヒトデやウミウシも仲良く並んで、いらっしゃいと言う。魚や甲殻類たちもヒレや爪を器用に使って、こっちだよと行き先を示す。二枚貝たちだって、上と下のからを激しくパカパカやって、歓迎の意を伝えようとする。

 そして皆が一斉いっせいに手を振るのだ。

 何て優しい先住者たちだろう。

 何て優しい世界だろう。

 今までの世界の人たちとは、大違いだ。

 私を追い詰め、容赦ようしゃなくがけっぷちから突き落とした、あの非人情なけがれの群れとは、根本的にふところの深さが違う。

 この世界の住人の心は、正しく海のように深いのだ。

 この水の世界では、全てが寛容かんようだ。

 あちら側が不寛容社会ならば、こちら側は寛容社会だ。

 海溝かいこうの上に漂う、あの良く分からない半透明の物体たちだって、その寛容さは例外ではない。

 見た目はあお白くうつろで、冴えない表情をしているが、実際、彼らほど熱心に私を迎えてくれる者たちは他にいない。

 おいでぇ、おいでぇ――と。

 こっちへおいでぇと、虚ろな顔で誘ってくれるのだ。

 ブヨブヨにふくらんだ醜悪グロテスクな身体は、所々にくさっていたり、千切ちぎれていたりするけれど、それでも頑張がんばって、一所懸命に私の事を呼び続けてくれる。

 私のような駄目人間を欲してくれる。

(アァ、必要とされるこの喜び!)

 目玉のない虚ろな顔で、半分崩れた不自由な身体で、懸命に私を海溝へと誘ってくれているのだ。

 ――あの真っ暗な海溝。

 見ただけでゾッとするような深い深い奈落ならくには、けれどもきっと素敵な世界があるに違いない。暗い暗い溝の底には、美しい城と、うるわしい黄泉よみの女王が待っていて、私の魂を優しくねぎらってくれるのだろう。

 ほら、その証拠にみんなの腕が私をつかもうとする。

 おいでぇ、おいでぇと言いながら、私の身体をつかみ、あちら側へ引き込もうとする。

(ゴボゴボ……苦しい……苦しい!)

 幸せが私をつかむ。

 幸せは直ぐそこにある。

 あとちょっと、あとちょっと、もう少し頑張って、あの海溝をもぐれば、幸福の国へ、パライソへ、ヴァルハラへ到達出来る。

 そう思ったその瞬間――

 ザブンと大きな音がして、頭上の水面から腕が現れた。

 それは水の底の腕とは違って、太くたくましく、生き生きとして、生気に満ちた腕だった。

 腕は私をつかむと、力強く水面の方へ引っ張り上げる。私の気持ちは既にあの海溝へ向かっていたのに、その腕は水の上へ、あのけがれた現世へ引きもどそうとするではないか。

 私は再びもぐろうと、必死で抵抗しようとしたが、もはや呼吸も止まって四肢ししに力は残っておらず、なすがままにされるしかなかった。

 水の中の先住者たちを見ると、みんな悲しそうな顔をしていた。

 あの海溝の上の物体たちも、ションボリと肩を落として、私の姿を見送っている。

 私は悲しくて、申し訳なくて、ごめんなさいごめんなさいと何度も号泣ごうきゅうしていると、一瞬、雲一つない真っ青な空が見えて、全身が温かい光に包まれた。

 直ぐ意識は途切れて、私は真っ暗な虚無の中にいた。しかしそれもつかの間、次に目覚めた時に見えた光景は、誰かの唇が離れて行く場面で、私は激しくむせせて、口からピュルルと勢い良く水をいていた。

 ゲホゲホと噎せ続けながら、呼吸をり返していると、再び誰かが私を抱き起こし「大丈夫ですか?」と声をかける。

 次第に意識もハッキリして、ボンヤリかすんでいた視界も晴れて来ると、その太く逞しい腕の持ち主が、精悍せいかんな若い男性だと分かった。心配そうな表情で、グッタリ横たわる私を見守っている。

 ――アナエオトコ。

 思わず口を突いて出たそんな軽薄な言葉さえ、彼は安堵あんどして優しく微笑み、全てを受け入れてくれそうな温かい瞳で見つめ、いつまでも私を抱きめてくれた。

 そうしてたぶん、私は救済されたのだろう。

 小さく「えぇめん」とつぶやく。

 太陽光線がまぶしい。


(おしまい)

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短い話 こもり匣 @jet002

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