第7話「悪い獣」
「俺はさあ……」
息子は
「今まで家族にも友人にも隣人たちにも、とても気を使って生きて来たけど……」
静かなリビングに
ボコン、ボコンと、
「でも本当はさあ、そんな必要なかったんだよね」
彼の表情は
「本質的に生物は、自分勝手な現象だ。誰でも、どんな生き物でも同じ。一人残らず、例外なくエゴイストなんだよ。俺にはちゃんと分かってる。不意に
柱時計が、カチコチと機械的に時を告げ、その規則的な音色と同調するかのように、息子の動作もまた、自動人形じみて見えた。
「俺も自分勝手にすれば良かったんだ。もっと早くそう気づくべきだった。本能では理解していたのに……」
曇りガラス越しに
「本来、そう言う風に出来てるんだよ、生物は。自分勝手に生きるように出来てる。だから脳は閉鎖的で、視野は主観的なのさ。
この部屋にあるのは、
他には何もない。
人間性は
冷酷な獣性だけが漂う。
「……だからもう、俺は誰にも気を使わない。俺以外の事で悩まされるのは、うんざりだ。家族だろうが、他人だろうが、一切関係ない。協調性なんてクソ喰らえ。他者は俺の世界とは違う並行して共存する別の世界だ」
持っていた木槌を強く
ガゴン――と。
不快な振動が腕に伝わり、
「……いいか? これからは俺は、自分一人で、自分の事だけ考えて生きて行く」
息子は木槌をテーブルの上に置いて、ソファから立ち上がった。
「俺は出て行くよ。出て行ったら、ここの事は忘れる。もう戻らない。お前らの事は考えない。もう誰にも
もはや彼の考えを否定する声も、非難する声もなかった。
自由を感じる。
一方で
「さようなら」
物言わぬ家族たちへ別れを告げる。
思い残す事は何もない。彼を引き止め、家に
息子は完全に一人になった。
とにかく逃れたいのだ。
ここから離れたい。
断ち切りたい。
そのために日常を破壊した。
今は
不安感と同じくらいの安堵感に満たされている。
ついにやった、と言う気持ちだ。
やっと実行出来た。
フゥと長い息を吐き出し、そのまま急いで部屋から立ち去ろうとした、その時だった――。
不意に息子の足首を何者かの手がつかんだ。
驚いて見下ろすと、けれどもそれは誰かの手ではなく、一匹の老いたゴールデンレトリバーではないか。
彼が幼い頃から可愛がっていた飼い犬のベンが、弱々しく
既に老いて自力で立つ事もままならなかったが、それでもどうにか床を
老犬の真っ黒い大きな瞳が、
「悪いなあベン……」
息子は愛犬を悲しそうに見返し、しかし直ぐに顔を天井へ向けると、祈るように
オオオォォン――と。
獣のように短く
そうして、勢い良く愛犬の頭を
跳ね飛んで動かなくなるベン。
もう老犬は、吠えも鳴きもしないし、もちろんすがりつこうともしない。他の家族たちと同様、ただ無言で横たわるだけの存在になった。
あちら側へ行った。
彼とは無関係の方向へ。
「俺をこの家に閉じ込めないでくれ」
誰にともなくつぶやく。
そして彼は去った。
玄関から走り出ると、再びウォンと吠える。まだ陽のある住宅街の路上を、吠えながら走り続けた。
近所の犬たちも、彼の声に同調して、一緒に遠吠えを繰り返す。周囲はたちまち獣たちの大合唱で
何事かと戸口に現れた住人たちが、疾走する彼の姿を見て目を丸くした。
そこには一匹の巨大な獣がいた。
人とも猿とも他のどの獣とも異なる、漆黒の
気分が良かった。
とても晴れ晴れとした気持ちだ。
走って、走って、ひたすら走り続けて、気づけば住宅街も抜けて、
足元はアスファルト路から未舗装の林道に変わり、素足で草と砂利を踏みしめていた。
黒い獣は歓喜して走った。
ここが俺の世界だと思った。
木々の匂いを
俺はこう
いつしか両腕は前脚となり、走る姿勢は、二足歩行から四足歩行に変わっていた。
前脚で
走る速度はグングン上昇し、黒い獣がいた昔の世界は、どんどん彼方へ遠ざかる。
同時に人だった頃の記憶も何処かの虚空へ消え失せて、今や黒い獣の思考は、走る事と噛みつく事だけ。
己のみの欲求に集中すれば良かった。
(ああ、噛みつきたい!)
獣はそう思った。
何かに思い切り噛みつきたい。
噛みついて、噛み
鋭い牙で獲物を八つ裂きにしたい。
自分以外の全てを壊して進みたい。
(そうだ、俺の獲物を……!)
獲物を探さなければ。
周囲の
善き香りの獲物だ。
これは喰わなければと思った。
この絶品グルメを逃してはならない。
初めての肉はこれに決めた。
善き匂いを追って、黒い獣は森の中を深く
そして見つけた。
人気のない湖の
真っ赤な頭巾をかぶった美しい少女だった。
やっと
これは間違いなく運命の出逢いだ。
獣は感激して「ウオォォン!」と大声でむせび泣いた。その声に気づいて少女が獣を見る。宇宙のように深く大きな
黒い獣の目と赤い少女の目が合った。
獣は不思議な共感を覚えた。
そうして何かを
ドオン――大きな音が森に響き、驚いた水鳥たちが湖面からバタバタと飛び立つ。水面に広がる波紋を、黒い獣はじっと見つめていた。
見ると胸には小さな風穴が空いていて、その傷の熱さと苦痛に獣は吠えながら泣いた。
何て苦しいのだろうと思った。
苦しくて切ない。
人でもなく獣でもない声でケラケラ笑った。
(だが俺はあちら側へは行かない……)
爪と牙を
せっかく呪縛から解き放たれたのだ。
二度とあそこへは戻らない。
戻りたくない。
しかし目覚めると息子は家にいた。
家族たちが彼を取り囲む。
お前だけが頼りだと、父親が笑顔で肩にポンと手を置く。母親も
彼は皆に微笑み、分かっているよと
黒い獣が、ブルリと震えた。
(お
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